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Wish you were here/Pink Floyd (あなたにここにいてほしい/ピンク・フロイド) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ピンク・フロイドは文学的なバンドだ。その音楽はもしかしたらボブ・ディランと同じくらい文学的かもしれない。ここで「文学的」というのは、言葉が音楽の構成要素として非常に大きなウェイトを持っている点を指している。
 ここで、同じようなカテゴリーの音楽としてもう一方にあったキング・クリムゾンを対比させてみる。クリムゾンもそのスタート時点に於いては極めて文学的なバンドだった。ピンク・フロイド以上に文学的だったかもしれない。その歌詞は韻を踏んだ精緻なもので、それ自体が一つの文学たり得る完成度を持っており、アルバム全曲を通して歌詞の連なりが一つの物語、鳥瞰的な世界観を形成してさえいた。
 ただ、作詞家ピート・シンフィールド退団後のクリムゾンにとって言葉とは、Starless and bible BlackとかDisciplineといったいわば その時点でのバンドコンセプトだとか世界観を語る上でのキーワードの提示程度にとどまっていたのではなかろうか。表現の軸足は明らかに楽器演奏によるインスト部分に移動している。
 憶測として、歌えないプレイヤーであるロバート・フリップは表現の可能性を拡大する道筋として、演奏技術の向上を志向したのだ。ある時期の、それこそ目まぐるしく行われたメンバーチェンジや先の読めない即興の緊張感、80年代の情緒性を排した無機質な凄味は技術の向上が深い表現を可能ならしめることに賭けたこのバンドの成果だ。

 翻って、ピンク・フロイドには傑出したシンガーがおらず、際だった演奏技術もないという少々苦しい限界がそのスタート時点からあった。デビュー盤は非常に斬新でありながらもバンドの表現としては既にゴールに達している印象を抱かせるもので、ここで表現されているものは殆ど全てと言っていいほどシド・バレット一人の音楽的センスに於いて成し遂げられていることは明白だ。
 但し、ピンク・フロイドには技巧面のウィークポイントを補って余りある資質があった。それは、音楽の構成要素諸々を巧くデザインして一つの楽曲、一枚のアルバムにパッケージングする能力である。そして皮肉にも、この優れた資質は表現の多くを担っていたリーダー、シド・バレットの退団後に遺憾なく発揮される。

 かなり乱暴な割り切り方をさせて頂くと、ピンク・フロイドというバンドの本質とは「あっち側の世界」の住人であるリーダーを早々に失ってしまった普通の人たちであるサイドメンが抱く喪失感の対象化であり、「こっち側の世界」で生き続けなければならないことの違和感の表明である。
 言い換えればピンク・フロイドは(と言うか、シド・バレット脱退後の2代目リーダーであるロジャー・ウォータース)日常性と非日常性の間にあるグレーゾ−ンでの事象を音楽として表現する「普通の」人たちだと私は見ている。
 それは世間一般にあっては相当マイナーな立ち位置であり、違和感、喪失感、孤独感、寂寥感といったモチーフ、索漠とした感じばかりでは作品を作り続けるにしても早晩マンネリ化してしまうことは想像がつくし、事実私などは、初期の何とも抽象的な(リアルタイムで聴いていた当時はそう思えたのですよ)音群や陰々滅々とした展開にある種のじれったさを聴き取っていたりもしたのだった。
 
 ところがバンドは暫時成長を続け、音楽はより具象性を帯びてきてパッケージングやサウンドデザインはとことん突き詰められ、1973年にDark Side of the Moon(邦題:狂気)という驚異的なビッグヒットを生み出した。それはもう、尋常ではない売れ方で、バンドメンバーが戸惑うくらいバカ売れしたのだ。

 勿論、ここに至るまでにピンク・フロイドは十分なビッグネームだった。但しそれはロックという枠内での話で、幾分カルトチックなニュアンスがついて回っていたことは否めない。しかし、「狂気」はもう、大袈裟に言えば普段音楽など聴かないような人たちまでが買いまくったのだ。桁外れのセールスに当惑したメンバーは幾らかのモラトリアムに入ってしまい、次にリリースしたのがWish you were hereである。

