Stride Right/Johnny Hodges and Earl HInes(ストライド・ライト/ジョニー・ホッジス、アール・ハインズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
ベニー・グッドマンに遅れること5年の1943年、黒人ミュージシャンとして初めてカーネギー・ホールのステージに立ったデューク・エリントンは定番ナンバーDaydream を演奏する前にこういう前口上でバンドの至宝を聴衆に紹介した。
All american No.1 saxophonist,Johnny Hodges!!
ひいき目を抜きにしても実にシビレるMCだ。
- アーティスト: ジョニー・ホッジス&アール・ハインズ,ケニー・バレル,リチャード・デイヴィス,エディ・マーシャル
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2004/11/03
- メディア: CD
ザ・ピーナッツの唄うEpitaph [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
人生のある局面を決定づけるような音楽というのはそんなに多くはないと思うが、私にとっては数少ないうちの一つにキング・クリムゾンがあった。小遣いを溜めてデビュー盤を買ってきたのがもう三十数年前の事、1973年、当時中学生だった私の精神生活は、今となっては一笑に付するしかないようなこのベストセラー本と
ノストラダムスの大予言―迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日 (ノン・ブック 55)
- 作者: 五島 勉
- 出版社/メーカー: 祥伝社
- 発売日: 1984/01
- メディア: 新書
ここに収録されているEpitaphという曲は、少年当時の私をそれはそれは空恐ろしい程の力で呪縛したのだった。LPレコードは現在のように雑誌のような感覚で買ってきては聴き飛ばせるようなものではなかったので、当時私が所有していた5枚か6枚くらいのレコードのうちの一枚がこれであり、他に何かを聞きたくてもすぐにネタ切れになるような環境だったせいもあって無闇矢鱈と聴きまくった。
ところで作品論めいた事を書くのはここでの趣旨ではない。恐らく多くの方々がこの、epitaphという曲からは何とも湿度の高い情緒性と物悲しい終末感を植え付けられた事と思う。それこそ冒頭挙げた「大予言」に出てくる恐怖の大王がどうとか言う文言にひっかけて、いつの日か訪れる壮烈な破滅のとき、その瞬間という妄想に駆られた御仁は決して私一人ではないと常々考えている。
しかし今になってみてあらためて思うが、時の終わりはそのようにドラマチックにしてダイナミックなものでは全然ない。 長い時間をかけてズルズルダラダラと停滞の度合いが増していって定常的な混沌がいつ終わるともなく連続するような情景の方に今はよりリアリティを感じている。そういう意味では私はこの曲で描かれているような世界観に大きく騙され続けていた事になる。
以前、それはもう30年近くも前になるが、渋谷陽一という雑誌編集者がキング・クリムゾンのデビュー盤についてその功績というのはConfusion will be my epitaph(『混乱』が私の墓碑銘となるだろう、と訳してよろしいか?)と唄ったこと以上に、そのようなメッセイージを織り込んだレコードをビートルズと競り合う程のヒット作とした事だ、と看破した。少年当時の私はそのテキストを素直に受け入れる事が出来ず、それは余りにも商業主義に重点を置き過ぎた物言いではないのかと懐疑的な立場だったが今は渋谷氏は慧眼の持ち主だったのだと見直すようになった。
クリムゾンは、その後段々情緒的なものや情動的なものを希薄化させて私を含めて信者めいたリスナーを規律や論理が幅を利かすような音楽世界へと誘導していったように感じている。直近にリリースされた諸作とこのデビュー盤とを聴き比べてみると、少なくとも表面的な共通性などあまりないのではないかと多くの方が感じられるのではなかろうか。それどころかデビュー盤にて唄われたConfusion will be my epitaphという一節は特段表現者からリスナーに向けて送られた深刻なメッセージだったわけはなくただ単に、当時座付き作詞家だったピート・シンフィールドの文学的修辞に過ぎなかったのではないかなどとまで今の私は考えている。
そうしてみると少年期のある時期、私が訳のわからん終末感に呪縛されていたあの時期は一体なんだったのかと一種あほらしい気分になったりもする。更に昨今、ネット上で動画をあれこれ眺めているうちにこの、情緒連綿たる終末感の曲が極東の島国においてカバーされていた事を知った。キング・クリムゾンがロックバンドとしての評価を確立してから物好きなアングラバンドがカバーしたものではない。彼らがまだ知る人ぞ知る存在だった頃、『シャボン玉ホリデー』のホステスを務めていたザ・ピーナッツがエピタフをカバーしていたというのは私が初めてこの曲を聴いたときと同じくらい衝撃的だった事を冗談抜きに白状しておきたい。
クリムゾン・キングの宮殿 デビュー40周年記念エディション完全限定盤 ボックス・セット
- アーティスト: キング・クリムゾン
- 出版社/メーカー: WHDエンタテインメント
- 発売日: 2009/12/30
- メディア: CD
セシル・テイラーの動画 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
これまで長い事、音楽はもっぱらLPやCDなど、音だけを通じて接してきたわけだがこうしてパソコンを手に入れてネット上の動画をあれこれ眺める事が出来るようになるとそれまで曖昧にしか規定出来なかったものの姿がもっとはっきり見えてくるようになってきた。
