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書を捨てよ町へ出よう(2) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

今年の始めに書き始めてみたテキストだがいかにも尻切れとんぼ風でまだまだ書き残しておきたい事があるので再開。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-04(前回のテキスト)

『処女作に向かって前進する』という言い回しは時折聞くが、表現手段は色々あっても確かに処女作というのは表現するその人の過去の蓄積が詰め込まれているものである事が多そうなので生涯にわたるモチーフを感じ取られる事が結構あるように思う。

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 それまでは文筆だったり演劇だったりの世界で既に一定の評価を確立していた寺山修司だが映画監督としては処女作である。他分野で既に一家を成した人が映画製作に携わる時にはいきなり随分と手慣れた作風で処女作をリリースする事は結構あって、周囲の人たちはそれをさして『優れた表現者はどんなカテゴリーを手がけても一定の完成度をマークするものだ』という褒め方をする。

 しかし本作は全くそうではない。訴えたい事が多すぎてまとまりがつかなくてこういう造りになってしまったのか、あるいは意図して定型のストーリー展開を突き崩したような肌触りに仕上げたかったのか今の私には判断出来ないが、良くも悪くも不器用で荒々しい手つきの感じられる映画だ。敢えてここであらすじのようなものを整理しておくと格段入り組んだ内容ではないと思う。

 主人公は家族にそれぞれ問題を抱えた高卒浪人で、人力飛行機に乗って空を飛びたいという夢想を抱えながらどこか現実とは遊離した精神生活を送っている。 そのうち家族間での軋轢が強まったり主人公の精神的支柱となる人の一種裏切り的な行いにより否応無しに現実と対峙せざるを得ない心境へと押しやられていく。当初の夢想は自分は進学を諦めて鉄工所で働き、父には屋台を買い与える事で定収入を得る家族の仕組みを作るという地点にまで矮小化せざるを得なくなる。矮小化せざるを得なくなった現実を受け入れるべく気持ちの整理をつけた途端、購入した屋台が実は盗品だった咎で警察沙汰となり矮小化された夢は遂に粉砕されてしまう。

 表層的なストーリーを強いてまとめればこんな感じだろうか。

筋立て自体はこの映画と幾分通じ合うところもありそうに思えた。寺山修司が本作を製作するにあたって意識していたかどうかはもう確かめようもなく、この辺りは私のこじつけめいた思い込みではある。

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  全体のムードはかなり違うが、逼迫した生活者が生活手段を破壊されて更に逼迫するという一側面は共通しているように思えてならない。

ネット上の色々なレビューを読んでいると、いかにも時代がかっていて古臭いという否定的な感想が物凄く多いのだがこれは全く表層的な見方であって、例えば主人公は高校を卒業しただけで定職にも就けないフリーター、戦争犯罪人の負け犬とされている父は不景気で会社をクビになった失業者、ペットのウサギ以外には誰にも心を開かない妹はいじめにあって登校拒否となった引きこもり、万引きと虚言癖のある祖母は認知症、というふうに、本作での家族の佇まいはそのまま現在の私たちが抱え込んでいる病理やざらついた世間の空気に簡単に置換出来てしまう。 だからこの映画は決して時代の流れとともに風化してはいないのであって、むしろ今現在の私たちが呼吸する空気をこそ禍々しく投影しているのではないか。時代波形を感じさせるデコレーションが過剰気味なところは確かにあるが本質的には本作が扱っているテーマは物凄く普遍的だと私は考えている。

(調子に乗ってもっと書き続けてみたくなりました)


書を捨てよ町へ出よう(1) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 度々私のブログにご訪問いただいているぼんぼちぼちぼち様のブログ『冷たい廊下』をしばらく前から私も拝見させていただくようになった。

http://bon-bochi.blog.so-net.ne.jp/

 開設間もないが既に物凄い数のnice!がついている。 才能とはこういう事なのだと思います、お世辞は抜きにして。ブログ全体が目下進行中の一つの物語のようで唸らさせる。虚実の境界線を自由自在に行き来する様子とはこういう事なんだなあと感服する次第で、今日日、下手な小説を出版物として買ってきて読むよりもよほど刺激がある。

 それで、エントリーのうちの一つに寺山修司についてのテキストがあって、これに刺激を受けた私は年が明けてからたまたま持っていた初期の映画を一日一つずつ立て続けに見る事を決め込んだ次第。

書を捨てよ町へ出よう 【低価格再発売】 [DVD]

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  処女作にして永遠の問題作というべきか、あらゆる意味で凄い。

