Louis Armstrong plays W.C.Handy(ルイ・アームストロング・プレイズ・W.C・ハンディ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
年明けの最初にはこういう音楽を聴くということを格別決めているわけではないが、自分に気合いを入れてみたくなったので引っぱり出してきた。
サッチモが真の意味で偉大なプレイヤーだったのが大体この辺りまでではないかと思っている。一曲目の「セントルイス・ブルース」だけで腹一杯になってしまうくらいのハイテンションだ。生涯何度かこの曲をレコーディングしているが、1925年の演奏と双璧だろう。しかも録音は1954年で9分にわたる長尺演奏に加えてハイ・ファイ・レコーディングなのでトランペットが張り裂けそうなビッグトーンはげっぷが出るほど堪能出来る。
こうして全曲ブルースナンバーという企画盤を通して聴いてみると、ジャズヴォーカル(この呼び名が私はどうも気に入らないが)というカテゴリーは多くの部分をブルース・シンギングに負っているのだとあらためて気づかされる。 歌の部分だけを切り取ってみればここでのサッチモは正真正銘のブルースシンガーと言って良いほどだ。その唄いっぷりは時に荒々しく豪快、時に哀愁を覗かせると言った具合でやけに印象深い。
私は普段、所謂ジャズヴォーカルというものをあまり熱心に聴かない。というか、そういうカテゴリーをどこかで認めていない。そもそもディキシーの時代にまで遡ればジャズにはヴォーカルナンバーなどなかったのだ、と、決めつけていて未だにその考えが変わらない。 だからフランク・シナトラだったりある時期以降のナット・キング・コールだったりは私にとって『ある種のポピュラー・ミュージック』ではあるがジャズではない。ジャズであろうがなかろうがいい音楽でさえあればそれで良い。ただ、例外のような存在としてサッチモとビリー・ホリデイの歌には何かしら特別なものを感じる。どう違うのかは未だに頭の中で整理出来ていないのだが。
本作は全員、何かが取り憑いたようなハイテンションで中にはオーバードライブがかかっていて演奏が破綻気味な御仁もいる。具体的にはトラミー・ヤングがその人で、そのブローイングは豪放さと単調さがないまぜであり、時にコーラス割りを間違えるミスもここでは記録されている。 しかしこういう暴走気味の吹奏をさえサッチモはねじ伏せるようにしてそれぞれの曲をまとめあげていく様子が大変頼もしい。
繰り返しになるがここでのサッチモのブローは全く持って圧倒的の一語に尽きる。囁きかけるようなオブリガードから分厚い壁をぶち抜くようなフルトーンまで硬軟自在、トランペットという楽器はこうやって演奏するものなんだよ、というショウケースみたいな吹奏が全編これでもかと言わんばかりに押し出さされてくる。ホーンセクションのうちでは御大の豪速球と対比をなすかのように軽いフットワークで縦横無尽に細かいパッセージを繰り出すバーニー・ビガードが秀逸で最高の突っ込み役。エリントンのバンドにいた頃よりも更に鮮やかな印象を残すのは私にとってはまあなんというかちょっとばかり皮肉な気はする。
しみじみ歌い上げられるIt's a wonderful worldも良いが、老境期の枯れ具合だけで評価していただきたくはない、と常々私は考えている。出音一発の迫力でサッチモを超えるトランぺッターはその後一人も現れていないとさえ言い切っても良いのではないか、と、全部を聴き通してみてあらためて感じた。
(いずれ追記を書きます)
正修会と初詣 [身辺雑記]
大晦日には菩提寺の正修会に出掛けるのは例年通り。若い頃には除夜の鐘を突きたくて張り切って出かけたものだがここ数年は眺めるだけにとどめている。当然ながら毎年、人数限定108人様までなのでこれはもう機会を他人様に譲ってもいいだろう。
正修会は0時30分に始まり、勤行を終えてから輪番の法話を拝聴する。一昨年までの輪番は山あり谷ありの長口上で午前2時過ぎまでかかった。途中眠り出す門徒衆が目立ったものだが老年期の方々が多いせいでその辺を配慮してか、現在の輪番は話を手短にまとめる傾向がある。
浄土真宗大谷派は『他力本願』の宗教である。 誤解されがちだがこれは決して自分は何もせずに全て人任せという意味では全然ない。仏教に神という概念は存在しないがここでは『自分はある大きな意志のもとに生かされている』という人生観が基底をなしている。他宗派の方から見てそれは諦念の徹底とも映るようだ。
仏閣は願い事をするための場所か、という話題が出たのだった。宗派の見解としてこれはNG。本来的には今、この瞬間まで生かされている事の感謝を捧げるために訪れるのが本来的なありようとのことで、確かに願うだけで実現するのなら何も苦労はないし、めいめい勝手な願い事が全て実現したら世の中は大混乱だろう。