セシル・テイラーのピアノは以前から大好きでレコードも結構聴いたが、リラクゼーションを求めてのことではなかった。むしろその反対で、例えてみると果たし合いの現場に居合わせて成り行きを固唾を飲んで見守る風の時間が多かったように覚えている。
ある時、セシル・テイラーはクラシックバレエに造詣が深く、自らも少々嗜むらしいと何かで読んでから少し見方が変わった。
動画を見ていると尚更そう思うのだが、この人の演奏は何か、舞踏を音に翻訳していると捉えるのが一つ、接し方の作法のような気がしている。
考えてみるとあまたのジャズ・ピアニストのうちこの人くらい多彩なキータッチを使い分けるプレイヤーは他にいないように思えている。漂うような軽さからキーを叩き抜く程の激しさまでを十全に捉えきった録音は全くと言っていい程ない。
オーディオ評論家菅野沖彦が現役のレコーディングエンジニアだった頃のアナログ録音で私の愛聴盤。演奏家と録音技師のデスマッチみたいな音楽である。勿論、音楽そのものも実に毅然としてカッコいい。
Suger/Stanley Turrentine(動画貼付け) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
以前、スタンリー・タレンタインのことを書いてみてから取り上げたレコードを聴く頻度が少々上がった。
- アーティスト: スタンリー・タレンタイン,フレディ・ハバード,ジョージ・ベンソン,ロニー・リストン・スミス,ブッチ・コーネル,ロン・カーター,ビリー・ケイ,リチャード・パブロ・ランドラム
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2006/11/08
- メディア: CD
取るにたらない内容ではあるけれど以前のテキスト http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-11-18
アップ後、本作を聞く機会が少々上がってきたので、You Tubeあたりに動画はないものかと探してみると意外と簡単に見つかった。当人にとってはあたり曲だったらしく、テレビ出演の際にも取り上げているらしい。
Loving you/MInnie Riperton [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
あまたあるポップチューンのエバーグリーンの一つにこの曲は当然入っているものと私は決めつけている。 聞いていて少々こそばゆいような気分を喚起させられるがそれは親父の照れというものだ。歌詞の内容を私は未だに知らないがそれが恋愛にまつわるある場面や気分の事だというあたりまでは察しがつく。だからそのこそばゆい気分は何か恋愛感情に裏打ちされた記憶や想像に根ざしてもいるわけだ、やもめ暮らしの私ではあるがそんな経験がなかったわけでもない。 ともあれ名曲であり、名唱だ。言葉の壁を越え、理屈抜きでいつの時代にあってもビューティフルな音楽がここにも一つある。
確かミニー・リパートンはソロシンガーとして独立する以前にはスティーヴィー・ワンダーのバックコーラスを務めていたと何かで読んだ記憶があって、かの国の音楽シーンがいかに分厚い層を成しているかがよくわかる。
デビュー曲からしてこの出来である上にその後彼女は将来を大いに期待されながら夭折してしまった。実働2年か3年の短い栄光である。だから実質、この一曲だけでミニー・リパートンは多くのリスナーの記憶にとどまり続けていて未だにその無垢な輝きはいっこうに減じられる気配がない。事実は小説よりも奇なり、という事か。音楽の背景めいた話題は別にしても、これを聴いて何も感じないような輩はもう、音楽になど一生縁を持つ必要はない。
音楽そのものの色合いや歌世界の完成度に加えて悲劇のヒロインとしての神話性までがついて回るのだからこういう曲をカバーするのはなかなか勇気のいる事ではなかろうかとここでまた私は余計な勘ぐりを入れたくなるが少々調べてみるとさすがに名曲だけあって随分色々なシンガーによってカバーされているようだ。但し幾つか聞いてみた限りでは大体誰もがいかに忠実な物真似を演じるかというアプローチのようで神話性とはそういう事なのだ、というのは確かに一つの落としどころたり得る。
しかし私はここで、先日持ち出した本作の事を書いておきたい。
The Return of the 5000 Lb. Man
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Collectables
- 発売日: 2005/06/28
- メディア: CD
残念ながら私は動画を見つけられないが(あったとしての話だが)、本作中でLoving Youはカバーされている。勿論それはオリジンで聴かれるように可憐な風情をたたえた情緒連綿たる歌唱では全然ない。ノーズフルートとだみ声で途切れ途切れに奏でられるどす黒く、ひずんだ世界は本家本元とは全く裏返しに位置するといっても良い程にかけ離れた演じられ方ではある。しかし何故かここでのこのカバーは、どんなに忠実度の高い物真似カバーをも飛び越えて強烈にリスナーを捉えるだろう事を私は確信する。自分が自分である事の徹底的な立ち位置から発せられた、本歌とは似ても似つかないこのカバーにこそ本歌と比肩出来そうなくらい魂の根っこから湧き出してくるような何かが確かにある。
本歌とは異なる色合い、というのはつまり異形の者に注がれる無遠慮な視線を弾き返して屹立する精神の強靭さであるように私は捉えている。誰でも内奥には何かしらハートフルな世界をとどめている。 リスナーをしてそう思いたくさせずにはおかない何か強烈な訴求がここには確かにあるのではないか。
The Return of the 5000lb Man/Lasaan Roland Kirk(邦題:天才 ローランド・カークの復活) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