 冒頭、津軽弁で滑舌のあまり良くないモノローグを語る主人公が、だんだんズームアップされてスクリーンに大写しになり、カメラに向かって(という事は入場料を払って映画を観ている観客に向かって) 『そうやって椅子に座ってスクリーンを眺めていたって何も変わりゃしねえんだ!作り話に入れ込んで舞い上がってんじゃねえよ!』といった内容の怒声を張り上げる。

 これからの二時間強は予定調和の娯楽としてではないのだぞ、と、初っ端から宣言するのだ。何とも挑発的なオープニングだ。きっと公開当初はここだけでも面食らった観客が相当いたのではないだろうか。そして、多少想像を逞しくしてみると監督である寺山修司は映画という表現形態で一番やりたかった事を一番最初に持ってきたとも思える。「名刺代わりに一発」みたいで私にとっては痛快な出だしだ。


 所詮は作り話、と言ってしまえば身も蓋もないのだがそれでもその映画を見続けたおよそ二時間には何かしらの意味はあったではないの、と、観客の側である私が歩み寄っていく類いの映画にはもう一つ心当たりがある。

 

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 こちらは監督自身によってエンディングに、観客をせせら笑うようにして語られる。私にとってはショッキングな映画だったが寺山修司はこれより実に5年も早くこの禁じ手を発見していた事になる。いいんだか悪いんだかわからないが何しろ先駆的ではある。


 今日に至るまでこのデビュー作は観客を切り刻み続けていることはネット上の評価でも明らかだ。こちらのリンクなどを見ると世間一般の受け止め方が如実に現れている。

http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=5457

 まさに評価はまっぷたつに別れていて、大勢の罵倒と少数の熱狂的支持が入り乱れる。本作はある意味、寺山修司の自伝的な内容だが勿論映画の中でそのような注釈があるわけはない。虚と実、自分と他人、公と私、などなど、色々な対立概念がおよそ説明もなくごちゃ混ぜになって138分間絶え間なく観客に叩き付けられる。 先のリンクで語られるレヴュワーの不快感のうち公約数的なものとしては独りよがりな時間につきあわされる事のクソ面白くなさ、つきあった時間の空疎さというのが目立つ。

 ただここで、贔屓の引き倒しみたいな屁理屈をこねるわけではなく、私などはそれこそが寺山修司の狙った反応だったのではないかと考えている。きっとあの世で寺山氏は手を叩いているのではないか。

 他人の独りよがりな自分物語につきあわされる事のクソ面白くなさやかったるさ、自意識の排泄行為に利用されて時間を空費してしまった虚しさなど私たちの日常では至る所に転がっている。 例えばの話、他人の会話を立ち聞きするのは決して良い事ではないけれど、どこかのカフェみたいなところで群れて会話しているおばさん達(別におばさんに限った話でもないが)の様子を伺ってみるがいい。昨日何を食ったとか、あそこで滑ったとか転んだとか、誰に何を言われたとか何を言い返したとか、およそどうでもいいような日常生活の断片を脈絡もなく垂れ流し続けている。当の本人はある物語の中を生きており、何かしらのドラマツルギーを実感しているだろうが他人の目から見ればそれらは殆ど全てその人には何の関係もない話題ばっかりで垂れ流しているその人にしたところで時間があと百年くらい経ったらこの世に存在していた事が地球上の誰の意識の中にもないような小市民でしかないのだ。そして更にちょっと注意してみると実のところ、こういう会話は実は全然会話として成立していない事もわかる。めいめいがそれぞれの垂れ流す言葉の隙を狙って自意識の垂れ流し合いをやっているだけで相手の話など殆ど聞いていないではないか。

 やたらめったら言葉が飛び交いながら実は全然コミュニケーションなど出来ていない人間関係の空疎さを描いた映画というと連想するのが

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 そういえば寺山修司の映画は映像のディティールに於いてフェリーニと通じる肌合いがあるようにも思う。


  映画の後半で、主人公の祖母が街頭で身の上話を語り始める。自分には身寄りがなく、面倒を見てくれる人がいなくて困っているが実は大金を持っていると言った内容だ。それでばあちゃんの周辺にはざわざわと通りすがりの人が群がり始めて色めき立った目つきが集中する。しかしそれはでまかせの嘘八百であり、他人の関心を買いたいがための思いつきでしかない。たまたまその場に来た隣人の金さんが祖母の虚言をなじると途端にそれまで群がっていた人たちの雰囲気が険悪になる下りがある。

