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Louis Armstrong plays W.C.Handy(ルイ・アームストロング・プレイズ・W.C・ハンディ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 年明けの最初にはこういう音楽を聴くということを格別決めているわけではないが、自分に気合いを入れてみたくなったので引っぱり出してきた。

プレイズ・W.C.ハンディ

プレイズ・W.C.ハンディ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ソニーレコード
  • 発売日: 1997/03/01
  • メディア: CD

  サッチモが真の意味で偉大なプレイヤーだったのが大体この辺りまでではないかと思っている。一曲目の「セントルイス・ブルース」だけで腹一杯になってしまうくらいのハイテンションだ。生涯何度かこの曲をレコーディングしているが、1925年の演奏と双璧だろう。しかも録音は1954年で9分にわたる長尺演奏に加えてハイ・ファイ・レコーディングなのでトランペットが張り裂けそうなビッグトーンはげっぷが出るほど堪能出来る。

 こうして全曲ブルースナンバーという企画盤を通して聴いてみると、ジャズヴォーカル(この呼び名が私はどうも気に入らないが)というカテゴリーは多くの部分をブルース・シンギングに負っているのだとあらためて気づかされる。 歌の部分だけを切り取ってみればここでのサッチモは正真正銘のブルースシンガーと言って良いほどだ。その唄いっぷりは時に荒々しく豪快、時に哀愁を覗かせると言った具合でやけに印象深い。

 私は普段、所謂ジャズヴォーカルというものをあまり熱心に聴かない。というか、そういうカテゴリーをどこかで認めていない。そもそもディキシーの時代にまで遡ればジャズにはヴォーカルナンバーなどなかったのだ、と、決めつけていて未だにその考えが変わらない。 だからフランク・シナトラだったりある時期以降のナット・キング・コールだったりは私にとって『ある種のポピュラー・ミュージック』ではあるがジャズではない。ジャズであろうがなかろうがいい音楽でさえあればそれで良い。ただ、例外のような存在としてサッチモとビリー・ホリデイの歌には何かしら特別なものを感じる。どう違うのかは未だに頭の中で整理出来ていないのだが。

 本作は全員、何かが取り憑いたようなハイテンションで中にはオーバードライブがかかっていて演奏が破綻気味な御仁もいる。具体的にはトラミー・ヤングがその人で、そのブローイングは豪放さと単調さがないまぜであり、時にコーラス割りを間違えるミスもここでは記録されている。 しかしこういう暴走気味の吹奏をさえサッチモはねじ伏せるようにしてそれぞれの曲をまとめあげていく様子が大変頼もしい。

 繰り返しになるがここでのサッチモのブローは全く持って圧倒的の一語に尽きる。囁きかけるようなオブリガードから分厚い壁をぶち抜くようなフルトーンまで硬軟自在、トランペットという楽器はこうやって演奏するものなんだよ、というショウケースみたいな吹奏が全編これでもかと言わんばかりに押し出さされてくる。ホーンセクションのうちでは御大の豪速球と対比をなすかのように軽いフットワークで縦横無尽に細かいパッセージを繰り出すバーニー・ビガードが秀逸で最高の突っ込み役。エリントンのバンドにいた頃よりも更に鮮やかな印象を残すのは私にとってはまあなんというかちょっとばかり皮肉な気はする。

 しみじみ歌い上げられるIt's a wonderful worldも良いが、老境期の枯れ具合だけで評価していただきたくはない、と常々私は考えている。出音一発の迫力でサッチモを超えるトランぺッターはその後一人も現れていないとさえ言い切っても良いのではないか、と、全部を聴き通してみてあらためて感じた。

(いずれ追記を書きます)


正修会と初詣 [身辺雑記]

 大晦日には菩提寺の正修会に出掛けるのは例年通り。若い頃には除夜の鐘を突きたくて張り切って出かけたものだがここ数年は眺めるだけにとどめている。当然ながら毎年、人数限定108人様までなのでこれはもう機会を他人様に譲ってもいいだろう。

 

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築百年の本堂入り口で年越しそばと甘酒が振る舞われるのもまた例年通り。
 

 

 正修会は0時30分に始まり、勤行を終えてから輪番の法話を拝聴する。一昨年までの輪番は山あり谷ありの長口上で午前2時過ぎまでかかった。途中眠り出す門徒衆が目立ったものだが老年期の方々が多いせいでその辺を配慮してか、現在の輪番は話を手短にまとめる傾向がある。

 浄土真宗大谷派は『他力本願』の宗教である。 誤解されがちだがこれは決して自分は何もせずに全て人任せという意味では全然ない。仏教に神という概念は存在しないがここでは『自分はある大きな意志のもとに生かされている』という人生観が基底をなしている。他宗派の方から見てそれは諦念の徹底とも映るようだ。

 仏閣は願い事をするための場所か、という話題が出たのだった。宗派の見解としてこれはNG。本来的には今、この瞬間まで生かされている事の感謝を捧げるために訪れるのが本来的なありようとのことで、確かに願うだけで実現するのなら何も苦労はないし、めいめい勝手な願い事が全て実現したら世の中は大混乱だろう。


 正修会のあとは帰宅して一眠りし、これまた例年の習慣で近所の神社に初詣を決め込む。

 神道に対して私は真っ当な理解が出来ていない。宗教的な関わりは大変希薄だが地域社会に根ざした施設だという理解はある。仏閣の正修会は本堂で読経する人たちは大体毎年50人くらいだが、元旦の神社は一体どこから湧いて出てきたのかと思うほどわんさか人が集まる。考えてみると神社には○○祈願という言葉がついて回る。こちらは何か、願い事をしにくる場所という事だ。

 今を肯定し、生かされている事に感謝する人々よりも何かの不足や欠落を感じてこれを満たすための願い事をする人々の方が世の中には圧倒的に多いという事なのだろうから神様も楽ではない。しかしその割には私自身について考えてみると毎年初詣は行っているが過去、何を祈願したのかを全く思い出せない。私はどうも、幾つもの流儀を使い分けて振る舞えるような器用さに欠けていることを今年あらためて自覚した次第。 


青いくれよん/菊池弘子 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 音楽の事を書きたいのか、それとも私自身の過去の事を書きたいのか頭の中で整理がつかないのだが、ネットというのは時に本人がとうの昔に忘れていた過去の記憶を生々しく喚起させてくれる事はひとまず書き残しておきたい。

 今から30年以上も前、たまたまラジオの深夜放送で何度か聴いた事のある曲がずっと意識の奥底にこびりついていたのだった。曲名も唄っている人もわからないまま30年以上経っているという事は、実のところ私がその音楽にさほど大きな関心がなかったのかというとそうではないように思う。

 その曲は何だかやけに私の琴線に触れるものがあった事は確かだ。同時に中学生だった頃の私からは大変遠いところにある音楽だった事もまた確かだ。 どういう連想が働いてそこに辿り着いたのか、私は昨日、偶然その歌の事を知った。

 1970年代中期に陸続として現れては消えていったフォークシンガー達のうちの一人、 マイナーポエットだ。そしてまた、ベタな歌だ。聴いていて気恥ずかしくなるような歌だ。今でもそうだが私はどうも情感というやつをあからさまに言葉として投げかけられるのが苦手だ。大体世の中、ありとあらゆる出来事のうち言葉で表現しきれるものなど幾らもないのであってわけても人の心象風景はその最たるものだといつの頃からか思い込んでいる。

 しかし、手っ取り早くがさつな「言葉」ではあるが、そのようにしてしか伝えようのない事や場面や人は確かにある。人の声で唄われて音楽となる事で何かしらある種の魔法が生まれる場合があるのも否定しない。 この曲は少年期の私が気恥ずかしくなるようなある種の気分を喚起させた。もしかしたら今に至るまで私自身が目を背けているある種の内面がここには現れているのかもしれない。

 記録された音楽を購入して所有するのは現在ほどお手軽な時代ではなかったその頃、 ラジオというメディアは金欠少年にとって大変有り難いものだった。当時私はリアルタイムで聴くだけで、テープに録音するという手段がなかったなかったのでそれはある種、偶発性に頼らなければならない切なさを伴っていた。歌のモチーフは恋愛に関するある種の切なさだと思うので当時の私は二重に切なかった事になる。(こういう事を臆面もなく文字にするのが気恥ずかしいのですよ、私には)

 この歌は当時、コッキーポップという番組で時たまオンエアーされていた。大石伍郎がDJを務める、ヤマハ(当時は日本楽器)がスポンサードする番組だった。私は中学生の頃から既に精神の屈折が顕在化していたのでこういう音楽にどこかで惹かれながらも自分には関係ない世界だと決めつけて目を背け続けていた事は既書いたが、それなりに生活時間を積み重ねてその頃よりは幾らか許容幅が上がってきた(と思いたい)現在になって素直に耳を傾けてみると、なんともキュートで切ない世界だ。(それを言葉として安易に書いてしまうのに抵抗があるのだが)菊池弘子嬢は結局、シンガーとして大成する事もなくフェードアウトしていった。細部を小姑のようにしてつぶさに聞き取っていけば大成しなかった理由も何となく納得出来はするが、マイナーポエットが経験したり表現出来たりする一回だけの魔法、その人の人生に於ける一回だけの特別な時間がここには確かに記録されていると思うのだ。30数年、記憶のどこかにこびりついていた理由というのはその辺ではないかと今は考えている。

