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引っ越しに伴うお休みの件 [身辺雑記]

 しばらく更新が出来ていませんが、住居を引っ越したところです。

新居(と入っても築40数年の私の実家)がまだ片付いていないので当分更新はお休みとなります。NTTは目下、引っ越しシーズンの影響で回線工事がてんてこ舞い状態なのだそうで我が家への回線敷設は5月9日となります。よってそれまでの間我が家からネットへのアクセスは出来ない状態です。

 ここ一ヶ月ばかりは色々な意味で心機一転風な環境変化があったため、再開後はお仕事仲間とお遊び的に新規のブログを立ち上げてみる構想もあります。


タグ:引っ越し
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共通テーマ:住宅

アイスホッケーのテレビ観戦 [身辺雑記]

 私が元々ものぐさなせいもあるのだろうが、スポーツには大して関心がない。自分がやるのも観戦するのも大して興味なんぞないのだ。

大体スポーツというのは個人のたしなみであってやりたい人が勝手にやっていればそれで良いと思っている。 オリンピックにも関心はない。寄ると触るとメダルメダルと騒ぎ立てる様子にはなんだか薄気味悪い気さえするし、選手が気の毒にも見える。自分がやった事もない競技種目の事でどうしてこうもキチガイみたいに毎日毎日テレビにかじりついて熱中できるのか不可解に思える人は結構目にする。フィギュアスケートでやれ4回転ジャンプだの3回転だのと色々気安く言い立てるが実際自分でスケートを穿いてリンクに立ってみるといい、3回転どころか転ばずに半回転する事だって一朝一夕に出来る事ではない、いやそれどころか滑走しながら飛び上がる事自体が物凄い恐怖を伴う事を一体どれくらいの人が知っているのだろうか。

 こんな事を分け知り顔で書くのは唯一例外として、私は子供の頃からスケートだけはやったからだ。別にスケートがとびきり好きだったわけではない。育った家の向かいに小学校があり、スケートリンクがあって、私の生家は大して裕福な家ではなかったので冬に遊ぶと言えばスケート以外の事がなかったからだ。 だからオリンピックの放送もスケートの競技が放送されている間はテレビを切らずに区切りのいいところまでは何となく眺める。

 私は10代の後半から20代のはじめまでを釧路市で過ごしたせいか、当然のごとくアイスホッケーに染まった。子供の頃同様金はなく、時間だけはあったので冬期間は夜になると必ず寝起きしていた学生寮の仲間連中とアイスホッケーに興じた。 この頃も他にする事がなかったのでとにかく毎晩即席チームを編成して無茶苦茶に試合もどきの事をしまくり、毎日打撲だの打ち身だので体のどこかをさすっていた。獰猛さを喚起するという点で、見るにせよやるにせよ私が知っている限りこれ以上の興奮が得られるスポーツはない。

 だからオリンピックの放送もアイスホッケーだけは例外で、これだけはテレビにかじりつく種目なのだがあいにくこの競技は日本ではさっぱり人気がない。競技人口はだんだん減って実業団リーグも萎んでいく一方。国内だけではチーム不足でリーグ戦の開催もおぼつかない現況は大変淋しいものがある。堤某はいけ好かないオヤジだったがことアイスホッケーに関する限り大変有り難い大旦那だったことを今となっては痛感する。そんなわけで日本のチームはオリンピックに出場さえ出来ていないのだからただでさえ人気のないこの競技種目は尚更放送枠が小さい、というよりも殆どない。そして私はそのことを大変理不尽に受け止めており、元々好きでもないテレビが余計嫌いになる。

 オリンピックの閉会日に行われる種目というのは期間全体を通じてのクライマックスであり、夏であれば男子マラソン、冬はアイスホッケーの決勝がお約束だ。きちんと調べたわけではないがこれまでを通じてそれが変更されたことはないはずだ。 今回の開催地であるバンクーバーは国技でもあるわけで現地での熱狂ぶりは想像するに余りあるのだが私は今回、決勝戦を見逃したことを大変後悔している。

 これまでの大会では深夜枠ではあるけれど殆ど必ずアイスホッケーの決勝戦はきっちり放送されていて私は眠い目をこすりこすり最後まで見ていたものだが今回はどうだったのだろうか。 本日公共放送でオンエアーされたダイジェストの特番ではただの1カットもアイスホッケーは登場しなかったことを実は大いに腹立たしく思っている。大袈裟な話ではなく、オリンピックのアイスホッケーまでもが見られないようでは私にはもう、放送受信料を払う理由が全くなくなってしまうのだ。

 かろうじて一昨日、カナダとスロバキアの準決勝を風呂上がりに見ることが出来たことがせめてもの救いだろうか。第3ピリオドでの攻防は手に汗握る熱戦で番組を見終わった後、年甲斐もなく物置から若い頃に使っていたスケートとスティックを引っ張りだして近所の学校のスケートリンクに繰り出してひとりでしばらく走り回っていた。それで只今、じつは体中が筋肉痛である。

 開催国で、国技での金メダルともなればかの国の熱狂ぶりはいかばかりかと想像を巡らせてみたが何しろ私は英語の読解力が全然ないのでどれくらいのボルテージなんだか量りかねている。拾ってみた画像も会場の外で喜んでいるギャラリーばっかりで会場の様子が分からない。当然なのだろうが動画も見当たらない。You Tubeに何かないかと探してみたがもっぱら予選リーグで5-3でカナダに勝ったアメリカの側からの投稿ばっかりなのだが・・・・コメント欄を見て吹き出した。

http://www.youtube.com/watch?v=r5d9Hg2SwTw&feature=related

 アメリカ、カナダ双方のファンが猛烈な罵倒合戦を繰り広げている。決着がついた翌日でこのヒートぶりなのだから決勝戦はさぞかし物凄いムードだったのだろう。冒頭、私はスポーツなんて所詮は個人のたしなみ、などと訳知り顔で書いたが自分の入れあげている種目についてはこんな感情もわからなくはない。実は誰憚ることなくアイスホッケーに熱狂できるカナダという国にはちょっとした羨望が常にあることを白状しておく。  


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灯油泥棒 [身辺雑記]

 しばらくぶりの更新というのは何だかばつの悪い思いだが書き残しておきたいハプニングが一つ。

 あと二ヶ月ほどでお別れとなる拙宅だが昨日、居間のソファに転がって夜中にうたた寝を決め込んでいると不意に寒くなって目が覚めた。

近くでピーピーと聞き慣れない音がするので寝ぼけ眼でその方を見るとストーブが途中消火したとのエラー表示が出ていた。 不審に思いながら再点火させたが結果は同じでどうも灯油のタンクが空になったらしい事を悟った。

