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It's Time/Max Roach (イッツ・タイム/マックス・ローチ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 数日経過してしまったが、8月16日、マックス・ローチが死去された。


 これで、自分自身がリアルタイムで経験したビ・バップ・イーラを語れる人はいよいよもって絶無に近くなったわけだ。そんな風にしてジャズの一代革新も段々風化していくのかと思うと少々寂しい。

 改めてプレイスタイルを振り返ってみると、様々な意味でモダン・ドラミングの教科書的プレイヤーだった。謹厳さ、緻密さ、折り目の正しさ、考えてみればそういうものを感じさせるドラマーというのは本当に希有な存在なのではあるまいか。後に頭角を現す様々なドラマーの個性というのもとどのつまり、マックス・ローチという絶対基準に対するオルタナティブな存在として際立っていたという見方も成り立つのではなかろうか。
 マックス・ローチの参加したセッションは一つの例外もなくと言っていいほどある種の律儀な緊張感に支配されていた。単なる伴奏者、単なる煽り屋ではなく、ある種規律だった影響力を常にセッションの現場に及ぼしていた。
 白人的とさえ言いたくなるほどクリーンなリズムワークの持ち主でありながら表現者としての音楽はある時期、アフリカ系アメリカ人としての民族意識を強烈に打ち出したものであったことは興味深い。時には政治的主張が音楽に混入されるほどの過激さを見せたが、そういう路線をあくまでも一時的な激情の産物として継続させずおいたのは音楽家としての良識を示している。

 訃報に接して一日、手持ちのレコードを引っ張り出してあれこれ聴いていた。インパルス時代のリーダー作には印象深いものがあったのでIt's Timeのことを取り上げようと思ったが、amazon.comやタワーレコードのHPを見る限りでは発売されていないのでリンクを貼ることはできない。嘆かわしい話だ。

 およそ30年ほど前、私がジャズを聴き始めた頃はフュージョン・ミュージックの全盛期で4ビートなど時代遅れで、そんなものに熱中している奴は陰気な性格の持ち主だ、みたいな決めつけ方さえされたほどなのだが現在になってみるとその反動だか何なんだか、すっかり様式化された4ビートのハードバップ風味以外はカタログに残しておくに値しないと言わんばかりの風潮もあるようで、私のような雑食性にとっては残念至極だ。

 60年代に入ってからのマックス・ローチはそれまで自分が身を置いていたハード・バップを対象化する営みに傾注し始めたように私には見える。
 ディキシーランド・スタイルに始まるジャズの変遷が、新しい語法の発明や表現の深化を達成したとは言え、ビジネスとして考えた場合はレコードレーベルのオーナーにせよ、クラブのオーナーにせよ勘所を押さえているのは皆白人であって、ごく少数の好意的理解者を除けば結局は商業音楽であり芸人の音楽であることはジャズに求められる基本的な素地だったのだろうと私は想像している。

 時代背景も手伝ってか、本作はそうした「芸人の音楽」としてのジャズを峻拒している。所謂ブラック・ナショナリストとしての気負いが横溢した「作品」である。
 CandidにレコーディングされたWe Insist!にあったあからさまな政治的メッセージはここにはないが、コーラスを大胆に導入した本作の演奏フォーマットは、ある種アフロ・アメリカンによるオラトリオといった趣もあり、ポピュラー音楽ではなくクラシカル・ミュージックに対するカウンターとして企図されたものであることは想像に難くない。
 全編にわたって終始波打つ、まるで地面の底から湧き起こる呪詛のようなコーラスには西洋教会音楽に聴かれる清々しさは全くない。苦悩や怒りを表現するために敢えて不揃いで荒っぽく響かせようとしているかのようでさえある。重く荒々しい体当たりのようなマル・ウォルドロンの運指や弦を掻きむしるようなアート・デイビスのフィギュアも相まって、随所に現れるドラムソロもまた、50年代に於けるハード・バップバンドのリーダーの頃とはうって変わって何か怒気を孕んだような凄味を見せつける。

 思えば、パーカッションによる表現の可能性をジャズほど深く追求したカテゴリーはない。そしてマックス・ローチはどう少なめに見積もってもモダン・ジャズ以降のプレイスタイルの絶対基準を確立したと言っても過言ではないほどの功労者なのだ。

 今日、本作を聴いていて改めて気づいたことがある。本作のタイトルIt's Timeは当時の世情を反映したブラック・ナショナリズムの喚起を表しているものだというのがこれまでの私の理解だったがもう一つ、Timeというのはビートであり、リズムを指してもいるのではないだろうか?
 音楽は時間を駆使した表現形式であり、ビートを送り出すということは時間を刻む営為である。マックス・ローチは終生、フリー・リズムの音楽を手がけなかった。それは、一小節を幾つに刻むか、ビートの集積によって提示される秩序の中で和声や旋律は形成されるものだという信念がこのタイトルには込められているのではないかというものだ。メロディーに対するリズムの優位性の主張と言うモチーフはマックス・ローチのキャリア全般を貫いている。

 本作は必ずしも万人に向けて作られた音楽とは言えないところがあり、手法としては少し未消化な部分も実はある。ましてや前述したように現在市場で簡単に入手できるソースではないので私自身他人様に強くお奨めする気はないのだが、定番4ビートを取り上げて重箱の隅をほじくり回すような蘊蓄を傾けるのは一つの楽しみとして、挑戦的な音楽と対峙するというリスナーの有り様もあっていいと思う。そこから得られるカタルシスというのも否定しがたい快感ではある。

 私は本作のSandy Afternoonという曲に至るまでの展開が大変好きだ。リチャ−ド・ウィリアムスによって朗々と吹奏される本作中唯一のチャーミングなテーマに聴き入っていると、クリフォード・ブラウン、ケニー・ドーハム、ブッカー・リトルといったかつてこのバンドを去来した名トランペッター達のことを何故かしみじみ思い出さずにはいられない。彼らは皆既に物故しており、今はかつて彼らのボスだったマックス・ローチもそこに向かっていったというわけだ。

合掌
 


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コメント 2

だーだ

今頃あの世で大セッションでしょうか?
聴きにいけるまであと何年かかかりそうです。
それまでレコードで我慢します。
by だーだ (2007-08-27 17:29) 

shim47

だーだ様
そう考えると代用品だとしてもレコードというのは有り難いものだと思いました。
 だーだ様のブログでご紹介されていたBset Coast Jazzを久しぶりに引っ張り出して聴いてみましたが、こんな名演をどうして今まで私は埋もれさせていたのかと少々反省です。
by shim47 (2007-08-29 00:52) 

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