炎‾あなたがここにいてほしい‾

炎‾あなたがここにいてほしい‾

  • アーティスト: ピンク・フロイド
  • 出版社/メーカー: 東芝EMI
  • 発売日: 2006/09/06
  • メディア: CD


 私なりの受け止め方としては、それまで延々と世間に対する違和感や孤独感をモチーフにし続けてきた自分たちの作品がどうしてこんなに諸手を挙げて世間に受け入れられてバカ売れするのか?日常に違和感を覚える人たちなどというのは世間のマイノリティであるはずなのに、アルバムのセールスは明らかに超メジャーなマンモスセールスではないか。レコードを買ってくれた何百万だか何千万だかの人達は本当にみんな自分たちのモチーフを理解してくれているのか?本当に伝えたいことは果たして伝わっているのか?サウンドエフェクトを面白がっているだけなんじゃないのか?というある種の疑念がロジャー・ウォータースにはきっと芽生えてきたのだ。

 リリース前、このレコードには楽器が一切使用されておらず、全てが自然音で構成されているという根も葉もない噂が一人歩きしたことがあった。現実問題としてそれでは音楽が成立するはずなどないのであって、要するにピンク・フロイドというバンドは疎外感や孤独感といった文学的なメッセージ以前に、けったいな音響効果を多用するバンドなんだという表層的な捉え方は確かに蔓延していた。実際、世間にはそうやって対象をひどく矮小な形で決めつけてしまう性質はあると思う。

 結果としてリリースされたものは、うわさ話とはかけ離れているどころか、ブルースタッチさえ漂う実に人間臭い一枚だった。
 余りにも売れすぎた前作は、かえって「自分たちは正しく理解されていないのではないのか?」という更なる違和感を誘発した、と、歌われている歌詞から私は聴きとった。
 そこで想起されるのが、発足時のリーダーだったシド・バレットだったのだろう。
どこか割り切れないものがありながらも自分たちのレコードはとにかく世間で売れまくっている図式を過去のバンドにスライドさせてみたとき、それでは傑出した表現者であったシドに何が見えていたのかを自分たちは本当に理解していたのだろうかという内省的な疑問が次に湧いてきたことは想像に難くない。
 だが最早それを確かめる方法はない。誰にも似ていない何かを表現していたシド・バレットは既に心の病に冒されていて「こちら側」の住人ではなく、もうその内面にアプローチする道筋は閉ざされている。
 もしかしたら、周囲に誤解されたまま、自分の役割を外側から規定され続けたまま、正気のまま、「こっち側」の世界を生き続けるよりも、世間との回路を一切合切遮断して「あっち側」へ行ってしまうことの方が或いは幸せなのかもしれない。
 レコーディングの最中に一時退院したシドがスタジオに現れ、自分に何か手伝えないだろうかと話しかけたときにロジャー・ウォータースは号泣してしまったという有名なエピソードは、そういう想像を私に抱かせるのだ。

 握手する男の片方が炎に包まれているヒプノシスのアートワークは殊更印象深い。
その男とは、内面の屈折や葛藤を外部に理解されないまま社会の一構成要素として一線を越えずに生きていかなければならない人物を象徴している。それは世間一般のリスナーと向かい合うピンク・フロイドであると同時にバンド発足時のシド・バレットでもあり、つまりはクレイジー・ダイヤモンドなのである。
 現実世界に踏み止まることの僅かな割り切れなさと、間近にいながらそこには入れない世界の住人であるかつてのバンド仲間への回想と屈折した憧憬など、ピンク・フロイドの諸作の中でもグレーゾーンに立つウォータースの内省的な告白が目立つ本作が私はとりわけ好きだ。そしてこういうモチーフというのは、好き嫌いは別として何とも文学的ではありませんか。

 


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