SSブログ

La Dolce Vita/甘い生活(本筋についてのコピペ) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

前回に続いてこれのことを・・・
甘い生活 デジタルニューマスター版

甘い生活 デジタルニューマスター版

  • 出版社/メーカー: 東北新社
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 

 フェリーニの映画を見終わったあとは何か物凄く饒舌に語りたいのだけれどうまくまとまらない。私は何から何まで全部の作品を見通したわけではないがそういうことが多い。 この人の映画は「甘い生活」以降、特に言葉によってくくられることを拒むようになった。起承転結の物語性を持たなくなった。音楽で言えば無調でレギュラービートを持たないフリーフォームのジャズを映像化した、みたいなところがある。

 私は若い頃、映画館で一度見ただけでは把握できなくて色々映画の解説書を漁ってみたことがある。大体どれも訳のわからない観念的にして主観的な文章か、そうでなければ単に映像を時間軸に沿って文字化したもの、ということは殆ど出来事の支離滅裂な羅列で終わっている。とどのつまり、色々に論じられるこの映画について映画を見る前の予習として、また、映画を見終わったあとで頭の整理のために役立つようなテクストというのは殆ど全くないと言っていい。

 ある時気付いたが、混乱とか錯綜とか不規則とか無軌道とか乱雑とかいった言葉から導かれる連想それ自体がこの映画のモチーフなのではあるまいか。何せ、本職の映画評論家様たちにしてもうまく説明できないような内容なのだから私のような者で把握しきれるわけはないのだとある時から思うようになった。私の場合何でもそんな風だが、どんな表現形態であれ、とにかく一応文字として対象化しておきたいところがありそうだ。

 どうでもいい文章の寄せ集めみたいなこのブログを飽きもせずに続けている理由もそういうところにあるのだろう。

 私の手持ちのLDに、この映画のある一側面を的確に看破したテキストがあった。私が乏しい語彙から四苦八苦して拙い駄文をひねり出すよりもこういう有り難い手引きが自分の手元にあったことを忘れていた。灯台もと暗しというか。作品そのものをこの先何度も繰り返してみるようにこのテキストもこの先何度か読み直してみたいのでコピペしておくことにした。

(引用はじめ)

巨大なキリスト像が、ヘリコプターに吊るされ、両の手を大きくひらき、目を瞠る人々の頭上を大音響と共にかすめてゆく。キリストは今、人の操縦する文明の機器に操られ、ただひたすら黙しながらローマの街を見下ろしているばかりだ。地上には、もはや人と人を結ぶ愛もなければ、理解もない。アンニュイに浸りきった“甘い生活”に酔いしれているばかりだ。
 何一つ変わることのない“甘い生活”がどこまでも続く、とフェリーニ自身が述べている。ゴシップ記事専門の新聞記者である主人公マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)と大富豪の娘(アヌーク・エーメ)の行きずりの情事があり、婚約者が自殺未遂をおこし、ハリウッドの人気女優(アニタ・エクバーグ)に色目を使ってその許婚者に殴られ、唯一その真摯な生き方に憧れすら抱いていた友人は二人の幼い子供を道づれに自ら命を絶ち、婚約者と大喧嘩をし、爛れきった乱痴気パーティーの一晩を過ごし、しかしこれらの出来事は互いに何の影響も与えあうことなく、主人公の生活に変化が見られることもなく、したがってストーリーはなんの発展もせず、ただひたすらに様々なエピソードが綿々と連なっているばかりである。『甘い生活』以降のフェリーニ作品の特徴とされている因果関係の欠落した、発展のない、仮に順序を入れ替えたとしても物語としての整合性を失うことにはならないエピソードの羅列スタイルは、フェリーニが意識したものかあるいは直感力によってか、いずれにせよ作品に込められた思想の要求から必然的に生まれたものに違いない。
 フェリーニの映画はじつによく喋る。人が寄り集まるほどに、人々はほとんどひっきりなしに、スクリーンの中の時間いっぱい言葉を発しつづける。しかしここでは、言葉は人と人との関係を裏づけ、あるいは育む手段とはならない。いくら言葉を操ってみたところでコミュニケーションに繋がらないことの証として、人々はひたすらに喋りまくる。「言葉」と「関係」ははるかに乖離してゆく。そんな人間どうしの関わりあいのなかで、マルチェロの婚約者だけが、しきりに電話をかけたりして、心のうちを言葉で訴えようとするが、マルチェロにとっては言葉を媒介とした人間関係の構築などとっくに信じられるものではなく、ただ煩わしいものでしかない。そんな彼も、かつては言葉の力を信じて作家への夢を抱く青年だった。
 『甘い生活』を観たイタリアの上流社会の人たちは怒りを顕にしたそうだが、今では、映画を観ても、小説を読んでも、誰も怒りをみせたりはしないだろう。かつての時代は、映画が怒りをぶつける対象としてありえたのだと、しみじみ思う。
原 淳一郎
(引用終わり)

 そうなんだよ、そういうことなんだよな、と、納得しつつ違う切り口からの見え方も沢山あることを既に私は知っている。語り尽くすには余りにも多くのことが無秩序に絡み合っている映画だと改めて思う。 

news1-3-1.jpg

若き日のマストロヤンニ、いかにも伊達男風でかっこいいと思います。

生かじりの人相学風にいうと、少々鼻の下の長いところがにやけ面を際だたせているような。 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。