Spiritual Unity/Albert Ayler(スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
元々は生活上の節目(お葬式など)に近所界隈の音楽好きが集まって演じられていたジャズがやがて大衆娯楽のためのビジネスとして成長し、あるところからは芸能色は薄まって段々その表現は主観的なものへと変遷していった。
「主観的な」表現を深めていけば行き着くところはプレイヤーとリスナーが対峙するような閉塞感をもたらす袋小路でしかないことをいつの間にか僕は既にどこかで知っている。それはもしかしたら音楽ではない何かと向かい合う場面であるかも知れないことも。
主観的な表現に徹することの善し悪しは別として、リスナーとしては最大限の共感か、さもなくば最大限の違和感かという、少々極端な落ち着き先になってしまうのは仕方がないかな、と今は考えている。
自分の実人生と余りにも深く切り結ばれている音楽というのが僕には確かにあって、本作などもその一つだろう。
最大限に主観的な音楽は、非常に抽象的な音楽でもあって、リスナーの側にも最大限に個人的な意識やら記憶やらを喚起する作用があるのかも知れない。
学校の卒業証書を受け取ったその日に最初の就職先である名古屋へ向かう汽車に乗り込んだとき
会社勤めを辞めてしがない自営業を立ち上げた3年前、空っぽのおんぼろ小屋である作業場に自分の手持ち道具を放り込んだとき
僕の頭の中では"Ghost"が何度も何度も鳴っていた。
あらゆる感情が最大限に増幅された上でごちゃ混ぜになったような奇妙な感覚があった。
笑い出したいような、泣き出したいような
心細いような、安堵したような
怒りを叩きつけたいような、思い切り何かを愛でてやりたいような
何かが湧き起こってくるような、何かが崩れ落ちていくような
あれは一体、何だったのだろう?
それが何だったのかを思案することには、きっと大した意味がない。
意味があるのは、そんな心理状態にさせる音楽が少なくとも一つ、僕にはあるというところなんだろう。
そして、そんな音楽に出会えた僕の人生は、少なくとも僕にとって無意味なものではなかったように思う。
ひどく主観的なテキストだ。しかも出来が悪い。ひどく悪い。
結局、僕にはこの音楽に届く言葉がない。きっと一生ないだろう。
あらゆる言葉に捕縛されることを拒みながら、ある人の感情を最大限に振動させる。
それはある意味、音楽が音楽であることのもっとも大きな働きであり、この表現形態の聖域でもあるのだ。
だからこの、しょうもない自意識の垂れ流しみたいなテキストはここで終わり。
いずれまた、本作のことで何か書きたくなるのかも知れないが。
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