 嘘をついて他人の関心を買おうとするあり方への道徳的な非難はそこに込められているのだろうがそれ以上に、群がった群衆の関心は祖母の語る身の上などではなく、実は所持していると彼女が嘯く金に対するものに過ぎないのだという人間観がここには示されている。長らく往来のなかった知人がある日出し抜けに現れて身の上話を延々と語った挙げ句、それで用事は何なのかと問うと借金の無心だった事には何度か身に覚えがある。

 翻ってこの映画の監督である寺山修司は、この、一見支離滅裂な138分間にはまり込んでしまった事で憤慨したり後悔したりする観客に向かってこういう事を伝えたいのではないか。無意味に錯綜した独りよがりで陳腐で個人的な物語に他人を無理矢理つき合わせるその厚かましさや独善性を、あなた達もどこかで無自覚にやらかしているのではないのか、あなた自身が思っているほど他人はあなたの人生模様になど関心は持ってくれちゃあいないものだぜ、と。(この項続く)


休日にレッドクリフを続けて見る [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 私事だが、ここしばらく身辺に色々と変化があってきっと大きな転換点の中にいるのだろうと思う日々が続いています。

 私自身の人生模様などというものは他人様の視点から見ればとるに足らないような、それこそ小さな小さなものでしかないのだが本人の時間軸でいえばそれなりのドラマツルギーのようなものはやはりあって、主観的には何やら大きな物語の中の出来事になぞらえてみたくなるような局面も散発する。

 一生の中で経験する読書体験の中には大きな物語世界に没頭して何日も過ごすことがあって、それが自分の世界観や人間観の背骨の形成に影響するようなことはやはりあるように考えている。私の場合は父の持ち物だった本の中の一つにそれがあるのだとある頃気づいた。
新装版 三国志〈1〉 (講談社文庫)

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  • 発売日: 2008/10/15
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 読みふけったのは少年期から青年期にかけての時期だったが、その後、横山光輝の漫画などでも読み返してみたことがある。陳腐な言い方しか出来ないが、自分を取り巻く世界の動きというのは多くの人たちの色々な思惑が絡み合いながら紡ぎ出され、展開されていくものだというありようをどこかで知っておくべきであって、その疑似体験として出来れば人格の形成期に壮大な群像劇を通読しておくのはよいことだと思う。
 いずれ時間を見つけて、また通読してみたいと考えている。

 物語それ自体のことは更に色々思うところもあるがそれはまた別の機会に譲るとして、三国志が映画化されるなどということをこれまで想像したことはなかった。この映画のことを知った時に、それが物語の中の一部分を抜き出したものに過ぎないにせよ果たして映画の時間枠の中に収まるものなのかどうかを疑問視していたがやはり前後編2部に分かれる、少なくとも鑑賞時間だけで言えば『大作』である。

レッドクリフ Part I スタンダード・エディション [DVD]

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レッドクリフ Part II -未来への最終決戦- スタンダード・エディション [DVD]

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 色々事情があって劇場公開は見逃した。ビジュアル的には相当派手な作りなのでやはり、非日常の場所で見ておくべきだったと少々反省している。

 私はだんだん年寄りの範疇に入りつつあるからなのだろうが、若い頃の読書体験も相まってどうもこういう造りにはあれこれと難癖をつけたくなるようだw
 性格もだんだん屈折を深めつつあるということだろうか。 

 総体の印象としては、当然ながら商業ベースの娯楽映画なのでわかりやすい世界観で製作しなければならないのは仕方がないにせよ、何とも即物的にして直線的な出来だなあ、というのが見終わっての印象である。今日日、ハリウッド映画として製作するには多くの登場人物が権謀術数の限りを尽くすことで織りなされる錯綜した人間ドラマ(物語の本筋は明らかにそこにあるはずだと私は覚えているので)としてよりも切ったはったの、ぶったまげるような絵面と度肝を抜く轟音が続出する一大スペクタクルアクションであることに力点を置くのがセオリーなのだろう。
 大金を投じて製作し、多くの観客を動員することで投下資本の回収を計り、はい、収支決算でこれこれの利益を得ました、という枠組みの中で製作される映画とはこういうものだとあらためて実感出来るジェットコースターみたいな映画である。

 原作の物語世界についての予備知識がなく、単に二時間強の時間を消費する娯楽としてこの映画を見る人たちのことを念頭に置かなければならないのでこういう造りは仕方がないのだろうが、登場人物を善玉と悪玉にきっちり切り分けた上で周瑜の妻の身柄奪回ドラマとはまたなんとも矮小化の度合いが激しい。更にいえば孔明が単なる頭の切れる軍師様程度の描かれ方でしかない点も名前の一文字を頂いた私としては心情的にはなんとも寂しい。 
 まあグダグダと小言幸兵衛よろしくケチを付け始めればきりがないのだが、レンタルDVDでの話なので全編後編併せておよそ4時間強を消費する娯楽としてはこれが妥当なのだろうとここでは割り切ることにした。良くも悪くもハリウッド映画といったところだろうか。