正修会のあとは帰宅して一眠りし、これまた例年の習慣で近所の神社に初詣を決め込む。
神道に対して私は真っ当な理解が出来ていない。宗教的な関わりは大変希薄だが地域社会に根ざした施設だという理解はある。仏閣の正修会は本堂で読経する人たちは大体毎年50人くらいだが、元旦の神社は一体どこから湧いて出てきたのかと思うほどわんさか人が集まる。考えてみると神社には○○祈願という言葉がついて回る。こちらは何か、願い事をしにくる場所という事だ。
今を肯定し、生かされている事に感謝する人々よりも何かの不足や欠落を感じてこれを満たすための願い事をする人々の方が世の中には圧倒的に多いという事なのだろうから神様も楽ではない。しかしその割には私自身について考えてみると毎年初詣は行っているが過去、何を祈願したのかを全く思い出せない。私はどうも、幾つもの流儀を使い分けて振る舞えるような器用さに欠けていることを今年あらためて自覚した次第。
青いくれよん/菊池弘子 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
音楽の事を書きたいのか、それとも私自身の過去の事を書きたいのか頭の中で整理がつかないのだが、ネットというのは時に本人がとうの昔に忘れていた過去の記憶を生々しく喚起させてくれる事はひとまず書き残しておきたい。
今から30年以上も前、たまたまラジオの深夜放送で何度か聴いた事のある曲がずっと意識の奥底にこびりついていたのだった。曲名も唄っている人もわからないまま30年以上経っているという事は、実のところ私がその音楽にさほど大きな関心がなかったのかというとそうではないように思う。
その曲は何だかやけに私の琴線に触れるものがあった事は確かだ。同時に中学生だった頃の私からは大変遠いところにある音楽だった事もまた確かだ。 どういう連想が働いてそこに辿り着いたのか、私は昨日、偶然その歌の事を知った。
1970年代中期に陸続として現れては消えていったフォークシンガー達のうちの一人、 マイナーポエットだ。そしてまた、ベタな歌だ。聴いていて気恥ずかしくなるような歌だ。今でもそうだが私はどうも情感というやつをあからさまに言葉として投げかけられるのが苦手だ。大体世の中、ありとあらゆる出来事のうち言葉で表現しきれるものなど幾らもないのであってわけても人の心象風景はその最たるものだといつの頃からか思い込んでいる。
しかし、手っ取り早くがさつな「言葉」ではあるが、そのようにしてしか伝えようのない事や場面や人は確かにある。人の声で唄われて音楽となる事で何かしらある種の魔法が生まれる場合があるのも否定しない。 この曲は少年期の私が気恥ずかしくなるようなある種の気分を喚起させた。もしかしたら今に至るまで私自身が目を背けているある種の内面がここには現れているのかもしれない。
記録された音楽を購入して所有するのは現在ほどお手軽な時代ではなかったその頃、 ラジオというメディアは金欠少年にとって大変有り難いものだった。当時私はリアルタイムで聴くだけで、テープに録音するという手段がなかったなかったのでそれはある種、偶発性に頼らなければならない切なさを伴っていた。歌のモチーフは恋愛に関するある種の切なさだと思うので当時の私は二重に切なかった事になる。(こういう事を臆面もなく文字にするのが気恥ずかしいのですよ、私には)
この歌は当時、コッキーポップという番組で時たまオンエアーされていた。大石伍郎がDJを務める、ヤマハ(当時は日本楽器)がスポンサードする番組だった。私は中学生の頃から既に精神の屈折が顕在化していたのでこういう音楽にどこかで惹かれながらも自分には関係ない世界だと決めつけて目を背け続けていた事は既書いたが、それなりに生活時間を積み重ねてその頃よりは幾らか許容幅が上がってきた(と思いたい)現在になって素直に耳を傾けてみると、なんともキュートで切ない世界だ。(それを言葉として安易に書いてしまうのに抵抗があるのだが)菊池弘子嬢は結局、シンガーとして大成する事もなくフェードアウトしていった。細部を小姑のようにしてつぶさに聞き取っていけば大成しなかった理由も何となく納得出来はするが、マイナーポエットが経験したり表現出来たりする一回だけの魔法、その人の人生に於ける一回だけの特別な時間がここには確かに記録されていると思うのだ。30数年、記憶のどこかにこびりついていた理由というのはその辺ではないかと今は考えている。
余談だが、あるブログを見ていると菊池嬢の事が幾らかは書かれたテキストがあって、当時の自己紹介では好きなミュージシャンがなんとジミ・ヘンドリックスとの事だったそうだ。私はこの人の唄う世界とジミヘンのどこに接点があるのか全く察しがつかないが今となってはそれをご本人に確かめる術もない。
