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ライ麦畑でつかまえて:J.D.サリンジャー (約)野崎孝 [書籍]

 先日、中学校のクラス会風の飲み会があった。私にとってはおよそ20年ぶりほどになるだろうか。本当に久しぶりに同級生の方々との邂逅となった。

 自分で言うのも何だが中学生の頃の三年間、誰から見ても私はヘンな奴であり続けたと思う。何も好きこのんでヘンな奴として振る舞っていたわけではないが他人からの見え方としては間違いなくそうだったはずだという妙な確信がある。自分を取り巻く世界との違和感が最も激しかった三年間がそのまま中学生の頃と重なると言い換えてもいい。クラス会と銘打った集まりにはこれまで3回位出席させてもらったことになり、確か先日が四回目のはずだが不思議なことに年齢を重ね、回を重ねるごとに何かしら融和的な時間を過ごす心地よさが増してくるように思う。時を経ることには何かしら、物事や関係を緩和する働きがあるのかもしれない。

 二次会までは出席させてもらい、調子に乗って飲み慣れない酒を飲んで酔っ払い、結構いい気分で帰宅した後高いびきを決め込み、目覚めた頭でどうした訳か家の中をうろつき回って若い頃に何度も読んだはずの本を探していた。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

  • 作者: J.D.サリンジャー
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1984/05
  • メディア: 新書

 

 本書のことをどうして知ったのかを今の私はもう思い出せないが、毎日毎日どこかしら刺々しく、説明しようのないフラストレーションの連続だった中学生の頃に出会ったこの本には何とも運命的な印象がある。私は別段読書家ではないがこれまで読んだ小説と名の付く文章のうち素直に感情移入できた主人公という意味では間違いなく三本の指に入る物語だ。まるで私自身が何事かを語っているかのような錯覚を覚えるほど当時の私の心象風景に絡み付いている。

 自分は誰で、見えている世界はどういうもので、起こっている出来事はどういうことで、そんな中で自分はどこに立っていて、何を求めていて、何を見つめていて、どこに向かおうとしているのか、何になろうとしているのか、どこに流れ着いて落ち着こうとしているのか、何もわからず、何も見えず、ただ不安で、ただ苛立ち、怒り、憔悴し、ささくれだった日々の中で何かの拍子に何かを見つけ出して時たま和む時間を確かに私はくぐり抜けてきた。俗に言う思春期とはそういうものなのだろうと不惑を大幅に過ぎた今の年齢になってみて何となく総括できたつもりになっている。

 あちこちを当てもなしにさまよい歩いて根拠も脈絡もなく闇雲に色々な人と会い、金と時間を蕩尽し、虚しい言葉を交わし合い、何も達成できず、何も得られず、何も解消できず 、不安と焦りに駆られて更に彷徨を続ける。唯一、子供や小動物と接しているときのみ、というか、何がしかイノセントな魂に触れるときのみ、主人公の(と言うことは10代時分の私の)精神はその刹那だけ一種肯定的な浮揚感を得られたのだった。

 過去の私は愚かな奴だったと思う。 今でも十分愚かだがそれ以上に愚かな奴だった。恐らく当時の同級生の方々にもそう見えたに違いない。しかしここでかなり弁解めいた自己分析をするに、愚かは愚かなりに当時の私は色々と真剣ではあった。対象化できないような不安や焦りに駆られてつい心ならず色々な人を傷つけたり、迷惑をかけたりはしたが、きっと私はそういう風に振る舞いながらでないと成長できないような類の奴だったのだ。世間的に何とか収まりどころのありそうな、ある程度は角の取れた大人になるためにはそんな時間を潜ってこなければならなかった。過去、あれこれと積み重ねた見当違いな力み方や情けないばかりの脆さ等々、思い返すと目も眩むような恥と罪悪感が山積しており、何というか実に重苦しい。

 ”大人になる”というのは言い換えると、それら重苦しさを引き受けて背負い続ける覚悟を固めるということなのかも知れないとある時期からの私は思うようになった。同時に人にはおおかた大なり小なりそれぞれの重苦しさがあるのであって、他人の重苦しさを包摂できるようになることもまた大人の属性かと本日私は改めて思う。何となればクラス会の間中、私の接する空気がそのようなものだったからで、私は30数年の間にいつの間にか当時抱いていた疎外感や違和感や訳のわからない被害者意識のようなものが氷解して、代わりに何かしらの包摂感の中にいることを感じたからだった。

 皆様は順当に大人になられ、恐らく一生反抗期から抜け出せないのではないかと自己嫌悪に陥っている時間の長かったこの私めも遅まきながら、多分半歩位はその中に入れて貰えたのかもしれない。ともあれ幸福な時間でした。皆様有り難うございます。機会があれば、また。

(追記)本作の主人公は16歳にして頭の半分が白髪ということになっている。何を隠そうこの私も中学生の頃からやたらと白髪の多い坊主だった。それは当時ちょっとした身体的劣等感になっていて、主人公に寄せる私の共感の一因だったような気もする。会の席上でこの白髪頭が私を記憶するキーワードであるらしいことがわかったw

(追記2)本来は原文で読むのがベストだと思うが悲しいかな私には英語の読解力が決定的に不足している。数年前に村上春樹の訳出が刊行されて話題になったが、私は少年期に接した野崎孝による訳出に強い思い入れがあるためか、村上春樹訳出のほうは半ば意図して見送っている。

 


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だーだ

不思議な縁ですね。
私も白髪の多いイガグリで、この小説に感情移入したことを思い出しました。
本をたくさん読んでた時期でした。

by だーだ (2008-09-23 18:37) 

shim47

だーだ様、返事が遅れました。
>私も白髪の多いイガグリで
ブログでのお写真からは黒々とした御髪に見受けられたのですが、
そうでしたか?本当に不思議な縁ですね。
反抗期にはこの手の小説を幾つか続けて読みましたが、頭髪のこともあって殊更記憶に残っています。
 あと、この主人公は余り腕っ節が強くなく、寮で同級生と喧嘩になって無惨に負けるところところも何となく私自身と重なっています。
by shim47 (2008-09-28 12:14) 

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