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欲望という名の電車 [書籍]

 少年期に映画「ゴッドファーザー」を見て以来、私はマーロン・ブランドに随分入れあげた。同じくコッポラが監督した映画「地獄の黙示録」に至るまでボルテージが持続していたので、私の思い入れは映画監督コッポラの最盛期とシンクロしていたことになる。

 勿論、マーロン・ブランドは「ゴッドファーザー」以前からの大スターであって1950年代の諸作などのタイトルくらいは何となく知ってはいたが、1970年代には家庭用ビデオデッキなどという有り難いものはなかったので知り得ることと言えば精々映画の解説書を読む程度でしかなく、映画そのものを見ることは出来なかった。「波止場」と並んで本作は長いことタイトルだけが頭の中にある映画だった。

 「欲望という名の電車」は元々が舞台劇だということを後から知った。二十歳そこそこの頃の私は文学作品に親しむ時間がなかなか取れなくて原作者が高名な劇作家であることも知らずにいたのだった。
 本書にとりついたきっかけはつまり、「映画は見たいのだけれど見られないのでたまたま本屋に行ったら見かけた同名の本を買ってみた」という代替行為だった訳だが、見方を変えれば代替行為に及びたくなるほど私は大きな関心を持っていたことにもなる。

欲望という名の電車

欲望という名の電車

  • 作者: テネシー・ウィリアムズ, 田島 博, 山下 修
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1956/08
  • メディア: 文庫

 映画のことは別としても、本作は二十歳当時の私に実に多くのことを考えさせた。スタンレーとブランチという二人の登場人物は多くの人が内在する属性の両極をそれぞれ凝縮させたような性格設定で、いわばコインの裏表である。
 今の時点で読み直してみると、作者の意図は二人を等距離に描き分けているように読めるのだが二十歳当時の私は今以上に物事の飲み込みが悪く、群像劇という物語形式をよく理解できていなかったことになる。
 同時に人の内面を単純な二元論でしか捉えられていなかった、その程度の人間観しか持ち合わせていなかったのだと今になって思う。

 当時の私にとって「欲望という名の電車」はブランチの物語であって、色々な意味で不安定な精神の持ち主だった当時の私にはそちらのほうが感情移入しやすいパーソナリティだったのだろう。
 反面、妹の旦那であるスタンレー・コワルスキーには何とも胸くその悪い印象を抱いたものだ。この人の精神には形而上の世界というものが微塵もない。ファンタジーの世界に遊ぶことがない。過去も未来もなく、とにかく今、目に見えている事象だけが世界の全てという感じだ。とことん現実主義であり、実利的であり、戦闘的で勝利至上主義的な振る舞いはどこまでも独善的にして露骨で情け容赦がない。
 物語上では妻の実家の財産が分与される目を求めてあの手この手で物事をほじくり返し、姉妹を問いつめる。ブランチとの同居が金銭的な実利を何らもたらさないことを知ると、感情的な軋轢を含めてこれまたあの手この手で過去を暴き立てて追い出しにかかる。挙げ句の果てには妻の出産するその日の夜に散々毛嫌いしていたはずのブランチを力ずくでベッドに押し倒してその脆弱な精神世界を破壊してしまう行為にまで及び、その後は普通に仲間とポーカーに興じる厚顔ささえ見せる。

 なんとも物凄い性格設定であり、とても好人物とは思えない。タイトルの示す欲望とはスタンレーの属性を暗示しているのだろうと当時の私は思いこんだりもしていたのだった。
 形而下の世界での安定を求めてミッチとの結婚に望みを託すが頓挫して精神を病み、現実世界から隔離された精神病院でその後を過ごすことになるブランチは歴然たる敗者であり、そのブルー・ブラッドの因子は途絶えることになる一方、因業なほどに現世利益と俗人的快楽に徹するスタンレーは生活時間に於ける小さな闘争にことごとく打ち勝ってその因子を後に伝えていく。
 現実とはそういうものだ、そういうものなのだろう。しかし負けるとか弱いとかいうことはそんなに良くないことなのか。悪いことなのか。とにかく遮二無二勝ち残るとか生き延びるというのは無条件に素晴らしいことなのか。当時も今も、私の考えはいつもここで逡巡する。恐らく一生割り切れない命題なのだろうと思う。

 本書を読んでの発見の一つは白人社会の中に於いても人種差別はあるというものだった。我々日本人が、特にこのネット上に於いて顕著だがチョン公だとかチャンコロだとか特亜だとかの蔑称をしばしば口にする。だが白人社会の住人から見れば日本人だろうが中国人だろうが極東の人間は上も下もなく十把一絡げでオリエンタルとして片づけられるものらしい。そして彼らにとっては当然の如く黄色い連中は、自分たちと同列などでは全くない、場合によっては黒人以下の下等な人種らしいという話を誰かから聞いたことがある。
 視点を変えて私のような黄色いオリエンタルから見ればひとまとまりに見えていたその白人社会の中に於いてもミック(アイルランド系への蔑称)、カイク(ユダヤ人)といった侮蔑の呼称が存在する。本作ではポーランド系であるスタンレーに対する蔑称としてポーラックという言葉がフランス系であるブランチの口から何度となく飛び出す。誕生祝いの席でこの蔑称に堪忍袋の緒を切らしたスタンレーが「俺はアメリカ人だ!」という怒号とともにテーブルを滅茶苦茶に荒らし回る件は人種の壁が世界中の至る所に厳然と存在していることを教えてくれた。
 古今を通じて隣り合った国同士、異なる民族同士が恒常的にいがみ合う構図は無数にあるわけだが、自明の事実として受け入れるだけの割り切りの良さが私には足りない。人間観の甘さということになるのだろうが、この島国の外で生活したことのない私は未だに日本人であるが故に差別されたり迫害されたりした経験がないからなのだろうと思っている。

 私の所持している文庫本は、初版が古いため旧漢字が使用されており大変読みづらい。これまで何度も読み返したが機会があれば異なる訳者のものにも手を付けてみたい気がしている。


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コメント 2

だーだ

ことハワイでは支那、台湾、朝鮮半島出自、日本は別だと認識される事が多いようです。
海外に住んで感じる事は「図々しいヤツ」の勝ち、主張できないものは搾取されるということですね。
色ももちろんですが、個人的資質や言語能力のほうが大きな要素です。
by だーだ (2007-05-16 18:35) 

shim47

だーだ様
 貴重なコメント有り難うございます。島国住まいしかできていない私は限定的な情報だけを頼りに憶測混じりの人種問題のようなものを書いたことを少々反省しています。
 いただいたコメント中盤について改めて考えてみると、人同士の融和を遮る壁のようなものは人種や国の出自だけではなしに更に細分化されて個人レベルにまで及ぶのは確かに日常経験するところだと今更ながら気づきました。
 私はどうも、未だに人間を見る目の鍛えられ方が未熟なようです。
by shim47 (2007-05-17 05:36) 

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