もう一つ余談を。
中学校を卒業してから私は進学先で寮生活を送る事になった。入学直後、同室となった男はどうも私とは感覚的にそりの合わない人物で年がら年中この手の歌ばかりを聴いていた。その男がラジカセに録り溜めておいたなかにこの歌はあって私は結構気になっていたのだが、くだらない意地を張っていたせいでそれが何という曲で誰が唄っているのかを尋ねる事もその曲を聴かせて欲しいと彼に頼み込む事もないまま半年間の同居期間を終えた。再びこの歌を聴くまでになんと30年以上もの空白だ。
そして昨日、ダウンロードを済ませた私は妙な意地を張り続けた30数年を自省しながら何回も繰り返してこの歌を聴いている。自省するようになった分だけ大人になったのだとは思うが聴いたり書いたりして気恥ずかしい気分になる部分については中学生の頃から成長していない事も知った。
ジャズ・アネクドーツ(ビル・クロウ 著 村上春樹 訳) [書籍]
何となく買い込み、たまにパラパラと拾い読みする類いの本。
その全てが実話かどうかは不明だがいかにもありそうな小話の集積ではある。
エピソードを一つ、転記しておく。ご登場いただくのはこの人
かつてはブラック・ナショナリズムの闘士だったアーチー・シェップその人。恐らく1970年代中期の事かと思われる。本書の37ページあたりにその記述がある。
(引用始め)ビーヴァー・ハリスはあるジャズ・ツアーのときに、東京のテレビに出演した。そこでの出来事を、彼は次のように述べている。
アーチー・シェップがマイクの前に進み出た。誰かが彼の言葉を通訳する事になっていた。通訳は言った。『シェップさん、日本の感想はいかがですか?」。我々はみんなで一列になって立っていた。リー・コニッツと彼のバンドが一曲演奏を終えたあとだった。
アーチーはカメラをまっすぐ正面からのぞき込む。そして言う、
「私たちは平和のうちにここにやってきました。私たちは広島に原爆を落としたアメリカ人とは違います」
そしてグラチャン・モンカーが言う、
「おい、こいつら(these motherfuckers)にそんな事思い出させちゃダメだ!」
これが全部テレビ中継された。私はあわてて中に割り込んだ。「いや、私たちはリズミカルななんだかんだをなんだかんだしようと・・・・」と適当な事を言った。そうでもしなかったら、俺たちはその場で逮捕されていたかもしれない。 (引用終わり)
事の真偽はともかく、いかにもという感じの小話ではある。
おおよそ登場人物はキャラが立っていて、例えばマイルス・デヴィスは金の事であれこれ難癖を付けてはごねる話、ベニー・グッドマンは独善的なバンドリーダー、ズート・シムズは酒にまつわる話題などなどで本書は出来上がっている。この手の小話が生まれてくるのもある時期までのこの業界が一癖も二癖もあるアウトサイダーがかった豪傑が入り乱れる世界だったからなのだろう。ある時期からの、勉強秀才ばっかりが幅を利かすようになった(ように私には見える)状況からはきっとこういう本が出来上がるような事はなさそうに思える。それがいい事なのかそうでないのかはわからないが。
Courts the Count/Shorty Rogers(コーツ・ザ・カウント/ショーティ・ロジャース) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: ショーティ・ロジャース
- 出版社/メーカー: BMG JAPAN
- 発売日: 2002/06/26
- メディア: CD
2.5インチHDDを買ってきて・・・ [パソコンのこと(主にMac)]
朗報! [再生音楽の聴取環境など]
Work Song/Nat Addarley (ワーク・ソング/ナット・アダレイ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: ナット・アダレイ,ウェス・モンゴメリー,ボビー・ティモンズ,サム・ジョーンズ,キーター・ベッツ,パーシー・ヒース,ルイ・ヘイズ
- 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
- 発売日: 2009/06/12
- メディア: CD
しかしここで、幾らかの同情的な気分を抜きにしてもそれはナット・アダレイが凡庸なミュージシャンだった事を意味しないし本作以外の全てが凡作なわけでもない。
あまり多くはない手持ちのリーダー作を聴いてみてあらためてわかったが、ナット・アダレイというミュージシャンはレコード作りに於いてはなかなかのアベレージ・ヒッターだ。そしてそれらは本人のプレイそれ自体というよりは中編成程度のバンドで巧みなバンドアレンジで聴かせるような作風のものが中心であるように思える。ここでまたしても多少意地の悪い見方をするなら、残念ながら本人の演奏はそれら「バンドの音」に埋もれがちな恨みがないわけでもなく、大きな存在である兄上を抜きにしてもやや個性が弱い事の証左となってしまっているわけだが。