 これまで何度も書いたように私の住む土地は極寒の代表みたいなところだ。早朝外気温が-20℃などざらにあるようなところだ。

 燃料販売店には3月で引っ越す旨は伝えてあるが給油をストップするには早過ぎる。少々腹立たしい気分で屋外に出てホームタンクのゲージを見てみた。

pic01.jpg

 フロートの位置はものの見事に底をついていた。何だか変な気分で私はそれをしばらく眺めた。何かが引っかかる。足下を何気なく見ると雪が黄色くなっていた。立ち小便のあとだとすぐに気づく。ここ三日ばかり、所用で札幌に言っており留守にしている間に誰かがここに来たのだ。

 今日になって販売店に連絡し、しばらくして現れた配送担当のおじさんとしばらく話し込んだ。

 冬季間、我が家での灯油消費量は大体一ヶ月あたり大体200リッター弱であり、配送担当の方は先月末頃補給を済ませたので空になっている事がどうにも腑に落ちないとの事で首を傾げていた。かれこれ9年間一貫して配送してくれている方なので灯油の減り具合は私よりも詳しい。 これまで月一の補給でゲージが半分以下になっているのを見た事がないのでどうにも納得いかないと言う。

 あらためてホームタンクの周辺をふたりで見てみると 黄色い雪(立ち小便のあと)の周りについているのは明らかに私たちとは別の足跡だった。灯油を抜き取り、ついでに立ち小便までかましてくれた不届き者がいたという事だ。

 現在の家に引っ越してきてから9年、それまで住んでいた実家の事を含めても、灯油泥棒に遭遇したのは初めてだ。何とも腹立たしいような寂しいような気分だ。世の中が荒んでいるというか切羽詰まっているというか、そういう時代の気分はこんな風に反映されるのだろうか。

 私はおとといの夜、札幌で以前の同級生達と存分にどんちゃん騒ぎのクラス会を決め込んでいた。したたか酔っぱらった後に宿へと戻る途中、小腹がすいたので24時間営業のハンバーガーショップに立ち寄ったときの事、店内には明らかにホームレスと思しき人たちが4人ばかり、テーブルに突っ伏して仮眠をとっていた。私の住む土地寄りは幾らか温暖だとは言え、やはり札幌だ。この時期の野宿は凍死と直結するからやはりこういうところで仮眠をとらざるを得ないのだろう。勿論それは気の毒な光景だがそこに至るまでの時間を想像すると気持ちの中には暗く濁ったものが渦巻いた。

 彼らの中には住むところを失うまでの過程において、冷えきった自宅にいたたまれなくなって他人の家の灯油を盗むまでに及んだ方もあるいはいるかもしれない。 勿論私の家から灯油を盗んでいった者が金銭的に逼迫していた人だとは限らないが、何故かそういう連想が働く。

 ここ数年、近所で新築される住宅は殆ど全てがオール電化だ。最早ホームタンクのない新築住宅が標準となった感さえある。それは私が出くわしたような灯油泥棒の被害を回避するための方策という事も一つにはあるのだろうかと考えた。金がないところで近所の家を尋ねて申し訳ないが灯油を少し分けてくれと尋ねてくる人が私が子供の頃にはいたような気がする。困ったときはお互い様の近所付き合いがその頃にはまだあったという事だがいつの間にかそんな場面はきれいに消えた。電化住宅に留守宅を狙う灯油泥棒とは、内も外もとんでもなく寒々しく、寂しい世の中になったとつくづく思う。

Apostrophe (')

Apostrophe (')

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Zappa
  • 発売日: 1995/04/18
  • メディア: CD
 最初の曲は邦題が『恐怖の黄色い雪』。何だか今回の件と関係があるようなないような。

正修会と初詣 [身辺雑記]

 大晦日には菩提寺の正修会に出掛けるのは例年通り。若い頃には除夜の鐘を突きたくて張り切って出かけたものだがここ数年は眺めるだけにとどめている。当然ながら毎年、人数限定108人様までなのでこれはもう機会を他人様に譲ってもいいだろう。

 

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築百年の本堂入り口で年越しそばと甘酒が振る舞われるのもまた例年通り。
 

 

 正修会は0時30分に始まり、勤行を終えてから輪番の法話を拝聴する。一昨年までの輪番は山あり谷ありの長口上で午前2時過ぎまでかかった。途中眠り出す門徒衆が目立ったものだが老年期の方々が多いせいでその辺を配慮してか、現在の輪番は話を手短にまとめる傾向がある。

 浄土真宗大谷派は『他力本願』の宗教である。 誤解されがちだがこれは決して自分は何もせずに全て人任せという意味では全然ない。仏教に神という概念は存在しないがここでは『自分はある大きな意志のもとに生かされている』という人生観が基底をなしている。他宗派の方から見てそれは諦念の徹底とも映るようだ。

 仏閣は願い事をするための場所か、という話題が出たのだった。宗派の見解としてこれはNG。本来的には今、この瞬間まで生かされている事の感謝を捧げるために訪れるのが本来的なありようとのことで、確かに願うだけで実現するのなら何も苦労はないし、めいめい勝手な願い事が全て実現したら世の中は大混乱だろう。


 正修会のあとは帰宅して一眠りし、これまた例年の習慣で近所の神社に初詣を決め込む。

 神道に対して私は真っ当な理解が出来ていない。宗教的な関わりは大変希薄だが地域社会に根ざした施設だという理解はある。仏閣の正修会は本堂で読経する人たちは大体毎年50人くらいだが、元旦の神社は一体どこから湧いて出てきたのかと思うほどわんさか人が集まる。考えてみると神社には○○祈願という言葉がついて回る。こちらは何か、願い事をしにくる場所という事だ。

 今を肯定し、生かされている事に感謝する人々よりも何かの不足や欠落を感じてこれを満たすための願い事をする人々の方が世の中には圧倒的に多いという事なのだろうから神様も楽ではない。しかしその割には私自身について考えてみると毎年初詣は行っているが過去、何を祈願したのかを全く思い出せない。私はどうも、幾つもの流儀を使い分けて振る舞えるような器用さに欠けていることを今年あらためて自覚した次第。 


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オノ・ヨーコ氏のテレビ出演 [身辺雑記]