 余談だが、あるブログを見ていると菊池嬢の事が幾らかは書かれたテキストがあって、当時の自己紹介では好きなミュージシャンがなんとジミ・ヘンドリックスとの事だったそうだ。私はこの人の唄う世界とジミヘンのどこに接点があるのか全く察しがつかないが今となってはそれをご本人に確かめる術もない。

 もう一つ余談を。

 中学校を卒業してから私は進学先で寮生活を送る事になった。入学直後、同室となった男はどうも私とは感覚的にそりの合わない人物で年がら年中この手の歌ばかりを聴いていた。その男がラジカセに録り溜めておいたなかにこの歌はあって私は結構気になっていたのだが、くだらない意地を張っていたせいでそれが何という曲で誰が唄っているのかを尋ねる事もその曲を聴かせて欲しいと彼に頼み込む事もないまま半年間の同居期間を終えた。再びこの歌を聴くまでになんと30年以上もの空白だ。

 そして昨日、ダウンロードを済ませた私は妙な意地を張り続けた30数年を自省しながら何回も繰り返してこの歌を聴いている。自省するようになった分だけ大人になったのだとは思うが聴いたり書いたりして気恥ずかしい気分になる部分については中学生の頃から成長していない事も知った。


ジャズ・アネクドーツ(ビル・クロウ 著 村上春樹 訳) [書籍]

 何となく買い込み、たまにパラパラと拾い読みする類いの本。

 その全てが実話かどうかは不明だがいかにもありそうな小話の集積ではある。

ジャズ・アネクドーツ (新潮文庫)

ジャズ・アネクドーツ (新潮文庫)

  • 作者: ビル クロウ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/06
  • メディア: 文庫

 エピソードを一つ、転記しておく。ご登場いただくのはこの人

images.jpgかつてはブラック・ナショナリズムの闘士だったアーチー・シェップその人。恐らく1970年代中期の事かと思われる。本書の37ページあたりにその記述がある。

 

 (引用始め)ビーヴァー・ハリスはあるジャズ・ツアーのときに、東京のテレビに出演した。そこでの出来事を、彼は次のように述べている。

 アーチー・シェップがマイクの前に進み出た。誰かが彼の言葉を通訳する事になっていた。通訳は言った。『シェップさん、日本の感想はいかがですか?」。我々はみんなで一列になって立っていた。リー・コニッツと彼のバンドが一曲演奏を終えたあとだった。

 アーチーはカメラをまっすぐ正面からのぞき込む。そして言う、

「私たちは平和のうちにここにやってきました。私たちは広島に原爆を落としたアメリカ人とは違います」

  そしてグラチャン・モンカーが言う、

「おい、こいつら(these motherfuckers)にそんな事思い出させちゃダメだ!」

 これが全部テレビ中継された。私はあわてて中に割り込んだ。「いや、私たちはリズミカルななんだかんだをなんだかんだしようと・・・・」と適当な事を言った。そうでもしなかったら、俺たちはその場で逮捕されていたかもしれない。 (引用終わり)

 事の真偽はともかく、いかにもという感じの小話ではある。

 おおよそ登場人物はキャラが立っていて、例えばマイルス・デヴィスは金の事であれこれ難癖を付けてはごねる話、ベニー・グッドマンは独善的なバンドリーダー、ズート・シムズは酒にまつわる話題などなどで本書は出来上がっている。この手の小話が生まれてくるのもある時期までのこの業界が一癖も二癖もあるアウトサイダーがかった豪傑が入り乱れる世界だったからなのだろう。ある時期からの、勉強秀才ばっかりが幅を利かすようになった(ように私には見える)状況からはきっとこういう本が出来上がるような事はなさそうに思える。それがいい事なのかそうでないのかはわからないが。

 


Courts the Count/Shorty Rogers(コーツ・ザ・カウント/ショーティ・ロジャース) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 そろそろ2009年も終わり。
年々、身辺には物悲しい出来事やうら寂しい風景に直面する事が増えているように思う。私の周辺にも、私自身にも。

 今年は中学校の同窓会を賑々しく行う事で幕が開き、その後およそ一年の間に親しい同級生が二人、病に倒れた。うち一人は入院先で越年する事になるらしい。私自身にも大きな転機がこの先訪れる。
 
 色々あるがとにかく、真摯にその日その日を生き抜いていけばそのうち何かいい事あるさ、と、自分に言い聞かせながら生活は続く。
音楽そのものとは直接関係のない私事になってしまったが、中年を過ぎてからよく聴くようになったレコードにこんなのがある。

ショーティ・ロジャース・コーツ・ザ・カウント

ショーティ・ロジャース・コーツ・ザ・カウント

  • アーティスト: ショーティ・ロジャース
  • 出版社/メーカー: BMG JAPAN
  • 発売日: 2002/06/26
  • メディア: CD




 
腕達者なウェスト・コースターの面々によるベイシー・トリビュートという企画である。
 
 若い頃に何となく買い、かなり長い間余り聞く事もなかったのだがここ数年はなにかしら晴れがましい気分になりたい時に針を降ろす頻度が上がってきた。
 トランぺッターとしてのショーティ・ロジャースにはこれまであまり注意が向く事がなかったのだが、本作で聴かれるようなバンド・リーダーとかアレンジャーとしての資質にはつくづく感心する。
 
 本家であるカウント・ベイシーの美点を忠実に踏襲しながらよりスマートで整合感のあるホーンアンサンブルはいつ聴いても何かしら心の中の霧を払拭してくれるような作用をもたらしてくれる。
 ここでのリズム・セクションにフレディ・グリーン風のギタリスト、例えばスティーブ・ジョーダンあたりが加わっていれば更に弾力的な音楽が出来上がってより本家風の仕上がりとなっていたのだろうが敢えてそれをしなかったのが本セッションの独自性なのだろうと私は好意的に見ている。ドラムがシェリー・マンである事も相まってビートの跳ね具合にクリーンな心地よさがある。
 
 聴き所は沢山あり過ぎて書ききれないほどだが、思いついた事を断片的に記しておくと後にアレンジャーとして大成するマーティ・ペイチ。プレイヤーとしては結局、中堅どころの域を出なかったがここでの御大風プレイはかなり堂に入っている。御大自身結構色々なピアニストに真似されやすい演奏スタイルなのだろうがあれはやはり偉大な個性と称するべきなのだなあとあらためて感じると同時にマーティ・ペイチというピアニストの器用さにもニヤッとしたくなる。
 残念ながら目立ったソロワークは聴かれないがOBのハリー・エディソンがブラスセクションに配されてあるのは隠し味といったところか。 入れ替わり立ち替わり現れるサックスのソロはいずれもレスター・ヤング風味が横溢していて出色なのはやはりズート・シムズ。全曲3分前後のコンパクトな内容で各人のソロは短いがどれも「もっと聴きたい」と思わせる密度の濃さだ。
 
 細部を挙げていくと長文になってしまうので重箱の隅をつつくような話は別の機会に譲るとして、気分の沈みがちな日曜の夜あたりに本作を聴いていると、ちょっと陳腐ながら明日への活力みたいなものが湧いてくる、私にとってはそんな働きのあるのが本作である。
 
 来年はきっと、何かいい事があるさー、と楽天的な気分で年を越したいものです。あと何日かを残して今年を有意義に過ごしたい日曜日でした。
 

2.5インチHDDを買ってきて・・・ [パソコンのこと(主にMac)]

前回記事 http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-12-03

 秋葉館からリピーターハブ兼クレードルが届いたので佐川急便に引き取りに赴き、これに取り付けるHDDを物色する事にした。
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 インターフェイスは合計4種類で何でもござれだが、私の支払った代価は¥13700。FWもeSATAもないUSB2.0専用のクレードルは実に三千円そこそこで販売されており、FW800などというインターフェイスに私が妙なこだわりを持っていなければリテールパッケージの2.5インチ、500GBのHDDが楽に購入できる事になる。なんだか不毛な出費に思えるのは確かだ。
 
 バルク品の500GB HDD を購入して自宅の中古iMC G5に取り付けてみると認識されないので大いに焦った。
FWの周辺機器を繋いだり外したりで試行錯誤を繰り返した挙げ句、iPod(20GB,3G)を取り外すと他の外部ストレージが全部きちんと認識される事が判明した。
 iMac G5にはFW400のインターフェイスが二つついており、今回の500GBの他私の手元には160GBと500GBの3.5インチ外付けHDDがある。
 全部を接続させて認識させる為には最低一カ所はデイジーチェーンとなるが、よりによってアップル純正の外部ストレージであるiPodを除外する事で初めてデイジーチェーンが順当に機能するというのは何とも釈然としない。iPodのスタンドにはFWのインターフェイスは一つしかなく、これまで幾度か試行錯誤してみた経験上ではMac本体に直接接続しないとiPodの認識はいまいち怪しい。おそらくこんな調子だからせっかくの高速インターフェイスも大して普及する事もなく尻すぼみ状態になりつつあるのだろう。
 
