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Skies of America/Ornette Coleman(アメリカの空/オーネット・コールマン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ストリング・オーケストラをバックにレコーディングをしてみたいと思うジャズマンは思ったよりも多いのかもしれない。
昨日、スタン・ケントンを聞きながら何となく思いついた。それでレコードの収まっている棚を漠然と眺めていると私の手持ちにも幾らかそういうものがあった。

Apocalypse

Apocalypse

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Sony/BMG
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: CD




大作にして珍作といえるかもしれないが、この一作にかける意気込みが尋常ではなかっただろうことは長い時間を経た今でもひしひしと伝わってくる。正直言ってこの人はロクな曲を作らないが演奏そのものはいつも真摯で素晴らしい。


 誰それ、ウィズ・ストリングスといった趣のレコードをあれこれ聴き続けているうちに私はやっぱりオーネット・コールマンを引っぱり出してきた。

アメリカの空

アメリカの空

  • アーティスト: オーネット・コールマン,オーネット・コールマン,デヴィッド・ミーシャム,ロンドン交響楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: CD







 1980年代以降、コルトレーン教の衰退と歩調を合わせるようにしてオーネット・コールマンが徐々に再認識されるようになってきた風潮を私は結構好ましく思い続けている。ひたむきな求道者が絶対的に素晴らしく、それ以外は全て減点法で評価されるような了見の狭い接し方はどこかで大事な何かを見落とすことになるようだといつの間にか私は心得たつもりになっている。

 強いて言葉で表すのも無粋だとは思うが、私は何だか生理的にオーネットの音楽が好きだ。デタラメで、独りよがりでいながらやたらと開放的で享楽的な佇まいをいつも感じている。良くも悪くもデタラメというのはオーネット・コールマンを理解する上でのキーワードではないかと思う。デビュー以来、節目節目で『予言者か、それともペテン師か』という論争を巻き起こし続けたオーネット・コールマンだが、今になってこうして過去からの諸作を聴き直してみると特段作為的に異端のポジションを狙っていたわけでもなく、ごくごく自然にやりたいようにやっていたらそれはたまたま徒花の立ち位置にあったというのが正しそうだ。

 結局、オーネット・コールマンという人はその出現以来、本人の自覚の上では至って自然に、至って普通に語る人だったのだが、それはおおかた聞いたこともない方言として語られるので受け止める側に誤解されやすい性質を持っていたと整理づけられそうだ。別の喩えで言えばそれはあくまで訛りのきつい方言であって、外国語でも異星人の言葉でもなかったわけで。

 1965年のカムバックに於いて、多くのリスナーはそのサックスで奏でられる音楽がプロとしての成熟を示している点は評価しながらも新たに自分の演奏楽器としてトランペットとバイオリンを持ち出してきた姿勢については大いに叩きまくったのだそうだ。趣旨はといえば「ハンチクな真似ばかりしてあれこれ手を広げる暇があるのだったら、本業のサックスでもっとまともな音楽を演奏しやがれ!」といった内容が殆どだったようだ。
 確かにその演奏ぶりは本業に比べると明らかに余技の域を出ないような拙劣さで、教科書的な評価基準で言えばお世辞にもサックスと同列には評価出来ないような代物ではあったが、本人はカエルの面になんとかというか馬耳東風というか、とにかくそれらを駆使して相変わらずの徒花であり続けた。

 そこへもってきて本作ではフル・オーケストラとの競演である。加えて彼らは素っ頓狂な思いつきでかき集められたにわか作りの混成軍では全然ない。
しかもそのスコアはオーネット・コールマン自ら書き下ろしたものだ。よく知られたポップ・チューンを口当たり良く手短にまとめて聴かせるといったアプローチではない。それは言語の喩えとして言うならば『いや、皆さん、実は僕も皆さん方と同じように標準語で話すことは出来るのですよ』という態度であってあらゆる意味でこの人らしくない。

 節目節目に於けるオーネット・コールマンの諸作がそうであるように本作もまた毀誉褒貶の嵐に晒されたと私は記憶している。ポイントはやはりストリング・オーケストラという背景にあって、少数派である擁護側はこういう西洋音楽の歴史や伝統とか権威性を漂わせる共演者との企画を指してオーネット・コールマンはやはり音楽の伝統を重んじる良識の持ち主だったのだと褒めそやし、圧倒的多数の批判者は本作の、よく言えば素朴な、悪く言えばどこかに未完成さを残すアレンジメントを指して所詮オーネットなどという輩はどこまでいっても未熟でデタラメな音楽しか作り出せない山師に過ぎないと切って捨てた。しかし今になってみるとそのどちらもが的外れであったことが歴然で私などはただ笑うのみだ。

 思うにオーネット・コールマンという人はある楽器の演奏技術を掘り下げ、技巧を突き詰めることで何かを表現したいという縦方向の志向ではなく、まず意識の中にある楽想があり、それを色々な楽器に移植して足し算をすることによって何かを表現したいという横方向の志向の持ち主なのだ。だからどんなアレンジ、どんな楽器(トランペットやバイオリン)であっても固有の方言やら手癖のような旋律があちこちにのぞく。
 本作は何だか物々しい幕開けで始まり、およそ20分近く主役の登場はない。私は学理楽典には全然詳しくないがたいして技巧的ではないオーケストレーションが延々と続くが不思議と退屈せずに割合すんなりと「オーネットの世界」に入って行けるのは先に書いたような資質を即興的な一人称の楽器演奏ではなく、譜面として対象化し記述出来る能力がオーネット・コールマンにはあることを現しているが音楽としては格段それ以上でも以下でもない話である。とにかくオーネット・コールマンの楽想が数十人の演奏者によって実体化するという初の試みが本作なのである。
 本人不在のオーネット・コールマンの世界はそれでも欠落感なく展開されるがやはり散々リスナーをじらせた挙げ句にやおら登場するオーネットは文句なしにかっこいい。後半はサックス・コンチェルトとでも言えそうな言えなさそうな、そんなことはどうでもいいような、何せ、本人のブローがいつものように飛んだり跳ねたりして駆けずり回る。

 音楽というのは果たして作曲者に帰属するものなのかそれとも演奏者なのかという根深い議論の種を本作は内蔵していると私は思うのだが、恐らく本人にはそのような問題提起の意識など鼻くそほどにもなかったに違いない。ストリングスの織りなす波、そのうねりをあしらったり切り裂いたりするここでのオーネット・コールマンはまるで雨戸に乗っかってステテコ姿でサーフィンをやっているようで理屈抜きにクールである。それでいいのだ。

 


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