 日頃から私はいつもテレビが嫌いであることを公言してはばからないのだが、本日たまたま目にしたことは書き留めておきたくなった次第である。

 もう既に他にも沢山のブロガーの方々はこのことを書かれているかもしれないので、何もここで私のような者が、とも思うのだがやはり書き留めておくことにする。

 お仕事の合間に昼飯を済ませ、午後からの予定にしばらく時間があったので漫然とテレビを眺めていた。公共放送の提供するところの昼の番組で、『スタジオパークからこんにちは』という番組名だったと思う。
 本日のゲストはオノ・ヨーコ氏だった。
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 一種、インタビュー番組というかバラエティ番組というか、そういった性質のもので、ゲストの経歴やPRを含めた近況がインタビュー形式でやり取りされるわけだが、本日のゲストであるオノ・ヨーコ氏は言わずと知れたジョン・レノンの妻であって間違いなく世界一有名は日本人女性である。 

 私は長いことジョン・レノンの音楽にはあまり関心がなく、ビートルズが解散した後のここのメンバーの活動にも特段の注意が向かうことはなかったのだがオノ・ヨーコ氏という方は色々な意味で、良くも悪くも強かなところのある方のような印象を持っていた。 
 クリエイターとしてのオノ・ヨーコ氏はこれまた色々な意味で私にとっては評価に困惑する存在なわけだが、それはここで書いておきたいことの本筋ではない。 

 番組冒頭、私が奇妙に思ったのは照明が煌煌と灯っているはずのテレビスタジオに現れたオノ・ヨーコ氏が何故かサングラスをかけていたことだった。しかもそのサングラスはかなり下までずり下げられていてその本来的な機能を果たしていない。まるで数十年前、大塚製薬のオロナミンCのコマーシャルに出てきた大村昆がやってみせた(これを読んで”ああ、あれな”と察しのつく方は私同様かなり年季の入ったオヤジである)あのかけ方だった。 
 それで番組途中、話題はオノ・ヨーコ氏のファッションセンスについて触れられることになり、帽子とサングラスというのがトレードマークであるらしいことをこの時私は初めて知った。 オノ・ヨーコ氏は帽子が好きであることの由来を語り、次にサングラスへと話題を移した。以下は私のうろ覚えに基づくその大意である。 

 それは1980年秋のこと、レノンご夫婦はNYで新作のレコーディングの真っ最中であり、スタジオワークの最中にレコーディングエンジニアの都合で小一時間ほどのブランクが生じた。 
 手持ち無沙汰になったのでレノンご夫婦は気分転換をかねてスタジオを一旦出て町中をぶらつくことにし、あるデパートに入った。その時夫(ジョン・レノン)はあるサングラスを買い求めてその場で自分(オノ・ヨーコ氏)にかけて、「これからあなたはずっとサングラスをかけているといいよ」といったようなことを仰ったのだそうだ。
ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~

ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~

  • アーティスト: ジョン・レノン,ヨーコ・オノ
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2000/10/09
  • メディア: CD
  それからおよそ一ヶ月後の12月8日にジョン・レノン氏は非業の死を遂げることになる。(この辺りからオノ.ヨーコ氏の声の調子がおかしくなり始めた) 
 その後の自分は泣いてばかりいるようになった。人前で泣き出すことも珍しくないほどだった。そういう時に、泣きはらした目を隠すためにサングラスは確かに便利な小道具だった。 
 しかし、何故夫は氏の一ヶ月前に自分にサングラスをかけることを勧めたのか、もしかしたらその先の自分の運命をどこかで予感していたのだろうか・・・・・ 

 と、ここまでを何とか語ったオノ・ヨーコ氏は言葉を詰まらせて目頭を押さえ、サングラスをずりあげて目元を隠した。NHKの女性アナウンサーは狼狽えながら声がうわずり、もらい泣きをし始めそうになった。カメラがズームアウトして全景が映し出されたスタジオには異様なムードが立ちこめたのだった。 

 私も日本人の端くれであって、浪花節的な気質が確かにある。形容し難い気分と言うか、なにかしら胸に迫ってくるものがその時確かにあったこともここで白状しておく。 
 しかし、だ。そのようなハプニングを目撃してから数時間経過して、出来事の唐突さ、情動の振れ幅の大きさに圧倒された後に少しく頭を冷やしてみると私の中には別の見方が芽生えつつあるのも事実である。念のためにこれは重ねて言っておきたいが、故人やその未亡人の遭遇した悲劇的な出来事を貶めたり、味わった苦痛に下衆の勘ぐりを入れるつもりは全くない。だからその後私が巡らしたある思いの詳細はここでは書かない。それは私の意識の中だけにとどめておくことにして、この先文字になることはない。

 ただ、一つのことだけは書いておきたい。表現者としての志半ばで落命したロックミュージシャンは数多いが、ジョン・レノンの死ほどその悲劇性が薄らぐことなく、生々しさをもって語り継がれている例はない。もう29年も経過しているが、その死は単なる一ミュージシャンの悲劇という範疇をさえ超えて時間が経つほどにむしろスケールアップされているように見受けられるほどだ。そこから先については文字にしたり口に出すことは許されていない。そういう空気は確かに醸成され、定着していると思う。私はそれを肯定も否定もしない。そしてジョン.レノン氏の悲劇的な幕引きにあやかるわけではないがこのテキストは唐突にここで終わりです。

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放送受信料の不払いを勘案し始める [身辺雑記]

 元々、ただで得られる情報になどロクなものはないというのが私の持論だった。今でもそう思う。
テレビの放送電波もまた例外ではないはずだ。現に私は数年前から民放各局の番組など見なくなった。嘘でもないがあんなものを一時間も見ていると何だか物凄く時間を損した気分になる。

 そういう意味では、こちらも大したことはないのだが公共放送はまだ幾らかましに思えていたのだが、ここしばらくはそうとも言えないような気がし始めている。
 前のエントリーで私はエルヴィスが唄いながら腰をクネクネさせる仕草が世間のひんしゅくを買ったといったようなことを書いたが、公共放送の某番組で高田文雄という芸人が気の抜けたベリーダンスみたいな仕草をしてみせて笑いを取っていたところを見て頭の中のスイッチが切り替わったのだった。何も高尚ぶるつもりはないが、ああいう下品というかくだらない一発芸は20年くらい前の民放バラエティ番組では結構受けていたような記憶はある。
 公共放送の節度は大体25年くらいかけて徐々に地盤沈下し始めてその域にさしかかりつつあるということなのだろうと思った。確かに私がだんだんテレビを見なくなっていったのは20数年前からだと思う。