私の身辺には病に倒れる同級生がぼつぼつ現れ始めてきている事はこれまで何度か書いた。 昨年だけでも脳関係で二人いた。一人は脳梗塞で幸い目立った障害は残らずに日常生活を送っているがもう一人は脳出血で現在リハビリ中だ。こちらも入院当初から見ると随分身体機能は回復してきたがまだまだ復旧途上の感がある。
脳障害から奇跡の復帰を果たしたミュージシャンだからというわけではないが、不意にローランド・カークが聞きたくなった。
The Return of the 5000 Lb. Man
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Collectables
- 発売日: 2005/06/28
- メディア: CD
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Domino Records UK
- 発売日: 2008/10/28
- メディア: CD
Go/Paul Chambers(ゴー/ポール・チェンバース)その2 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前回の続きです。http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30
思いついた事を全部書こうとすると長くなりすぎる嫌いがあるので分けてみた次第です。
- アーティスト: ポール・チェンバース,キャノンボール・アダレイ,フレディ・ハバード,ウイントン・ケリー,ジミー・コブ,フィーリー・ジョー・ジョーンズ
- 出版社/メーカー: サブスタンス
- 発売日: 2002/07/24
- メディア: CD
Go/Paul Chambers (ゴー/ポール・チェンバース) その1 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
格段テーマを決めて色々掘り下げて聴く、という事をせずに何となく思いついたものをあれこれ引っぱり出しているうちにある時気づいたのだが、ウィントン・ケリーのピアノには何だか生理的な好ましさを感じる。
ウィントン・ケリーといえばそのキャリアを通じてドラムにジミー・コブ、ベースにポール・チェンバースで構成されるリズムセクションがお約束のようなもので、実際このメンツをバックしにしたプレイヤーのレコーディングは随分多い。
更に言えばこの3人のうち、ポール・チェンバースの録音歴となると全くもって膨大で、私はまだこの人の詳細なディスコグラフィーというものを見た事はない。1950年代中期から60年代半ばまでの、実質10年そこそこの演奏歴だが殆ど便利屋よろしく呆れるほど色んなセッションにつきあっている。 ある時、田野城寿男さんのアフター・アワーズでちらっと聞いたのだがベースというのはなかなか含蓄深い楽器で、聴衆から見ると裏方そのものでありながら実際に共演しているプレイヤーは全員その挙動を伺いながら次に自分が何をするのかを決めるくらいの存在なのだそうだ。
ベースマンの系譜にあってポール・チェンバースはスーパーBクラスみたいな位置づけで、バンド全体を自分のカラーに染め上げるように強固な大枠の楽想を持つミュージシャンではないが、所謂ハード・バッパーとしてどんな編成にあっても収まりの良い、円満なプレイヤーだった。
きっとこういう資質が共演者として好ましかったのだろうな、と思わせるのはバッキングでもソロでも見せ場を作りながらも必要以上に強烈な自己主張はしないそのバランス感覚だ。だからなのだろうが同世代のベースマンの中では比較的リーダー作は多い方だと思う。
プレイヤーとしての側面を思い切りクローズアップした企画ではないが肩の凝らないブロ−イング・セッションとして私が結構よく聴くのがVee Jayに吹き込んだ本作だ。
- アーティスト: ポール・チェンバース,ウィントン・ケリー,フレディ・ハバード,キャノンボール・アダレイ,ジミー・コブ,フィリー・ジョー・ジョーンズ
- 出版社/メーカー: BMGビクター
- 発売日: 1997/06/21
- メディア: CD
現在は廃盤のようでAmazon.comでは中古盤しか手に入らないようだ。Vee Jayというマイナーレーベルは例えばブルーノートやプレスティッジよりも更にマイナーなのでいつでも手に入るというものではないらしいのがちょっと残念。
ジャケットデザインはマイルスのWalkin'に似ている。
- アーティスト: マイルス・デイビス,J.J.ジョンソン,デイヴ・シルドクラウト,ラッキー・トンプソン,ホレス・シルヴァー,パーシー・ヒース,ケニー・クラーク
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2005/09/22
- メディア: CD
但しここでのベーシストはパーシー・ヒースだ。このあとレギュラーバンドを結成するにあたってポール・チェンバースに白羽の矢が立つ事、枯れのミュージシャンとしての最盛期がそのままマイルスのバンドでの在団期間だった事を思うと何かを連想させるジャケットデザインに思えるのは穿ち過ぎだろうか。
音楽そのものについては生きのいい若手が一丁上がり的に仕上げたブロ−イングセッションで、あれこれ理屈をこねる類いの音楽ではない(こねたいけど)。録音は1959年の2月2、3日の二日間に分かれている。ドラマーは二日のセッションがフィリー・ジョー・ジョーンズ、三日のセッションはジミー・コブでマイルス繋がり。所謂ボス抜きセッションだが和気藹々という感じだ。 二日のセッションはスタジオライブのようでソロの合間に拍手が入るが気のせいか私にはこれがオーバーダブさせたもののように聴こえる。
