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Lolita(ロリータ) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 日曜日の習慣としては、夕食のあとは映画を見ることが結構ある。映画館のレイトショーだったり自宅であったりのどちらかだが今日はあとの方にした。

 余談ながら、我が家の安物DVDプレイヤーはしばらく使わないうちにいつの間にか故障していた。どのキーを押してもウンともスンとも言わない。昨年五千円ほどで買ってきた文字通りの安物に多くを望むほど虫のいい了見は持ち合わせてはいないが幾ら何でも一年も経たずにおシャカでは私も憮然たる気分になる。結局レンタルソフトはどれも今日は見られずじまいで手持ちのLDを見ることにした。LDプレイヤーは決して高級機とは言えないものだがこちらは十年ほど前に買ったものが今でも遠慮なしにガシガシ使える。いずれDVDがブルーレイディスクに取って代わられた後でも我が家ではLDが稼働していそうな気もする。ローテクにはローテクなりの良さがあってそのうちの一つはメンテの融通が利くとか耐久性があるとかいったあたりのように思える。

 本日の演目はスタンリー・キューブリック監督の「ロリータ」とした。1962年、ハリウッドの映画事情といいキューブリック本人の身辺事情といい結構微妙だった時期の作品である。

ロリータ

ロリータ

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 

 

 

原作はこちら。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

  • 作者: ウラジーミル ナボコフ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/10
  • メディア: 文庫

 

 実は私は原作をきちんと読んでいない。大分以前い斜め読みした程度だがスタンリー・キューブリックの映画は大体どれも原作を精読しなくても支障はないと思っている。

原作、映画共に、決して商業的に大きなセールスを記録したわけではないし、通俗的な内容でもない。どちらかといえば内向的な作風だと思う。であるにもかかわらずこのタイトルが後の世にもたらしたムーブメントの大きさが計り知れない。 人物の固有名詞が人の性的嗜好を表すほど大きな意味を持つに至ったという点ではSMと双璧といえそうだ、と私はここで妙に感心したりもする。

 なにしろこの、「ロリータ」というキーワードでAmazon.comを検索してみると、このブログに貼り付けるためのリンクを探し出すのを諦めて途中で投げ出したくなるくらい夥しい数の商品が湧いて出てくる。当然ながらそれらは全てと言っていいほどブログのリンクに貼り付けるのが憚られる類の有象無象である。物語上の一登場人物の名前がこれほど大きな市場性を持つなどとは当時原作者も予想していなかったのではなかろうか。

 映画については何せスタンリー・キューブリックであるからして、ついでに言えばあくまで原作を下敷きにしたストーリーであるからして至極文学的な内容だ。多くはないと思うがタイトルにつられて妙な期待感を持った方は、はいご愁傷様、となる。

 日本にいて今日の感覚で見ているとこの中途半端なメロドラマの一体どこがそんなに問題なのかと首を傾げたくなる。1962年という製作時点での倫理規定上の問題かと思ったが、考えてみると現在に至るまでもオヤジがローティーンに恋愛感情を持って接するというモチーフは私が知る限りでは殆どないのではなかろうか。ハードコア・○○○業界でも幼女趣味やSM行為や強姦シーンは徹底的に排除されているからきっとこれはお国柄とかキリスト教文化圏での物差しに於けるタブーを扱ったという意味でセンセーショナルだったのだろう。1960年代初頭はテレビの台頭による映画興行の凋落が顕在化した時期でもあったから映画館への集客という目的のためには手段を選ばず幾分破れかぶれ的な意味でテレビでは扱えないような企画が通ったのだとも思える。

 話題がだんだん怪しげな方向にずれていくのを危惧しながらも止めようがない私自身の品性が本日は大変こっ恥ずかしい。作品論まがいのことを何か書いてみたいのになかなかそこに辿り着けないのは何も私自身のロクでもない性癖が本作のタイトルと同じベクトルを持っているからというわけではありません!いや待て、なんだか書けば書くほど白々しく弁解めいているようではないか。まとまりがつかないので本日はこれまで、とにかく、たとえば、この映画のタイトルをキーワードにして検索した結果たまたまこのしょうもないエントリーに行き当たった方!本作に○○とか○○○とかを求めないでください。そういう描写はここでは一切出てきません。あくまで文学的に接していただきたいっ!

 と、妙に不自然な力み方をして今回は一旦終わり。 

 

 


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La Dolce Vita/甘い生活(脇役の件で見落としていたこと) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 しばらくぶりに性根を入れて映画を見直してみると、細々とした発見があった。

はじめの方のシークエンスで、主人公がお金持ちの令嬢(アヌーク・エーメ)とクラブから出てきて豪勢なオープンカーに乗り込む場面で娼婦から声をかけられる。このときのBGMはうんと以前、30年くらい前にプロ野球ニュースでも頭の数秒が使われていたように覚えている。最初に見た20数年前、知人にこのことを話したらあっさり否定されたが同じものだと今でも私は思っている。今となっては確かめようもないのだけど。

 そのあと、何かを読んでいて知ったのが某侯爵の豪邸で催されるパーティに出かけるとき、主人公に同行するスカシた感じのお姉ちゃんが実はこの人だった。

 

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最初に見たときには確かにどこか注意を惹く存在ではあったが誰とは気付かないでいた。今になって注意して見ると確かにニコだ。せりふ回しはドイツ訛りがかなりきつい。 なんかこの人はかなり早い時期にして既に病んだオーラを放っていたのだった。少ししゃがれた低い声、いかにも「かったりーな」という感じの口調、恐らく演技でもなんでもなくこれがこの人の素地ではないだろうかと私は思っている。そういえばと思って自分のレコードラックを漁っていたら、こんなところにもお出ましだった。
Moon Beams

Moon Beams

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Universal Japan
  • 発売日: 1991/07/01
  • メディア: CD

 音楽のイメージをある程度伝えてくれそうな絵面ではあるかな?

しかし私にとってのニコはやっぱりこれ

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)
  • 発売日: 2008/08/02
  • メディア: CD
とかこれ
 
Chelsea Girl

Chelsea Girl

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Polygram International
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD
 
「病めるヨーロッパ」のシンボルみたいなお姉ちゃんでしたね。 女優としてもミュージシャンとしても素人の域は出ない人だったがどこからどう切っても退廃とか倦怠感とかが毒々しく噴き出してきそうな存在感は技巧云々をせせら笑うように強烈で、その個性は何者にも代え難い。

 

心の奥底に淀む暗く歪んだある側面を体現しているような、徒花という言葉が実に似つかわしい、痛々しくも美しい人でしたな。


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La Dolce Vita/甘い生活(本筋についてのコピペ) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