私は若い頃、サッポロビールのテレビコマーシャルに使われたBGMとして本作のタイトルチューンに接したのがナット・アダレイを意識した最初だったと覚えている。このコマーシャルには他にもバド・パウエルやアート・ブレイキーなどの音楽が使われて、それがモダン・ジャズの敷居を少しは下げる働きにもなったのだがナット・アダレイもそこには幾ばくかの貢献があったと見てよいのではなかろうか。
タイトルチューンのWork Songは、兄弟バンドで演じられる時にはそれこそヨイトマケ風のファンキーチューンだが、ここでは編成のユニークさのせいでひと捻り入った個性的なゴスペル風の印象を与える。
実のところ、全体を通じて本作のサウンドカラーを個性的というか印象的なものにしているのはサイドメンによるところが大きく、中でもウェス・モンゴメリーの荒々しいコード・カッティングが際立っている。リズムセクションは兄弟バンドのユニットがそのまま起用されているがサイドメンの追加とアレンジの工夫で独自性は打ち出せるという、これは影の薄い弟としての控えめな自己主張かもしれない。
ナット・アダレイというミュージシャンは一枚看板としてのトランぺッター(正しくはコルネット・プレイヤーか)についてかなり謙虚な自覚があったように私は考えている。
これまで何度か書いた事の繰り返しだが私はトランペットは資質の楽器だと思う。何かしら先天的な資質によってもたらされるある種の突進力がこの楽器の王道を歩むプレイヤー達には例外なく備わっていて、そうでない人は”バンドの中の1ピース”としての自分にプレイヤーとしての立ち位置を求めていく運命の楽器がトランペットだと常々考えていて、その代表がマイルスだ。
バンドの看板というには幾分小粒感のあるトランぺッターが、ワンホーンで作り上げた音楽として本作はあちこちに沢山、きめの細かい配慮が散見される。兄弟バンドでのファンキー路線とは相反するようにそれらは一種、インテリっぽい雰囲気をたたえてさえいる。本人の代名詞のようになったタイトルチューンよりも、タイトにまとめられたスタンダード・ナンバーにそれらは顕著で、ピアノレスだったりドラムレスだったりする線の細いリズムセクションをバックにした吹奏にはコルネットという楽器のトーンも相まって小味の効いたペーソスが感じられ、微笑ましい気分を喚起させられる。ボビー・ティモンズは抑制的で、音の隙間をウェスとチェリストが埋めていく。という絶妙なスカスカ感にここでのナット・アダレイの生来的に小作りなプレイは実に収まりがよく、主役としてサマになっている。それは本作のリーダーが単なる名義上の話だけではなく構成上の位置づけとして紛れもなくナット・アダレイである事が整合性をもって主張されてもいるわけだ。
更に加えて本作にはなかなか気の効いた謎掛けのような設定がある。ここに参加したベーシスト三人は曲によってそのうちの二名が演奏に入れ替わり立ち替わり参加し、サム・ジョーンズとキーター・ベッツはベースとチェロを持ち回りで弾き分ける。どの曲では誰が何を弾いているのかを聴き分けるという、パズルを解くような面白さも有りだ。
結局のところ本作で聴かれるようなバンド・サウンドはその後流行る事もなく、これ一作だけのものになってしまった。一種奇抜な試みだが奇抜さを奇抜とは感じさせないセンスは見逃せない。同時に、それだけのセンスを持ちながら本作での試みを自身のソロ活動として拡大増強はせず、あくまで一作のみの実験にとどめたところに色々な意味でナット・アダレイというミュージシャンの円満で節度のある資質は伺えるような気がする。誰かの弟としてのあるべき姿とはこういうありようなのかもしれない、と、家族の中での異物である私などは収まりのいい立ち位置を見いだせなかった自分の半生に込み入った気分を淀ませながら本作に針を降ろして心の皺を伸ばす場面が結構多い。そういう心象風景に於いて、ナット・アダレイの醸し出すいい意味での小粒感とちょっとコミカルなコルネットのトーンは私の中のざらついた何かを確かに円満にしてくれる働きがあるようだ。
HDD用クレードルに手を出してみる。 [パソコンのこと(主にMac)]
Firewire800のハードディスクを物色中 [パソコンのこと(主にMac)]
BUFFALO USB2.0&eSATA&IEEE1394/1394b用 外付けHDD for mac 1TB HD-M1.0TIBSU2
- 出版社/メーカー: バッファロー
- メディア: エレクトロニクス
