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1951年1月17日、Miles Davisの掛け持ちセッションをおさらい [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 Amazon.comにリンクを貼るやり方を昨日、やっと覚えたので、そのおさらい的エントリーです。こういう機能が活用できるところはネットの良さだと思う。


スウェディッシュ・シュナップス+4

 この日のマイルスは、当時ヴァーブと契約していたパーカーの元で、サイドメンとしてセッションに参加。メンバーは以下の通り。

Charlie Parker(as)
Miles Davis(tp)
Walter Bishop jr(p)
Teddy Kotick(b)
Max Roach(ds)

ピアノをデューク・ジョーダン、ベースをトミー・ポッターに入れ替えると4年前のレギュラー・バンドとなる。
 パーカーとマイルスというのは絵に描いたような腐れ縁だったらしく、色々なエピソードが伝えられているが、既にバンドを脱退したこの時期に何故このセッションに参加したのかは小生には不明。
 また、このセッションとの因果関係は不明だが、マイルスはノーマン・グランツが大嫌いだったらしい。「ビ・バップに関心なんかないくせにパーカーの知名度だけは利用したがった」というような内容の言質が自伝の中にはある。
 私個人の勝手な憶測だが、参加の理由はやはり金のためだろう。この時期のマイルスは本当に貧乏だったらしい。今でこそ歴史的名盤と讃えられる Birth of the Coolにしても、発売当初は全然売れず、マイルスはキャピトルとの専属契約をものには出来なかった。
 本題のセッションについてはこの時期にしてはパーカーがかなり好調であり、気心の知れたサイドメンであることも手伝って演奏の水準が非常に高い。バンド脱退後のマックス・ローチは急速に腕を上げて自分のスタイルを確立しつつあり、40年代の演奏に比べると、単なるタイムキーパーを卒業してバンドの中で堂々と自己主張が出来るレベルにまで達しつつあるのがわかる。
 ローチはこの後、Now's the timeのセッションで再びパーカーと競演するが、パーカーは元々、サイドメンの人選に厳格な見識のあるリーダーでは全然ないので、成長を評価されてのものであったかどうかは甚だ疑問である。
 それはさておき、ここでのマイルスはヤク中と貧乏のどん底であり、親分が好調なせいもあって何だか影が薄い。ローチの成長ぶりと対比すると存在感にはかなり見劣りがすると言わざるを得ない。
 「控え目なプレイに独自の美学を獲得しつつあり・・・・云々かんぬん」というのは、後になってから音楽だけを聞いて想像を逞しくしたこの国の評論家たちの希望混じりの拡大解釈だろう。どう聞いても未だこの頃、トランペッターとしてのマイルスは凡人風であり、プレイも好調ではないと見るべきと私は考えている。(この辺は聴く人の感じ方次第だが)

 さて、パーカーとのレコーディングを終えたマイルスはPrestigeでの初リーダーセッションのためスタジオに向かう。キャピトルとの契約が専属ではなかったことが色々な意味で幸いした。
 マイルスにとっては貧乏生活の最中、糊口をしのぐ収入源と、レコーディングでの人選を任せてもらえる権利を獲得できた。一方のオーナー、ボブ・ワインストックは新たな商売ネタの発見により、この後実に10年近くもの間、何と契約が終了してからさえマイルスの録音をリリースしては売り上げの恩恵にあずかるおいしい時間の始まりである。

Miles Davis & Horns 51-53

 これはかなりの確信を持って私は書くが、これはオフィシャルリリースされたマイルスのレコーディングのうち、1、2を争うくらい話題にならない、或いは売れない商品のはずだ。Prestigeへの初録音であり、後にビッグネームに変貌する当時のグリーンボーイたちが聞けるという資料的価値以外には本当に聞き所のない凡作である。私は25年前にLPレコードを買って大いに後悔し、以後20年近く棚の中で眠り続けた。後年、マイルスの自伝を読み、改めて聞き直してみたがやはりつまらない。しかし、個人の行動記録としてとらえてみると実に興味深い状況が浮かび上がってくる。
 このセッションのためにマイルスが声をかけたサイドメンは以下の通りである。
Benny Green(tb)
Sonny Rollins(ts)
John Lewis(p)
Peathy heath(b)
Roy Haynes(ds)
 前年の1950年、マイルスとワインストックはシカゴで面談し、契約条件を取り決めた。ギャラは750ドルだったそうだ。このセッションだけのものだったかどうかは不明であるが、この二人の駆け引きが互いに足下を見られまいとする、いわば狐と狸の化かし合いのようなものだったことは容易に想像がつく。
 また、1950年という年はマイルスがブルックリンに移り住んだ年でもある。ここでマイルスは、地元で評判の若いサックス・プレイヤーと知り合う。パーカーの次にスターになる大物は絶対彼だと界隈の誰もが口をそろえて評価するその人物とはソニー・ロリンズである。
 自分のアパートに遊びに来たロリンズが鳴らしたサックスのトーンにマイルスはたちまちノックアウトされた。以後、マイルスはことあるたびに共演の機会を持ちかけ、アプローチを繰り返すがロリンズは度々、行方不明になったり刑務所送りになったりするのでフロントラインを組むレギュラーコンボの構想はなかなか成就できない。ある種、この後10年続くすれ違いドラマの起点ともなる初録音がこの冴えないレコーディングなのである。
 
 この日、既に一仕事終えたマイルスは結構くたびれていたらしい。くたびれ加減はプレイからも何となく想像できる。そして、自分名義のレコ−ディングを始める前か後かは不明だが、マイルスはワインストックにある依頼をする。一緒に演奏したテナーサックスのロリンズ名義でレコーディングさせてくれ、と切り出すのである。
 資質があるとか界隈では有名だとか言っても、商業ベースでは全くの無名であるロリンズの録音にワインストックは大いに難色を示した。渋るワインストック、粘るマイルス。やがて「一曲だけ」という条件で両者が折り合う。

 ところが、マイルス名義の録音終了後にハプニングが起きた。サイドメンが次々とスタジオから出て行ってしまう。ロリンズのレコーディングをどういうメンバーで行うかの段取りが出来ていなかったのだ。
 慌ててパーシー・ヒースとロイ・ヘインズをマイルスは引き留める。しかし、ジョン・ルイスが戻ってこない。ワインストックはこれ幸いとばかり、ピアノがいないから録音は取りやめだ、と、手仕舞いにかかる。行き詰まったマイルスがここで無茶苦茶な提案、「オレがピアノを弾く」
 

ソニー・ロリンズ・ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・クァルテット

 こうして一曲だけのカルテット演奏が録音される。
Sonny Rollins(ts)
Miles Davis(p)
Peathy Heath(b)
Roy Haynes(ds)
皆様ご存じの通り、マイルスの経歴中、ピアニストとしてクレジットされているのは他にはMilestones中に一曲あるだけだ。

 いかにマイルスが偉大なミュージシャンであるとは言え、当然ながら神様ではない。ブロックコードを押さえるだけで精一杯、タッチは不安定だがとにかく一曲弾き終えた。
 片づけを始めたプレイヤー仲間にはトランペットより良かったぜ、とからかわれながらこうしてこの日のマイルスの仕事は終わった。

 そしてギャラを受け取ったマイルスはヤク漬けの日常を後ろ暗く思いながらも禁断症状には勝てず、スタジオを出るなりロリンズと一緒にヘロインを求めて夕方の町中を駆けずり回る。1951年1月17日のことでした。チャンチャン。


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