 某量販店に行って片側FW800,片側FW400の接続ケーブルを購入した。お値段は1mのもので¥1980円也とこれまた安くない。マイナーであるという事はどこまでも割高な構造である。
 現在160GBの外付けHDDに収めてあるデータの引っ越し先としてWestern Digitalの 2.5inch,500GBのHDDを購入するときに店内スタッフとあれこれ話をしたときにFire Wireで接続したいのだと変換ケーブルを見せたら『それはまた随分マニアックな使い方をされていますねえ』と変に感心された。
 ない金をはたいてわざわざ日陰者のインターフェイスに入れ込むというのは、本人は判官贔屓を気取っていても他人から見れば所詮単なる変わり者に過ぎないのは承知の上だが、なにかしらマゾ的な嬉しさがない事もない。FW同士のデータコピーは誰が何と言おうがUSBが介在するよりも間違いなく早いので現在私はお役御免となる中途半端要領のHDDが片付いて多少はすっきりしたパソコンの周辺を眺めて独りよがりな喜び方をしている。

朗報! [再生音楽の聴取環境など]

 長く常用し続けてきたシュアーのフォノカートリッジ、V-15TypeVxMRの交換針を使い果たして以来、代用品のテクニカは所詮代用品以上のトレーサビリティを有していない事に不満を持ちながらレコードを聴き続けてきたが最近、日本精機宝石工業KKが交換針の製造販売を始めたというニュースに欣喜雀躍している。

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 針の形状はSASというのだそうで、シュアーが謳うところのMRと同等のようだ。
何といっても有り難いのはそのお値段で、私のような貧乏人でもまとめ買い出来そうなくらい安い。ダイナミックスタビライザーの色がオリジンとは違うとか何とかいう重箱の隅をほじくるような不平は勿論御法度で、これはもう、買うしかない。

 代用品のそのまた代用品について懐具合を勘案しながらああでもないこうでもないと思案を巡らす事はやめにした。
あれこれ調べてみるとUltra500の交換針まで製造販売されるそうで、十年以上前に紛失してしまった身の上としては痛恨の極みだが死んだ子の歳を数えてみても始まらない。ふと気になってよもや私はシュアーのアナウンスでやけっぱちになってカートリッジボディをどこぞへ打ち捨ててしまいはしなかったかと慌ててガラクタの入った小箱をひっくり返すとそのような愚を繰り返してはいなかった事が判明して胸を撫で下ろした。

 私とご同様のフラストレーションを抱えてきたリスナーの方は少なくないようで、現在、交換針の納期は約30日もかかるという。加工に手間のかかるスタイラス形状のせいもあるのだろうが注文が殺到して生産が追いつかないとのアナウンスである。
 しかし私はこの一年余り、解消しきれない針飛びにフラストレーションを抱えながら過ごしてきたので30日くらい待とうではないの、と、結構鷹揚に構えている。『待てば海路の日和有り』とはこういう事かと浮かれてもいる。


Work Song/Nat Addarley (ワーク・ソング/ナット・アダレイ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 立派な兄を持った弟はどのような立ち位置で時間を過ごしていくかという構図はよくあって、大きく分ければ減点法に晒されながらそれに甘んじ、あるいは受け流しながら兄に同調して同じような路線を歩むか屈折と反発を抱いて同じ物差しでは評価されずに済む全く別の分野を選び取るかという事になるのではなかろうか。
 キャノンボ−ル・アダレイという希代のキャラクターを有する兄を頂いたナット・アダレイは前者の見本のようなプレイヤーだが、こういう図式によくあるように、多くのリスナーの方々にとって兄貴に比べると今ひとつ印象の薄いミュージシャンではなかろうかと思う。実のところ私もその例に漏れない。たいして誇るべき量でもない私のレコードの棚をあらためてみるとリーダー作の所蔵は3,4作程度で兄のキャノンボール・アダレイに比べると半分以下だった。私はこれまでのところ、『俺は断然弟の方に入れ揚げている』というリスナーの方に逢った事はないので、少々影の薄い弟という位置づけがやはり順当なのだろう。
 詳細なディスコグラフィーを調べた事はないのでこれも憶測でしかないが、恐らくナット・アダレイの全録音歴のうち、兄弟バンドでのものが占める比率は兄に比べるとかなり高そうだ。見方を変えて単純にリリースされたリーダー作の数を兄と競っても明らかに少ないのではないだろうか。
 
 プレイヤーとしての印象は主観でしかないが、兄さんのブローは一聴して判別出来るトーンであり節回しであり、良くも悪くも個性的であるがナット・アダレイの演奏をブラインドフォールドで言い当てられる方は相当沢山聞き込んだリスナーではないかと私は想像している。ちなみに私は全く自信がない。影が薄いとはそういう事なのだろう。
 しかしながら、兄の脇役として従順に過ごす弟にも明確な個性は勿論あるわけで、色々なバイヤーズ・ガイドに紹介されていもいるだろうが、私もここで本作の事を取り上げてみたいのである。

ワーク・ソング

ワーク・ソング

  • アーティスト: ナット・アダレイ,ウェス・モンゴメリー,ボビー・ティモンズ,サム・ジョーンズ,キーター・ベッツ,パーシー・ヒース,ルイ・ヘイズ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
  • 発売日: 2009/06/12
  • メディア: CD







 ナット・アダレイの代表作を何か一枚、と言えば本作が取り上げられるのがまず順当だろう。更に言えば本作以外の何かが取り上げられる事はまずないだろうとも私は思う。それどころか本作以外のリーダー作を何かを挙げてみよ、と問われて何かを思い出す方は結構キャリアを積んだリスナーではないかとさえ思う。

 しかしここで、幾らかの同情的な気分を抜きにしてもそれはナット・アダレイが凡庸なミュージシャンだった事を意味しないし本作以外の全てが凡作なわけでもない。

 

 あまり多くはない手持ちのリーダー作を聴いてみてあらためてわかったが、ナット・アダレイというミュージシャンはレコード作りに於いてはなかなかのアベレージ・ヒッターだ。そしてそれらは本人のプレイそれ自体というよりは中編成程度のバンドで巧みなバンドアレンジで聴かせるような作風のものが中心であるように思える。ここでまたしても多少意地の悪い見方をするなら、残念ながら本人の演奏はそれら「バンドの音」に埋もれがちな恨みがないわけでもなく、大きな存在である兄上を抜きにしてもやや個性が弱い事の証左となってしまっているわけだが。

 

 私は若い頃、サッポロビールのテレビコマーシャルに使われたBGMとして本作のタイトルチューンに接したのがナット・アダレイを意識した最初だったと覚えている。このコマーシャルには他にもバド・パウエルやアート・ブレイキーなどの音楽が使われて、それがモダン・ジャズの敷居を少しは下げる働きにもなったのだがナット・アダレイもそこには幾ばくかの貢献があったと見てよいのではなかろうか。

 タイトルチューンのWork Songは、兄弟バンドで演じられる時にはそれこそヨイトマケ風のファンキーチューンだが、ここでは編成のユニークさのせいでひと捻り入った個性的なゴスペル風の印象を与える。

 実のところ、全体を通じて本作のサウンドカラーを個性的というか印象的なものにしているのはサイドメンによるところが大きく、中でもウェス・モンゴメリーの荒々しいコード・カッティングが際立っている。リズムセクションは兄弟バンドのユニットがそのまま起用されているがサイドメンの追加とアレンジの工夫で独自性は打ち出せるという、これは影の薄い弟としての控えめな自己主張かもしれない。

 

 ナット・アダレイというミュージシャンは一枚看板としてのトランぺッター(正しくはコルネット・プレイヤーか)についてかなり謙虚な自覚があったように私は考えている。

 これまで何度か書いた事の繰り返しだが私はトランペットは資質の楽器だと思う。何かしら先天的な資質によってもたらされるある種の突進力がこの楽器の王道を歩むプレイヤー達には例外なく備わっていて、そうでない人はバンドの中の1ピースとしての自分にプレイヤーとしての立ち位置を求めていく運命の楽器がトランペットだと常々考えていて、その代表がマイルスだ。

 バンドの看板というには幾分小粒感のあるトランぺッターが、ワンホーンで作り上げた音楽として本作はあちこちに沢山、きめの細かい配慮が散見される。兄弟バンドでのファンキー路線とは相反するようにそれらは一種、インテリっぽい雰囲気をたたえてさえいる。本人の代名詞のようになったタイトルチューンよりも、タイトにまとめられたスタンダード・ナンバーにそれらは顕著で、ピアノレスだったりドラムレスだったりする線の細いリズムセクションをバックにした吹奏にはコルネットという楽器のトーンも相まって小味の効いたペーソスが感じられ、微笑ましい気分を喚起させられる。ボビー・ティモンズは抑制的で、音の隙間をウェスとチェリストが埋めていく。という絶妙なスカスカ感にここでのナット・アダレイの生来的に小作りなプレイは実に収まりがよく、主役としてサマになっている。それは本作のリーダーが単なる名義上の話だけではなく構成上の位置づけとして紛れもなくナット・アダレイである事が整合性をもって主張されてもいるわけだ。