ポール・チェンバースのプレイはオフマイク気味に録音されているせいか本作は尚更リーダー作としての印象は薄いが替わりにと言っても何だが全編ウィントン・ケリーの全キャリア中でも最上級と思えるくらい張り切ったプレイが聴ける。私がとりわけ気に入っているのは三曲目Julie Annのイントロで、この日のウィントン・ケリーには何かよっぽど嬉しい事があったのではないかとさえ思えるくらいだ。正直なところ、この出だしを聴きたくて私は本作をしょっちゅう棚から引っぱり出している。
ドラマー二人を聴き比べるのは本作の楽しみ方の一側面だが意外にもここではジミー・コブのプレイの方に活気を感じる。一曲目のリムショットなどは本来だったらフィリーの見せ場となるプレイのはずで、もしも予備知識なしにブラインドでドラマーの当てっこをしたらあべこべになりそうなくらいだ。
当然ながらくどくど書いても文字は所詮文字であって音楽そのものではない。 何せ、楽しいセッションである。(続く)
Spiritual Unity/Albert Ayler(スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー)その3 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前回の続きです。http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-03
再発によって曲目が変わる事を前回書きかけたのだがあらためて私が知っている範囲で整理しておきたくなった。
私の手元にあるCDはヴィーナス・レコードからの再発盤でこれには5曲収録されていて順番は以下の通り。
(1)Ghosts First Variation, (2)The Wizard, (3) Spirits, (4)Ghosts Second Variation, (5) Spirits II
LPレコードでの最初のリリースは赤紫色のジャケットだったのだそうだ。私は現物を見た事はないがかなり希少なものだと聞いた。
CDに付属されているライナーによれば、ここでの収録曲は上記の(1),(2),(5),(4)の順だそうだ。
セカンドプレス以降はジャケットの色がお馴染みの黒に変わり、曲順は(1),(2),(3),(4)となる。現在CDとしてリリースされているのもこれに則っている。私が学生の頃購入したのはこのバージョンで国内再発盤だった。
随分聴いたあとにもう一枚再発盤を手に入れる事にしたので、最初に買った盤は兄に譲る事にしたが、全くと言っていいほど関心が向く事はない類いの音楽らしい。大変残念。
それで私が二枚目として手に入れたのはイタリアのBASE Recordというマイナーレーベルによるプレスなわけだが針を降ろしてみて驚いた。曲順が(3),(4),(1),(2)となっているのだ。慌ててジャケット裏の曲順表記を確認してみたが入れ替えた様子はなく、セカンドプレスと同じである。という事はセンターレーベルをA面、B面逆に貼ってあるという事になる。 この記事を書くために間違いがなかったかとさっきあらためて聴き直したがやはりレーベルが逆に貼ってある事が確認できた。ロットのうちの一枚だけをたまたま間違えたのか、1ロットまるまる貼り間違えているのかは不明だがいずれにせよ珍品というべきではなかろうか。
ヴィーナス・レコードからの再発CD についてはCDPのプログラム機能を利用してファースト・プレスとセカンド・プレスの両方をプレイバック出来るというお遊びが可能だ。 (3)と(5)は同じ曲名だが内容は全く別だ。これは別テイクの内容がマスターとかけ離れているという事ではなく、テーマからして全く違う曲である。どうもアルバート・アイラーは曲にタイトルをつける事には無頓着な傾向があったのではないか、と、CDのライナーには書かれている。
コレクターまがいの独りよがりな整理はさておくとして、いずれのバージョンであったにしても自由である事の辛さ、厳しさ、そして喜びをこれほど切実に訴えかけてくる音楽はそう滅多にない。私にとってそれは毛ほどの疑いも差し挟む余地のない真実である事は間違いない。
Spritual Unity/Albert Ayler(スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー)その2 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
本作については2年ほど前に自意識の垂れ流しのような駄文を恥知らずにもアップした事がある。
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-11-06
全くもって我ながら、よくもまあこんな独りよがりな自己告白をぶちまけたものだとは思うが、それくらい骨の髄まで染み付いた音楽のうちの一つだという事は間違いない。「人生の節目にさしかかったところで意識の中に鳴り響く音楽」のうちの一つでもあるのも未だに変わらない事を正月休みのうちに聴き直してみて再確認出来た。
学理楽典の知識など全くない私だが、拙いながらも音楽そのものについては何か書き残しておきたいので再度取り上げたくなった。
これまであまり気にした事はなかったのだが、兵役中にはアーミーバンドでの演奏が役務だったアルバート・アイラーは決して何の音楽的背景もなしにいきなり現れた前衛坊やではない。そして1963年までの間はヨーロッパでの演奏活動ばかりなのだが記録されているブローイングはどれも既に先人の影響を断片的に垣間見せながらも所謂バップ調を飛び越えたものだ。 一体いつ、どのようにしてこういう演奏スタイルに関心を持ち、身につけたのだろうか。除隊した時期は1961年でありそれまで3年間の間、勤務地はパリだ。時系列で言えば、かのオーネット・コールマンの一党がNYに進出してセンセーションを巻き起こしていた頃とやや重複するのだがそれぞれ住んでいる土地は大西洋を挟んで遠く隔たっている。アイラー本人は生前、こういった事に関して全くコメントを残していないらしく、今となってはどうにも確認のしようがない。
