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ライカの謎(1) [カメラのこと]

 レンズを一本購入するつもりでいたが、CONTAX Tvs digitalの修理代という予想外の出費で計画は延期された。実のところ、昨日から今日にかけて私は少々くさり加減である。

 というところで昨夜、30年来の知人から電話があった。カメラ仲間と私は勝手に思いこんでいるが、腕前、造詣、コレクションの質と量、いずれも私のような半端者とは雲泥の差以上のところにいる。彼本人の言い回しでいくと、『まるで飯を食うようにカメラを買ってくる』。
 私はともかく、彼は多忙な人物で、なかなか会う機会もないので電話のやりとりが最近は多い。近況を聞くと最近はEOS-1vに50mm F1.4のレンズをつけて色々やっているのだそうだ。
 フィルムカメラ・・・・萎んでいく一方のこの分野ではあるが、これはこれでいいところだって勿論ある。故障の原因がわかりやすいというのはそのうちの一つではあるまいか。
 世の中、機械と名の付くものは全てそうだが、電気仕掛けの縄張りが広いものであればあるほどいかれたときの見通しが悪い。フルメカニカルのカメラは結構あちこちで修繕してくれるのだろうが、電気仕掛けの、ましてやデジカメともなれば哀れなモルモットである今の私がそうであるように、メーカーの言いなりになって修理代を支払うか、さもなければ機体に見切りをつけで廃棄しか選択肢がない。

 私は、いささか理不尽とも思える今回の請求のことをぼやいた。これはどこからどう考えてもそうとしか思えないのだが、過去の記憶を遡っても京セラコンタックスのボディは明らかに故障が多い。ツァイスのレンズを使う誘惑に駆られて購入したものの、故障の多さに閉口して手放した知人は一人ならずいるのだ。
 案の定、知人も過去においてはT2の故障が2回ばかりあったそうだ。沈胴式のレンズ駆動機構が動かなくなったとのことだった。確かにあの機構は買った直後から今にもぶっ壊れそうな音を立てている。初期不良品を買ってしまったのではないかと不安を駆り立てるには十分以上の効果がある。
 それでも、カメラ市場全体が縮小傾向に入るまで一定のシェアを獲得できていたということは、ボディの出来などどうでもいいからとにかくツァイスのレンズを使いたい人たちが、世の中には一定の割合で存在している訳だ。

 それで知人の応答だが、待ってましたとばかりに「ライカを一台どうだい」と切り出してきた。末代ものだよ、と。
 ライカ・・・・
 
 この名前を聞くたびに、私は全身が竦む。
 私はカメラが好きだ。これは必ずしも写真を撮影することが好きであることを意味しない。カメラという道具をいじるのが好きなのであって、別に写真を撮ることが好きなわけではない。
 そういう私が小遣いでカメラを買うようになって、これには手を出すまいと決めていた分野が三つある。
(1)ニコンの一眼レフ
(2)中版のハッセル
(3)ライカのレンジファインダー
 
 ただ単にカメラを触るのが好きなだけの私にとって、これらはいかにもイメージが重すぎる。こういうものが他人に見つかるといかにも通人で、立派な写真を撮る人なんだろうなあ、と思われそうで何だか息苦しい。勿論これらは安いモノではなくて容易に購入できないという経済的要因もあるのだけれど、多くの趣味がそうであるように、カメラを買って写真を撮るという営みにはお金で解決できない事象が果てしなく広がっている。
 写真という表現手段がこれまで世に伝えてきた「歴史の目撃者」的な重みを持った世界がこれら三つには確かにあるように思う。私程度の者が道具だけを手に入れてそんなところに入り込んでいいものだろうかという、これは哀れな自己評価である。
 実際、20年以上も前に、別の知人のところにあったニコンF2を触らせてもらったときに、その圧倒的な精密感、剛性感に思わず唸りながらも、なんかこれは自分とは違うなあ、とも思った。立派すぎる、謹厳すぎる、律儀すぎる、そんな感じ。
 その後、紆余曲折があり、上の三つのうちニコンの一眼レフには手をつけるようになった。その程度には自分も成長したのだと今は思いたい。
 
 そこでライカである。元来スナップ写真程度のことしかカメラの出番がない私なので、ライカなんていかにも仰々しいではないかという遠慮を常に抱き続けている。画質どうのが気になることは時たまあるが、所詮はスナップだ。要するに、ライカの世界を理解するにはほど遠いレベルでしかない地点に私はいるのだ。
 しかし、芸術的、美学的見地からはちょっと離れて、生ものであるプリント基盤によってあらかじめ寿命が限定されている今日日のカメラのありようだとか、たまの撮影途中でいきなりバッテリー切れを起こして憤慨やら落胆やらに捕らわれる心象風景を思い返すと、一種、写真の撮影における保険としてのライカは疑いようもなく燦然たる存在として揺るぎない。

 但し、ここからが私の助平根性なのだが、当然ライカは安くない。安くないからにはそれなりの質が伴われているはずだ。画質はどうでもいいと言いながらここで画質が気になるなどというのは自己矛盾も甚だしいのだが,ライカともなればやっぱり気になるのである。
 それで、古今東西を通じて賞賛され尽くしてきた感のあるライカ、その写りとはどういうものだろうかと関心の向くときがある、雑誌を買ってきてページをめくり、作例を見ても、どこがどう素晴らしいのか、悲しいかな私にはさっぱり理解できないのである。
 それが印刷物であるからではないかと、極めて順当な推論が成立するまでかなりの時間を要した。これは私の浅い見識を如実に表している。どう考えても印刷物の細密さが現像されたプリントに敵うわけはないのだ。ではそのプリントはどこで拝めるのだろうか?私にとってライカ最大の謎とはここにある。

 あれだけ方々で賞賛され続け、オーナーは自分の子供にさえ向けないような慈愛の表情でヨダレを垂らさんばかりに撫でくり回すそのライカで撮影した写真そのものを、これまで私はただの一度も拝謁したことがないのだ。時たまどこかで触らせてもらうライカのボディには圧倒的な割合でフィルムが入っていない。からシャッターである。フィルムが入っているときも希にあるのでそのオーナーは日頃ライカで何かを撮影しているのだろうが、これがライカで撮った写真だというものを拝見したことはない。要するに、ライカで撮った写真を見ることはそのオーナー以外には許されていなさそうなのだ。

 何故だ?
  


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