 

 更に加えて本作にはなかなか気の効いた謎掛けのような設定がある。ここに参加したベーシスト三人は曲によってそのうちの二名が演奏に入れ替わり立ち替わり参加し、サム・ジョーンズとキーター・ベッツはベースとチェロを持ち回りで弾き分ける。どの曲では誰が何を弾いているのかを聴き分けるという、パズルを解くような面白さも有りだ。

 結局のところ本作で聴かれるようなバンド・サウンドはその後流行る事もなく、これ一作だけのものになってしまった。一種奇抜な試みだが奇抜さを奇抜とは感じさせないセンスは見逃せない。同時に、それだけのセンスを持ちながら本作での試みを自身のソロ活動として拡大増強はせず、あくまで一作のみの実験にとどめたところに色々な意味でナット・アダレイというミュージシャンの円満で節度のある資質は伺えるような気がする。誰かの弟としてのあるべき姿とはこういうありようなのかもしれない、と、家族の中での異物である私などは収まりのいい立ち位置を見いだせなかった自分の半生に込み入った気分を淀ませながら本作に針を降ろして心の皺を伸ばす場面が結構多い。そういう心象風景に於いて、ナット・アダレイの醸し出すいい意味での小粒感とちょっとコミカルなコルネットのトーンは私の中のざらついた何かを確かに円満にしてくれる働きがあるようだ。

 


HDD用クレードルに手を出してみる。 [パソコンのこと(主にMac)]

 外付けHDDのことをあれこれ思案し始めて数日経った。
デスクトップとノートの両方で使う事を考えると2.5インチのポータブルHDDが良さそうに思えた。Mac使いとしては将来を睨むとFW800のインターフェイスが望ましいわけだが容量500GBで実売価格はおよそ2万円強くらいなのだそうで、その前に何台も外付けHDDをぶら下げて雑然としてるデスクトップiMacG5の周辺を整理させる意味でHDDクレードル兼リピーターハブという優れものが見つかったのでそちらを先に購入してみる事にした。
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  扱うデータのサイズは肥大化する一方で、そろそろDVDに焼く作業もバックアップの有効手段とは言えない状況になりつつある。ブルーレイという手もあるのだが私にとってはまだまだメディアの値段が高い。そんなこんなで、私のような考えの定まらない輩にとってはこういう選択肢が暫定的とは言え妥当なのだろう。アップルはTimecoupselを外部ストレージの標準として欲しいのだろうが、無線LANでのバックアップ作業には失敗例の噂を聞いたりもするので今の私には不安感が払拭しきれない。更にいえばUSB3.0への対応もPC/ATよりは遥かに遅れての事となるだろう。Macの初期は3.5インチFDだとか内蔵のHDだとかドライブやストレージは先進性を謳っていたように覚えているのだがiMac以降はいつも後手に回っているか見当違いの方策ばかりで先々心配に思える事がある。 
 そんな状況でありながら現行のMac本体はモデルチェンジのたび毎にFWのインターフェイスを減らす、あるいは廃止の方向で推移しているのでリピーターハブを今のうちに手に入れておこうという思惑もあり、せこい目論見だが一石二鳥を気取ったつもりでいる。
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FW800のポートが二つという点はこれから先、本体の更新の事を勘案するにちょっとした安心材料ではある。そういうわけで数日後に届くクレードルにあわせて、内蔵式のHDDをこれから物色する事になる。

Firewire800のハードディスクを物色中 [パソコンのこと(主にMac)]

 ろくでもないダウンロードに没頭しているうちにHDの残り容量がだんだん心許なくなってくるのは何度目だろうか。大容量のものに買い替えては一時安堵するもののデータサイズもドッグイヤー風にどんどん大きくなる一方な上にダウンロードヘルパーもどんどん気が利いたものに進化していくのでしばらくするとまたHDの残り容量が心許なくなってくるといういたちごっこをもう4年くらい繰り返している。

 最初に取り付けたHDは160GBでインターフェイスはFW400だった。今から5年前になる。
eMacはBTOで内蔵HDを160GBとしていたのでその頃としてはどんと来い状態のつもりでいたが動画のダウンロードをし始めると見る見るうちに残容量は心細いものになっていった。後はなし崩し的にズルズルと買い替えと増設を繰り返して今に至っている。

 サイズの大きなデータを扱うようになると、高速なインターフェイスがやはり有り難い。
よく言われるようにFW400はUSB2.0に比べるとカタログ上では性能としてやや劣ることになっているが実際の動作では体感上明らかに速いので選定時にはこれを条件にしていたが何せ日陰者のインターフェイスなので私の住む田舎町の量販店では店頭在庫がなく、ついつい山積みされている安価なUSB2.0インターフェイスのものを購入して帰ってくることはあった。

 eSATAというインターフェイスは更に高速なのだそうだがiMacでは使えないので将来本体の更新を勘案すれば現状最善のチョイスはFW800のインターフェイスを持つHDということになるわけだがこれまた大変選択肢が狭い。
 そんな折にたまたまある家電量販店をぶらついていたらFW800、640GBのHDが山積みされていた。容量についてどうかとも思ったが7千円を割るお値段だったのでひどく気にはなったがお金の持ち合わせがなく、数日後に出直してみるときれいさっぱり店頭から消えていた。再入荷の予定はないとのことで少々落胆した。

 それで目下、増設用のHDをああでもないこうでもないと勘案している。
BUFFALO USB2.0&eSATA&IEEE1394/1394b用 外付けHDD for mac 1TB HD-M1.0TIBSU2

BUFFALO USB2.0&eSATA&IEEE1394/1394b用 外付けHDD for mac 1TB HD-M1.0TIBSU2

  • 出版社/メーカー: バッファロー
  • メディア: エレクトロニクス
 iMacリリース以降のアップルはどうも外部インターフェイスに対して意固地な姿勢が見え隠れしており、Firewireもせっかくぶち上げておきながらよりによって自社製品からこのインタフェイスを省略してみたりして、こういう腰の据わらなさには幾らかの懸念を抱かざるを得ない。
 それでアップルが持ち出してきた提案はというとWi-FiのLAN HDというわけで

Apple Time Capsule 1TB MB765J/A

Apple Time Capsule 1TB MB765J/A

  • 出版社/メーカー: アップル
  • メディア: エレクトロニクス







昨年更新したMacbookのことやデスクトップの今後の更新を考えるとLAN HDも確かに選択肢のうちに入ってくる。
来年春先に引っ越しを予定しているので導入はその時期にしておくのはいいとして、それまでの間はたまったデータをDVDにでも逃がしながらHD残り容量の心配をし続けることなる。





Suger/Stanley Turrentine (シュガー/スタンリー・タレンタイン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ”ジャズとはこういうものだ”などという大上段に振りかぶった一席をぶつつもりはないが、世の中にあまたある楽器のうち、最もジャズというカテゴリーとのつながりを強く連想させる楽器は私の場合テナーサックスということになる。

 テナーサックスという楽器に対して最初に意識的になったのは子供の頃、朝起き出すと居間で鳴っていたラジオから聴こえてくる『歌のない歌謡曲』という番組でしばしば紹介されていたサム・テイラーだったことは以前書いた。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-20

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-04-21

 

 長じてジャズにはまり込み、コールマン・ホーキンスを聴いた時、私が連想したのはやっぱりサム・テイラーだった。

その演奏スタイルを時系列で辿ればサム・テイラーはコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーであって、日本に於いて、ジャズの(ということはコールマン・ホーキンスの)アクセントなりイントネーションで様々な日本の土着音楽を演じたところに彼のこの国にでの商業的成功はもたらされた。言い換えればその演奏スタイルというのはジャズ以外のカテゴリーでも色々なプレイヤーによって結構色々演ぜられている流儀のようで、よく対比されるレスター・ヤング風からバップ以降に連なる演奏スタイルの系譜は、テナーサックスという楽器の演奏スタイルとしてはむしろ亜流の歴史と見るべきなのかもしれないとあるときから考えるようになった。


 順序が逆ならもう少し違った見方が身に付いたのかもしれないが、私の場合はこの楽器の刷り込みはサム・テイラーの演歌テナーによってなされたので楽器の印象はなにかしらオヤジ的な佇まいと強く結びついていてこれは今も変わらずに意識の底にこびりついている。

 オヤジ風ではないテナーサックスの演奏スタイルに目覚めたのは中学生の時に聴いたソニー・ロリンズによってであった。



ヴィレッジ・ヴァンガードの夜

ヴィレッジ・ヴァンガードの夜

  • アーティスト: ソニー・ロリンズ,ウィルバー・ウェア,エルヴィン・ジョーンズ,ドナルド・ベイリー,ピート・ラロカ
  • 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
  • 発売日: 2009/06/10
  • メディア: CD

 

 単細胞風な私の頭は自分でジャズのレコードを買い始めるようになって以来ある時期まで、コールマン・ホーキンス風の演奏スタイルをどこかで避け続けていたように覚えている。