Apple Time Capsule 1TB MB765J/A
- 出版社/メーカー: アップル
- メディア: エレクトロニクス
Suger/Stanley Turrentine (シュガー/スタンリー・タレンタイン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-20
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-21
長じてジャズにはまり込み、コールマン・ホーキンスを聴いた時、私が連想したのはやっぱりサム・テイラーだった。
その演奏スタイルを時系列で辿ればサム・テイラーはコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーであって、日本に於いて、ジャズの(ということはコールマン・ホーキンスの)アクセントなりイントネーションで様々な日本の土着音楽を演じたところに彼のこの国にでの商業的成功はもたらされた。言い換えればその演奏スタイルというのはジャズ以外のカテゴリーでも色々なプレイヤーによって結構色々演ぜられている流儀のようで、よく対比されるレスター・ヤング風からバップ以降に連なる演奏スタイルの系譜は、テナーサックスという楽器の演奏スタイルとしてはむしろ亜流の歴史と見るべきなのかもしれないとあるときから考えるようになった。
順序が逆ならもう少し違った見方が身に付いたのかもしれないが、私の場合はこの楽器の刷り込みはサム・テイラーの演歌テナーによってなされたので楽器の印象はなにかしらオヤジ的な佇まいと強く結びついていてこれは今も変わらずに意識の底にこびりついている。
オヤジ風ではないテナーサックスの演奏スタイルに目覚めたのは中学生の時に聴いたソニー・ロリンズによってであった。
- アーティスト: ソニー・ロリンズ,ウィルバー・ウェア,エルヴィン・ジョーンズ,ドナルド・ベイリー,ピート・ラロカ
- 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
- 発売日: 2009/06/10
- メディア: CD
単細胞風な私の頭は自分でジャズのレコードを買い始めるようになって以来ある時期まで、コールマン・ホーキンス風の演奏スタイルをどこかで避け続けていたように覚えている。
理由を深く考えたことはないが何かしらオヤジ的なニュアンスのある音楽を遠ざけたい気持ちがあったのではないかと今になって思う。しかしこれは単なる偏見であって、現に正真正銘のオヤジとなった現在、コールマン・ホーキンスやその影響下にある色々なプレイヤーの音楽を聴いていると格別否定的に捉えているわけでもない。それは加齢臭が自分では気づかないという類いの話なのかもしれないが。
毎度前置きが長くなるのは私の悪い癖だ。
矛盾するようだが実際のところ、音楽がオヤジ風であるかどうかなど大した問題ではないことも私は少年期のどこかで刷り込まれているはずなのだ。思い出すにそれは学生の頃、よく入り浸った喫茶店で行われていたジャム.セッションで聴いたある曲に由来している。
その曲を聴いた場所はこのブログで私が何度か取り上げた釧路市の喫茶店「ジス・イズ」で、何年かしてからこのレコードに収録されていることを知った。
- アーティスト: スタンリー・タレンタイン,フレディ・ハバード,ジョージ・ベンソン,ロニー・リストン・スミス,ブッチ・コーネル,ロン・カーター,ビリー・ケイ,リチャード・パブロ・ランドラム
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2006/11/08
- メディア: CD
30数年前に私はこのレコードのタイトル曲を聴いて以来、随分長い間記憶に染み付いていたことになる。
スタンリー・タレンタインもまたコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーで、しかも第一線に登場してきたのはモダン以降の時期だったのでその足場が革新的だったり先鋭的だったりしたことは一度もない。しかも1970年代後期にはいわゆるフュージョン風の装いで新作を連発したりもして私などは結構敬遠気味の御仁ではあった。
加えて若い頃の私にはCTIというレコードレーベルに対するこれまた一種の抵抗感があって、その後あちこちで何度か耳にしながらもやせ我慢のように本作のリリースを見送り続けていた。
何といっても若い頃の私に猛烈な拒否反応を引き起こしたのは本作のB面いっぱいを占める長尺なImpressionsのユルユル具合だった。それは同じく子供の頃にテレビのプロレス番組で見た、ジャイアント馬場のコブラツイストが発散した脱力感にも通じるものがある。これまた先に聴いたのが本家本元であり、表現の限界に挑戦するかのようなストイシズムに若い頃の私が入れ揚げていたせいだろう。