冷静になって聴いてみるとGhostなどでは特に顕著だが、テーマは4/4で演じられているし、リズムセクションの挙動はビートの山を微妙にずらしてメロディーラインを紡ぎ出していくアクセントのつけ方に対して終止正確にカウンターを返していく補完機能を果たしている。シンバルのレガートが人的な挙動としては殆ど限界近くにまで細分化されているのでちょっと聴きにはフリーリズムであるかのようだが案外そうでもない。
最終曲であるGhost (Second Variation)にはソロの最中に2曲目The Wizradのテーマ部分が織り込まれる。もう一つ、初回リリースされたプレスに収録されているSpiritsの別バージョン(演奏内容は全く別の同名異曲)にはソロの最中に今度はGhostのテーマが聴き取れる。だから収録されている各曲には何かしら他の曲を暗示させる断片が埋め込まれており、それぞれに関連性がある。つまり本作は2テイクのGhostにサンドイッチされた関連する他の二曲からなる合計4パートでひとつながりといった風に全体の枠組みが予めかなりみっちりと構成されており、決してその場の思いつきで垂れ流された音楽を並べただけのものではない。
これまで何度も何度も針を降ろし(CDでも買い直した)て、その都度薄々気になっていたのだが、アルバート・アイラーの音楽はどこかでディキシーランド・ジャズに結びついている。ディキシーの楽器編成にサックスは殆ど見られないがむしろ例えばバンク・ジョンソンのようなトランぺッターと共通するバイブレーションに聴こえるのは私だけだろうか。スイングもバップも素通りしてディキシーが別の方向で変化していった場合がアルバート・アイラーなのではないかと聴き返す度に思う。
生かじりの理屈のような話はボロが出ないうちに切り上げるとして(汗)、本作のジャケットデザインを私は大変気に入っている。ESPレーベルでリリースされたもののうち殆ど唯一、アートとしての価値がありそうな装丁だと私は素人ながら大真面目に捉えている。悲しいくらいに無防備で生々しい感情が波打つこの音楽を絵として表せばこうなる意外にはなかったとさえ思える。
余談のような事を書き連ねていくときりがないのだが、アルバート・アイラーの命日である1970年11月25日はあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げたその日でもある。それぞれには勿論何の関連性もないのだが私としては何か、意識の中で暗く符合するものがある。何かしら私の人生そのものに根深いところで絡み付いている音楽なのでいずれまた何か書き足したくなるかもしれません。
Louis Armstrong plays W.C.Handy(ルイ・アームストロング・プレイズ・W.C・ハンディ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
年明けの最初にはこういう音楽を聴くということを格別決めているわけではないが、自分に気合いを入れてみたくなったので引っぱり出してきた。
サッチモが真の意味で偉大なプレイヤーだったのが大体この辺りまでではないかと思っている。一曲目の「セントルイス・ブルース」だけで腹一杯になってしまうくらいのハイテンションだ。生涯何度かこの曲をレコーディングしているが、1925年の演奏と双璧だろう。しかも録音は1954年で9分にわたる長尺演奏に加えてハイ・ファイ・レコーディングなのでトランペットが張り裂けそうなビッグトーンはげっぷが出るほど堪能出来る。
こうして全曲ブルースナンバーという企画盤を通して聴いてみると、ジャズヴォーカル(この呼び名が私はどうも気に入らないが)というカテゴリーは多くの部分をブルース・シンギングに負っているのだとあらためて気づかされる。 歌の部分だけを切り取ってみればここでのサッチモは正真正銘のブルースシンガーと言って良いほどだ。その唄いっぷりは時に荒々しく豪快、時に哀愁を覗かせると言った具合でやけに印象深い。
私は普段、所謂ジャズヴォーカルというものをあまり熱心に聴かない。というか、そういうカテゴリーをどこかで認めていない。そもそもディキシーの時代にまで遡ればジャズにはヴォーカルナンバーなどなかったのだ、と、決めつけていて未だにその考えが変わらない。 だからフランク・シナトラだったりある時期以降のナット・キング・コールだったりは私にとって『ある種のポピュラー・ミュージック』ではあるがジャズではない。ジャズであろうがなかろうがいい音楽でさえあればそれで良い。ただ、例外のような存在としてサッチモとビリー・ホリデイの歌には何かしら特別なものを感じる。どう違うのかは未だに頭の中で整理出来ていないのだが。
本作は全員、何かが取り憑いたようなハイテンションで中にはオーバードライブがかかっていて演奏が破綻気味な御仁もいる。具体的にはトラミー・ヤングがその人で、そのブローイングは豪放さと単調さがないまぜであり、時にコーラス割りを間違えるミスもここでは記録されている。 しかしこういう暴走気味の吹奏をさえサッチモはねじ伏せるようにしてそれぞれの曲をまとめあげていく様子が大変頼もしい。
繰り返しになるがここでのサッチモのブローは全く持って圧倒的の一語に尽きる。囁きかけるようなオブリガードから分厚い壁をぶち抜くようなフルトーンまで硬軟自在、トランペットという楽器はこうやって演奏するものなんだよ、というショウケースみたいな吹奏が全編これでもかと言わんばかりに押し出さされてくる。ホーンセクションのうちでは御大の豪速球と対比をなすかのように軽いフットワークで縦横無尽に細かいパッセージを繰り出すバーニー・ビガードが秀逸で最高の突っ込み役。エリントンのバンドにいた頃よりも更に鮮やかな印象を残すのは私にとってはまあなんというかちょっとばかり皮肉な気はする。