 そんなわけで映画についての印象はあまり強いものではないのだが、三国志演義に基づく吉川英治版を再読したくなった。出来れば三国志正史に基づくのだそうだが北方謙三版も機会があれば読んでみたいような(二つ通読するにはどれくらい時間がかかるのかと思うと何だか途方もない気もするが)読書意欲が湧いてきた。

 映画を見通すことによって観客の中に湧き出してくる副産物としての欲求が、その映画を見にもう一度劇場に脚を運びたいのではなく原作を文字として読み通してみたいというのは、総合表現を売り物にする立場としては敗北宣言みたいなものではないかと私は思うのだが、所謂ハリウッド映画というのは恐らく、百万人の人に十回見てもらいたいわけではなく一回見るだけでいいから一千万人動員させたいのが製作上の大前提だろうからここから先は議論は成り立たない。まあ、どうでもいいのだけれど。

Revolutionary Road(レボリューショナリー・ロード) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 ついうっかりして映画館で見そこねた映画は多い。
数え上げていくと嫌になるほど多いのだが見たい映画の全てを映画館で見ていられるほどお金や時間の余裕があるわけでもないので,現実というのは元々思うにまかせないものなのだと自分を納得させる術をいつの間にか私は身につけている。

 今年の初め頃公開されたものだが、上映時期をチェックしていなかったので先日レンタルDVDで「レボリューショナリー・ロード]を観た。
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで スペシャル・エディション [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
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 毎度の話だが、「燃え尽きるまで」などという元々はありもしない陳腐なサブタイトルはやめてもらいたい。全部を見終えるとこのサブタイトルは笑えないジョークだったことに気づく。

 主役がレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットとなると、多くの方はこれを連想するのではなかろうか。
タイタニック [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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 私自身は意地でも見ないと決めつけている。やせ我慢のようなものだが理由はそのうちはっきりさせるつもりでいる。

 何の予備知識もなく、サブタイトルだけを見ているとキャスティングのせいもあってよくある恋愛ドラマのような先入観を抱きかねないが内実は殆ど真逆で、感情のささくれ同士がこすれ合って火花を散らすような緊張感が骨格をなしている。

 閉塞的な空間にとどまり続けることで宿った狂気がやがてどんどん成長して破滅に向かって突進していくという基調は、未だにどこかで私を悩ませ続けるこの映画に似ている。

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD
 男女の役割を入れ替えると物語の構図は随分似てくるように思う


凡庸な日常の連続がもたらす予定調和的なぬるい日常に肯定的な夫と、大きなリスクと引き換えの『特別な人生』を送る可能性をどこかで一旦諦めて、夫に同調しながら日々を過ごすことの割り切れなさを抱え込んで専業主婦として過ごすことにだんだんストレスを感じ始める嫁さんの物語なわけだが、夫婦や家族の共同幻想を一方は守ろうとし、対する一方は破壊しようとして相争う構図という意味ではこんな映画にもその共通項はあると思う。


バージニア・ウルフなんかこわくない [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 主演女優の鬼気迫る猛演というのも共通項だろうかw
但しこちらは野球のように共同幻想を守側と壊す側が入れ替わり立ち替わりであるのに対して、レボリューショナリー・ロードは終始一貫して嫁さんの側がサザエさん的日常をぶっ壊そうとして暴れる。

 やもめ暮らしの私にはリアルな実感がなかなか湧いてこないが、妻帯者(特に専業主婦を妻に持つ)である諸兄にとってはさぞかし現実化してもらいたくはない物語ではなかろうか。

(気分次第で以下続く)


 

岸和田少年愚連隊(外した映画シリーズ?) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 余り書くべき事がない。普段は垂れ流しの駄文が多すぎる反省を込めて今回は手短に書く事を試みる。

岸和田少年愚連隊 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 松竹ホームビデオ
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  井筒和幸監督にはこれまで幾つか大阪を舞台にした不良少年を描いた映画がある。そして本作はそのうちで最も出来の悪い映画だ。何が良くないと言って主人公の二人が全然不良に見えない。不良は大体、形から入ってくるものだと私は覚えているので、この映画は最も根本的な設定を無視している事になる。

 この手の映画の第一作は『ガキ帝国』で、井筒監督は以後、第一作を超える不良少年物語を一つもモノにできていない。その後三作続けても全てこれ以下なのでおそらくこの先も無理だろう。