- アーティスト: ジョン・コルトレーン,エリック・ドルフィー,ジミー・ギャリソン,マッコイ・タイナー,エルヴィン・ジョーンズ,ロイ・ヘインズ,レジー・ワークマン
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2004/06/30
- メディア: CD
バップ以降の演奏スタイルが放擲したか喪失してしまったかした『何か』がスタンリー・タレンタインのブローには確かに連綿とあり続けている。それを強いて言葉として拾い集めれば悠然たる風情とか朴訥とした野太さとかいったムードを醸し出す『何か』だと思う。それはあるいは演歌調のニュアンスをも含んでいるのかもしれない。幾つかのレコードジャケットで見られるこの人の服装の趣味といい、こう言っては失礼だが濃いめの顔つきといい、何だか若い頃から演歌調な、オヤジ然とした色合いを体現する存在だと今になってあらためて思う。
しかしそのオヤジ然とした佇まいは色々な場面やパッケージングで結構サマになるではないかとここしばらくの私は妙に見直している。自分がオヤジであることに自覚的になったのでそれまで否定的だったり遠ざけたりしていたものに寛容になったのだ。
ぬるい展開のImpressionsも、ジャズの録音にしては少々派手目な録音のCTIサウンドも今になってみると変に馴染みが良い。タイトルチューンは勿論過去の記憶を巻き戻しながら何度も聴く。あらためて、コールマン・ホーキンスの創出した流儀には普遍性を感じてちょっとしたリスペクトを抱いたりもするのである。
しかし何故、今になってこうもストレートにこういったオヤジテナーの吹奏スタイルを心地よく受け入れて肯定的になれているかというと私はそこに、肝の座った親父が小理屈をこねる若造を一喝のもとに叱り飛ばすような構図を連想しているからだと思う。視点を変えれば若い頃の抵抗感は叱り飛ばされる側だったからということだ。
それで私は本作を聴く度にオヤジであることの気持ち良さを実感している。但し、スタイリッシュに撮影されてはいるがジャケット写真のようなことに愉悦を覚えるオヤジにはなっていない。そのような趣味を持ったオヤジにはなれずに至っている。まあ。どんな嗜好を持とうがそれぞれ勝手だが。
オノ・ヨーコ氏のテレビ出演 [身辺雑記]
休日にレッドクリフを続けて見る [映画のこと(レビュー紛いの文章)]
レッドクリフ Part I スタンダード・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: エイベックス・マーケティング
- メディア: DVD
レッドクリフ Part II -未来への最終決戦- スタンダード・エディション [DVD]
- 出版社/メーカー: エイベックス・マーケティング
- メディア: DVD
ホープ二つ [嗜好品(喫煙関係)]
つまらない雑事のことを備忘録風に書いておきます。
午後、徒歩で近くの食品スーパーに買い物に出かけた。日常利用しているお店ではないので店内のことがよくわからず、買いたいものが殆どないことに気づいてややばつの悪い気分でからの買い物かごを元に戻した時、その店では煙草のバラ売りをしていることに気づいた。
その食品スーパーは集客が悪い上に、その時たまさか店内の客が私一人だったので何も買わずに店を出るのは気まずく、煙草を買っていくことにした。カウンターでホープ二つくださいと告げると、パートと思しきおばさんは三ついかがですかと投げかけてきた。三つでも四つでも別段私は構わないのだが三十年以上にもわたる私の喫煙歴に於いて頼んだ数以上の個数を勧められたことは考えてみると初めてなのでいささか面食らった。
それがおばさんの商売熱心さの発露であるのか、それともおばさんの人なつこさというか人怖じしない性分の発露であるのかはさておき、特段顔見知りでもないのに何故そのような反応が返ってくるのかを私は少々訝ったわけだ。するとおばさんは棚の奥から下の写真のようなパッケージを取り出してきた。
パッケージはホープライトだが詰め込まれている銘柄はホープで数量は三つ、おまけでライターがついている。三個いかがですかと持ちかけてきたわけはとどのつまり、親切心のなせるところだった。ライター一個が手に入ったことは単純に喜ばしい。反面、高々三個で450円なりでもこのような付録がつくということは、煙草というのはよほど利益率の高い商品なのだ。おばさんの親切心には感謝しながらも、そんなに利益の出る商品なのであればおまけのライターなどつけてくれなくてもいいから値下げしてくれた方がよほど有り難いのだが、などと減らず口を叩きたくなったりもする。