前回に続いてこれのことを・・・
甘い生活 デジタルニューマスター版

甘い生活 デジタルニューマスター版

  • 出版社/メーカー: 東北新社
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 

 フェリーニの映画を見終わったあとは何か物凄く饒舌に語りたいのだけれどうまくまとまらない。私は何から何まで全部の作品を見通したわけではないがそういうことが多い。 この人の映画は「甘い生活」以降、特に言葉によってくくられることを拒むようになった。起承転結の物語性を持たなくなった。音楽で言えば無調でレギュラービートを持たないフリーフォームのジャズを映像化した、みたいなところがある。

 私は若い頃、映画館で一度見ただけでは把握できなくて色々映画の解説書を漁ってみたことがある。大体どれも訳のわからない観念的にして主観的な文章か、そうでなければ単に映像を時間軸に沿って文字化したもの、ということは殆ど出来事の支離滅裂な羅列で終わっている。とどのつまり、色々に論じられるこの映画について映画を見る前の予習として、また、映画を見終わったあとで頭の整理のために役立つようなテクストというのは殆ど全くないと言っていい。

 ある時気付いたが、混乱とか錯綜とか不規則とか無軌道とか乱雑とかいった言葉から導かれる連想それ自体がこの映画のモチーフなのではあるまいか。何せ、本職の映画評論家様たちにしてもうまく説明できないような内容なのだから私のような者で把握しきれるわけはないのだとある時から思うようになった。私の場合何でもそんな風だが、どんな表現形態であれ、とにかく一応文字として対象化しておきたいところがありそうだ。

 どうでもいい文章の寄せ集めみたいなこのブログを飽きもせずに続けている理由もそういうところにあるのだろう。

 私の手持ちのLDに、この映画のある一側面を的確に看破したテキストがあった。私が乏しい語彙から四苦八苦して拙い駄文をひねり出すよりもこういう有り難い手引きが自分の手元にあったことを忘れていた。灯台もと暗しというか。作品そのものをこの先何度も繰り返してみるようにこのテキストもこの先何度か読み直してみたいのでコピペしておくことにした。

(引用はじめ)

巨大なキリスト像が、ヘリコプターに吊るされ、両の手を大きくひらき、目を瞠る人々の頭上を大音響と共にかすめてゆく。キリストは今、人の操縦する文明の機器に操られ、ただひたすら黙しながらローマの街を見下ろしているばかりだ。地上には、もはや人と人を結ぶ愛もなければ、理解もない。アンニュイに浸りきった“甘い生活”に酔いしれているばかりだ。
 何一つ変わることのない“甘い生活”がどこまでも続く、とフェリーニ自身が述べている。ゴシップ記事専門の新聞記者である主人公マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)と大富豪の娘(アヌーク・エーメ)の行きずりの情事があり、婚約者が自殺未遂をおこし、ハリウッドの人気女優(アニタ・エクバーグ)に色目を使ってその許婚者に殴られ、唯一その真摯な生き方に憧れすら抱いていた友人は二人の幼い子供を道づれに自ら命を絶ち、婚約者と大喧嘩をし、爛れきった乱痴気パーティーの一晩を過ごし、しかしこれらの出来事は互いに何の影響も与えあうことなく、主人公の生活に変化が見られることもなく、したがってストーリーはなんの発展もせず、ただひたすらに様々なエピソードが綿々と連なっているばかりである。『甘い生活』以降のフェリーニ作品の特徴とされている因果関係の欠落した、発展のない、仮に順序を入れ替えたとしても物語としての整合性を失うことにはならないエピソードの羅列スタイルは、フェリーニが意識したものかあるいは直感力によってか、いずれにせよ作品に込められた思想の要求から必然的に生まれたものに違いない。
 フェリーニの映画はじつによく喋る。人が寄り集まるほどに、人々はほとんどひっきりなしに、スクリーンの中の時間いっぱい言葉を発しつづける。しかしここでは、言葉は人と人との関係を裏づけ、あるいは育む手段とはならない。いくら言葉を操ってみたところでコミュニケーションに繋がらないことの証として、人々はひたすらに喋りまくる。「言葉」と「関係」ははるかに乖離してゆく。そんな人間どうしの関わりあいのなかで、マルチェロの婚約者だけが、しきりに電話をかけたりして、心のうちを言葉で訴えようとするが、マルチェロにとっては言葉を媒介とした人間関係の構築などとっくに信じられるものではなく、ただ煩わしいものでしかない。そんな彼も、かつては言葉の力を信じて作家への夢を抱く青年だった。
 『甘い生活』を観たイタリアの上流社会の人たちは怒りを顕にしたそうだが、今では、映画を観ても、小説を読んでも、誰も怒りをみせたりはしないだろう。かつての時代は、映画が怒りをぶつける対象としてありえたのだと、しみじみ思う。
原 淳一郎
(引用終わり)

 そうなんだよ、そういうことなんだよな、と、納得しつつ違う切り口からの見え方も沢山あることを既に私は知っている。語り尽くすには余りにも多くのことが無秩序に絡み合っている映画だと改めて思う。 

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若き日のマストロヤンニ、いかにも伊達男風でかっこいいと思います。

生かじりの人相学風にいうと、少々鼻の下の長いところがにやけ面を際だたせているような。 


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La Dolce Vita/甘い生活(本筋には関係ないこと) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 若い頃にこの映画を見て大変強い印象を受けた。私はどうも自分の考えをうまくまとめる能力に欠けており、映画そのものについては今でもうまく整理できていない。

甘い生活 デジタルリマスター版

甘い生活 デジタルリマスター版

  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィ・シー
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 

 世紀の大傑作であるようにも見えるし偉大なる失敗作と見えなくもない。すっかり評価の定まった作品よりもむしろ本作のようにいつまでも議論が決着しないもののほうに時代を超越する生命力みたいなものが宿るのが映画の不思議なところではなかろうか。

 巨匠といわれる映画監督にはキャリアの中にあって迷いの感じられる大作を残す人が少なくないように思う。テーマやメッセージの明確な次作8½はもっとタイトな構成で取っつきもよく、フェリーニの最高傑作に推す人が沢山いる。同感できる話ではあるけれどスクリーン上の虚構世界に観客を引きずり込む魔力めいたものは本作の方がより強いように私は見ている。

 ここから先はまとまりの点かない駄文の垂れ流しになるのでそれは別の機会にまわすとして、今日の私は本筋と関係ないことを昨日に引き続いて書き留めておきたい。ここでもカメラのことだ。

 主人公が連れて歩くパパラッチの兄ちゃんがどんなカメラを使っていたかを私はさっぱり思い出せないのだが、登場するヒロインの一人であるアニタ・エクバーグ(物語上は超グラマーで少しばかりおつむの軽いハリウッド女優の役)がイタリアの某空港に到着して芸能関係の報道陣が取材に殺到するシーンで彼らの抱えていたカメラがこれだ。

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 劇中では本体をブラケットに固定し、フラッシュ(バルブ発光するタイプ、時代を感じさせますな)とガングリップを付け実に物々しい重装備である。2眼レフは室内撮影とか屋外ではあっても三脚を使用した静止物の撮影に使うものなのだろうという先入観を私はある時まで持っていたのだが、こういうアクティブな用途にも使われていたのだと思うとちょっと意外な気がした。見るからに屈強な感じのする西洋人がごついブラケットを抱え上げてピントグラスをのぞき込む仕草はいかにも玄人という感じで実にかっこいい。