ガキ帝国 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
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「ガキ帝国」では島田紳介と松本竜助のコンビを起用して成功を収めたので今度はナインティナインを起用しようという安直な考えが丸見えだ。「ガキ帝国」が成功したポイントは必ずしも漫才コンビの起用にあったわけではないのでこれは読み違い。吉本系の漫才コンビを起用して舞台は大阪の不良少年グラフィティをシリーズ化しようという商業的画策もあったのかもしれないが、もしも本作がその目論見を断念する理由になったのだとしたら確かに納得のいく出来上がりではある。

 漫才コンビのうちの背が低い方はやっている事がテレビのバラエティ番組そのままで映画俳優として何をしなければならないのかがわかっているようには全然見えない。背の高い方が演技者としては幾らかましに見えるが、先に書いたように不良少年風では全然ない。出演者の資質の問題はそれとして、映画の筋立て自体も時系列でいくつかのエポソードを並べてみただけといった感じで 全体を貫く構造みたいなものは感じられない。それに不良少年でハイティーンというのはこんなにあっけらかんと能天気で楽しい事ばっかりなものだろうか?私個人は刹那性や寒々しさがどこかに見え隠れする作風の方に肩入れしたい心情があるので、映画としては『ガキ帝国』よりも退歩した印象を受けた。

 映画は全て芸術性をを持った「作品」でなければならないとは私は全然思わないが、本作は娯楽作品としても出来が悪い。漫才コンビのショーケースはテレビ番組や吉本興業のステージで事が足りるはずで、映画はまた別の入れ物ではないのか。


Attack Force (邦題:沈黙の激突) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 冬は日が短いのでプロジェクターを引っ張りだしてきて映画を見るには都合がいい季節だ。そのせいかどうでもいい三流映画を次から次と見続ける変な習慣がここ数年で身に付いた。

 私にとってここ数年の代表的三流映画と言えばやはりスティーブン・セガールの主演する一連のアクション映画になる。もっとも、ここ数年のセガール氏はすっかり肥え太ってジョージ秋山のマンガに出てきそうなおっさんに成り果て、アクションシーンと言ったって目まぐるしいカットバックによって一体何をやってケリがついたんだかわからないうちにとにかくセガールが無傷のまま労せずして敵役を打ち倒しているようなインチキ臭い編集ばっかりなのでもはやアクション映画というよりもSFチックとさえ言えそうな何かに変質してしまっている。

 死んだ子の歳を数えるような話だが、セガール氏のデビューは結構かっこいいものだった。初主演作の冒頭で、彼は自分が日本で初めて合気道の道場を開いた外国人である事を誇らしげに語っていたのだ。道場をたたんで帰国した後、ハリウッドでアクション演技の指導に携わっていた、その俺様が初主演する映画がこれから始まるのだ、というオープニングには少し驚いた。通常一般のアクターとは主体が転倒している。誰を演じるかではなく誰が演じているのかを見て欲しいわけでこれは物凄い自己顕示の発露とは言えまいか。

刑事ニコ 法の死角 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
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 確かにスクリーンデビューしてから数作のスティーブン・セガールはいかにも本物の武道家らしい身のこなしが凄みを漂わせていた。しかし喩えは悪いがアクション映画専門の俳優というのはポルノ女優みたいなもので、物凄い刺激をそういつまでも発散し続けていられるものでもない。トウが立ってくればフェードアウトするかキワモノに転身するくらいしか選択肢がないのが殆どではないのか。セガール氏の場合は後者だった。デクデクに太りながらもセガール氏はひたすら厳つく、強面で、どんな強敵も一撃のもとに叩きのめす猛烈なオヤジでありつづけている。今や俳優としての株など暴落もいいところで製作陣といい共演者といい聞いた事もないような人たちばっかりの低予算映画の粗製濫造がもう何年も続いていてもはや興行価値などロクに見込めそうもないのに、セガール氏はとにかく、何が何でも、しゃにむに、断固としてそういう役柄で主演する事以外には俳優としての間口を広げるつもりが毛頭なさそうに見える。

 人物設定や筋立ての展開が荒唐無稽であほらしい、とか格闘シーンの立ち回りがあまりにも一方的な展開ばっかりで全然盛り上がらないといった至極ごもっともな批判が公然化した頃と例の「沈黙シリーズ」が乱発され始めた時期は大体一致している。原題自体はどれもバラバラなのだが日本で公開されるときにはまるでその言葉を枕に振らなければならない決りでもあるかのように「沈黙のなんとか」だ。ただでさえアクションスターとしては下り坂で、主演する映画そのものの質も底打ち状態の「沈黙のなんとか」シリーズは私の住む田舎町などでは数年前からは劇場公開さえされなくなった。きっと配給する側も色々タイトルを考えるのがもう面倒臭いからセガールが主演している映画なら何でも「沈黙のなんとか」にしておけばいいや、みたいな腹づもりでいるのではないか。