 理由を深く考えたことはないが何かしらオヤジ的なニュアンスのある音楽を遠ざけたい気持ちがあったのではないかと今になって思う。しかしこれは単なる偏見であって、現に正真正銘のオヤジとなった現在、コールマン・ホーキンスやその影響下にある色々なプレイヤーの音楽を聴いていると格別否定的に捉えているわけでもない。それは加齢臭が自分では気づかないという類いの話なのかもしれないが。


 毎度前置きが長くなるのは私の悪い癖だ。

矛盾するようだが実際のところ、音楽がオヤジ風であるかどうかなど大した問題ではないことも私は少年期のどこかで刷り込まれているはずなのだ。思い出すにそれは学生の頃、よく入り浸った喫茶店で行われていたジャム.セッションで聴いたある曲に由来している。


 その曲を聴いた場所はこのブログで私が何度か取り上げた釧路市の喫茶店「ジス・イズ」で、何年かしてからこのレコードに収録されていることを知った。


シュガー

シュガー

  • アーティスト: スタンリー・タレンタイン,フレディ・ハバード,ジョージ・ベンソン,ロニー・リストン・スミス,ブッチ・コーネル,ロン・カーター,ビリー・ケイ,リチャード・パブロ・ランドラム
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2006/11/08
  • メディア: CD

 

 30数年前に私はこのレコードのタイトル曲を聴いて以来、随分長い間記憶に染み付いていたことになる。


 スタンリー・タレンタインもまたコールマン・ホーキンスの影響下にあるプレイヤーで、しかも第一線に登場してきたのはモダン以降の時期だったのでその足場が革新的だったり先鋭的だったりしたことは一度もない。しかも1970年代後期にはいわゆるフュージョン風の装いで新作を連発したりもして私などは結構敬遠気味の御仁ではあった。

 加えて若い頃の私にはCTIというレコードレーベルに対するこれまた一種の抵抗感があって、その後あちこちで何度か耳にしながらもやせ我慢のように本作のリリースを見送り続けていた。

 何といっても若い頃の私に猛烈な拒否反応を引き起こしたのは本作のB面いっぱいを占める長尺なImpressionsのユルユル具合だった。それは同じく子供の頃にテレビのプロレス番組で見た、ジャイアント馬場のコブラツイストが発散した脱力感にも通じるものがある。これまた先に聴いたのが本家本元であり、表現の限界に挑戦するかのようなストイシズムに若い頃の私が入れ揚げていたせいだろう。


インプレッションズ

インプレッションズ

  • アーティスト: ジョン・コルトレーン,エリック・ドルフィー,ジミー・ギャリソン,マッコイ・タイナー,エルヴィン・ジョーンズ,ロイ・ヘインズ,レジー・ワークマン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2004/06/30
  • メディア: CD

 

 バップ以降の演奏スタイルが放擲したか喪失してしまったかした『何か』がスタンリー・タレンタインのブローには確かに連綿とあり続けている。それを強いて言葉として拾い集めれば悠然たる風情とか朴訥とした野太さとかいったムードを醸し出す『何か』だと思う。それはあるいは演歌調のニュアンスをも含んでいるのかもしれない。幾つかのレコードジャケットで見られるこの人の服装の趣味といい、こう言っては失礼だが濃いめの顔つきといい、何だか若い頃から演歌調な、オヤジ然とした色合いを体現する存在だと今になってあらためて思う。


 しかしそのオヤジ然とした佇まいは色々な場面やパッケージングで結構サマになるではないかとここしばらくの私は妙に見直している。自分がオヤジであることに自覚的になったのでそれまで否定的だったり遠ざけたりしていたものに寛容になったのだ。

 ぬるい展開のImpressionsも、ジャズの録音にしては少々派手目な録音のCTIサウンドも今になってみると変に馴染みが良い。タイトルチューンは勿論過去の記憶を巻き戻しながら何度も聴く。あらためて、コールマン・ホーキンスの創出した流儀には普遍性を感じてちょっとしたリスペクトを抱いたりもするのである。


 しかし何故、今になってこうもストレートにこういったオヤジテナーの吹奏スタイルを心地よく受け入れて肯定的になれているかというと私はそこに、肝の座った親父が小理屈をこねる若造を一喝のもとに叱り飛ばすような構図を連想しているからだと思う。視点を変えれば若い頃の抵抗感は叱り飛ばされる側だったからということだ。

 

 それで私は本作を聴く度にオヤジであることの気持ち良さを実感している。但し、スタイリッシュに撮影されてはいるがジャケット写真のようなことに愉悦を覚えるオヤジにはなっていない。そのような趣味を持ったオヤジにはなれずに至っている。まあ。どんな嗜好を持とうがそれぞれ勝手だが。

 


オノ・ヨーコ氏のテレビ出演 [身辺雑記]

 日頃から私はいつもテレビが嫌いであることを公言してはばからないのだが、本日たまたま目にしたことは書き留めておきたくなった次第である。

 もう既に他にも沢山のブロガーの方々はこのことを書かれているかもしれないので、何もここで私のような者が、とも思うのだがやはり書き留めておくことにする。

 お仕事の合間に昼飯を済ませ、午後からの予定にしばらく時間があったので漫然とテレビを眺めていた。公共放送の提供するところの昼の番組で、『スタジオパークからこんにちは』という番組名だったと思う。
 本日のゲストはオノ・ヨーコ氏だった。
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 一種、インタビュー番組というかバラエティ番組というか、そういった性質のもので、ゲストの経歴やPRを含めた近況がインタビュー形式でやり取りされるわけだが、本日のゲストであるオノ・ヨーコ氏は言わずと知れたジョン・レノンの妻であって間違いなく世界一有名は日本人女性である。 

 私は長いことジョン・レノンの音楽にはあまり関心がなく、ビートルズが解散した後のここのメンバーの活動にも特段の注意が向かうことはなかったのだがオノ・ヨーコ氏という方は色々な意味で、良くも悪くも強かなところのある方のような印象を持っていた。 
 クリエイターとしてのオノ・ヨーコ氏はこれまた色々な意味で私にとっては評価に困惑する存在なわけだが、それはここで書いておきたいことの本筋ではない。 

 番組冒頭、私が奇妙に思ったのは照明が煌煌と灯っているはずのテレビスタジオに現れたオノ・ヨーコ氏が何故かサングラスをかけていたことだった。しかもそのサングラスはかなり下までずり下げられていてその本来的な機能を果たしていない。まるで数十年前、大塚製薬のオロナミンCのコマーシャルに出てきた大村昆がやってみせた(これを読んで”ああ、あれな”と察しのつく方は私同様かなり年季の入ったオヤジである)あのかけ方だった。 
 それで番組途中、話題はオノ・ヨーコ氏のファッションセンスについて触れられることになり、帽子とサングラスというのがトレードマークであるらしいことをこの時私は初めて知った。 オノ・ヨーコ氏は帽子が好きであることの由来を語り、次にサングラスへと話題を移した。以下は私のうろ覚えに基づくその大意である。 

 それは1980年秋のこと、レノンご夫婦はNYで新作のレコーディングの真っ最中であり、スタジオワークの最中にレコーディングエンジニアの都合で小一時間ほどのブランクが生じた。 
 手持ち無沙汰になったのでレノンご夫婦は気分転換をかねてスタジオを一旦出て町中をぶらつくことにし、あるデパートに入った。その時夫(ジョン・レノン)はあるサングラスを買い求めてその場で自分(オノ・ヨーコ氏)にかけて、「これからあなたはずっとサングラスをかけているといいよ」といったようなことを仰ったのだそうだ。
ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~

ダブル・ファンタジー ~ミレニアム・エディション~

  • アーティスト: ジョン・レノン,ヨーコ・オノ
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2000/10/09
  • メディア: CD
  それからおよそ一ヶ月後の12月8日にジョン・レノン氏は非業の死を遂げることになる。(この辺りからオノ.ヨーコ氏の声の調子がおかしくなり始めた) 
 その後の自分は泣いてばかりいるようになった。人前で泣き出すことも珍しくないほどだった。そういう時に、泣きはらした目を隠すためにサングラスは確かに便利な小道具だった。 
 しかし、何故夫は氏の一ヶ月前に自分にサングラスをかけることを勧めたのか、もしかしたらその先の自分の運命をどこかで予感していたのだろうか・・・・・ 

 と、ここまでを何とか語ったオノ・ヨーコ氏は言葉を詰まらせて目頭を押さえ、サングラスをずりあげて目元を隠した。NHKの女性アナウンサーは狼狽えながら声がうわずり、もらい泣きをし始めそうになった。カメラがズームアウトして全景が映し出されたスタジオには異様なムードが立ちこめたのだった。 

 私も日本人の端くれであって、浪花節的な気質が確かにある。形容し難い気分と言うか、なにかしら胸に迫ってくるものがその時確かにあったこともここで白状しておく。 
 しかし、だ。そのようなハプニングを目撃してから数時間経過して、出来事の唐突さ、情動の振れ幅の大きさに圧倒された後に少しく頭を冷やしてみると私の中には別の見方が芽生えつつあるのも事実である。念のためにこれは重ねて言っておきたいが、故人やその未亡人の遭遇した悲劇的な出来事を貶めたり、味わった苦痛に下衆の勘ぐりを入れるつもりは全くない。だからその後私が巡らしたある思いの詳細はここでは書かない。それは私の意識の中だけにとどめておくことにして、この先文字になることはない。

