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Voices/Gary Peacock (ヴォイセス/ゲイリー・ピーコック) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 何かの符号めいているが昨日、「菊と刀」を読み終えた。本書の価値を不朽たらしめているのは異なる生活習慣、異なる価値観の持ち主である他民族の表層的な分析だけにとどまらず精神構造の中核にまで踏み込んだところにあるわけだが、ストレートに英語には置き換えることのできない概念、すなわち「恩」、「忠」、「義理」などをどのように西洋人に理解せしめるかに相当苦労した痕跡があることに改めて気付いた。

 前回のエントリー http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2008-05-12 の続きです。

 日本人がジャズを演奏するというのはどういうことなのかはもう大分長いこと、ずっと私の中では引っかかり続けている。ジャズを演じる日本人がアメリカ人にはどういう風に見えているのかということも同様である。ある時期からのジャズはアメリカのどこかの土地という土着性に根ざしたものではなくなって一つの表現文化として世界中に広まっていったので当然、異邦の土地の文化や習慣にインスパイアーされた演奏も幾つか記録された。それはたとえばこんな風に。

極東組曲

極東組曲

  • アーティスト: デューク・エリントン
  • 出版社/メーカー: BMG JAPAN
  • 発売日: 2005/06/22
  • メディア: CD

 

音楽による旅行記として、私個人としては真っ先に挙げたい。 アーティスティックであると同時に上質な娯楽音楽でもある。「東洋っていうのはこんな感じだったんだよ」と、基本的には”西洋文化の中で暮らす人の視点から世界中の人たちに向かって”示された音楽ではある。大袈裟に言えば「ジャズ版の東方見聞録」と、今の私は捉えている。

 

 ところで、ゲイリー・ピーコックは1970年に来日し、1年強の滞在期間中に4枚のLPをレコーディングした。一作目が前回エントリーのEastwardで、離日前の最終作が本作Voicesとなる。

ヴォイセズ(紙ジャケット仕様)

ヴォイセズ(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: ゲイリー・ピーコック,菊池雅章,富樫雅彦,村上寛
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2007/07/18
  • メディア: CD

 

リーダー作としては2作目で、メンバーは前作に富樫雅彦を加えた2ドラムというやや変則的なカルテットである。曲によってはドラマーは一人となってトリオでの演奏。三ヶ月ほど前にアルバート・アイラーが非業の死を遂げており、本作の全体的なムードに影響を与えているように私は感じている。

 

 滞在期間中のゲイリー・ピーコックは京都の古書店の2階に下宿していたのだそうだ。ジャケット裏には古びたまな板のうえに野菜と菜切り包丁が無造作に転がっている写真が使われている。日本で暮らす日々を簡潔に表したものだ。実際、玄米食の自炊生活と日本語学校に通う日々で結構質素な暮らしだったらしい。 住まいが京都だったせいもあるのだろうが、仏教的な世界観や人間観への関心も随分高かったらしいことがライナーには書かれている。ヒッピー・ムーブメントのさなか、東洋思想に精神の救済を求める流行があって、来日生活はそうした時代背景に促されてのものだったのだろう。

 今や日本人とアメリカ人が共演する機会など特段珍しいものではなくなっているが、本作録音の時点ではある種West meet East的な新鮮味や緊張感があったことは前のエントリーで書いた。そこには異なる生活文化を過ごしてきた者同士が音楽という共通言語でダイアローグ可能なことの喜びや高揚感が聞き取れた。部分的に齟齬を来す瞬間があるにしても、全般のムードは概ねメロディアスで躍動的でもあった。

 一年以上の時間を経ての本作は趣が大分異なる。メンバー相互の比重で言えばゲイリー・ピーコックのモノローグが全編を支配していて、サイドメンは文字通り補完物として機能する。前作Eastwardでの共演者二人はリーダーのスタイルに大きく歩み寄った共演ぶりである点は注目のポイントだろう。印象をひとくくりにまとめれば本作はジャズという語法によって語られた日本人の自画像である。滞在期間中の精神生活を総決算したかのような内容で、収録曲中、Ishi(意志)、Bonsho(梵鐘)といったタイトルには仏教思想への関心とか傾倒が伺える。実際、曲調もどこか東洋風の響きがあってストイックなムードが漂う。