 親父の小言みたいで我ながら嫌になるが、ああいう低劣な瞬間芸は公共放送が受信料を徴収して見せるものなのかと。

 翻って見ると公共放送は地上波打ち切りを数年後に控えて編成に手抜きが目立つ。再放送の番組がやたらと多いしバラエティ番組風に出てくるゲストは決まって放送中だったり新番組だったりの出演者なわけで、あれは一種のCMではないのか。それにちょっと興味を惹きそうな番組はというとこれも決まってBSハイビジョンである。目につくものについていちいちケチををつけ始めるときりがないのだが、とどのつまり番組の制作には金がかかるのだからもっとましな番組が見たかったらもっとお金を払えというのが公共放送の言い分なのだろうということは容易に察しがつくし、まあ確かに正論といえば正論だろう。

 しかし放送電波のために今様のハイビジョンテレビを買い込んでこれからデジタル放送を見たいのかといえば私は全然そう思わないのだ。
これは私がテレビも買えないほど貧乏なので負け惜しみをいっているわけではない。確かに貧乏ではあるが幾ら何でもテレビが買えないほどではないしローンの審査くらいは通りますよ。

 そもそももう20年以上も前から、テレビ受像機という物体は私にとっては放送電波の受信機としてよりもビデオテープの再生用に利用する時間の方がずっと長かったのだ。30歳を過ぎてオヤジゲーマーの道を歩むようになってからは受信の時間は更に激減した。40歳を過ぎてプロレス番組を見なくなってからは民放を全く見なくなり、そのうちゲームもやらなくなり、映画はプロジェクターで見るようになり、拙宅のテレビ受信機はもはや公共放送専用受信機と成り果てた。しかもそれは朝、時計代わりに漠然と眺めているのと夜間、家の中が静かすぎるので適当につけっぱなしにしておくとか土曜日のドラマを気が向いた時に見るくらいの利用度しかないのだ。 

 おまけにここ数年の番組のくだらなさである。ここまでくるともう、テレビ受信機などあってもなくてもいいような代物とさえ言えそうな気がしてくる。更に言えば放送受信料という名の代価を払う気さえも失せつつある。
 一時期、私はテレビのない生活を半年ばかり送った頃があり、今考えてみるとその頃格別何か不便をかこった覚えもなかったのだが、あの時NHKに『自分はもうテレビを見ないので受信料の引き落としをやめていただきたい』と問い合わせてみたら一体どんな反応がかえってきたのだろうかと想像してみたことがある。

 最近、公共放送の余りのくだらなさ故にそれを実行してみようかとふと考えるのである。
玄関先で集金人と押し問答をしながら屋根の上に立っているアンテナを指差して、あれはFMラジオ放送の受信用に立ててあるのだと説明した上で敢えて集金人を居間に通してテレビのないところをご確認いただく場面を想像すると少々愉快な気分にはなる。


中川イサトのライブを聴きに行く [身辺雑記]

 昨日のこと、友人の某氏がカーオーディオを新調することになった。
私はそちら方面には全く詳しくないのだが、何かテストソースになりそうなものを所望されたので、ヒマな日曜日の午後という状況も相まってやおら一枚焼いて持参した。

パーフェクト・ナイト

パーフェクト・ナイト

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1998/05/25
  • メディア: CD





私が中年男になってから結構入れ込み始めたミュージシャンだ。

 某氏のところへ焼いたCDを届けに行くと、唐突に今日はライブがあるから一緒に聴きにいかないかと誘われた。
中川イサトのライブだとのことだったが、私は日本のフォークには全く造詣がなく、どこのどなたなのかもさっぱり見当がつかなかった。
聞けばかつて一世を風靡した『五つの赤い風船』のメンバーで、かのマーチンというアコギのメーカーがシグネチュアモデルを製作するほどのミュージシャンでもあって、日本に於けるフィンガーピッキングの開祖でもあり、などなど多くのミュージシャンにとって半ば神格化されたお方だという。

中川イサト氏のHP

 私は色々と食わず嫌いの多い奴で、日本のフォークソングというカテゴリーもそのうちの一つだ。 
一昨年の田野城寿男さんの時もそうだったが、聴くまではなにかある種の先入観が解消されなかった。
どんな音楽であれ、素直な受け入れ方で聴いてみればそこには必ず、何かしらの発見や驚きがあり、そうして過ごした時間にはちゃんとした意味が生まれてくるものだとある頃から私は何となく信じ込むようになり、今回もその思い込みは間違っていなかった。
  
 いつまでたっても私は不勉強なリスナーだ、こんな世界を今まで知らずにいたとは。 
ライブの詳細は後日あらためてアップするとして、ひとまず今は当日の時間を思い出しながら結構いい気分でゴロゴロしようと決め込んでいる。

中川イサト氏のいかにも職人然とした風貌はなかなかに印象深い。このごろつくづく思うが、人の内実はその人の表現のみならず風貌にも醸し出されてくるもののようだ。ネット上にあったイラストを貼付けてみました。

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 当日の演目にはなかったがYoutubeを漁っていて見つけた曲。ライブに接した後になってみるとプレイスタイルの特徴がわかりやすい形で盛り込まれていることがわかった。(この項続く)
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来客あり [身辺雑記]

 さる6月6日から8日にかけて、拙宅には客人がお泊まりになられた。
およそ一昔ほど以前、私が初めてパソコンを手に入れてそれをネットにつないだ頃、今はもう閉鎖されてしまったHPの掲示板で知り合った「東京はじめ」様というHNの方とそのご家族ご一行様だ。

東京はじめ様のHP 996と私

 かの方とは過去7年ほどの間に数度会った。多くは拙宅にご来訪いただいてあれこれと楽しい時間を過ごした。一度だけ、私が会社員だった頃に東京本社に出張した際に都内でご友人の方と一緒にお会いしたことがあった。
 
 不思議なもので、直接会って話をする機会はさして多くないにも関わらず(正確には過去7年の間で今回が5度目ほどではないかと思う)、何故か話題はかなり濃密な深度にまで掘り下げられていく。それは恐らく、日頃の私に何かしらの渇望がある点を東京はじめ様が満たしてくださっていると見るべきなのだろう。
 地理的には大変かけ離れているせいもあって、私はどこかで一期一会風のちょっとした緊張を内在させながらお会いしているのだろうが、ともあれ私にとってはいい意味での特別な時間であって、一言でまとめてしまえば幸福な時間であり、関係だと位置づけている。
 翻って、私自身の日常にはいたずらに時間を空費するだけの空疎な人間関係もたくさんある。凡人の日常生活とはそういうものであって私はそれを否定しない。空疎な日常が連続する中に散在する非日常の人間関係というコントラストは、生活時間に奥行きを与えてくれることを既に私は知っている。