 そしてこの、ローライフレックスという非合理の塊みたいな物体は長らく私の物欲をくすぐってやまない。 実のところ、世の中に存在するありとあらゆるモノの中で私が無条件にかっこいいと思えるものの一つがこのカメラだ。これだけクソでかい図体でありながらレンズの交換ができない。左右がひっくり返って映し出されるピントグラス、オプションのプリズムファインダーなしではローアングルの撮影専用みたいなものだし、使うフィルムはブローニー版だから何をどうやっても撮影できるカット数は24枚止まり。今となっては独善性の塊だ。使いたいなら修行せい、嫌なら使うな、何が何でも欲しかったら買え、但し安くはないぞと言わんばかりの佇まいでいっそ清々しいというか潔いというか。

 設計時期が古いのだから仕方がない、当時はそれが当たり前だったのだというのは確かにそうだが、そんなシーラカンスみたいなカメラが21世紀の今でも現役として販売されているのだから私を含めて世の中には好事家とか物好きが絶えることはないということなのだろう。現代の公道をガソリンエンジンで動く自動車に混じって悠然と走る豪華絢爛な四頭立ての馬車みたいな存在である。

 しばらく前に気付いたが、私はどうも正方形のフレーミングが気になる性分のようだ。思うにこれは、レコードジャケットを眺めていた時間が長かったからではないだろうか。 こういう無駄と矛盾と不合理の集積のような、時代遅れの象徴みたいな佇まいのカメラはどこかでLPレコードに通底するところがありそうに感じられる。そして私はこういうカメラを持ち出して半日くらいその辺をぶらぶらしながら適当にその辺の風景を撮り歩くような場面の妄想に耽るのが結構好きだ。

 小金が貯まったらそのうち、ミニデジでも買い込んでみようかと思うことがある。お茶を濁すような買い物でしかないのだろうが本人は洒落のつもりでいる。画質どうのとか機能がどうのとかいうところからはずれた楽しみ方があってもいいっすよね。

Rollei MiniDigi 2眼タイプデジタルカメラ

Rollei MiniDigi 2眼タイプデジタルカメラ

  • 出版社/メーカー: ローライ
  • メディア: エレクトロニクス

 

 

 

 


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マディソン郡の橋 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

メロドラマということになるのだろうか。一時期話題になった映画である。そこそこヒットもしたと思う。

マディソン郡の橋

マディソン郡の橋

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 私は、実はこの映画を見ていない。原作もあるのだがこれも読んでいない。だから筋立てはわからない。

マディソン郡の橋 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス

マディソン郡の橋 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス

  • 作者: ロバート・ジェームズ ウォラー
  • 出版社/メーカー: 講談社インターナショナル
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 単行本

 

 

 

わかりもしないのにこうしてエントリーを立ち上げているのは全然本筋と関係のないところに関心があるからだ。

 主人公であるクリント・イーストウッドがここで使っているカメラはニコンFである。映画を見たわけでもないのに何故かそれを私は知っている。

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主人公は劇中、「以前はライカを使っていたがこっちのほうがいいカメラだ」といったようなせりふを述べるらしい。
 ついでに言えば主人公が橋の撮影に使っているレンズは135mmだったか180mmだったかのどちらからしい。
180mm F2.8はしばらく前に私も中古で買った。輪郭をシャープに描くいかにもニコンらしい写りのレンズでわりかしお気に入りである。
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確かに、望遠レンズでの撮影は一眼レフの独壇場である。 しかしここで繰り返し書くとおり、用途が万能のカメラはない。
私が気になるのは、劇中で主人公はヒロインであるところのメリル・ストリープを写真で撮ったのだろうか、そういう場面があったとすればどんなカメラ、どんなレンズで撮影したのだろうかというところにある。一眼レフにマウントした大口径の望遠レンズという取り合わせは私の考えでは素人衆に向けるものではない。180mmはおろか、その下の135mm,いやいや85mmでさえもそういうレンズを向ければ被写体の表情はこわばり、大体は目玉をひんむいた表情をくれるのが乏しい経験から得た教訓だ。
 
 
それはそれとして、この映画のヒットは私を含むカメラが欲しい欲しい病の皆様にとって困った副産物を産んだ。
中古市場に於けるてニコンFの 相場は本作公開以降暴騰したのである。
元々ニコンはボディ、レンズ共に出回り量が多い。 加えて一眼レフの中では比類なく堅牢な作りが売り物なのでコンディションのいいボディでも結構買いやすい値段であったものがいきなり相場がつり上がってマニアの間ではロットごとの細かい仕様の違いがあれこれ取り沙汰されるようになりモノの存在ばかりでなくプライスタグまでが神格化されてしまった。貧乏人には手を出しにくい存在になってしまったのだ。
 
映画のことを書くつもりは最初からなくて実はカメラのことを書きたかったのが私の本心でした。しかしイーストウッドのせりふを通してニコンとライカというカメラ世界の大きな看板がそれぞれどのように語られているかについては大変関心がある。映画を見るのは好きだしメロドラマもそれなりに受け入れて楽しめる程度の許容量が自分にはあると思いこんではいるけれど、この映画にについては本筋よりもカメラの扱われかたが気になる。 

 

 

 


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「隠し砦の三悪人」リメイクのこと [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 いつ頃からかは忘れたが、和洋を問わず映画はリメイクが多い。ついでに言うとそれらは殆ど全てと言っていいほどがハズレである。
 私が知っている中で、リメイクがすごいと心底思えたのはこれくらいだろうか。但し、オリジナルを私は見たことがない。ないのでリメイクのほうしか知らないと言った方がここでは正しいのだが。
十戒 スペシャル・コレクターズ・エディション

十戒 スペシャル・コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
  • メディア: DVD
あと、邦画で言えばこれ
ガメラ 大怪獣空中決戦

ガメラ 大怪獣空中決戦

  • 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
  • メディア: DVD
冗談抜きに大人の鑑賞に堪える怪獣映画である。 それはそれとして、「隠し砦の三悪人」だ。言わずと知れた黒澤明監督作品であり、後にジョージ・ルーカスが監督やらプロデュースすることになる一大サーガ スター・ウォーズの原型となったことは今更ここで私が書くまでもない。
隠し砦の三悪人<普及版>