 私の悪癖でいつも前置きが長過ぎる。とにかくこれだ。先に私はセガールの近作はもはやアクション映画というよりもSFチックであると書いたがここで訂正しておきたい。セガールの近作はSFというよりも一種のギャグとして見るのが正しい作法ではなかろうか。

沈黙の激突 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
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 このタイトルにしてからが既に配給会社のてきとうな手さばきが如実に現れている。

この地表には空気という媒質が満ち溢れているのだから激突が起これば必ず音波が発生するのであって沈黙などあり得ない、とか、激突を衝突と言い換えるならばそれは固体同士の運動が起こす物理現象であって、果たして『沈黙』とはそのような実体を持っているのか、とか我ながら情けなくなるくらいバカ丸出しの突っ込みを入れてやりたくなる。

 映画の中身についてはもう、いい加減にしてくれと言いたくなるくらいの低劣さで呆れるしかない。セガール様の手抜きアクションは健在で、『一撃のもとに叩き伏せる』という境地さえ超越されたようだ。射撃の腕も含めて、もはやゴルゴ13だってセガール氏には敵わないのではないかと私は真剣に考えている程だ。

 セガール様の事はさておいて、この映画を見ていて大変鬱陶しいのは最初から最後まで画面が暗い事だ。最初から最後まで殆ど全てのカットが暗がりや物陰だったり夜間だったりのシーンばっかりが続く。銃撃戦や格闘シーンも全て暗がりの中で行われ、普段以上にわけがわからないうちにとにかくセガール氏麻薬のドーピングによって超人化した殺人マシーン共を涼しい顔でいつも通りちょっと触るだけで敵を呆気なく絶命させてしまうのである。手抜きアクションはいよいよもって際立っており、実はセガール様こそが真の超人であった事をこの映画は伝えている。何せ、製作手法として論外という他ないが、ここで私は明るい場所でのロケーションではセガール氏が太った自分の体型が明らかになるのを嫌ったからではないかと意地の悪い想像を働かせている。

 まあとにかく、それでもなんだかんだ言って私はスティーブン・セガールの主演する映画を折りに触れて身構えるでもなく緊張感もなくダラダラと見続けている。カップラーメンをすすりながら、とか、大して飲めもしない酒をチビチビやりながら、相変わらず下らねえ事をやってるな、とか、もう十分稼いだのだからいい加減やめちまえ、と内心毒づく事でなにかしら楽しんでいる事になるのかもしれない。映画を見ているというより水戸黄門だとか暴れん坊将軍のようなドラマシリーズに接している感覚に近そうな気がする。


凶気の桜(外した映画シリーズ?) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 冬は暇になりがちなので安物DVDプレイヤーが健在なうちにどんどん安価なレンタルDVDを見続ける。

凶気の桜 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 東映ビデオ
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小さい映画だ。悲しいくらい小さい。メジャー系の東映にしてみればこれでも冒険したつもりなのだろうがそれにしても小さい。キャスティングとしては原田芳雄だけが光る。私はこの人に関しては昔から大甘。クールで陽気な殺し屋稼業役の江口洋介はかえって白々しい。

 無軌道な暴力さがより大きな暴力装置に取り込まれて消費され、摩滅していく物語というのは既に偉大な基準が出来ていて 本作はあらゆる意味でこれを超えていないし違った側面を生み出しているわけでもない。

時計じかけのオレンジ [DVD]

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  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

比較する事自体、酷な気はするがつまらないものはやっぱりつまらない。主演の窪塚洋介という人は一種、アイドル的な人気のあった人のようで、そういうタレントが暴力的な役柄を演じる事自体が一時の話題性を持ったのだろうが所詮それだけのことではないのか。

スケールといい、物語の起伏の大きさといい、あらゆる面で偉大なる先駆者には遠く及ばないのは明白だが 、一つ上げれば主人公の描かれ方が大変薄っぺらい。題材が何であれ、映画は約2時間なにがしの間に主人公が山あり谷ありの局面を経験して一段変化した存在に成長するのがある種のお約束だと私は考えている。

