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Jazz Party in Stereo/Duke Ellington(ジャズ・パーティ・イン・ステレオ/デューク・エリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 このブログの管理ページでそれぞれの記事の個別アクセス数をたまたま見てみたら、予想通りというか先日アップしたガレスピーのテキストとその前のマイルスとでは4倍以上もの差があった。やはりマイルス・デヴィスのネームバリューは物凄い。

 モダン・トランペッターの分野に於けるマイルスとガレスピーの構図をビッグ・バンドに移し替えてみると恐らくカウント・ベイシーとデューク・エリントンということになりそうにいつも考えている。
 ジャズの世界に於ける存在の大きさという点でデューク・エリントンに勝るものはない。極論すればエリントンの音楽を初期から晩期まで辿っていけばジャズの表現は全てどこかにある。大衆娯楽の側面も、前衛芸術風なテイストも、ありとあらゆるアイディアはエリントンの音楽の中にある。モードやフリーの暗示さえ発見することができるほどだ。
 コンサートでよく見かけた光景だが、ステージの途中でエリントンの曲を演奏する前にはバンドリーダーがマイクに向かって「次の曲は偉大なるデューク・エリントンの●●●です」というMCを入れるケースは凄く多い。ジャズとか音楽とかいった枠を超えた、文化の象徴とか民族の誇りのような存在にまで昇華されているという話を何かで読んだ記憶もあるので、そういう意識の反映なのだろうと私は見ている。

 それほどかように偉大なるデューク・エリントンだが、恐らくマイルス史観の支配する日本ではレコードの売れ行きはきっと大したことがないだろうと思う。ジャズが好きで長いことレコードを買い続けている方々と話す機会は何度かあったがエリントンの信奉者という方には一人を除いてお会いしたことはない。
 大体この、「ビッグ・バンド」という呼称が一つのカテゴリー内カテゴリーとして定着している状況が変だと私は思う。カウント・ベイシーにもデューク・エリントンにも1ホーンカルテットやピアノトリオの録音歴はあるのにとにかく両者のリーダーアルバムだと「ビッグ・バンド」で一括りに扱われるのはどう考えても変だ。モダン・ジャズであれば個別のリーダー名で区分されているものがスイング・ミュージックだと「ビッグ・バンド」の中での区分というのはいつ考えても不可解だ。

 スイング・ミュージックの冷遇ぶりは以前も書いたし、幾ら書いてもきりがないので本題に戻るが、同じように偉大なカウント・ベイシーとデューク・エリントンでありながら少なくとも私の周辺での認知度はダブルスコア以上だ。
 恐らく最大の理由はエリントンの楽曲が余りにも多くのプレイヤーによってカバーされまくったからだ。Aトレインにサテン・ドールにと数え上げればきりがない。ある時期までの私などもそうだったが、デューク・エリントンという存在はそれら楽曲の作曲者であって、言ってみればコール・ポーターであるとか、ジョージ・ガーシュインだとかいった一連のコンポーザーのうちの一人としてのみ刷り込みのなされているリスナーが凄く多そうに思える。
 また、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーのようにジャズに関心のない人でも映画やテレビのBGMで曲の断片や名前だけは知っている、というほどの知名度はない。ファンとしては何とも悔しい話だが、幾多の楽曲が束になっても「ムーンライト・セレナーデ」一曲のポピュラリティに及ばない。
 とどめを刺すように、某ジャズ喫茶オーナー菅原某氏のようなPRマンがいない。彼の文筆とお店の屋号はきっとカウント・ベイシーの国内CD売り上げに大いに寄与していると私は推測している。 

 ディジー・ガレスピーがほっぺたの膨らみ具合と上を向いたラッパを吹く人というだけの認識であるリスナーが結構いそうなようにエリントンもまた有名な曲を書いた人というだけの認識が通り相場なのではないかと思う。ご両人共に、全くもってお気の毒としか言いようがない。

 これから先も折に触れて、スイング・ミュージックが現在の音楽産業にあっていかに粗末な扱われ方であるかを私は提起したいが、今回の題材は50年代後半のデューク・エリントンのバンドにディジー・ガレスピーがゲスト参加したものだ。

Jazz Party

Jazz Party

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Columbia
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD


 音楽そのものとは直接関係ないが、貼り付けたリンク画像は最初にリリースされたLPレコードとは意匠が異なる。
 私はタイトルにJazz Party in Stereoと表記したがこれはLPリリース時のタイトルであって、ジャケットの赤地に白抜き部分、この右半分には本来in Stereoというタイポグラフィがあったのだ。

 CDでの再発に当たり、タイトルは単にJazz Partyへと改められ、赤地部分の右半分は塗りつぶされている。一体どういう必然性があってこういう変更がされているのか理解に苦しむ。

 スペシャルゲストを迎えた本作は、ティンパニやザイロフォン、ヴィブラフォンなど9名の打楽器奏者も加えたスタジオ・ライブで、恐らくコロムビア時代に初めて臨んだステレオ録音でもある。
 音楽の内容共々、録音は秀逸で、殊に打楽器群をフィーチュアした新曲は見事にスタジオの空気感を捉えている。最終曲でブルース・シャウトの真骨頂を聴かせるジミー・ラッシングもバックバンドとの前後左右の距離感はきっちり抑えられていて立ち位置が際立っている。ジャケット裏の録音風景を撮したスナップ写真から考えると聴衆は写っておらず、拍手がどこかオーバーダビングみたいに聞こえて本当にスタジオライブだったのか少々疑問だが細かい詮索はしないでおく。
 ガレスピーの客演もはまっている。2曲に参加してミュートとオープン両方のソロを聴けるが、いずれも比類なくブリリアントだ。バンドと競り合うような展開は抑えて予め用意されたスペースの中でまとめたようなソロだが千両役者の輝きを割り引くようなものではない。私の身びいきなのだろうが御大エリントンやジミー・ラッシングに対するリスペクトがどこかに感じられる抑制のきいたステージアクションは好ましい。
 本作はゲストを迎えてのレコーディングなのでレギュラーメンバーのフィーチュアリングは必然的に割を食うのは致し方のないところだが、ニューポートでの熱演をダイジェスト化したようなポール・ゴンザルベスや十八番のAll of meを朗々と演じるジョニー・ホッジスなどリスナーの欲する勘所を外していないのは嬉しい。きっと当日のプログラムはかなり入念に検討されていたのだろう。

 逸材サム・ウッドヤードのシャッフルビートはどこまでも快適だし変幻自在のホーンセクションも健在。豪華ゲストに、打楽器群を想定した斬新な新曲、最終曲でのブルース・フィーリングの炸裂とおかず満載の豪華幕の内弁当みたいな本作は誰でも無条件に楽しんで頂ける良質なエンターテインメントであってもっと多くの人達に聴かれて良い。同時にモダンジャズの求心的なコンボ演奏というのはこのカテゴリーのある一側面でしかないことを一人でも多くの方々に知って欲しい。

 モダン・ジャズ偏重、マイルス史観が支配するかのようなジャズを巡るジャーナリズムの世界は余りにも歪んでいると思う。


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