しみじみ歌い上げられるIt's a wonderful worldも良いが、老境期の枯れ具合だけで評価していただきたくはない、と常々私は考えている。出音一発の迫力でサッチモを超えるトランぺッターはその後一人も現れていないとさえ言い切っても良いのではないか、と、全部を聴き通してみてあらためて感じた。
(いずれ追記を書きます)
青いくれよん/菊池弘子 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
音楽の事を書きたいのか、それとも私自身の過去の事を書きたいのか頭の中で整理がつかないのだが、ネットというのは時に本人がとうの昔に忘れていた過去の記憶を生々しく喚起させてくれる事はひとまず書き残しておきたい。
今から30年以上も前、たまたまラジオの深夜放送で何度か聴いた事のある曲がずっと意識の奥底にこびりついていたのだった。曲名も唄っている人もわからないまま30年以上経っているという事は、実のところ私がその音楽にさほど大きな関心がなかったのかというとそうではないように思う。
その曲は何だかやけに私の琴線に触れるものがあった事は確かだ。同時に中学生だった頃の私からは大変遠いところにある音楽だった事もまた確かだ。 どういう連想が働いてそこに辿り着いたのか、私は昨日、偶然その歌の事を知った。
1970年代中期に陸続として現れては消えていったフォークシンガー達のうちの一人、 マイナーポエットだ。そしてまた、ベタな歌だ。聴いていて気恥ずかしくなるような歌だ。今でもそうだが私はどうも情感というやつをあからさまに言葉として投げかけられるのが苦手だ。大体世の中、ありとあらゆる出来事のうち言葉で表現しきれるものなど幾らもないのであってわけても人の心象風景はその最たるものだといつの頃からか思い込んでいる。
しかし、手っ取り早くがさつな「言葉」ではあるが、そのようにしてしか伝えようのない事や場面や人は確かにある。人の声で唄われて音楽となる事で何かしらある種の魔法が生まれる場合があるのも否定しない。 この曲は少年期の私が気恥ずかしくなるようなある種の気分を喚起させた。もしかしたら今に至るまで私自身が目を背けているある種の内面がここには現れているのかもしれない。
記録された音楽を購入して所有するのは現在ほどお手軽な時代ではなかったその頃、 ラジオというメディアは金欠少年にとって大変有り難いものだった。当時私はリアルタイムで聴くだけで、テープに録音するという手段がなかったなかったのでそれはある種、偶発性に頼らなければならない切なさを伴っていた。歌のモチーフは恋愛に関するある種の切なさだと思うので当時の私は二重に切なかった事になる。(こういう事を臆面もなく文字にするのが気恥ずかしいのですよ、私には)
この歌は当時、コッキーポップという番組で時たまオンエアーされていた。大石伍郎がDJを務める、ヤマハ(当時は日本楽器)がスポンサードする番組だった。私は中学生の頃から既に精神の屈折が顕在化していたのでこういう音楽にどこかで惹かれながらも自分には関係ない世界だと決めつけて目を背け続けていた事は既書いたが、それなりに生活時間を積み重ねてその頃よりは幾らか許容幅が上がってきた(と思いたい)現在になって素直に耳を傾けてみると、なんともキュートで切ない世界だ。(それを言葉として安易に書いてしまうのに抵抗があるのだが)菊池弘子嬢は結局、シンガーとして大成する事もなくフェードアウトしていった。細部を小姑のようにしてつぶさに聞き取っていけば大成しなかった理由も何となく納得出来はするが、マイナーポエットが経験したり表現出来たりする一回だけの魔法、その人の人生に於ける一回だけの特別な時間がここには確かに記録されていると思うのだ。30数年、記憶のどこかにこびりついていた理由というのはその辺ではないかと今は考えている。
余談だが、あるブログを見ていると菊池嬢の事が幾らかは書かれたテキストがあって、当時の自己紹介では好きなミュージシャンがなんとジミ・ヘンドリックスとの事だったそうだ。私はこの人の唄う世界とジミヘンのどこに接点があるのか全く察しがつかないが今となってはそれをご本人に確かめる術もない。
もう一つ余談を。
中学校を卒業してから私は進学先で寮生活を送る事になった。入学直後、同室となった男はどうも私とは感覚的にそりの合わない人物で年がら年中この手の歌ばかりを聴いていた。その男がラジカセに録り溜めておいたなかにこの歌はあって私は結構気になっていたのだが、くだらない意地を張っていたせいでそれが何という曲で誰が唄っているのかを尋ねる事もその曲を聴かせて欲しいと彼に頼み込む事もないまま半年間の同居期間を終えた。再びこの歌を聴くまでになんと30年以上もの空白だ。
そして昨日、ダウンロードを済ませた私は妙な意地を張り続けた30数年を自省しながら何回も繰り返してこの歌を聴いている。自省するようになった分だけ大人になったのだとは思うが聴いたり書いたりして気恥ずかしい気分になる部分については中学生の頃から成長していない事も知った。
Courts the Count/Shorty Rogers(コーツ・ザ・カウント/ショーティ・ロジャース) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: ショーティ・ロジャース
- 出版社/メーカー: BMG JAPAN
- 発売日: 2002/06/26
- メディア: CD
Work Song/Nat Addarley (ワーク・ソング/ナット・アダレイ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: ナット・アダレイ,ウェス・モンゴメリー,ボビー・ティモンズ,サム・ジョーンズ,キーター・ベッツ,パーシー・ヒース,ルイ・ヘイズ
- 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