ところでおまけのライターは中国製ではあるもののウィンドミルというれっきとした国内ブランドの製品だ。ジッポのラーターよりも一回りくらい小型のガスライターで質感はそれなりにしっかりしていておまけの出来ではない。JTおよび食品スーパーのおばさんにはやはり感謝しなくては。
黒いターンテーブルについて(その2) [再生音楽の聴取環境など]
黒いターンテーブルについて [再生音楽の聴取環境など]
SL-01が発売されたのは確か30年ほど前で、優れた内容であるにもかかわらず当時はあまり売れなかったように覚えている。単体のフォノモーターSP-20相当品と単体のトーンアームEPA-100に準じたものをコンパクトなソリッドボードに組み込んだものが当時の定価8万か9万円だったのだから考えてみると随分お買い得な製品だが、『重いもの程出来が良い』という長岡鉄男的価値観の刷り込みの強さと下を見ればSL-1200,上を見れば単体フォノモーターSP-10Mk2,ついでによそ見をすればジャケットサイズでLTA付きのスタイリッシュなSL-10という当時のテクニクスの圧倒的に華やかな商品構成のためか影が薄かった感は否めない。 しかし今日、一度は死滅したと思われたLPレコード再生もどうにかこうにか細々と生き存え、聴く人の私もだんだん大上段に振りかぶったようなステレオが重苦しく思えるようになってくると、このたいして売れなかったと思われるターンテーブルがだんだん気になってき始めてきた。内容は濃く、大袈裟ではない佇まいは今の私には結構好ましい。 世の中、似たようなことを考える人は結構いるらしく、SL-01 はオークション市場ではなかなかの人気アイテムのようだ。私はこれまで3回くらい入札を試みたが全て敗退している。落札価格は回を重ねるごとに上がり続けて現在では三万円以下での落札はまず無理で。次回の出品時には更に上がるだろうと思われる。 気になるアイテムではあるのだが30年落ちの中古品にムキになることもないか、と、負け惜しみも交えてほぞを噛むのだが、次回あわよくば、という考えも捨てきれない。
またしてもタバコは値上げされるとの噂について [嗜好品(喫煙関係)]
Jazz Young Blood/Chuz Alfred(ジャズ・ヤングブラッド/チューズ・アルフレッド) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前日私は『幻の名盤』云々かんぬんといったような駄文を垂れ流した。(行の末尾が切れてしまってうまく表示されないのだが直し方がわからないのは大いに悩ましい)
名盤かどうかは大いに疑わしいいが、幻の存在である事が周知されているだけでもまだ幸福ではないかと思える。存在した事さえも人々の意識から失せてしまったとすればそれは評価の対象にならないのだから。そんなレコードはそれこそ浜の真砂のごとく無数にあったのだろうが本作はその中にすっぽりと収まる。
- アーティスト: チューズ・アルフレッド,ビニー・バーク,チャック・リー,オラ・ハンセン,ケニー・クラーク
- 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
- 発売日: 1994/03/21
- メディア: CD
CDとして再発されている事はちょっとした驚きだがさっぱり売れていないだろう事は容易に察しがつく。それが証拠にAmazon.comのリンク画像さえない。発売が1994年となっているのでもう15年経っているわけだがカタログ落ちしていないのは重ねて驚きだ。
大体サヴォイというレコードレーベルは確たるレーベルイメージが把握しづらい上に売る気があるんだかないんだか首をひねりたくなるような低劣極まりないジャケットデザインのおかげで随分損をしていたと思う。本作についてはこうだ。
何ともお粗末極まりないとしか思えないが中身は悪くない。曲ごとの変化に乏しいのが本作を印象の薄いものにしている恨みはあるがミュージシャンとしてのセンスは悪くないと私は思っている。
本作はオハイオ州出身の無名の若者をNYデビューさせるべくそれなりに力を入れて企画されたレコーディングなのである。それが証拠にリズムセクションにはベースにヴィニー・バーク、ドラムにはケニー・クラークという当時のサヴォイ・レコードのハウスプレイヤー達がつきあっている。もっとも、それは結果として堅固な基礎の上に建てられた少々普請の心許ない家といった印象がある。
私は20数年前にキングレコードからリリースされた国内盤LPとして本作を入手したがライナー裏のキャッチコピーには哀れを誘うものがあって改めて感じるものがあった。それはこんな具合だ。