 人には時間の経過とともに変化していく部分なり普遍の部分なりがあることを、たまさかの再会で知る。
ご一行様を空港まで送った後、日常に戻る道すがら私は家族について少しの間考えた。いつまでも締まりのないやもめ暮らしを続けている私自身のありようを顧みた。自由奔放さと孤独感にはある種の比例関係があるのかもしれない、と、チラッと考えた。
 人が家族を持つ、という成り行きは、それら比例要素をある値以下に収束させる意思の現れなのだろうと、私は全く明晰さに欠ける脳味噌でこれまで折に触れてうすぼんやりと考えてきたのだった。
 
 いささか古臭い捉え方なのかもしれないが、家族を構成させるための必要条件とはやはり両親と子供であって、それを私がこの先実現出来ることはない。良くも悪くも私はそういう時間の中を生きている。
 あらためてそんなことを思案させてもらう、やはり大きな意味のある再会でありました。
 

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ブログの更新を怠けながらの雑感を少々 [身辺雑記]

 何度も書くように、私は生来、大変な怠け者だ。これまでの人生の中で最も高度に極めたものはといえばそれは間違いなく『怠ける』ことだと確信している。

 ネット上のどこかのブログで書かれていたことではたと気がついたが、ブログの寿命が2、3年であることは大変多いのだそうだ。2、3年ほど続けていると書きたいことをおおかた書き尽くしてしまうからではないのかとその方は憶測しておられたように覚えている。考えてみると私もこのブログを始めてから2年か3年くらい経過しているようだ。
 但し私の場合、何かを書き留めて公開せずにはいられないとかどうしても文字として対象化しておきたい何事かがあるとかいった強いモチベーションがあったのかというとこれは甚だ疑わしい。
 だから先の、ブログの平均的寿命云々といった仮説については私はいくらが別の見方をしてもいて、その中には例えば私のような意思の持続性に乏しい怠け者の方々も結構多数含まれているのではないかと思い込みたい。

 何かを怠けて後になってからばつの悪い思いをしたことはこれまでに数えきれないほどあった。今でも日常、最低何か一つは怠けて先送りにしていることがある。
 真っ先に思いつくのは自動車の運転免許の更新で、連休明けの5月7日が講習の期限なのである。実質あと一日しかない。更新期間は60日間もあるのに本当に最後の最後、どん詰まりになるまで手続きが面倒臭くてやり過ごし続けていたのだった。

 このように、物心がついた頃から恒常的に抱え続けているのは何事かを怠けてやり過ごしている間の、えも言われぬ後ろめたい気分で、私の心象風景には天気に例えると快晴の状態は全くといっていいほどない。
 そんな後ろ暗い気分を抱えて日常を過ごすのならおまえは何故、自らを律して物事を手際良く片付けてきちんきちんと気切りを付ける生活習慣を志向しないのかと私はこれまで数限りない方々にお叱りを頂いた。全くもってお説ごもっともであることはこれまで骨身に沁みて感じておるのです。
 しかしである。てきぱきと物事に区切りを付けていく『良き人』が望ましい姿であることは重々承知の上で、既にこうして人生の折り返しを過ぎるまで常に何事かを怠け続けてきた私のような者が、なんで今更そのような自己改造に取り組まなければならないかとも思う。どうせその自己改造にしたところで幾らも経たないうちになし崩しになってこれまでのような自堕落な日常に戻るに決まっている。そんなのはやる前から見えていることだ。律儀で几帳面な生活習慣などというのは既に私の姿ではない。そういう人物は私ではない別の誰かだ。私は私以外の誰にもなれないことをこれまでの生活時間の中で十分理解しているので今更そのような無駄な努力をして人格改造に取り組みたいなどとは鼻くそほどにも思わないのである。この、何かをさぼり続けていることの後ろめたい気分というのはそのまま私が生きていることの実感でもあるわけで既にどうにもかえようがない。

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「これでいいのだ」でしたっけ?
 何だか今や、悲しいくらい私自身にピッタリくるフレーズですわいw

タグ:怠け癖
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よくある日曜日の過ごし方 [身辺雑記]

私は元来、何事につけ怠慢な人物だと思う。

5年ほど前まで、会社員だった頃にはこれまで何度も書いた通り年がら年中働き通しで土曜日の出勤は当然のこと、日曜日や祝日でもデスクワークの残務のために出社することは珍しくなかったので、たまの休みには一日中、自宅でグダグダと中途半端に何かをやってはうたた寝を決め込むのが楽しくてしょうがなかったものだ。

 貧乏自営業を開業してからは生来の怠け癖を律する必然性が薄れたので、なんとか食える目処が立てばそれ以上は働かないことにした。少しく稼ぎ怠惰に暮らす日常はすこぶる呑気なもので、日曜日などは以前にましてぐうたらな時間の過ごし方を決め込んでいる。活動的という言葉にはどこまでも縁がない。

 会社員だった頃、週末の深夜はにがーいコーヒーをすすりながら夜更かしをして音楽を聴き通すのが習慣だったが自営業になってからは控えるようになった。深夜の音楽は程々にしておいてとっとと床に就き、日曜日の朝食後、掃除を済ませてすっきりした状態で音楽を聴くことが増えた。気のせいか、睡眠を取って体を休ませた後の方が聴覚も感度が高い状態にあるように思えている。

ズート

ズート

  • アーティスト: ズート・シムズ,ジョン・ウィリアムス(ピアニスト),ノビー・トーター,ガス・ジョンソン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2003/04/23
  • メディア: CD

  日曜の午前中にレコードを聴くようになってから取り出す頻度が高くなってきたミュージシャンのうちの一人。若い頃の私はあまり熱心に聞き込まずにいたが、歳を取ってから接してみると妙にしっくりくるプレイヤーだ。 近年の私は朴訥な感じの音楽を好む傾向がある。いろいろな意味で温和というか円満な音楽が日曜日午前中には馴染みが良さそうだ。