- 発売日: 2009/06/12
- メディア: CD
しかしここで、幾らかの同情的な気分を抜きにしてもそれはナット・アダレイが凡庸なミュージシャンだった事を意味しないし本作以外の全てが凡作なわけでもない。
あまり多くはない手持ちのリーダー作を聴いてみてあらためてわかったが、ナット・アダレイというミュージシャンはレコード作りに於いてはなかなかのアベレージ・ヒッターだ。そしてそれらは本人のプレイそれ自体というよりは中編成程度のバンドで巧みなバンドアレンジで聴かせるような作風のものが中心であるように思える。ここでまたしても多少意地の悪い見方をするなら、残念ながら本人の演奏はそれら「バンドの音」に埋もれがちな恨みがないわけでもなく、大きな存在である兄上を抜きにしてもやや個性が弱い事の証左となってしまっているわけだが。
私は若い頃、サッポロビールのテレビコマーシャルに使われたBGMとして本作のタイトルチューンに接したのがナット・アダレイを意識した最初だったと覚えている。このコマーシャルには他にもバド・パウエルやアート・ブレイキーなどの音楽が使われて、それがモダン・ジャズの敷居を少しは下げる働きにもなったのだがナット・アダレイもそこには幾ばくかの貢献があったと見てよいのではなかろうか。
タイトルチューンのWork Songは、兄弟バンドで演じられる時にはそれこそヨイトマケ風のファンキーチューンだが、ここでは編成のユニークさのせいでひと捻り入った個性的なゴスペル風の印象を与える。
実のところ、全体を通じて本作のサウンドカラーを個性的というか印象的なものにしているのはサイドメンによるところが大きく、中でもウェス・モンゴメリーの荒々しいコード・カッティングが際立っている。リズムセクションは兄弟バンドのユニットがそのまま起用されているがサイドメンの追加とアレンジの工夫で独自性は打ち出せるという、これは影の薄い弟としての控えめな自己主張かもしれない。
ナット・アダレイというミュージシャンは一枚看板としてのトランぺッター(正しくはコルネット・プレイヤーか)についてかなり謙虚な自覚があったように私は考えている。
これまで何度か書いた事の繰り返しだが私はトランペットは資質の楽器だと思う。何かしら先天的な資質によってもたらされるある種の突進力がこの楽器の王道を歩むプレイヤー達には例外なく備わっていて、そうでない人は”バンドの中の1ピース”としての自分にプレイヤーとしての立ち位置を求めていく運命の楽器がトランペットだと常々考えていて、その代表がマイルスだ。
バンドの看板というには幾分小粒感のあるトランぺッターが、ワンホーンで作り上げた音楽として本作はあちこちに沢山、きめの細かい配慮が散見される。兄弟バンドでのファンキー路線とは相反するようにそれらは一種、インテリっぽい雰囲気をたたえてさえいる。本人の代名詞のようになったタイトルチューンよりも、タイトにまとめられたスタンダード・ナンバーにそれらは顕著で、ピアノレスだったりドラムレスだったりする線の細いリズムセクションをバックにした吹奏にはコルネットという楽器のトーンも相まって小味の効いたペーソスが感じられ、微笑ましい気分を喚起させられる。ボビー・ティモンズは抑制的で、音の隙間をウェスとチェリストが埋めていく。という絶妙なスカスカ感にここでのナット・アダレイの生来的に小作りなプレイは実に収まりがよく、主役としてサマになっている。それは本作のリーダーが単なる名義上の話だけではなく構成上の位置づけとして紛れもなくナット・アダレイである事が整合性をもって主張されてもいるわけだ。
更に加えて本作にはなかなか気の効いた謎掛けのような設定がある。ここに参加したベーシスト三人は曲によってそのうちの二名が演奏に入れ替わり立ち替わり参加し、サム・ジョーンズとキーター・ベッツはベースとチェロを持ち回りで弾き分ける。どの曲では誰が何を弾いているのかを聴き分けるという、パズルを解くような面白さも有りだ。
結局のところ本作で聴かれるようなバンド・サウンドはその後流行る事もなく、これ一作だけのものになってしまった。一種奇抜な試みだが奇抜さを奇抜とは感じさせないセンスは見逃せない。同時に、それだけのセンスを持ちながら本作での試みを自身のソロ活動として拡大増強はせず、あくまで一作のみの実験にとどめたところに色々な意味でナット・アダレイというミュージシャンの円満で節度のある資質は伺えるような気がする。誰かの弟としてのあるべき姿とはこういうありようなのかもしれない、と、家族の中での異物である私などは収まりのいい立ち位置を見いだせなかった自分の半生に込み入った気分を淀ませながら本作に針を降ろして心の皺を伸ばす場面が結構多い。そういう心象風景に於いて、ナット・アダレイの醸し出すいい意味での小粒感とちょっとコミカルなコルネットのトーンは私の中のざらついた何かを確かに円満にしてくれる働きがあるようだ。
Suger/Stanley Turrentine (シュガー/スタンリー・タレンタイン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-20
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-21
長じてジャズにはまり込み、コールマン・ホーキンスを聴いた時、私が連想したのはやっぱりサム・テイラーだった。
その演奏スタイルを時系列で辿ればサム・テイラーはコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーであって、日本に於いて、ジャズの(ということはコールマン・ホーキンスの)アクセントなりイントネーションで様々な日本の土着音楽を演じたところに彼のこの国にでの商業的成功はもたらされた。言い換えればその演奏スタイルというのはジャズ以外のカテゴリーでも色々なプレイヤーによって結構色々演ぜられている流儀のようで、よく対比されるレスター・ヤング風からバップ以降に連なる演奏スタイルの系譜は、テナーサックスという楽器の演奏スタイルとしてはむしろ亜流の歴史と見るべきなのかもしれないとあるときから考えるようになった。