隠し砦の三悪人<普及版>

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • メディア: DVD
個人的には黒沢作品の中では御大が少々肩の力を抜いて軽妙さを覗かせた一作のように思えるがそうはいっても黒澤明監督作品であって、終盤にお姫様の唄うけったいな歌にはちょっと引くがある一線はきっちり守られている。  この度、本作はリメイクされることになったのだそうだ。 http://www.kakushi-toride.jp/  黒澤明監督作品のリメイクといえば、去年の末頃「椿三十郎」が製作された。どうせオリジナル以上の出来ではあるまいと高をくくり、そうではあっても何か別の良さを発見できるかもしれないと期待しつつ映画館に足を運んで見事に外した顛末は以前書いた。 http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-12-28  今度は「隠し砦の三悪人」ときたか。それにしても一体何故、黒澤明作品が続くのだろうか。作品そのものの知名度が高いから集客が期待できるせいなのだろうが悪い前例がありながら何故また今、という疑問が払拭できないのは私だけだろうか?正直なところ、こういう悪い意味での二匹目のドジョウには何の期待も関心も持てない。何でも、今回の主役はこういう人らしい。
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この人がどこの誰なのかも私はたった今まで知らなかった。まさかこの人が三船敏郎が演じた役を演じるのではあるまいな、と、今回ロードショウを見に行くつもりのない私は何か変な印象を受ける。いずれにしても今回はパス。見もしないでこき下ろすのはよくないが、見るまでもないということだってありではなかろうか。自分にはその程度の学習能力は身に付いているはずだと思っている。  リメイクについて今はなきナンシー関嬢は実に的確な名文を残した。著作から引用しておく。原本はこれである。
  • 作者: ナンシー関
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2002/04
  • メディア: 文庫
(引用開始 P40)  トヨエツとトヨエツファンの間だけで終わる過ちなら、10年後私も「人気あったねえ」と一緒に半笑いしてあげるけど、他人に迷惑をかけるな。『傷だらけの天使』といえば、日本の思い出の中でも、思い入れ(られ)の強さにおいてはかなり上位に食い込む物件である。これに手を出すとは。  リメイクするなという権利はない。そしてリメイクされないという保証もなかった。しかし、リメイクされるとは思いもよらなかった。ちゃんと約束したわけではないけど、超えてはいけない一線を見ていたはずなのに。江川の空白の一日に似てるぞ、トヨエツの『傷天』は。 (引用終わり) 引用文中のトヨエツを松本潤や織田某に、『傷だらけの天使』を『黒澤明の作品』に置き換えると2作続いたリメイク版を巡る私の感想と見事に合致する。
 



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椿三十郎を見に行く [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 数日前、映画館に椿三十郎を見に行ってきた。

元々の完成度が余りにも高いため、リメイクに当たっては色々と苦労があっただろうとは思われた。

椿三十郎<普及版>

椿三十郎<普及版>

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2007/11/09
  • メディア: DVD

 結果として、シナリオには手の入れようがなかったのかも知れない。セリフのやりとりの細部に至るまで、ほぼ完全にオリジナルを踏襲したものとなっていた。
 変にオリジナリティを出そうとすれば「改悪だー!」と批判されるだろうし、前作そのまんまであれば黒澤明の偉大さが改めて強調されるだけだろうし、要するにどっちに転んでもリメイク版の制作陣にとっては分が悪い。
 今回は後者の方向性となったが、より小さなマイナスという選択肢しかないというのはやはり辛かろう。

 監督の森田芳充は、「家族ゲーム」以来私は割と好感を持っている。才人だとは思うがやはり、幾ら何でも黒澤明と比較すれば小粒感はどうにも否めない。色々と制約の多そうな製作条件の中で、どこにオリジナリティを見せてくれるのかに注意していた。
 前作は上映時間99分と比較的コンパクトな(但し密度は凄い)できあがりだったがリメイク版はおよそ120分である。シナリオは前作とほぼ全く同じでありながら約20分長くなっている。
 この20分は殆ど全てといってよいほど、場面の説明的なカット割りや殺陣を含む活劇シーンの拡張に費やされている。従って、物語の展開は平易で分かり安いし、アクションシーンもそれなりの時間的ボリュームは持つに至ったが反面、「カットとカットの間を読む」スリルは失われたし、三船敏郎の演じた「剛刀一閃」の迫力が薄らいで「普通に強い人」風な見え方となってしまっているのがちょっと惜しい。
 思えば黒澤明という監督は、殺陣の立ち回りを短時間にまとめることでかえって三船演じる主人事の圧倒的な強さを強調していたわけで、感想としては凡庸ながらさすがと言うほかない。

 オリジナルとは別の映画として見て、独立した映画としての良さを発見するように努力したつもりだが、何しろオリジナルの刷り込みが強すぎてどうしても比較論みたいな話になってしまうところが歯がゆいのだが、リメイク版ではカラー撮影のせいもあって、咲き乱れる椿の花の映像描写が見事だ。30分でも1時間でも見続けていたくらい綺麗な映像を堪能できる。際立った美点がそれくらいしかないというのは私の感受性にそもそもの問題があるのだろうが、正直言って小粒なものはやっぱりどこからどう見ても小粒であって余り積極的な印象が出てこないのは仕方がない。

 主演が織田裕二というのは公開前から疑問やら批判やらに晒され続けてきた。誰がキャスティングされるにしろそれはいささか酷な人選にしかなり得ないとは思う。映画を見ながら私は『一体誰であれば結構しっくり来ただろうか』と考え続けていた。三船敏郎という乗り越えようのない配役が既になされている以上、これまた誰を持ってきてもより大きなベターでしかなく、ベストにはなり得ない。辛いところだ。
 個人的には、この人あたりが好ましかったように思っている。

 城代家老の奥方がのたまうところの「貴方は抜き身の刀のような方ですわね。でも本当にいい刀はさやに収まっているものですわよ』(だったかな?)というセリフがリメイク版のキーワードだろうと今の私は考えている。
 主演のキャスティングを選考するに当たって、佐藤浩市氏が候補のうちに入っていたかどうかは知らないが、「抜き身の刀」のようなムードを発することのできそうな人選ではあると個人的には思っている。
 敵役の室戸もまた、主人公の陰画として同じく「抜き身の刀」的なムードを発散する配役だ。リメイク版での豊川某は主役と同じく、それからはほど遠い印象の持ち主に見えた。

 織田裕二という俳優などは、私の個人的意見としてそれこそ絵に描いたような「鞘に収まった刀」である。何をどんな風に演じても彼は「鞘に収まった刀」である人のように私には見えている。取って付けたような無頼漢ぶりは実にリアリティに欠ける。オリジナルにあった土臭い豪快さ、爽快感が希薄なのは多分にこのキャスティングのせいだと私は考えているほどなのだ。
 ただしだからと言って、先に書いたような主役が佐藤浩市だったらもう少しは良かったのにとか言う戯言を書きたいわけでは全然ない。
 恐らく、誰を主役にキャスティングしたところで、リアリティに欠ける、熱気や爽快感の薄らいだリメイクになったことに変わりはないのではなかろうかと私は考えている。それはきっと、製作される映画そのものよりもこれを迎え入れる私達の側がオリジナルの公開当時と比べると余りにも変質してしまったせいだ。
 「俺が法律だ!」的な言動、アウトサイダーの凄味、問答無用の迫力、一匹狼の峻厳さ、「抜き身の刀」とはそういう属性を身にまとったヒーロー像の比喩であり、オリジナルの公開当時はそういった人物像がまだ幾らかにリアリティをもって観客には好意的に迎え入れられていた時代だった。

