In a silent way/Miles Davis(イン・ア・サイレントウェイ/マイルス・デイビス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
60年代版のKind of blueといった感じの印象がある。
もっと文学的に語れば大飛躍Bitche's Brewの静かなプロローグのようでもある。
マイルスについては、4ビートの時期は受け付けないとか、背広を脱いでから(本作あたり以降)には拒絶反応を示す人が割といそうに思う。キャリア全般をまんべんなく聴く人にはこれまであまり会ったことがない。
かく言う私は典型的な後者だ。棚を見てみたら背広を脱いだ後からも「アガルタ」
あたりまでは結構律儀につきあっていたのだが、実は惰性というか一旦集め始めた義務感みたいな意識で買い続けていたものが多い。
エレクトリック・マイルスについては長い空白期間があった。これには長い長い食わず嫌いの時間が関わっているが別の機会に書きます。
ある意味、モダンジャズの歴史はリズムパターンをどこまで複雑化できるかの追究だったとも思えるが、これは所謂フリージャズが臨界点を示してしまった。
1950年代末に於けるコード展開の複雑化に対する回答がKind obf blueだったとすれば、1960年代末に於けるリズムの複雑化に対する回答が本作だったのだろうと位置づけている。
今聴いてみて改めて思うのは、アドリブ、ソロは意外と保守的というか、単一のソロ奏者が順送りに連なっていくという点で、まだサッチモ以来の伝統に根ざした音楽構造ではある。
抑揚を押さえた、単調とも思えるリズムボックスみたいなビートは、確かにそれまでのジャズにはなかったもので、リリース当時、本作の話題もこの点に集まった。しかしこれは鳥瞰的に見て同時期に、例えばスライ・アンド・ファミリーストーンあたりのファンク系で既に用いられている語法であって、ここではそれを巧くジャズの領域に取り込んだといった感じだ。
そういう意味では、最も先鋭的な表現はこの時点では既にジャズではなく他のカテゴリーに移っていたのだというのが僕の持論である。
マイルスがモダンジャズの様々な演奏フォーマットを次々と生み出したイノベーターであるという、所謂「マイルス史観」みたいなものに私は全く賛成しないが、この人がジャズを演奏するという行為に誰よりも意識的なミュージシャンであったのは間違いないと思う。
史実上の意義や価値の議論はさておいて、本作でのマイルス御大のプレイは、これまたKind of blue以来の伸びやかさである。表現上の自由度が一段拡大された嬉しさみたいなものが伝わってくる。但し、50年代末とは違って、それが「ジャズからそうでない何かへの接近」であるところにある種の諦観も読み取れる。例えばある時期までの私みたいな4ビートジャズの愛好家にとっては幾分否定的気分が喚起されるのかもしれないが、これもまたマイルスの音楽であることは間違いない。
(追記)ソフト・マシーンなどカンタベリー系のミュージシャンが好きな方にとっては結構音楽的接点の多い作品だと思います。
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