 夕方近くになってやおら外出を決め込み、どこぞで夕食を済ませて帰宅する。

 平日の私は、朝以外は殆どテレビを見ることがない。どうせくだらない番組ばかりなのだからテレビなど見ているくらいならソファに寝転がって居眠りでもしているほうがましだとさえ思っているほどだ。 但し日曜の夜はちょっと事情が違ってNHKの「世界ふれあい町歩き」を見る。私の住む土地では午後11時35分から総合テレビで放送されるこの紀行番組が妙に好きだ。一週間のうち、明確に目的を持ってみる殆ど唯一の番組ということになる。

http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/gtv/index.html

 リポーターは登場せず、撮影スタッフがステディカムを担いでその土地を歩いて撮りおさめて編集した動画に後から俳優がカメラマンの視点でナレーションをかぶせた一人称形式の番組である。どうも私は物心ついた頃から「ここではないどこかに当て所もなく旅立つ」とか「遠いところから来た風来坊として振る舞う」というシチュエーションに心惹かれる傾向がある。実際には入念な事前調査があるにせよ、少なくも表面上は行き当たりばったり風で、自由と心許なさの入り交じったようなこの番組の手触りは日曜日の深夜という時間帯が及ぼす心象風景と相まってか、何かしら私の本能をくすぐる作用があるらしい。年がら年中根無し草のように世間を浮遊しながら手探りで生きている私自身の投影なのかもしれない。

 四月からの番組改編以降、金曜日の午後10時45分からの放送となるのだそうだがNHKのセンスもあまり感心出来たものではないな、と思う。この番組はせっかくの休日を怠惰で無為なものに終わらせてしまったことへのささやかな反省と後悔を噛み締めながら見ることで味わいが出てくるもののように思えているのだが。

 


腰痛の季節 [身辺雑記]

 日本のどこかでは梅の花が咲いたとニュースで報じられていたが、これまで何度も書いた通り私の住む土地は日本でも有数の寒冷地で未だに真冬である。ここ数日、早朝の外気温は-15℃以下を連日記録している。昨日は-20℃だった。

 今年は雪が多い。豪雪地帯ではないがむやみやたらと寒い土地なので一度降った雪はなかなか溶けずに春まで居座る。先週の土曜日には約10センチの降雪があった。先々週の土曜日には約40センチ、その前の土曜日には約30センチ、その前やその間にもとにかく雪が降った。

 雪が降れば当然ながら雪かきをしなければならない。放っておいても溶けてくれないのでどこかの時点で行わなければならない。一人暮らしが長いので持ち前の怠け癖がすっかり体に染み付いているところへ持ってきて寄る年波のせいでこれが何とも億劫だ。億劫ではあるが他に片付けてくれる人もいないので結局「えいやっ!」とばかりに意を決して寒い戸外に飛び出してスコップを振り回すことになる。

 最近は小型の除雪機が普及して除雪はずいぶん楽になったようだが私の自宅にはない。お金がないので買えないだけの話だが肉体を酷使して働くことには何かの意義があるはずだとやせ我慢をしながら毎度雪かきに励むのだが毎年体力は低下の一途を辿りつつあるのでそれも限度に近づきつつある。

 雪かきをさぼり続けて何日も放置していると日中の気温上昇と雪それ自体の重みで積雪は徐々に押し潰されていき、見た目上での重みは増してくる。そんなところへ気だけはまだ若いつもりで50肩が治りきってもいないこの私がやおらスコップを抱えて雪かきを始めると後になってから腰痛に悩まされるというのがここ数年の通例である。

 昨年も、一昨年もこの時期には腰痛に悩まされた。今年もまた同じことを繰り返し、風呂に浸かっては自分の学習能力のなさと除雪機を未だに購えない甲斐性のなさを悔いる。 例年、四月いっぱいくらいまではそのような付録が私の日常にはつきまとうので私の腰痛もゴールデンウィークくらいまでは解決の見通しはない。


タグ:腰痛 雪かき
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安物買いの銭失いを地でいく [身辺雑記]

 拙宅の居間にあるDVDプレイヤーはこれまで何度も故障しては放り出してきた。現在使っているものは4代目なので平均3年弱から2年強くらいでおシャカになり続けてきたことになる。

 現在使っているものは昨年の暮れにハードオフから買ってきた型落ちの安物でお値段は三千円だった。さすがに三千円だけあって使い始めて僅か三ヶ月でディスクトレイが開いた途端に閉まるという変調を来すようになった。

 

dv343.jpg

 

 買ったところはハードオフだし値段も値段なので文句を言えた柄でもないのだがこうも次から次と短命政権が続くとまるでゴミを買ってきているような気になり始める。

 年を取ってきたせいかものを覚えるのがだんだん面倒臭くなり始めているところへもってきてDVDプレイヤーのリモコンはかなり多機能なのでせっかく要領を覚えて操作に慣れた頃に本体が壊れると何だか面白くない気分になるわけだが元はと言えば間に合わせの安物ばかりを買い続けてきた私のせこい了見が原因だ。

 いっそのこと、オールインワンでお手軽なセットを一つ置いておくのも悪くはないかと思案中だがこの手の思案ごとに夢中になっている時、私には決まって先立つものがない。

ボーズ DVD/CDレシーバー:PLS1610 PLS-1610

ボーズ DVD/CDレシーバー:PLS1610 PLS-1610

  • 出版社/メーカー: BOSE
  • メディア: エレクトロニクス

昨年の暮れに入れ替えた車のローンが終わる来年夏頃くらいまでにどうにか予算がひねり出せれば良いのだが。

 調子が今いちといえばLPレコードのカートリッジも今ひとつでシュアーを使っていた頃の簡便さが懐かしい。

 

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折りを見てはトーンアームのセッティングをああでもないこうでもないとやり直すが思い出したように針飛びを起こす。慢性疾患のようなものだ。
死んだ子の年を数えるような気分でレコードを聴くのも精神衛生上はあまりよろしくない。
 
 最近の安物買いといえばこうしてテキストを打っているパソコンだがこれにしたところであまり安心はできなさそうな気がしている。
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 どうも私の身辺はここ半年以上、常に何かが壊れている。機械文明の中で生きるというのはいつも壊れた何かと向き合う日常ということになるのかもしれないがそれはひとえに私が甲斐性なしの貧乏人だからで、安物買いの銭失いを性懲りもなく繰り返していいるからだ。
 

 

 


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2009年の正修会 [身辺雑記]

 12月度は後半、風邪を引いて寝込んでみたり夜間作業が連続したりであっという間に過ぎてしまい年が明けようとしている。反省も回顧もあったものではない。なんだか訳もわからずに右往左往しているうちに大晦日だ。