 翻って今日日、現実世界に置いて一見、「抜き身の刀」みたいな存在に私達は一体どれくらいのリアリティを感じられるだろうか?卑近な例で言えば数年前、一世を風靡したかに見えたホリエモンみたいな奴にしたところで、とどのつまり彼は風雲児でも何でもなく、所詮は彼の背後で蠢く顔の見えない複合的な強欲さに利用された操り人形に過ぎなかった。私達が今日メディアやなんかで見かける一見「抜き身の刀」は殆ど全てと言っていいほどこの類の手合いである。そんな例には飽き飽きしていると言っていいほど今の私達は「抜き身の刀」風のヒーロー像を素直には受け入れられなくなってきていそうに思う。
 鞘から抜いてみたら実は刀じゃなかった、なんていう事例が今の私達の周りには余りにも多すぎる。大まじめに抜き身の刀を志向していたら終着点が監獄だったりホームレスだったりするようなご時世ではなかろうか。鞘に収まり続けていることで「俺は刀なんだぞー」という幻想にしがみつき続けているしかないのが今の私達ではないのか。

 そういうご時世であればなおのこと、荒唐無稽なファンタジーとして「抜き身の刀」のヒーロー像は受け入れられていいのではと思うが、最早私達の多くは疲弊しすぎ、穿った物の見方をしすぎるすれっからしばかりになってしまったのではないかと思っている。
 だから私はこの、織田裕二といういかにもお行儀の良さそうなお兄ちゃん風を敢えて主役に配することで「『抜き身の刀?んなもの今日日、いるわけねーじゃねーか」という少々寂しくもシニカルなメッセージを伝えたかったのではなかろうかという屈折した解釈を持つに至った。根性のねじ曲がった私のような奴はどこまでも斜めに物事を見たがるようだ。


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Alfie (アルフィー) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 現在使用中の安物DVDプレイヤーは気まぐれな挙動を示す。
自分が買ってきたソフトで途中画面がフリースすることはないが、レンタルのDVDだと異常が起きるのは前に書いた。但し借り出してきたソフトが全てそうだとも限らない。ついでのつもりで借りてきたソフトだと案外すんなり最後まで見ることができることもある。

 前回、黒澤明の「天国と地獄」が不調だったと書いたがおまけに借りてきたこれはすんなり最後まで見ることができた。

アルフィー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

アルフィー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 毎度毎度大上段に振りかぶった歴史的傑作ばかりというのはやはりいささか疲れるのでこういった軽めの娯楽を決め込むことでなにがしかのバランスをとることは多い。
軽薄なプレイボーイの行状記である。私のような者としてはなりたくてもなれなかった姿でもある。
主人公は大変身軽で自由な男だが、同時にそれは安らぎのなさでもあることをラストのモノローグで寒々しく白状する。この辺は現実の私自身と重なり合うところがあって身につまされた。

 一見、ドライさ、軽薄さを絵に描いたような主人公の物語だがしばしばカメラ目線で語られるこのモノローグには所々に鋭い警句が織り込まれている。
曰く、「女の賞味期間は男よりも短い」
曰く、「どんなに物凄い美女にだって彼女に飽きた男がいた」

 口説き落とすスリルだけを求めて継続的な関係の中で安らぎを生み出すような関係を育むつもりはないという女性観は私には理解しづらいが、そういう現実味のないエキセントリックな人物像が主人公である。次から次へと目まぐるしく女を乗り換えていく主人公は内面の空疎さには驚くほど無自覚で、その乾ききった内面を痛みとして自覚するまでの物語という言い方もできる。
 長く心に残るような仕上がりではないが敢えて意図的にそのように製作されたもののようにも思える。期待もせずに観ていたが思わぬ拾い物だったとも思えるが、これもまた、最初からそういう風に受け止められるように意図されていたとも思える。

 本作は元々1966年(だったかな?)に製作されたイギリス映画のリメイク版であるが私はこちらのほうを観ていない。主演はマイケル・ケインであった。

アルフィー (1966) [DVD]

アルフィー (1966) [DVD]

  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 

 正直言って、私はこの映画を映画としてではなく、イギリス版のために映画音楽に関わったソニー・ロリンズのレコードによって知った。

アルフイー

アルフイー

  • アーティスト: ソニー・ロリンズ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2008/06/25
  • メディア: CD

 

 イギリス版の映画のサウンドトラックとして使われることは結局なかったらしく、映画音楽としてはむしろバート・バカラックが作曲してCilla Blackが歌ったテーマ曲のほうがずっと有名になった。映画のモチーフから考えれば重厚さよりも軽妙さがそぐわしいと今になってみて改めて思う。

 リメイク版で使われるミック・ジャガーはどこかマッチングが今ひとつのような気がする。話題性はあっただろうが。


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「天国と地獄」を我が家で鑑賞してのドタバタ [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 ある時期までの黒澤明監督作品というのは私にとって映画の基準であり教科書であって、何度繰り返して見ても映画に込められた全ての意図を汲み取れたような気分にはなれない。見ている間は非常に充実しているが、見終わってからそれでは自分は何一つとして見落としたり見過ごしたりしたことはなかったかと自問するとどうも心許ない。

 本作は何度目かのレンタルDVDによる鑑賞だ。

天国と地獄<普及版>

天国と地獄<普及版>

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2007/12/07
  • メディア: DVD

 私が学生の頃はレンタルショップなどはまだ出現しておらず、過去の名作を観ることができなかったので、当時読み漁っていた87分署シリーズが原作だと気づいたのはだいぶ後になってからである。

キングの身代金 (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-11) (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-11)

キングの身代金 (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-11) (ハヤカワ・ミステリ文庫 13-11)

  • 作者: エド・マクベイン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1984/07/01
  • メディア: 文庫

 映画は働き出すようになってからレンタルビデオから借り出してきて何度か観た。内容についてあれこれ雑感を書きたいのだがいかんせん私の脳みそではそれらをうまくまとめられない。見終わってからすぐに書けそうなことと言えばサスペンス映画の金字塔だとか何だとか余りにも紋切り型で陳腐な感想でケリのつくような濃度では全くない、くらいのことしかないあたりが私の思考能力の限度なのだろう。
 
 レビュー紛いの文章は別の機会に譲るとして、今回自宅に移り住んでから初めて居間のスクリーンでDVD版を観た。
本作に限らず、シネスコ版の画面というのはやはりできるだけでかい画面で見るべきだと改めて思った。
 単純にテレビドラマを長尺化しただけでしかないようなある時期からの三流邦画とは違って、黒澤明の映画というのは劇場のスクリーンの大きさを前提としてフレーミングが想定されていたのでは無かろうかと今回私は勝手に想像している。
 現在、我が家の居間にぶら下がるスクリーンは幅が240cm位だが、引っ越し前に29インチのテレビ画面で見ていたのとは明らかに何かが違う。小道具や微細な表情の変化等々、細部のディティールがこれほど緻密に撮し込まれているというのは以前の鑑賞環境では分からなかった。