順序が逆ならもう少し違った見方が身に付いたのかもしれないが、私の場合はこの楽器の刷り込みはサム・テイラーの演歌テナーによってなされたので楽器の印象はなにかしらオヤジ的な佇まいと強く結びついていてこれは今も変わらずに意識の底にこびりついている。
オヤジ風ではないテナーサックスの演奏スタイルに目覚めたのは中学生の時に聴いたソニー・ロリンズによってであった。
- アーティスト: ソニー・ロリンズ,ウィルバー・ウェア,エルヴィン・ジョーンズ,ドナルド・ベイリー,ピート・ラロカ
- 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
- 発売日: 2009/06/10
- メディア: CD
単細胞風な私の頭は自分でジャズのレコードを買い始めるようになって以来ある時期まで、コールマン・ホーキンス風の演奏スタイルをどこかで避け続けていたように覚えている。
理由を深く考えたことはないが何かしらオヤジ的なニュアンスのある音楽を遠ざけたい気持ちがあったのではないかと今になって思う。しかしこれは単なる偏見であって、現に正真正銘のオヤジとなった現在、コールマン・ホーキンスやその影響下にある色々なプレイヤーの音楽を聴いていると格別否定的に捉えているわけでもない。それは加齢臭が自分では気づかないという類いの話なのかもしれないが。
毎度前置きが長くなるのは私の悪い癖だ。
矛盾するようだが実際のところ、音楽がオヤジ風であるかどうかなど大した問題ではないことも私は少年期のどこかで刷り込まれているはずなのだ。思い出すにそれは学生の頃、よく入り浸った喫茶店で行われていたジャム.セッションで聴いたある曲に由来している。
その曲を聴いた場所はこのブログで私が何度か取り上げた釧路市の喫茶店「ジス・イズ」で、何年かしてからこのレコードに収録されていることを知った。
- アーティスト: スタンリー・タレンタイン,フレディ・ハバード,ジョージ・ベンソン,ロニー・リストン・スミス,ブッチ・コーネル,ロン・カーター,ビリー・ケイ,リチャード・パブロ・ランドラム
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2006/11/08
- メディア: CD
30数年前に私はこのレコードのタイトル曲を聴いて以来、随分長い間記憶に染み付いていたことになる。
スタンリー・タレンタインもまたコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーで、しかも第一線に登場してきたのはモダン以降の時期だったのでその足場が革新的だったり先鋭的だったりしたことは一度もない。しかも1970年代後期にはいわゆるフュージョン風の装いで新作を連発したりもして私などは結構敬遠気味の御仁ではあった。
加えて若い頃の私にはCTIというレコードレーベルに対するこれまた一種の抵抗感があって、その後あちこちで何度か耳にしながらもやせ我慢のように本作のリリースを見送り続けていた。
何といっても若い頃の私に猛烈な拒否反応を引き起こしたのは本作のB面いっぱいを占める長尺なImpressionsのユルユル具合だった。それは同じく子供の頃にテレビのプロレス番組で見た、ジャイアント馬場のコブラツイストが発散した脱力感にも通じるものがある。これまた先に聴いたのが本家本元であり、表現の限界に挑戦するかのようなストイシズムに若い頃の私が入れ揚げていたせいだろう。
- アーティスト: ジョン・コルトレーン,エリック・ドルフィー,ジミー・ギャリソン,マッコイ・タイナー,エルヴィン・ジョーンズ,ロイ・ヘインズ,レジー・ワークマン
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2004/06/30
- メディア: CD
バップ以降の演奏スタイルが放擲したか喪失してしまったかした『何か』がスタンリー・タレンタインのブローには確かに連綿とあり続けている。それを強いて言葉として拾い集めれば悠然たる風情とか朴訥とした野太さとかいったムードを醸し出す『何か』だと思う。それはあるいは演歌調のニュアンスをも含んでいるのかもしれない。幾つかのレコードジャケットで見られるこの人の服装の趣味といい、こう言っては失礼だが濃いめの顔つきといい、何だか若い頃から演歌調な、オヤジ然とした色合いを体現する存在だと今になってあらためて思う。
しかしそのオヤジ然とした佇まいは色々な場面やパッケージングで結構サマになるではないかとここしばらくの私は妙に見直している。自分がオヤジであることに自覚的になったのでそれまで否定的だったり遠ざけたりしていたものに寛容になったのだ。
ぬるい展開のImpressionsも、ジャズの録音にしては少々派手目な録音のCTIサウンドも今になってみると変に馴染みが良い。タイトルチューンは勿論過去の記憶を巻き戻しながら何度も聴く。あらためて、コールマン・ホーキンスの創出した流儀には普遍性を感じてちょっとしたリスペクトを抱いたりもするのである。
しかし何故、今になってこうもストレートにこういったオヤジテナーの吹奏スタイルを心地よく受け入れて肯定的になれているかというと私はそこに、肝の座った親父が小理屈をこねる若造を一喝のもとに叱り飛ばすような構図を連想しているからだと思う。視点を変えれば若い頃の抵抗感は叱り飛ばされる側だったからということだ。
それで私は本作を聴く度にオヤジであることの気持ち良さを実感している。但し、スタイリッシュに撮影されてはいるがジャケット写真のようなことに愉悦を覚えるオヤジにはなっていない。そのような趣味を持ったオヤジにはなれずに至っている。まあ。どんな嗜好を持とうがそれぞれ勝手だが。