 例年の習わしで大晦日の深夜は檀家衆の集まりである正修会(しょうしゅうえ、と読みます)に出かける事にしている。私の住む土地は岐阜や富山などからの入植者が多いので浄土真宗の門徒が多い。

10909270.jpg帯広市の東別院は囚人労働の役務として建設されたもので、戦災に遭う事もなく今日まで竣工当初の骨組みがそのまま残っている。帯広市の保護指定建築物なのだそうだ。

 世の中全般に、失業者が増えてきて不穏な空気が立ちこめつつあるように思う。私の住む町にもそのような雰囲気は横溢しつつある。リストラと言えば聞こえはいいが実態は解雇、首切りであってこんな事が横行すればそれは世間には怒りが醸成されるのも無理はない。

 私が門徒であるところの浄土真宗は室町時代の末期には一向宗ともいわれていた。日本史のお勉強では一向一揆と教わった出来事の当事者である集団だ。長い日本の歴史にあって、局地的であり一時的でもあるが、民衆蜂起が時の統治権力を打倒した殆ど唯一のケースだ。坊さんの語るところによれば比叡山に焼き討ちをかけた織田信長という人は未だに仏敵のようだ。

 民衆蜂起が起きてもおかしくはなさそうに感じられるご時世ではあるが、個人的には宗教などによって束ねられるのはやはり好ましくないように感じている。そこにはどうやっても政治的な利害や打算が働くに決まっているからだ。宗教というのはあくまで、個人の内面的な問題に働きかけるにとどまっているのが望ましい。

 例年通り、本堂の入り口では年越しそばが配られている。今年は気のせいか、生活上切羽詰まった感じの若い衆が増えたように見えた。炊き出し風な情景でもあって、各個人の包摂性が低下しつつある以上は宗教施設が地域のコミュニティの場であるというのも便宜上ありではないかとも思えた。

 今年は数年ぶりに除夜の鐘を突いた。釣り鐘の共鳴というのはそれはそれは物凄いもので、その後しばらく耳鳴りがする程大きな音がする。皮膚感覚の轟音を浴びると、このブログでもカテゴライズしているオーディオシステムなどというのは所詮、虚構の世界で遊んでいるに過ぎない事を改めて知る。

 今年の法話は手短で勤行はあっけなく終わってしまったが、正修会とは修正とかリセットとかいったニュアンスの集まりなのである。年が切り替わる際に過去一年を顧みてあるべき姿からどれくらい逸脱してしまったのかを各自自省する機会、ということだ。お仕事の残しや何かで夕方までドタバタし続けていた私も正修会に参加できる程度の忙しさだった事になり、それくらいが人間の忙しさの常識的限度ともいえる。大晦日の深夜まで役務に忙殺されて年を越すようではその人は結構不幸な時間の中を生きていると見ても良さそうに思う。私自身、会社員だった頃にそういう時間を経験した事があるがかなり荒んだ気分にはなった。

 何かの作用によってあるときからの私はそういう場面は経験せずに済むような環境に落ち着いた。それで開業以来、私は毎年大晦日になると幾ばくかの感謝の気持ちでもって正修会に出かける。駆け込みではあるが鐘を突いてそばをいただきながら一年生きてこられた事を思い返す時間があるうちはまだぎりぎり普通の人間らしい生活と言えるのかもしれない。


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ハエ退治にサル知恵を働かす [身辺雑記]

 昨日、ハエについてあれこれ書き殴っているうちに段々不快な気分が増してきたので、何かを実行しなくてはという使命感が心中に湧き起こってきた。ハエの命脈が尽きるのを待って毎日毎日我慢し続けられるほど私は忍耐強い人物ではないのだ。

 人を殺すとか、犬を殺すとか、まあ、猫でも鯛でもカエルでもいいのだが、とにかく何かの命を奪うというのは多少なりとも決意とか逡巡がつきまとうものだと思うのだが、ことハエに関する限り私にそのような迷いは全くない。 同じ昆虫であってもチョウチョの羽をむしるのは残酷な気がするがハエを叩き潰すことには何ら良心に痛痒がない。無益な殺生を戒めるのは私が門徒であるところの仏教の教えだが私は自宅を我が物顔に飛び回るハエどもを無益どころか大変はた迷惑な存在だと思っているので積極的に殺戮大作戦に乗り出すことを決意した次第だ。(我ながらたかがハエごときに何と大仰な・・・アホだ)

 本日朝、居間に降りてみるとあの忌々しい羽音がせず、静寂が保たれていた。やはり朝というのはこうでなくてはならない。早朝なので室温が低く、ハエどもも活動的ではないのだ。しかし人が活動するということは諸々のエネルギー消費行動の結果室温が上昇しはじめる。するときゃつらはやおら活動が活発化し、朝食を終えていつものようにゴロゴロしている私の周辺を腹立たしく飛び回り私にへばりついてくる。

 殺意の度合いが徐々に上がってくるのを自覚しながら私はどのようにしてきゃつらを殲滅するかについて思案した。ぶんぶんと喧しい周辺を見渡すとハエどもの個体数が予想以上に多い。昨日私は六匹と書いたがもう少し多そうだ。大体8匹程度があちこちに取り付いて尻を持ち上げ、後脚をこすり合わせている。室温が上がりすぎたのでストーブを消火するために立ち上がると私にへばりついていたハエどもが三匹位羽音をたてて離脱した。

 私は確かにバカの部類に入るが痩せても枯れても霊長類のヒト科なのだ。ハエごときのいいようにはさせない。

温血動物を舐めるなよ!と、殺意を滾らせながらストーブの火を消し、戦略を練った。

 無策でやり合ったのでは徒労に終わることは間違いない。運動神経のないこの私が幾らムキになってハエ叩きを振り回したところできゃつ等は私を嘲笑うように自由自在に逃げ回り、タバコを吸い過ぎの私は息を切らして膝をつくのがオチだろう。そもそも何故、私の家でこいつ等はこうも元気よく飛び回っているのかといえば家の中が温暖だからだ。寒くなれば変温動物であるハエどもは一様に活力を失って運動性は低下することを私は経験的に知っている。

 ならば家の中を故意に寒くすればよい。その状況下なら挙動の魯鈍な私程度の奴でも勝機は生まれてきそうに思えた。きゃつ等の集団はその飛行範囲は居間にほぼ限定されている。私は窓という窓を開けて外気を取り入れ、居間の室温が外気温と殆ど同じ位にしてお仕事のために一旦外出した。不用心極まりない愚行だがそれくらい私はムキになっていたのだ。(バカ丸出しとはこのことだ)

