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元旦と修正会 [身辺雑記]

 例年、大晦日の夜にはお寺の修正会(しゅうしょうえ、と読む)に出かける。私の実家は浄土真宗大谷派の門徒なので、ある種の宗教儀礼である。除夜の鐘を突かせて頂き、年越しそばをいただいて、読経に加わって輪番の法話を拝聴してくるわけだ。

 会の段取りは有志の檀家が集まり、手弁当で行う。修正会は元旦に行うのだが、時間帯として何時という規定は特にない。朝の7時頃から行うお寺もあるが私の住む土地では除夜の鐘を門徒衆について貰うイベント(?)を兼ねて深夜0時30分に開講するのがここしばらくの慣例である。
 お寺に集う門徒衆ということになるとやはり高齢者が中心であり、深夜の勤行なので身体的には厳しい面がある。一緒に出かけた私の母などは法話の最中にうつらうつらと居眠りを始めた。息子としては少々切ない気分になったりもするのだが、それとなしに本堂を見渡してみると同様の門徒は結構いる。何しろ時間は午前2時頃なのだし、やむを得ない。

 顔見知りの檀家同士で挨拶を交わしていると、自分があるコミュニティに所属していることの安堵感を自覚する。日頃は利害の絡んだ人間関係の処理に明け暮れる身の上としては心のしわを伸ばしてアイロンをかけるような感覚である。ある時期からは漫然と年を越すことを止めた。

 今年の法話は勤行集の中にある「五濁悪世」(恐らく間違っていると思うのだが)についてであった。道義からはずれた世界と向かい合った際に抱く嫌悪感を示す言葉であるらしい。五濁についての詳しい説明をせっかく受けたのに深夜で普段以上に切れ味の低下している私の記憶力は全くあやふやにしか覚えていない。勿体ない話だ。
 
 但し、その感覚について思い当たる節はある。
残念ながら若い人に多いのだが、毎年必ず、こういう一団がいる。どういう人達かというと、連れだって徒党を組み、遊園地に遊びに行くようなイベント感覚で修正会の会場に現れて傍若無人に振る舞う輩である。行状を列記する。

(1)除夜の鐘を突く回数は当然108回であって、つく人数にも制限がある。鐘を突くときには僧侶から要領について簡単な説明があるが、これをロクに聞きもしないで変な音を出し、うまくいかなかったからもう一回打たせろとごねる。後ろには順番待ちの門徒衆が列を作っているのである。年配の門徒衆を威圧するように睨み付けながら割り込んでくる集団も多い。

(2)年越しそばは門徒であるなしにかかわらず、来場者には無料で振る舞われるが浄財の賽銭もせずに押しかけてきて何杯もお代わりをした挙げ句、「俺は何杯食った!」と声高に自慢しあう。勿論、勤行に参加などせず箸や器は本堂に投げ散らかしたまま意気揚々と引き上げていく。「天ぷらはねえのかよ」とか「全然うまくねえな」などと聞こえよがしに不平をぶちまける者もいる。

 他にも色々あるが、こういう連中を目の当たりにするとつくづく末法という言葉が心の中で重みを増す。学校教育だけで解決などつくはずのない根深い問題だと思うし、本当にイヤな世の中になったものだと慨嘆せざるを得ない。極端な話、いっそのことこの世は一度根絶やしに滅んでしまった方がよいのではないかとさえ思えたりもするのだ。

 法話を聞きながら自分の信仰なり生活習慣を侮辱されたような不快感を反芻していたら、輪番はそんな私の思案ごとを見透かしてでもいるかのようにこんなことを仰った。
 「しかし、時と場所を変えれば私達それぞれも意図せず他人に不快感を与えるような振る舞いに及んでることは大いにあり得る話であって、決して他人を軽んじない心を持ち続けることは、信仰の大きな目的のうちの一つでございます」

 その時私はお寺の駐車場に煙草の吸い殻を投げ捨てていたことを思い出し、大いに気が咎めたのだった。当然ながら法話が終わってから私は自家用車の周りを見渡し、決まりの悪さを覚えながら自分の投げ捨てた煙草の吸い殻を拾って持ち帰った。

 まだまだ人格未熟な2007年元旦である。


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