「時計仕掛けのオレンジ』での主人公アレックスは無軌道で無差別な暴力少年として始まり、途中強制的に矯正されたいじめられっ子としてあらゆる人からあらゆる迫害を受ける。そして最後にはより大きな凶暴さに呑み込まれて、今度はより大きな凶暴さの道具として再び暴力少年としての再生を遂げるという道筋をたどる。そんな二転三転の構図がドラマの核な訳だが本作での山口君は終始一貫、徹頭徹尾、いきり立った単細胞的暴力少年でしかなく、滑稽なくらい単調だ。加えて、幾ら強かろうが逞しかろうが徒党を組んで暴れているうちは男としての値打ちはない。孤独の中で満身創痍になってこそ美学が光り始めてくるのであって群れなす野郎共などというのはどこまでいっても自立できない弱さでしかない。

 劇中登場する彼女志願風の女子学生とのやりとりやエンドロールが終わってからのロングカットでは戸惑ったり怯えたりする様子を織り込んでその人格に奥行きを持たせた意図もあるのだろうがいずれも取って付けたような不自然さだけが鼻につく。 よって私的にはアイドルタレントの一時の人気だけにおんぶした凡作である。日本のメジャー系映画としては無機的な暴力少年という人物設定はそれなりの冒険だったのかもしれないが、冒険というには余りにも小さい。


Cloverfield/クローバーフィールド [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 昨年話題になった映画だが私は映画館で見ておらず、今になってやっと DVDを借り出してきた。もうあちこちで随分語られ尽くしてブログで取り上げるには今更というのはごもっともだが、ここは私自身の備忘録的におさらいのような事を書いておきたい。

 幼少時の私は怪獣映画が大好きで、ゴジラやウルトラマンには随分熱中した。怪獣が登場すると車を踏みつぶしながら我が物顔で市街地をのし歩き、無造作にビルを叩き壊したりする訳だがああいう行いのうちに被害を被る人々は当然沢山いる訳で、この映画は「怪獣に踏みつぶされる人たちのうちの一人」という視点で作られている。

クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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 怪獣は瞬間的にチラッチラッと断片的に出てくるが、物語の主体は怪獣から逃げまとって右往左往する群衆のうちの一人が所持していたビデオカメラと言ってよい。現場から回収されたビデオカメラに記録された映像がそのまま映画の筋立てでもある。こういった物語設定には前例がある。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト デラックス版 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: クロックワークス
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 クリーチャーの出てこないホラー映画。技ありというかジャンルに於いて一度だけ使うことを許されている禁じ手というか。どれほどグロテスクなモンスターも人の想像力の限度には及ばず、何が恐ろしいと言って生身の人間程恐ろしい存在はない。

 終始一貫した一人称視点の製作技法はブレア・ウィッチ・プロジェクトの二番煎じで、モンスターの姿が断片的に映る分だけサービス精神が覗く作りだが表現手法の如何を問わず、そもそも一人称というのは徹底させればさせる程排他的な世界を構築していくものだと私は日頃考えていて、この映画の公開前に色々とセンセーショナルな前宣伝がなされていた状況には疑問があった。

 結論というか評価のような事を最初に書いておくと、私はかなり否定的な見方をしている。ネタバレは良くないが、本作は元々大して値のない映画なのでネタバレがあったからといってその価値が減じる事もないと私は見ている。それほどまでにくだらない作りだと考えている。

 構成には多少のひねりがある。先に書いたように怪獣が現れて大暴れした後の現場から回収されたビデオカメラに記録された動画、というのが本作の作り方だが、ビデオカメラの記録メディアには先に4月下旬頃、デートの様子が記録されており、映画の出来事はそこに上書きされた5月中旬頃の記録ということになっている。従って映画の進行中では所々断片的に数秒間ずつデートの様子が現れる。事件の間中記録は何度か寸断されるので、上書きされる事のなかった事前の記録が断続的に再生されることになる。

 映画を見ながら私は、事件当日のパニック状況と平穏な過去の出来事を対比させる意味でそういう構成になっているのだと思っていた。次々起こる大破壊の最中にあって報道関係でもない一私人がここまで記録に拘泥する理由は何なのか、何度もカメラを取り落とし、弾き飛ばされても決して手放そうとはぜずに何度も撮影にリトライする根拠は普通に考えればかなり薄い。純然たる一人称形式としてはそこに不自然さを感じる。大量動員目当ての商業主義と先に書いたような禁じ手風の製作手法の折り合いは、再度書くが折衷できる性質のものではないという私の見方はやはり変わらない。

