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Billy Harper(2) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

前回、雄大きわまる楽想の、大上段に振りかぶったソーラン節について書いたが、実は僕はそのレコードを持っていない。持ってもいないのにあれこれ書けるわけもないので中古盤を買うことにしました。もう数日で届くと思うのでレビュー紛いの作文はそれから勝手に書こうと思う。

 ソーラン節の冒頭1コーラスはここで聴けます。データをここに貼り付けられないのは大いに残念。Realplayerが必要です。webぺージ下の方にリンクがあり、"Recordings"をクリックすると試聴が出来るページに飛びます。タイトルは Soran Bushi-B.Hとなっています。興味のある方はどうぞ。
http://www.billyharper.com/

 ビリー・ハーパーが注目されたのは70年代の終わり頃、よりによってフュージョン全盛期だ。マックス・ローチのサイドメンとして来日した。来日公演でのライブ盤には、まさに度肝を抜くようなソロが記録されているが、時期が時期だったので演奏の出来に見合っただけのセールスがあったとは思えない。ついていない話だ。
 サイドメンは粒ぞろいというか、いいメンバーだったのでこの頃めいめいのソロアルバムが企画された。「ラバーフッド」はそのうちの一枚だ。

 日本で企画されるレコーディングに違和感を覚える要因の一つに、日本人が作った楽曲がジャズで演奏されるときがある。
 同時期にリリースされた同じデンオンのシリーズはアーチー・シェップに「人間の証明のテーマ」をレコーディングさせた。吹き込まれた以上、それはプレイヤーの合意があったものだと判断すべきだろうし、事実、ジャズの演奏として破綻や欠陥があるわけでもないのだが、本人がそのメロディを気に入って後年どこかで再演したという話は知らないし、他のミュージシャンがその楽曲に注目して自分のレパートリーに加えたという話も聞かない。
 日本で企画して日本で売るのだから日本人が興味を示しそうな曲を一つ位は入れてやろうかというミュージシャン側のサービス精神なのか、はたまたレコーディングさせて売ってやるんだからこれをやれや、という制作側の要請なのか、舞台裏のことは知る由もないが後の方だとしたら、札束で芸人の顔をひっぱたく旦那の振る舞いのようでなんだか余りいい感じがしない。

 それでソーラン節だが、幸か不幸かビリ−・ハーパーさんは異国のスピリチュアル・ソングとして多大な感銘を受けた模様だったらしい。そして録音はLPレコードの片面(B面)まるまるを埋め尽くす重厚長大なる渾身の力演となった。
 持ってはいないが、後年リリースされたCDには幾つか、ソーラン節の再演が収録されている。余程気に入ったのだろう、そんなに好きかソーラン節。

 僕は学生の頃入り浸っていた喫茶店で一度、それを聴いた。一度、とわざわざ書くのはその時以外「ラバーフッド」がかかるのはA面のときばかりしか居合わせていない記憶があるからだ。演奏の印象は朧気だ。何せもう30年近くも前なのだから仕方がない。ただ、なんだか恥ずかしいようなこそばゆいような妙な感覚が湧き起こってきたのははっきり覚えている。
 このレコードは当時、専門雑誌でも結構大きく取り上げられたはずだ。しかも話題は演奏内容そのものよりソーラン節に集まっていたと覚えている。いささかキャッチーな扱われ方だった。憶測でしか言えないが、国内で発売されたビリー・ハーパーのレコードのうち、最も売れたのがこの「ラバーフッド」ではなかろうか。だとすれば取りも直さず、ハーパーさんは『ソーラン節の人』という刷り込まれ方がなされているのではなかろうか。少なくともそういう人物が、ここに一人はいる。(僕だ)

 ソーラン節を茶化すつもりはないし、日本の民謡がくだらないとも言わない。世界中色々な土地には、その土地なりの民謡はある。それらはいずれも数百年にわたって淘汰されることなく生き残ってきたのであって全て貴重な民族文化であり、優劣を論じるべきではないと思う。
 ただ、インターナショナルな普遍性を持ち得るものとそうでないものはあると思う。アイルランド民謡の「グリ−ンスリーブス」はいろんなジャンルのプレイヤーがいろんな歌詞をつけてそれぞれのやり方で演じるが、それらがキャッチーな捉え方をされることはない。文字通り、ワールド・スタンダードと言ってもいいのではなかろうか。ジャズというごく狭いカテゴリーの中だけでさえ、数え切れないプレイヤーたちが幾度も取り上げている。しかしソーラン節は今のところ、そういった立ち位置にはなくローカルな旋律だ。しつこいようだがこれは優劣の問題ではない。

 思うに民謡というのは、その土地の民族の土着性や個性と大きく拘わっている。人で言えば体臭とか口臭のような無意識性があるように思う。言い換えれば、これに接する他人はその人の体臭なり口臭なりを意識する。体臭や口臭の持主は、他人に指摘されることでそれを自覚する。
 更に言えば、固有の土着性や個性を持つ民謡の旋律はインターナショナルな広がりを持つに従って受け止める側が土着性なり個性なりを意識の中で希薄化させているのではないだろうか。他人の体臭や口臭もだんだん慣れて来るに従って気にならなくなる性質が人にはあるように思うのだ。
 こういうあたりにまで考えを進めてみると、以前一度聴いたときの恥ずかしいようなこそばゆいような気分の原因にも辿りつけたように思える。それは赤の他人が自分の体臭についてそれはそれは微に入り細に渡って熱弁を振るっているのを聞いているときの気分に近いのではないだろうか。更にややこしいことに、その人物は自分の体臭に違和感や嫌悪感を感じているわけではなく、それどころか自分の体臭にある種嗜好性をさえ見出している。加えてその人物はひどく律儀で生真面目で厳格であらゆる振る舞いが実に堂々としているとしたらどんなものだろうか、最初のうちこそ自分が話題の主役であることを嬉しがるかもしれないが、そのうち段々恥ずかしい気分を喚起させることだろう。何せ話題が自分の体臭だ、話題を変えて欲しくなったり、その場から立ち去りたくなったりしそうでもある。
 くそ真面目に延々と展開されるソーラン節が僕に与えたこそばゆさの原因はここら辺にありそうだ。
 
 グリ−ンスリーブスを演じるジョン・コルトレーンには芸術的普遍的な魂の燃焼を覚え、感動を呼び起こさせられたジャズの愛好家が確かにいる。一曲3分演歌テナーのサム・テイラーには私たちの方に歩み寄ってきた異人さんを喜んで迎え入れたい気分が起きてくる人達が確かにいる。では、ソーラン節で17分のビリー・ハーパーはどうか。ローカルとインターナショナル、芸術と通俗が錯綜する座標のどこかに生まれた何ともややこしい穴ぼこにはまりこんでしまったように僕には見えるのだ。更にややこしいことに、当の本人にはそれが困った足かせであるという自覚は全くなさそうにも見える。(また続く)
 

 

 
 
  


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chaki

今年10月13,14日に京都上賀茂神社にてRandy Weston と Billy Harper のコンサートを行います。座布団並べてPA無しの生音でかなりの至近距離で聴いて頂きます。是非聴きに来て下さい!
詳細はHPにてhttp://www.lushlife.jp/

by chaki (2012-05-08 17:41) 

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