 ただ、一つのことだけは書いておきたい。表現者としての志半ばで落命したロックミュージシャンは数多いが、ジョン・レノンの死ほどその悲劇性が薄らぐことなく、生々しさをもって語り継がれている例はない。もう29年も経過しているが、その死は単なる一ミュージシャンの悲劇という範疇をさえ超えて時間が経つほどにむしろスケールアップされているように見受けられるほどだ。そこから先については文字にしたり口に出すことは許されていない。そういう空気は確かに醸成され、定着していると思う。私はそれを肯定も否定もしない。そしてジョン.レノン氏の悲劇的な幕引きにあやかるわけではないがこのテキストは唐突にここで終わりです。

休日にレッドクリフを続けて見る [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 私事だが、ここしばらく身辺に色々と変化があってきっと大きな転換点の中にいるのだろうと思う日々が続いています。

 私自身の人生模様などというものは他人様の視点から見ればとるに足らないような、それこそ小さな小さなものでしかないのだが本人の時間軸でいえばそれなりのドラマツルギーのようなものはやはりあって、主観的には何やら大きな物語の中の出来事になぞらえてみたくなるような局面も散発する。

 一生の中で経験する読書体験の中には大きな物語世界に没頭して何日も過ごすことがあって、それが自分の世界観や人間観の背骨の形成に影響するようなことはやはりあるように考えている。私の場合は父の持ち物だった本の中の一つにそれがあるのだとある頃気づいた。
新装版 三国志〈1〉 (講談社文庫)

新装版 三国志〈1〉 (講談社文庫)

  • 作者: 吉川 英治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/10/15
  • メディア: 文庫
 読みふけったのは少年期から青年期にかけての時期だったが、その後、横山光輝の漫画などでも読み返してみたことがある。陳腐な言い方しか出来ないが、自分を取り巻く世界の動きというのは多くの人たちの色々な思惑が絡み合いながら紡ぎ出され、展開されていくものだというありようをどこかで知っておくべきであって、その疑似体験として出来れば人格の形成期に壮大な群像劇を通読しておくのはよいことだと思う。
 いずれ時間を見つけて、また通読してみたいと考えている。

 物語それ自体のことは更に色々思うところもあるがそれはまた別の機会に譲るとして、三国志が映画化されるなどということをこれまで想像したことはなかった。この映画のことを知った時に、それが物語の中の一部分を抜き出したものに過ぎないにせよ果たして映画の時間枠の中に収まるものなのかどうかを疑問視していたがやはり前後編2部に分かれる、少なくとも鑑賞時間だけで言えば『大作』である。

レッドクリフ Part I スタンダード・エディション [DVD]

レッドクリフ Part I スタンダード・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: エイベックス・マーケティング
  • メディア: DVD
レッドクリフ Part II -未来への最終決戦- スタンダード・エディション [DVD]

レッドクリフ Part II -未来への最終決戦- スタンダード・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: エイベックス・マーケティング
  • メディア: DVD
 色々事情があって劇場公開は見逃した。ビジュアル的には相当派手な作りなのでやはり、非日常の場所で見ておくべきだったと少々反省している。

 私はだんだん年寄りの範疇に入りつつあるからなのだろうが、若い頃の読書体験も相まってどうもこういう造りにはあれこれと難癖をつけたくなるようだw
 性格もだんだん屈折を深めつつあるということだろうか。 

 総体の印象としては、当然ながら商業ベースの娯楽映画なのでわかりやすい世界観で製作しなければならないのは仕方がないにせよ、何とも即物的にして直線的な出来だなあ、というのが見終わっての印象である。今日日、ハリウッド映画として製作するには多くの登場人物が権謀術数の限りを尽くすことで織りなされる錯綜した人間ドラマ(物語の本筋は明らかにそこにあるはずだと私は覚えているので)としてよりも切ったはったの、ぶったまげるような絵面と度肝を抜く轟音が続出する一大スペクタクルアクションであることに力点を置くのがセオリーなのだろう。
 大金を投じて製作し、多くの観客を動員することで投下資本の回収を計り、はい、収支決算でこれこれの利益を得ました、という枠組みの中で製作される映画とはこういうものだとあらためて実感出来るジェットコースターみたいな映画である。

 原作の物語世界についての予備知識がなく、単に二時間強の時間を消費する娯楽としてこの映画を見る人たちのことを念頭に置かなければならないのでこういう造りは仕方がないのだろうが、登場人物を善玉と悪玉にきっちり切り分けた上で周瑜の妻の身柄奪回ドラマとはまたなんとも矮小化の度合いが激しい。更にいえば孔明が単なる頭の切れる軍師様程度の描かれ方でしかない点も名前の一文字を頂いた私としては心情的にはなんとも寂しい。 
 まあグダグダと小言幸兵衛よろしくケチを付け始めればきりがないのだが、レンタルDVDでの話なので全編後編併せておよそ4時間強を消費する娯楽としてはこれが妥当なのだろうとここでは割り切ることにした。良くも悪くもハリウッド映画といったところだろうか。

 そんなわけで映画についての印象はあまり強いものではないのだが、三国志演義に基づく吉川英治版を再読したくなった。出来れば三国志正史に基づくのだそうだが北方謙三版も機会があれば読んでみたいような(二つ通読するにはどれくらい時間がかかるのかと思うと何だか途方もない気もするが)読書意欲が湧いてきた。

 映画を見通すことによって観客の中に湧き出してくる副産物としての欲求が、その映画を見にもう一度劇場に脚を運びたいのではなく原作を文字として読み通してみたいというのは、総合表現を売り物にする立場としては敗北宣言みたいなものではないかと私は思うのだが、所謂ハリウッド映画というのは恐らく、百万人の人に十回見てもらいたいわけではなく一回見るだけでいいから一千万人動員させたいのが製作上の大前提だろうからここから先は議論は成り立たない。まあ、どうでもいいのだけれど。

ホープ二つ [嗜好品(喫煙関係)]

 つまらない雑事のことを備忘録風に書いておきます。

 午後、徒歩で近くの食品スーパーに買い物に出かけた。日常利用しているお店ではないので店内のことがよくわからず、買いたいものが殆どないことに気づいてややばつの悪い気分でからの買い物かごを元に戻した時、その店では煙草のバラ売りをしていることに気づいた。

 その食品スーパーは集客が悪い上に、その時たまさか店内の客が私一人だったので何も買わずに店を出るのは気まずく、煙草を買っていくことにした。カウンターでホープ二つくださいと告げると、パートと思しきおばさんは三ついかがですかと投げかけてきた。三つでも四つでも別段私は構わないのだが三十年以上にもわたる私の喫煙歴に於いて頼んだ数以上の個数を勧められたことは考えてみると初めてなのでいささか面食らった。

 それがおばさんの商売熱心さの発露であるのか、それともおばさんの人なつこさというか人怖じしない性分の発露であるのかはさておき、特段顔見知りでもないのに何故そのような反応が返ってくるのかを私は少々訝ったわけだ。するとおばさんは棚の奥から下の写真のようなパッケージを取り出してきた。

 

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 パッケージはホープライトだが詰め込まれている銘柄はホープで数量は三つ、おまけでライターがついている。三個いかがですかと持ちかけてきたわけはとどのつまり、親切心のなせるところだった。ライター一個が手に入ったことは単純に喜ばしい。反面、高々三個で450円なりでもこのような付録がつくということは、煙草というのはよほど利益率の高い商品なのだ。おばさんの親切心には感謝しながらも、そんなに利益の出る商品なのであればおまけのライターなどつけてくれなくてもいいから値下げしてくれた方がよほど有り難いのだが、などと減らず口を叩きたくなったりもする。

 ところでおまけのライターは中国製ではあるもののウィンドミルというれっきとした国内ブランドの製品だ。ジッポのラーターよりも一回りくらい小型のガスライターで質感はそれなりにしっかりしていておまけの出来ではない。JTおよび食品スーパーのおばさんにはやはり感謝しなくては。


黒いターンテーブルについて(その2) [再生音楽の聴取環境など]

 先にアップロードしたテキストにコメントを頂いて返事を書いているうちに私事について書き記しておきたくなったわけです。

 実は我が家には一台、黒いターンテーブルがあるのですよ。数年前にオークションで手に入れたもので、最初はSL-01を狙ってあれこれ物色していたのだがなかなかうまくいかず(入札についてあれこれ思案しているうちにたちまち落札されてしまう)、半ば代用品のようなつもりで比較的呆気なく落札出来た。

 パイオニア製のPL-1800がそれである。
pl-1800.JPG

つや消しブラックのSL-01に対してこちらはピアノフィニッシュのような光沢があってちょっとばかりエレガントな趣がある、と、私は勝手に悦に入っている。但し黒さの行き渡り方については徹底度が少々甘い。