 果たして数時間後、帰宅するとハエどもが数匹、日のさす壁に取り付いていた。(居間の壁紙は白い)様子を眺めて私は一つ気付いたのだが、窓から差し込む日光があり、それが移り込む壁紙にはガラスの箇所と窓枠の箇所とでは当然濃淡が生まれるのだが、さすがに下等生物だけあってハエどもはガラス越しの明るい部分にだけ取り付いている。僅かでもより暖かそうな所に棲息しようとする本能はこういう風に表れるわけだ。気温が下がって活力を失っている様子が何故かはっきりと感じ取れる。

 勝機は我にあり、と、新聞紙を丸めた私は壁にへばりつくハエに忍び足で近寄った。思えば新聞などという、今や地球環境はおろか人間の精神生活にとっておよそクソの役にも立たない物体が、我が家に於いて初めて有効活用されようとしているのだな、と、一瞬思った。

 勝負は一撃で決した。本日の戦果は三匹。壁紙にはハエの体型通りに黒ずんだシミが残ったのが腹立たしい。仕留めた後で壁を拭いてみたがシミがなかなか取れない。全くハエという生き物はくたばってなお迷惑な生物であることを実感した。 私の殺気を察知してか、逃れたハエどもはどこかに隠れて居間が静まりかえる。

 窓を閉めた私は一服しながら自分も捨てたものではないではないかと結構満足していた。ハエなどという生き物には大した学習能力はないので今後もきゃつ等は同じ手口に引っかかり続けてやがて我が家に於いては絶滅するであろう。しかしハエ取り名人であった私の父は真夏であってもほぼ百発百中の打率を記録していた。サル知恵頼りの愚息はその域に達することは恐らく生涯ない。

 


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蠅について愚考する [身辺雑記]

 私の生息地はそろそろ早朝外気温は氷点下が続く、冬の始まりだ。もうひとつ、築8年程になる私の住居は高断熱高気密の造作なので冬でもそこそこ暖かい。住宅を新築するにあたって燃料である灯油代を節約したいがために結構私は思案したのだった。ところが、だ。

 高断熱高気密の家には盲点があった。屋外が寒くなって居場所が苦しくなったハエがどこかから紛れ込んできて家の中を我が物顔で飛び回る。我が世の春を謳歌しているかのようこの闖入者が家の主としては大変憎々しい。 思い出すと、築40年以上にもなる私の実家は冬には大変寒い家だったのでハエ共が威勢のいいのはせいぜい9月いっぱいくらいまでであって10月ともなれば家の中はすっかり寒く、ハエなどどこかへ失せているのが常だった。私が実家の厄介者であった頃、家の造作についてしばしば悪口を叩いたものだがあれはあれで一つくらいはいい事があったのだと少々反省したりもする。しかし一度口をついて出た言葉は引っ込まないし、発せられた言葉はそれを受け止めた人のものでもある。私は、甲斐性もないくせに年がら年中文句ばかりたれているろくでなしの倅、という状態で家を出た。

  (1)全体、ハエなどという生き物に私は子面憎い以上の感情はない。羽音をたてて飛び回っている様子を目にすると無条件に頭にくる性分だ。これが仮に、猫にでもじゃれつかれるような場面であればそれなりに余裕をかまして少しばかりは嬉しいような気分でもあるのだろうが体にハエがとまるとなると何故か腹立たしい。

 (2)只今、NHKで爆笑問題のメンツが東大名誉教授である東氏の所を訪ねる番組を放送中である。生物力学という学問分野があるらしい。トンボの飛行能力について論じている最中だが、こと飛行能力に関する限りハエに勝る生き物はないのではないかと私は確信している。トンボは確かにたいしたものだがやはりハエには敵うまい。空中での急激なターン、ホバリング、などなど、ハエの飛行能力は傑出しておる。しかしこの特質について私は畏敬の念など鼻くそ程にも抱いてはおらず、 ただただ腹立たしい生き物の腹立たしい生態としか思っていない。

 (3)30年程前に亡くなった私の父は剣道の師範であり、警察などにも教えに行っていた一端の剣士だった。一事は万事に通じるというか、彼はハエ叩きの名手でもあった。父は一度ハエに狙いを付けてハエ叩きを手にすると殆ど百発百中の確率で仕留めてみせたのだった。ハエの背後からそろそろとハエ叩きを忍ばせて行って一瞬でパシッ!と決める、そのときのハエ叩きの出の早さは今考えても神懸かり的なものがあった。面を打つ要領であるらしい。父は息子のうちの誰か一人くらいは剣道に取り組んでくれることを期待していたのだそうだが誰一人として興味を示す息子はいなかった。結局、父親程の反射神経も動体視力も引き継ぐことのなかった息子である私は今日も空しく力任せにハエ叩きを振り回しては空振りを繰り返し、苛立たしい気分を増大させ続ける。父の意向に添って剣道のたしなみでも身につけていれば少しは戦果を挙げることが出来たのかもしれないという謙虚な反省がない。

 (4)冷静になって居間を飛び回るハエの数を数えてみると合計6匹程だった。しかし不思議なもので、例えば6匹のカブトムシだとか、6匹のチョウチョに比べると6匹のハエというのは何かものすごく多い個体数に思える。個体が存在することによる不快さの度合いが一次関数的な増え方ではないことにもハエの特徴がある。すなわち、一匹のハエが部屋を飛び回ることによる腹立たしさが仮に1とすると、六匹では6ではなく、36とか48くらいの不愉快さだと私はテキトウに数値化してみたくなるのである。(注)私はカブトムシやチョウチョを家の中で飼ったことがある訳ではない。

 (5)ハエの行動のうち最も頭にくるのは眠っている最中、顔面にとまることだ。大口を開けて高いびきを決め込んでいるときには口の中に飛び込んでくるときがある。鼻の穴の近辺をうろつき回るときもある。絵に描いたような安眠妨害だ。目覚めとともに殺意を覚える生き物というと今のところハエ以外には思い当たらない。寿命が尽きかけて飛行能力の衰えたハエはなおいっそう厚かましく人の体に取り付きたがる傾向がある。私のような運動神経の鈍い人物であってもどうにか対抗措置のとれる一種のチャンスな訳だが、生き物の命を殺めるという行為について、ことハエに関する限り私はいささかも良心の呵責を自覚しない。
 全人類的に、腹立たしい生き物についてのアンケートをとる機会があったとして、ダントツの一位となるのは間違いなくハエであるはずだと私は確信している。


タグ:ハエ 不快
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