 ここから先はみっともない私の周辺事情を白状することになる。
それで私は「おーやっぱり大画面はいいのう」と満悦至極で映画に見入っていた。と、いきなり音声がとぎれ、画像は静止したままになってしまったのだ。あれこれDVDプレーヤーをいじってみたが状態がさっぱり解決されない。すっかり興ざめしてしまった私は何とも腹立たしい気分で鑑賞を途中で打ち切った。これが昨夜のことだ。

 何故そのような障害が起きるのかは大体察しがついた。
春に買い込んだ安物DVDプレーヤーの出来が悪いからだ。試しにこうして使用しているパソコンでは今日、何の滞りもなく最後まで普通にプレイバックができた。17インチの画面で見る「天国と地獄」はストーリーとして勿論堪能したがビジュアルとしては少々窮屈だった。
 ぶつ切りの鑑賞、パソコンの画面を覗き込むようにして観た後半90分と、かなりフラストレーションが残る結果となったので今は雑感みたいなことをあれこれ書きたくないのである。まさに安物買いの何とやらを地でいくような私のドタバタぶりがみっともない。自分のケチぶりを棚に上げてGEO の商品管理のずさんさを疑った己の品性にも恥じ入る。いずれどこかで小金を稼いだらもっとマシなDVDプレーヤーを買って改めてきちんと鑑賞することにします。


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Matrix マトリックスのどうでもいい話 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 夏頃、夜中に窓を閉め忘れたまま大音声でDVDを見ていたら深夜、ご近所様に怒鳴り込まれて以来自宅での映画は控え気味だった。

 数日前にテレビが手に入ってから幾つかテレビ画面で映画を見ていたが、一度スクリーンに慣れるとテレビ画面ではやはり少々物足りない。
 今日はしばらくぶりにプロジェクターを持ち出して映画を見てみた。

マトリックス 特別版

マトリックス 特別版

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2000/03/17
  • メディア: DVD


 世界観がしっかりしていて、実は繰り返し鑑賞に堪える佳作だったことを改めて確認したのだが、私はここで特に作品論をぶちたいわけではない。
 実は私は本作を単純に活劇としてみているところもあって、この登場人物が大変気に入っている。
 何というか、味のある面構えですな。それで、頭髪の生え際とか顔の下半分をしげしげと注視しているうちにどういう訳かこのお方のことが連想されたりもしたのは何故だろうか?


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Submerged/沈黙の追撃 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 馬鹿馬鹿しいとかくだらないとかが予め分かり切っているのについついやってしまうことってありませんか?

 以前にも書いたことがあるが、私にとってはDVDのレンタルショップに出かけていってスティーブン・セガールの主演するソフトを借りてくることがそれに当たる。
 
 近年はぶくぶくに太ってきてそれまで殆ど唯一の売り物だったアクションシーンでさえろくすっぽ演じなくなった。アクターとしての取り組み方は歴然たる怠慢さで見ていて情けなくなってくるほどだ。最早以前の面影を残しているものと言えばいろんな場面での類型的な目つきくらいしかない。
「戦ってるんだぞー」とか
「和んでるんだよーん」とか
それぞれのシークエンスに合わせた目つきくらいしかない。
いや情けない、実に情けない。
 いつからこんな風にぐうたらなアクション映画ばかりを粗製濫造するようになったのかを私は大して正確に思い出せない。それを考える時間を割く値さえないと思うからだ。

おとつい借りてきたのはこういうものだった。
 

スティーヴン・セガール 沈黙の追撃 [DVD]

スティーヴン・セガール 沈黙の追撃 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 沈黙シリーズ8作目とのこと。本作のモチーフはマインドコントロールとかサブリミナルとかいうことらしいが持ち出す主題なんか実はどうでもいいのは沈黙シリーズのお約束だから掘り下げ方が足りないとかいう生真面目な立場からの批判は無意味である。

 徹頭徹尾荒唐無稽で陳腐なストーリー運びと時たま飛び出す生硬な実験的映像(ここでは悪役がマインドコントロールを発動したときに現れる変ちくりんなフラッシュ映像)を指さして嗤い、嘘っぱちを絵に描いたような活劇シーンに失笑し、映画が終わってから自分は何とくだらない時間を過ごしていたのかと後悔し、しかし俺の人生くだらないことだらけだよな、と自嘲する。最後になぜならきっと自分の内実そのものがくだらないからだ、と自省するのがセガール様の映画と接するときの私の作法である。

 ネット上に散在する幾つかの映画レビューを見てみるとこの映画の評価は目も当てられないくらい酷いものだ。それら評価に私は180%位の共感を覚える。
 都市部での状況は分からないが、私の住む田舎町では最早、スティーブン・セガールの新作が劇場公開されることはない。ある時期からのおよそ作品とも言いたくないような作品群を見ているとそれは全く正しい扱われ方だとも思う。

 映画というと私は常に自分の父親のことを思い出す。映画の見方はこうだという接し方を私は父に刷り込まれた。それはまず第一に「鑑賞する」ことであり作品と対峙することだった。彼は私に娯楽としての映画を伝えてくれなかった。勿論暇つぶしとしての映画もだ。
 そういう成り行きを経てきた者としては、暇つぶしよりも更に下向きのベクトルを持つ接し方があるのだということをスティーブン・セガール殿の主演作を見るたびに感じる。それは低劣さとかアホ臭さを共有することで人生時間の無駄を実感する、余暇の時間を浪費することは人生の贅沢であることを実感することでもある。言い換えれば余暇とは浪費できる時間のことだと悟る。これは思考を最大限に巡らせて「2001年宇宙の旅」を鑑賞していたのでは得られない収穫でもあるのだ。と、こんなテキストも野暮ですね。

 全然生産的でも前向きでもないくだらない時間を過ごすことが私は結構好きなのです。だからおよそアクターとしての向上心が鼻くそほどにも感じられないセガール様が濫造する凡作の山もまた私にとっての必要悪であってなかなか止められそうにない。


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欲望という名の電車 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回、原作について舌足らずなテキストを書いてしまったが、懲りずに今度は映画について続けたい。

欲望という名の電車

欲望という名の電車

  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • 発売日: 2006/12/14
  • メディア: DVD

 こういう作品がたったの500円で買えるようになったのだから時代も変われば代わるものだとつくづく思う。総体の感想としては見るのに少々勇気が必要かもしれない。正直なところ、演技のテンションが余りにも高くて見続けることに物凄い緊張感を強いられる類の映画なので繰り返してみる気にはなれないが一生のうち一度は見ておいて損はないと思う。