 本当は自分の持ち物の写真を撮って掲載したかったのだがフラッシュの光が反射してひどい写り具合ばかりなので仕方なくネット上の画像を貼付けさせていただいた。
 技術的にはクォーツロック前夜の考え方で、回転精度の検出にホールセンサーを取り入れたところに新味があるが結局は徒花に終わった。しかしグリーンの回転数表示とオレンジ色のストロボスコープの光がが黒光りするベース部分に漏れる様子は視覚的に結構そそられるものがある。

 パイオニアとしては恐らく過渡期の製品で、未消化ながらあれこれと新しい試みもある。残念ながら回転部分にまでは手が付けられていないが黒いトーンアームはその一つで、アームパイプにカーボンファイバーを用いたものとしてはかなり初期に属するのではないだろうか。
 アームの挙動はかなりピーキーで装着出来るカートリッジはミドルマス以下に限られると思う。LP末期の頃の製品作りというのは殆どのメーカーが高感度追求のためムービングマスの低減に血道を上げていたような状況で、特に大手の電気メーカーはでかい図体(組織)とべらぼうな開発能力にものをいわせてトーンアームといいフォノカートリッジといいちょっとやり過ぎではないのかと思えるほど軽針圧動作にこだわりまくった。

 本機のアームもこれ用に開発された特殊なベアリングが奢られている。高感度それ自体は結構だがやたらと軽いアームパイプにこの軸構造で、しかもここだけは不親切なことにカウンターウェイトには印加針圧の数字が書かれていないのでフォノカートリッジを交換する度にフワフワと不安定なラテラルバランスに難儀し、針圧計を持ち出しての音決めになるので、カートリッジをとっかえひっかえしながらという楽しみ方にはやや不向きかもしれない。私の場合は手元に残してあったオルトフォンのVMS-20がうまい具合に収まったので以後、いじっていない。

 音質そのものはその後のPL-70の方が上だと思うが私はこの黒い物体が結構気に入っているのでデスクワークをする仕事部屋のシステムとして結構活用している。


黒いターンテーブルについて [再生音楽の聴取環境など]

 お金はないが物欲はある。困ったものできっと一生あれが欲しい、これがあったらなどとぶつぶつ言いながら過ごして行くのだろう。

こんなブログを書いているように、私は再生音楽を聴くのが好きだ。恐らく一生続くだろう。パッケージメディアの、とりわけLPレコードが好きなのも一生治らない。

 我が家でくるくると回るターンテーブルの数を数えてみると合計5台あった。5台も持ってどうするのかと我ながら呆れるが欲しいものはやはり欲しいのだ。少年期の頃に欲しくても買えなかったものを今になって大人買いよろしくちまちまとオークションを物色するのはやはり楽しいものだ。

 働き始めて一年目に私は24回払いのローンを組んでステレオを買った。テレビさえ持っていないのにステレオは欲しかった。そのとき買ったターンテーブルはヤマハのGT-2000という黒くて厳つい物体だった。
 どうも私は黒いオーディオ機器が好きだ。そのとき一緒に買ったアンプはサンスイのAU-D907XだったしスピーカーはヤマハのNS-1000Mだったので全部真っ黒な機材ばかりだったことになる。

 黒いターンテーブルには無性に食指が動く時期が周期的に訪れるように思う。現在、メインで使っているオラクル・デルフィには時たま限定バージョンでスモークアクリルではなく黒いベースのモデルが登場する。毎度ほれぼれしながら写真を眺めては私の甲斐性ではとても手が届かないそのプライスタグに溜め息をつく。

 最近、またまた物欲が頭をもたげ始めて黒いターンテーブルが欲しくなり始めたのでYahoo!!オークションに入札することがある。ターゲットは以前テクニクスから発売されていたSL-01というこれまた黒いターンテーブルだ。
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 SL-01が発売されたのは確か30年ほど前で、優れた内容であるにもかかわらず当時はあまり売れなかったように覚えている。単体のフォノモーターSP-20相当品と単体のトーンアームEPA-100に準じたものをコンパクトなソリッドボードに組み込んだものが当時の定価8万か9万円だったのだから考えてみると随分お買い得な製品だが、『重いもの程出来が良い』という長岡鉄男的価値観の刷り込みの強さと下を見ればSL-1200,上を見れば単体フォノモーターSP-10Mk2,ついでによそ見をすればジャケットサイズでLTA付きのスタイリッシュなSL-10という当時のテクニクスの圧倒的に華やかな商品構成のためか影が薄かった感は否めない。  しかし今日、一度は死滅したと思われたLPレコード再生もどうにかこうにか細々と生き存え、聴く人の私もだんだん大上段に振りかぶったようなステレオが重苦しく思えるようになってくると、このたいして売れなかったと思われるターンテーブルがだんだん気になってき始めてきた。内容は濃く、大袈裟ではない佇まいは今の私には結構好ましい。  世の中、似たようなことを考える人は結構いるらしく、SL-01 はオークション市場ではなかなかの人気アイテムのようだ。私はこれまで3回くらい入札を試みたが全て敗退している。落札価格は回を重ねるごとに上がり続けて現在では三万円以下での落札はまず無理で。次回の出品時には更に上がるだろうと思われる。  気になるアイテムではあるのだが30年落ちの中古品にムキになることもないか、と、負け惜しみも交えてほぞを噛むのだが、次回あわよくば、という考えも捨てきれない。

またしてもタバコは値上げされるとの噂について [嗜好品(喫煙関係)]

 目下私が吸い付けているホープは一箱150円で、次回の値上げではこれがなんと250円になるという噂を聞いた。真偽のほどは不明だがさすがにそうなるといっそタバコはもうよそうかという気にならなくもない。

 政治には疎いが歳入が予想よりも低く、40兆円を下回る見込みとのことで、加えて医学的見地からとか何とか、なにせスモーカーの肩身は狭くなる一方で私もそのうちの一人。余計に納税しているのに肩身が狭いというのは何とも理不尽な気がするのだが。

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非課税だが御法度です。

(追記

タグ:煙草 値上げ

Jazz Young Blood/Chuz Alfred(ジャズ・ヤングブラッド/チューズ・アルフレッド) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前日私は『幻の名盤』云々かんぬんといったような駄文を垂れ流した。(行の末尾が切れてしまってうまく表示されないのだが直し方がわからないのは大いに悩ましい)

 名盤かどうかは大いに疑わしいいが、幻の存在である事が周知されているだけでもまだ幸福ではないかと思える。存在した事さえも人々の意識から失せてしまったとすればそれは評価の対象にならないのだから。そんなレコードはそれこそ浜の真砂のごとく無数にあったのだろうが本作はその中にすっぽりと収まる。

ジャズ・ヤング・ブラッド

ジャズ・ヤング・ブラッド

  • アーティスト: チューズ・アルフレッド,ビニー・バーク,チャック・リー,オラ・ハンセン,ケニー・クラーク
  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 1994/03/21
  • メディア: CD

 CDとして再発されている事はちょっとした驚きだがさっぱり売れていないだろう事は容易に察しがつく。それが証拠にAmazon.comのリンク画像さえない。発売が1994年となっているのでもう15年経っているわけだがカタログ落ちしていないのは重ねて驚きだ。

 大体サヴォイというレコードレーベルは確たるレーベルイメージが把握しづらい上に売る気があるんだかないんだか首をひねりたくなるような低劣極まりないジャケットデザインのおかげで随分損をしていたと思う。本作についてはこうだ。

 

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 何ともお粗末極まりないとしか思えないが中身は悪くない。曲ごとの変化に乏しいのが本作を印象の薄いものにしている恨みはあるがミュージシャンとしてのセンスは悪くないと私は思っている。

 本作はオハイオ州出身の無名の若者をNYデビューさせるべくそれなりに力を入れて企画されたレコーディングなのである。それが証拠にリズムセクションにはベースにヴィニー・バーク、ドラムにはケニー・クラークという当時のサヴォイ・レコードのハウスプレイヤー達がつきあっている。もっとも、それは結果として堅固な基礎の上に建てられた少々普請の心許ない家といった印象がある。

 私は20数年前にキングレコードからリリースされた国内盤LPとして本作を入手したがライナー裏のキャッチコピーには哀れを誘うものがあって改めて感じるものがあった。それはこんな具合だ。

 オハイオ出身の若手3人がNYジャズ界に幸運なデビュー。しかし・・・・無名のまま散った。若き日の唯一の栄光の記録。★本邦初登場

 彼らの名誉の為に書いておくと、バンドとしては結構凝ったホーンアンサンブルをスムーズにこなし、ウェストコースターによく聴かれるような軽妙なやり取りが結構楽しい。主人公のチューズ・アルフレッドは強いていえばズート・シムズ似のレスター系、トロンボーンのオーラ・ハンソンは朗々と良く鳴る明快なトーンの持ち主てこれまた強いていえばビル・ハリスあたりにちょっと似か。(この人だけは三人のうち他にも録音歴があるらしい。ソニー・クリスの作品だそうだ)ピアノのチャック・リーはクリアータッチの持ち主でソロの場面では中々趣味の良いブロック・コードを随所で披露する。  