 サイドメンそれぞれについて短評すると、村上寛のドラムは前作のトリオよりも手数が減って律儀なタイムキーパー風だ。これを補完する富樫雅彦の参加が本作のムード作りに果たした役割は大変大きい。マレットワークを中心にした点描的なアクセントの入れ方は和太鼓を連想させる。菊池雅章はピアノとエレピを曲によって弾き分けるが前面に出てくる場面は前作よりもかなり減った。中心をなすゲイリー・ピーコックのベースフィギュアにところどころ句読点を打つ場面が多い。メンバーは一名増え、楽器も多様になってはいるが全編を貫く雰囲気はかえってスタティックなものに変化しているのは京都で玄米を食べながら一年強を過ごしたリーダーの生活感覚が素直に反映されているせいだと思う。

 私は歌舞伎とか能については全くの素人だが展開のさせ方として「序・破・急」というのが一つのセオリーであると何かで読んだか聞いたかした覚えがある。編集技法としてどれだけ意識していたかはわからないが奇しくも本作はそのような流れで構成されている。これも滞在期間中に読み取った様式を自分なりにジャズの語法で表現してみたということだろうか。LpレコードでいうとA面は滞在中の心象風景をまとめたような内容で、詠唱を思わせる場面がところどころに現れる。有機的な高まりは抑制されてモノクローム風な静謐さに満たされた、どこかの石庭を案内してもらっているかのような音楽である。

 一転してB面はピアノが慟哭しているかのような悲壮感に溢れたテーマから始まる。静養期間中に届いたアルバート・アイラーの悲報に接してから生まれた音楽のように私には感じられた。終局に向かって4人の演奏は次第に混沌を覗かせはじめ、錯綜し、集合と離散、沈黙と饒舌を不規則に繰り返す。アルバムの最初で提示された禁欲的意思統一や東洋風の整合感は断片化して飛散し、激情が段々に噴出し始める。最終曲の終わりで聴かれる長いベースソロはアルバム冒頭の茫洋とした響きとはうって変わって弦を掻きむしるように痙攣的な激しいパッセージで、苦悶をそのまま音にしたかのようなエンディングへとなだれ込んでいく。

 東洋思想に関心を持ち、傾倒し、来日して東洋人の中で生活することで彼、ゲイリー・ピーコックの心中には何か悟りのようなものが開けたのだろうと私は想像している。それは決して物見遊山の興味本位ではない 「東洋のマインド」がジャズの中に違和感なく織り込まれるという成果を上げるだけの明確なイメージを得てもいたはずなのだ。しかしながら悟りというのは学校の卒業証書みたいに一度得られればそれで終わりというものではない。悟りによって得られた矜持を世界は苛烈に試し続ける。一旦得られた心の平穏や平静さがかつての共演仲間の死によって大きく揺さぶられるそのとき、悟りは消散してどこかに飛び散ってしまっているのかもしれないが、修行が足らないなどと一体誰が非難できようか。万国共通、人種を問わず人心とはそういうものだし、それでいいのだとも思う。大事なことはその時その時、自身の内面を真正面から見つめ続ける視線の真摯さにある。抑制と葛藤とをベースで語り尽くしたかのような圧倒的なモノローグがこうして結実し、この重い心情の吐露に時間と場所を隔てて向かい合うことができるのは音楽のもたらす崇高な時間だ。ここでの音楽が東洋人の楽想によって達成されたものではないことには僅かに複雑な気分があるけれど、ともあれ、卓越したベースマンの精神の回折点を鮮烈に描ききった傑作であることに疑問の余地はない。


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