オハイオ出身の若手3人がNYジャズ界に幸運なデビュー。しかし・・・・無名のまま散った。若き日の唯一の栄光の記録。★本邦初登場
彼らの名誉の為に書いておくと、バンドとしては結構凝ったホーンアンサンブルをスムーズにこなし、ウェストコースターによく聴かれるような軽妙なやり取りが結構楽しい。主人公のチューズ・アルフレッドは強いていえばズート・シムズ似のレスター系、トロンボーンのオーラ・ハンソンは朗々と良く鳴る明快なトーンの持ち主てこれまた強いていえばビル・ハリスあたりにちょっと似か。(この人だけは三人のうち他にも録音歴があるらしい。ソニー・クリスの作品だそうだ)ピアノのチャック・リーはクリアータッチの持ち主でソロの場面では中々趣味の良いブロック・コードを随所で披露する。
テナーサックスとトロンボーンのフロントラインに3リズムという編成は私は結構好きで、ボビー・ジャズパーとJ.J.ジョンソンとかジミー・フォレストとベニー・グリーンの諸作を結構愛聴しているので本作もわりかし心地よく受け入れられる方だがいかんせん何か記憶に痕跡をとどめるような色合いの強さというかインパクトに欠けるあたりが無名のままフェードアウトしていった理由なのだろう。和文ライナーでもひどい書かれようで『この手の作品は二度と復刻されそうもない』などという納得できるようなバカ正直ともいえそうな一節がチェックもされずに記述されている。
しかしまあ、私のような何の芸もない一リスナーはこうしてレコードだけを取り上げて好き勝手な駄文を垂れ流し続けているが、楽器演奏に携わっている方々にとってはレコードを吹き込めるというのは全体数のうちの一握りに過ぎず、たった一度だけとはいえその機会に恵まれた事は彼らそれぞれの人生の軌跡の中にあっては大いにメモラブルな出来事だろう、マイナーとは言えあるレコードレーベルから声がかかったときのその心情はおそらく大変な高揚感をもたらしただろう事は時間の流れとともにその存在が埋没していく事は間違いないこの私には、相当の羨望を伴って実に良くわかる気がするのだ。
ご本人であるアルフレッド氏はその後も音楽活動を続けておられたらしい事を私はネットで知った。
http://www.dancemetonight.com/Chuz_Alfred.htm
唯一のレコーディングはやはりご本人にとっても晴れがましいものだったようで、私は英語はさっぱりわからないが少々微笑ましい気分でそのHPを拾い読みした。
ここで少々、益体もない空想を書いておきたい。視点をアルフレッド氏に置き換えてみるとして、ある日あるとき、見た事のない東洋人がアルフレッド氏の前に現れて『私はあなたのレコードを買いました。よく聴いていますよ』と話しかけてくる。一種、それは人生のファンタジーだが、本作の何かしらウォームな雰囲気はそんな出来事が人生に一度くらいはアルフレッド氏の身の上にあるべきだとしみじみ思う次第である。
(追記)知らないうちにSo-netブログにはYahoo!!オークションの関連リンクが設けられるようになっていた。私は面白半分でアルフレッド氏の検索ワードを打ち込んでおくが、リンク画像が現れる事はほぼ間違いなくないと思う。
LIve at Cafe Bohemia/George Wallington (ライブ・アット・カフェ・ボヘミア/ジョージ・ウォーリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
音楽聴き生活ももう40年近くになろうとしているので『もう長いこと』という枕詞を頭にくっつけても許されそうに考えているのだが、評価に困るレコードに出くわすことも勿論あって、ふと思い出したのがLIve at Cafe Bohemia/George Wallingtonカフェ・ボヘミアのジョージ・ウォーリントンというレコードの事だ。
出てきた男/月亭可朝 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
それでYou Tubeの動画を漁っていると月亭可朝と共演しているのを見つけた。
月亭可朝には嘉門達夫以上に強烈な思い出がある。少年期に大人の前で『ボインの歌』の出だしを唸って頭を小突かれたことのある御仁は私一人だけではないはずだ。(我ながらすれっからしのガキだったのだと少し恥じ入る)
特に講釈も必要ないだろうがコミックソングの傑作。何故かこの手の歌は関西弁て唄われると陰湿さが抜けてギャグっぽくなり、結構素直に笑える。関東方面でのコミックソングはというとクレイジーキャッツ(植木等を含む)くらいで、私的には絵に描いたような西高東低の力関係と見ている。
今日は一日、お仕事の関係でバリバリ関西弁の方と同行していたので何かしらその言い回しが頭に残っていてこの手の歌をちょっと聴きたくなったのですよ。