 映画化されるまでに舞台劇として繰り返し上演されており、主要な登場人物4人(スタンレー、ステラ、ブランチ、ミッチ)のうちブランチ役のヴィヴィアン・リー以外の3人は本作の監督だったエリア・カザンが舞台監督をもつとめた劇からそのままスライドしたキャスティングされている。一方、ヴィヴィアン・リーはイギリスに於いて夫君であるローレンス・オリビエの演出によりこれまた本作の舞台上演を経験済みだ。

 かたやアクターズ・スタジオ出身、もう一方は王立演劇芸術アカデミー出身のどちらも舞台劇を出自とする気鋭のアクターが文字通り火花を散らすような切り結びを見せる。観ていて鳥肌が立つくらい緊迫した。

 私は単に映画を観るのが好きだというだけの素人であって演技論など語れた柄ではないのだが、それでもこの映画を観ると素人ながらも「演技とは何か」と考え込んでしまう。
 アクターズ・スタジオが提唱するところの「メソッド」なる概念がどういうものなのかを私は理解できていないが、輩出されたアクター達の演技を観ていると、それは個人の内面とか個性とかを最大限に増幅させた上で役柄を内部に取り込むというもののように思えている。
 一方でシェイクスピアのような古典演劇(シェイクスピアを古典劇と言っていいのかどうか私は全く分かっていないのですが)は高度に様式化されており、アクターの個性以前に台本に書かれた役柄に「なりきる」ことが第一義的な評価基準なのではないかと手前勝手に思いこんでいたりする。

 スタンレーを演じるマーロン・ブランドを観ていると、何か実生活に於いてもこんな風につっけんどんで激情的な、まるで野獣のような人格の持ち主なのではないかとついつい想像してしまう一方で、ブランチを演じるヴィヴィアン・リーの実生活に於ける振る舞いはかけらほども想像がつかない。
 しかしどちらも演技としては瞠目すべき成果を達成しているのであって、それらに優劣を付けるべきではないのだろう。
 内面の表出を徹底することと自分ではない誰かになりきることという相反したスタンスの振幅が「演技」という行為にはありそうに見えている。その折衷、その相克が世の中全てのアクターにとってはきっと大変大きく重い課題なのだろうなあと私は素人なりに考えている。

 実年齢としていささかトウが立ったからとは言え、かつてスカーレット・オハラを演じた一方でこういった汚れ役とかどこまで堕ちていっても華美なものや優雅なものにすがりつき、執着する女の魔性みたいなものを演じきるヴィヴィアン・リーはやはり筋金入りのアクトレスであって、この映画出演によって芸域の深さや奥行きを後世に示せたことは本作の特筆すべき成果ではなかろうか。

 一方でここでのマーロン・ブランドは何とも腹が立つほど格好いい。演技そのものもさることながらその立ち姿、その挙動が見事にスクリーン映えする。上半身Tシャツ一枚になった姿などはこれぞ男風貌といった感じで観ていて惚れ惚れするほどだ。(念のため私にはそっち方面の趣味はないが)

 日本に於ける石原裕次郎はその芸歴の初期に於いてきっとこういう感じを出したかったのではないかと私は勝手に空想している。

 
(追記)その後、テレビ放映されたときにはジェシカ・ラングがブランチを演じ、これまたかなりの好演だったと何かで読んだ。一度舞台劇をじっくり見てみたい。


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サンダ対ガイラ [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回、「フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン」のことを書いて
http://blog.so-net.ne.jp/r-shim47/2007-01-07
本作はその続編というか後日談みたいな関連作品である。 

フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2007/01/26
  • メディア: DVD

 繰り返しになるが、保育所に通っていた頃の私はバラゴンの人形に俄然入れ上げていた。そもそもどうして私がそのソフビ人形を手に入れたかというと、バラゴンがやたらと格好いいことを兄に吹き込まれたからだった。私の兄は年の離れたいとこに連れられてその映画を見たが私は連れて行って貰えなかったのでやたらと駄々をこねまくり、後日、ご機嫌取りにソフビ人形を買って貰ったという経緯がある。

 私は兄にしつこく何度も結末を尋ねたが、バラゴンがやっつけられてしまうというのが納得できず、何とも悔しくて悔しくて仕方がなかった。そこへどうも、続編らしい映画が公開されるというニュースが入ってきた。洟垂れ小僧の私はフランケンシュタインの生まれ変わりであるサンダとガイラが二匹いっぺんにバラゴンの敵討ちに逢う妄想を勝手にこねくり回して色めき立った。今にして思えばいくら洟垂れ小僧とはいえ正真正銘の阿呆みたいで、こうして書いていても気恥ずかしくなる。

 兄の情報によれば、今度の映画ではメーサー砲という極めつけの新兵器のお披露目もなされるらしかったので、私の期待感はヒートアップした。私はせがみにせがみまくって映画館に連れて行って貰う確約を取り付けた。当日誰に連れられていったのかはもうさっぱり思い出せない。
 当日、映画館のポスターを見た私は、兄弟怪獣のグロい容姿に結構怯み、そこにバラゴンの姿がないことに一抹の不安を覚えたが、必ずや映画のどこかでフランケンシュタインの怪物二匹を叩きのめしてくれることに希望をつないだ。
  

 プログラムは二本立てで、最初は「ジャングル大帝」だったが筋書き等々はさっぱり覚えていない。元々出来の悪い頭である上に本編への期待ばっかりが先走っていたのだから仕方がない。
 そして本編だ。いきなりガイラが登場して船を襲い人間を食らう。意外にも、怪獣が人間を食べるという場面はこの時まで見たことがなかったように思う。加えてガイラの身のこなしはそれまで見たどの怪獣よりも憎々しいくらい俊敏だった上にこの陰惨な風貌だ。
  
 今でこそ、東宝特撮怪獣映画の中では屈指の出来だなどといっぱしの批評家気取りでこんな駄文も書いていられるが、当時6歳の坊主には余りにもマイナスの刺激が強すぎた。おまけに私が勝手に期待していたバラゴンの登場は最後までなし(当たり前だ)。冗談抜きに幼少期の私は多大なトラウマを負い、後年、これら東宝特撮映画がシリーズ的に続けてテレビで再放送されたときにもこの映画だけはパスしたのだった。酒癖の悪い、酒乱癖のある奴を見るとガイラを連想するようにもなった。多分こういう見え方は一生直らないと思う。
 今回、こうしてエントリーを立ち上げるに当たって、あちこちホームページを見ていたらこういうところに行き当たった。
http://homepage.mac.com/ubik_factory/cinema/cinema356.html
私があれこれ書くよりも遙かに的確な解説なのでご参照願いたい。

 ロクデナシではた迷惑な弟(ガイラ)と出来の良い兄(サンダ)という構図は現実の私と兄の関係そのままであることに今回気づいて悄然とした。もう40年近くも前のことになってしまったが、映画館で初めてガイラを見たときの生理的な嫌悪感、あれは実は後々自己嫌悪に繋がっていたわけですな。