 テナーサックスとトロンボーンのフロントラインに3リズムという編成は私は結構好きで、ボビー・ジャズパーとJ.J.ジョンソンとかジミー・フォレストとベニー・グリーンの諸作を結構愛聴しているので本作もわりかし心地よく受け入れられる方だがいかんせん何か記憶に痕跡をとどめるような色合いの強さというかインパクトに欠けるあたりが無名のままフェードアウトしていった理由なのだろう。和文ライナーでもひどい書かれようで『この手の作品は二度と復刻されそうもない』などという納得できるようなバカ正直ともいえそうな一節がチェックもされずに記述されている。

 しかしまあ、私のような何の芸もない一リスナーはこうしてレコードだけを取り上げて好き勝手な駄文を垂れ流し続けているが、楽器演奏に携わっている方々にとってはレコードを吹き込めるというのは全体数のうちの一握りに過ぎず、たった一度だけとはいえその機会に恵まれた事は彼らそれぞれの人生の軌跡の中にあっては大いにメモラブルな出来事だろう、マイナーとは言えあるレコードレーベルから声がかかったときのその心情はおそらく大変な高揚感をもたらしただろう事は時間の流れとともにその存在が埋没していく事は間違いないこの私には、相当の羨望を伴って実に良くわかる気がするのだ。

 ご本人であるアルフレッド氏はその後も音楽活動を続けておられたらしい事を私はネットで知った。

http://www.dancemetonight.com/Chuz_Alfred.htm

 唯一のレコーディングはやはりご本人にとっても晴れがましいものだったようで、私は英語はさっぱりわからないが少々微笑ましい気分でそのHPを拾い読みした。

 ここで少々、益体もない空想を書いておきたい。視点をアルフレッド氏に置き換えてみるとして、ある日あるとき、見た事のない東洋人がアルフレッド氏の前に現れて『私はあなたのレコードを買いました。よく聴いていますよ』と話しかけてくる。一種、それは人生のファンタジーだが、本作の何かしらウォームな雰囲気はそんな出来事が人生に一度くらいはアルフレッド氏の身の上にあるべきだとしみじみ思う次第である。

(追記)知らないうちにSo-netブログにはYahoo!!オークションの関連リンクが設けられるようになっていた。私は面白半分でアルフレッド氏の検索ワードを打ち込んでおくが、リンク画像が現れる事はほぼ間違いなくないと思う。

 

 


LIve at Cafe Bohemia/George Wallington (ライブ・アット・カフェ・ボヘミア/ジョージ・ウォーリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 音楽聴き生活ももう40年近くになろうとしているので『もう長いこと』という枕詞を頭にくっつけても許されそうに考えているのだが、評価に困るレコードに出くわすことも勿論あって、ふと思い出したのがLIve at Cafe Bohemia/George Wallingtonカフェ・ボヘミアのジョージ・ウォーリントンというレコードの事だ。


 
ライヴ・アット・カフェ・ボヘミア

ライヴ・アット・カフェ・ボヘミア

  • アーティスト: ジョージ・ウォーリントン,ジャッキー・マクリーン,ドナルド・バード,ポール・チェンバース,
  • アート・テイラー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
  • 発売日: 2009/06/12
  • メディア: CD
 良い音楽だと思う。
但し、主観の問題なのだろうが『魂を鷲掴みにするような』というほどの圧倒的説得力を持って迫ってきたことはない。
活発なハード・バップであり好演ではあるが私にとってはどう聴いてもそれ以上ではない。
 しかし本作は一時、好事家の間では燦然と輝く歴史的名盤との評価を受けていたので私の主観とはかなりのギャップがある。
この手の話題は枚挙に暇がないほどそこらへん中に転がっている話だ。
 理由の第一は本作が最初、プログレッシブという極めつけのマイナーレーベルからリリースされていたため、
出回り数が極めて少なかったことに由来しているのではないかと私は想像している。後にこのバンドはプレスティッジと契約し、
アルトサックスはジャッキー・マクリーンからフィル・ウッズへとメンバーチェンジすることになるのだが、リスナーの中には
『今のバンドも良いけどアルトがジャッキー・マクリーンだった頃にはもっと良いバンドだったんだぜ』という御仁もおられた
のではなかろうか。
その手の物言いは結構ありがちではないだろうか。

 しかしそういった言い分の根拠となるべき記録はプログレッシブという頭に”ど”がつくほどの
マイナーレーベルにしか残されておらず、入手が大変困難である。アルトサックス二人を比較すると、
日本ではどちらかというとフィル・ウッズよりもジャッキー・マクリーンの方が
人気があるように私は見ているのだが、そうだとすればいかにも出てきそうな蘊蓄話ではある。
 本作の物凄く高い評価は、希少性が評価に物凄い尾ひれをつけた結果ではないかという味方を私はどうしても払拭しきれないでいる。
繰り返すが、好演ではあるのだが。これが評価に困ったことのうちの一つだ。

もう一つは私の諦めの悪さというか、一種のスケベ根性に由来するちょっとした無駄遣いに関してだ。 
数十年前にはびこった『幻の名盤』ブームのうちでも本作は目玉中の目玉だったと私は記憶している。
ジャッキー・マクリーンは私も結構好きなプレイヤーなのでテイチクから再発された廉価盤には一も二もなく飛びついた。
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 音楽そのものに対する私の評価は最初に書いた通りである。正直言って肩すかしを食わされた気分になった。
しかし本作についてはある種の噂がまことしやかに結構方々で囁かれた。それはどういうものかというと、
再発盤’に収められている曲は全て
別テイクであって、元々の初回リリース盤のマスターテイクこそがこの上なく素晴らしい、との伝聞だった。
 私が雑誌で見た本作のジャケットは冒頭、Amazon.comのリンク画像で示したように薄い青緑のような色だった
という記憶は残っていたので私の買った赤いジャケットの再発盤は音源の散逸が結構著しいらしいプログレッシブのことだから、
一種のピンチヒッターとしてリリースされたのだと
勝手に思い込み、幻はどこまでも幻として保存されていくのだろうかと益体もない妄想に耽った。
 但し私には金にあかせて高価なオリジナル版を蒐集する趣味はないし、そうしたいと思えるほどここでの音楽には
強い印象を受けることもなかった。

 それから数年後、LPレコードの時代もそろそろ終わりかという頃に日本ではビクターから本作が再発されたのだった。
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 ジャケットデザインが違っているので私はこの時の再発盤こそがマスターテイク集ではないかという考えに取り憑かれた。
そろそろLPレコードは市場から姿を消してしまい、これから先はCDに取って代わられることが明らかな時期だったせい
もあって私はさして思い入れの深い音楽でもない本作を餌箱から引っこ抜いてカウンターで財布を開いていた。

 自宅に持ち帰って数年前に買ったテイチクからの再発盤と収録時間を比較してみると確かにどの曲も僅かずつ演奏時間は
異なっていた。
しかし悲しいかな、私の粗雑な記憶力ではどう聴き比べてもどちらの盤もおんなじにしか聴こえないのだった。
果たしてそれぞれ、ジャケット裏に記載されている演奏時間と実際のそれとが同じであるかどうかをストップウォッチ
片手に検証するほど私は生真面目なリスナーではないせいで、本作の評価はそのうちどうでも良くなった。
 正直なところ、ドナルド・バードにせよジャッキー・マクリーンにせよ、本作の参加メンバー全てについていえることだが、
ここでのライブ・レコーディング以上の成果を上げた記録は他にも少なくないと私は見ている。

 結局のところ、別テイク云々の噂話と変更されたジャケットデザインに踊らされて私はレコード一枚分の無駄遣いを
したらしい、という顛末なわけだが、こうしてネットを活用出来る便利な時代になったので、
ヒマを見ては本作のマスターテイクと別テイク云々のことを調べてみようかとも思うのだが、
いっぽうでそんな不毛なことに時間を費やす気にもなれないという考えもあって結局本作
はいつまで経ってもモヤモヤした評価に覆われている。そのモヤモヤ具合こそが『幻の』名盤たる所以なのかもしれない。 

出てきた男/月亭可朝 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

中川イサト氏のライブを見に行った繋がりで、あれやこれやと周辺の人間関係をネットで見ていると嘉門達夫という人に行き当たった。あまり注目したことはなかったが確かに今までこの人の歌をあちこちで耳にしていたような気はする。
 
それでYou Tubeの動画を漁っていると月亭可朝と共演しているのを見つけた。
月亭可朝には嘉門達夫以上に強烈な思い出がある。少年期に大人の前で『ボインの歌』の出だしを唸って頭を小突かれたことのある御仁は私一人だけではないはずだ。(我ながらすれっからしのガキだったのだと少し恥じ入る)



 特に講釈も必要ないだろうがコミックソングの傑作。何故かこの手の歌は関西弁て唄われると陰湿さが抜けてギャグっぽくなり、結構素直に笑える。関東方面でのコミックソングはというとクレイジーキャッツ(植木等を含む)くらいで、私的には絵に描いたような西高東低の力関係と見ている。

 今日は一日、お仕事の関係でバリバリ関西弁の方と同行していたので何かしらその言い回しが頭に残っていてこの手の歌をちょっと聴きたくなったのですよ。

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