(付記1)準主役でキャスティングされているラス・タンブリンが実は「ウェスト・サイド物語」にも出演していることを後年知った。更にその後テレビシリーズの「ツイン・ピークス」にも出演していたそうだが私は見ていない。
(付記2)前作もそうだがこれら特撮怪獣映画のLDはどれもバカ高い値段が最後まで崩れなかった。大体どれも9800円だったのだ。今にして思えば東宝もボロ儲けだったんじゃないだろうか。
(付記3)ここでやっと解説めいたことを書く。CGが跋扈する以前の特撮技法としては屈指の優秀作だと思う。私にとっては忌むべき作品だが十分大人の鑑賞に堪えます。


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フランケンシュタイン対地底怪獣 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 リアルタイムで見ることはできなかったが、子供の頃、バラゴンのソフビは私のお宝だった。
   
 ゴジラの造形が王道であることをふまえつつ、こういうヤクモノ満載な容姿も捨てがたい。今見ても結構格好いいと思う。

 当時の公開ポスター。枝葉末節だが、「地底怪獣」にふりがなのようにしてバラゴンと書かれているのでタイトルがややこしい。

フランケンシュタイン(と劇中では呼ばれる)の顔つきは後年の私にはなんとなく火野正平チックに見えなくもなかったが、現在改めて見直してみると何とも言えない。

 若かりし頃の高島忠夫が準主役的キャスティングで大熱演する。特撮怪獣ものでは私にとってのお約束である佐原健二は出番が少ないものの存在感たっぷり。もう一人のお約束である平田明彦は残念ながらキャスティングされていない。 

フランケンシュタイン 対 地底怪獣

フランケンシュタイン 対 地底怪獣

  • 出版社/メーカー: 東宝
  • 発売日: 2007/01/26
  • メディア: DVD


 フランケンシュタインは、ハマープロ以来のお約束で一言も言葉を発しないでただ薄気味の悪い唸り声を上げるだけで何ら悪行をはたらくわけではなく、それどころか怪獣バラゴンを退治するヒーローであるはずなのに、徹頭徹尾クリーチャー扱いで世論はとっとと殺せの大合唱。ラストでは勝ち名乗りを上げて得意満面のところをいきなり地中から現れたタコに襲われて水中に没し、あえない最後で何とも気の毒な存在だ。

 コミュニケートの手段を持てない異形の報われない生、というのが全編を貫く主題と見た。ある意味、キングコングの日本版というべきか。

 私が所持しているのはだいぶ以前に買ったLDで、米国公開版が収録されている。国内公開版では異なる展開となり、タコは登場しないのだが私は見ていないので分からないがしかし、タコのシーンはいかにも取って付けたように唐突な印象を与える。それに幾ら何でも地面の底からタコが湧いて出てくるなんていう展開は無茶苦茶ではないかとも思うのだが。
 
 劇中、可笑しく思えるのはエレキバンドの演奏をバックに嬉々としてゴーゴー(!!)を踊りまくる若い衆の扱われ方だ。
(1)テレビでその様子を放送されているところを見たフランケンシュタインが突然怒り始めてテレビを担ぎ上げ、病院の窓越しにテレビを放り投げてぶっ壊す。これは劇中、彼が悪意を持って行う唯一の破壊行為である。
(2)船上パーティーでまたしてもゴーゴー大会の真っ最中、水中に隠れていたフランケンシュタインが騒がしさに気づいて船に近寄り、船中を覗き込んだので船内にパニックが起きる。
(3)どっかの山中にあるリゾートホテルっぽい建物のボールルームとおぼしき場所でこれまたゴーゴーパーティー真っ最中のところを地底怪獣バラゴンが急襲。無惨なことに全員バラゴンの餌となる。

 ゴーゴーが余程気に食わなかったのだろうかと思うくらい、若い衆の受難が続く。
もっとも、今の私もそういうオヤジになりつつあるので若い衆のこういう描かれ方は分からないでもないんですが。


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Ryan's Daughter/(ライアンの娘:監督 デビッド・リーン) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 もう何度目かの繰り返しになるが、何故か周期的に観たくなる映画である。
デビッド・リーンは問答無用の巨匠であって、「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」といい本作といい、何度見てもその都度発見がある。
 更にこれら諸作は極めつけの映像美が堪能できる。殊に自然風景の鮮烈さはまさに一幅の絵画にも匹敵し、思わず息を呑むこと請け合いだ。こういう映画を見てしまうと昨今大流行のCGなど所詮小手先、ガキの遊びにしか思えない。
 砂漠、雪原、そして本作では海だ。海と言っても南洋の極彩色で開放的な海ではなく、陰鬱な曇天の下で凶暴にのたうつ峻厳で荒々しい北の海である。
 時代と場所は第一次大戦前後、独立闘争真っ盛りのアイルランド、武装蜂起が迫る中での教師の妻と駐留英軍将校との不倫という重層的ストーリーで、異国人同士の憎悪、寂れた漁村民のささくれだった群集心理、奔放にして秘密めいた不倫の高揚感など、登場人物の様々な情念が絡まり合いながら、まるで劇中の激しく押し寄せる波のように観客に迫ってくる。

ライアンの娘 特別版

ライアンの娘 特別版

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2006/05/12
  • メディア: DVD


 私個人の意見としては、この映画は是非、女性に観て頂きたい。多面性を持った作品ではあるけれど、最高級のメロドラマたり得ている。ヒロインは勿論だが、彼女を取り巻く男性達にこそ注目して頂きたいのだ。夫、不倫相手、牧師、父などに良くも悪くも男性の男性なるが故の属性が如実に活写されていることに気づくはずだ。
 まあ、重厚長大作品の嚆矢とも言えるだけに私の拙い文章でああだこうだ書くよりもまずは観て頂きたい。3時間を超える大作だが購った時間以上の内容は間違いなく保証できる。
 話が戻ってしまうが、本作はなるべく、大きな画面で見て頂きたい。自然風景描写の雄大さは30インチかそこらの画面では到底その有難味を享受できまい。拙宅は120インチのロールスクリーンで観ているがそれでもまだ足りない。理想を言えばリバイバル上映される映画館のスクリーンで観てこそ真価を発揮する映像世界であって、見所はそれこそ枚挙にいとまがないほどだ。

(付記1)デビッド・リーンはしばしば政治的、歴史的な題材を背景としてドラマ作りを行ったが、それら作中では母国である英国を決して肯定的には描かない。であるにも拘わらず、彼にサーの称号を与えた英国という国の見識に私は一定の敬意を持っている。何でもかんでも批判的でありさえすればいいとは思わないが、民族意識を高揚させる効果と作品としての偉大さは切り分けて評価すべきだろう。

(付記2)作中、ぐさりと来るような名セリフがあったので書き留めておきたい。
ヒロインの不倫を察した牧師が発する警告である。
「夢を見るのはいい、しかし育てるな。夢の中で育つ男は酔っぱらいよりも始末が悪い。いずれおまえを滅ぼすぞ」


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