 映画のラスト近くで、避難しそびれた登場人物が怪獣に遭遇して文字通り命と代償にその容姿の全体をカメラに収めるカットが数秒あるがそれは何とも中途半端な印象を与える。結果として本作はモンスターを大暴れさせるところを見てもらいたい大活劇ではないが、だからといって想像外の存在である異形のモンスターに徹底的に蹂躙されてパニックに陥る人間のドラマにも徹しきれていない。

 更に幻滅させるのはラストの数秒間で、撮り残しのテープの末尾には先に書いたように4月下旬のデートの様子が断片的に収まっている。(ここからネタバレですよ)海辺の観覧車で仲良く収まる登場人物の微笑ましい姿で映画は終わる。と、ここで、背後の海、かなり遠方に空中からの飛来物が飛び込む様子が映り込む。映画の最中にノルウェー船籍のタンカーが沈没したニュースがテレビで放送される伏線があったり、ネット上でも架空の企業の海上建築物が破壊事故に遭った架空のニュースなどがあったりもした事から考えるとこの、ラストで小さく見られる海上への飛来物が約一ヶ月弱で成長してマンハッタン島に上がってきた件の怪獣である事は明らかだ。

 物事には語る事による面白さはあるが反面、伏せる事によって受け手の想像力が刺激される側面もあると思う。パニックに翻弄される一私人の視点を徹底させるのであれば、見えない事、把握できていないものがあったほうが怪獣という不条理な存在をより強くイメージさせる働きがあったはずだと私は考えていて、ストーリー上は無理矢理感の否めない怪獣の全容をカメラフレーム内に収めたカットといい最後の飛来物といい、ディティールが無用に説明的な分だけこの映画は陳腐でくだらない。せっかくジャンルの中で一度だけ通用する禁じ手を駆使して構成するのであれば、もっと不明さや不可解さを物語の糊しろとして残しておき、怪獣のイメージは観客の想像力に委ねておくべきではなかったか。描かれない事、語られない事に向かって想像力を働かせることを観客に促す結果、普遍的な評価を獲得した映画は少なくないはずだ。

ストーカー [DVD]

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  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィ・シー
  • メディア: DVD

 「見せない事」の美学というと、パッと思い当たるのが本作だろうか。

 最後に多少の皮肉めいた感想を書き留めておくと、クローバーフィールドという映画で驚嘆するのはモンスターの脅威などではなく、拾われたビデオカメラの耐久性だろうwこれだけ何度も取り落とされたり弾き飛ばされたりして、あげくの果てにはヘリコプターの墜落事故にまで巻き込まれながらこの物体はカメラである事をやめないのだ。

 


The Rose(ローズ)ついでに「だんだん」が面白くないことに関して [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 これまで何度も書いたとおり私はテレビ放送の熱心な聴取者ではない。テレビが故障して見られない時期が数ヶ月あったがそのときでさえないならないでいいと結構簡単に割り切れたほどだ。但しあればあったでそれなりに見ないこともない、良くも悪くも私にとってのテレビ受像器はそういう位置づけだ。

 放送局で言うとNHKが多いのはこの公共放送の内容が優れているからではなく、他に民放各局の内容が酷すぎるからだ。それに見ると言ってももっぱら朝のうち、時計代わりにちらちらと眺めている程度でしかない。生活習慣として8:15から放送されているドラマを目にすることが多いが、目下放送されているものは全く面白くないので、本当に時計以上の役割を果たしていない。「だんだん」というのがそのタイトルだ。

 身も蓋もない言い方をすればドラマなどというのは全て、基底に実話があったにしても大なり小なり作り話なのだからくそ真面目にあれこれ難癖を付けるのも野暮な話だが、どうにも決定的に受け入れられないことがある。

 歌手を目指す双子の姉妹とこれを売り出そうと躍起になる音楽プロデューサーという構図が目下の所、筋立ての中心なのだが音楽をドラマの中心に据えるというのはどうなのだろう、成功例が殆ど思い浮かばない。そして「だんだん」は私が覚えている中でもかなり程度が悪い。

 何がお粗末と言って主人公であるところの双子姉妹の歌唱だ。カラオケが私たちの生活にすっかり定着してから久しいが、周囲を見渡せばこの程度の唄を歌う人など掃いて捨てる位いる。こんな程度のシンガーに入れ上げてしまう音楽プロデューサーは本当に眼力に欠ける御仁としか言いようがない。所詮作り話でしかないのだからこんなことにいちいち茶々を入れるのもアホらしいのだが荒唐無稽にも程がある。ここ数日は登場人物達が「プロとは云々」と口にする場面が出てくるが私の見え方としてはこのドラマ自体がプロの造作ではない。大体、登場人物中プロの匂いを醸し出している人が殆ど皆無ではないか。私が思いつくのは祇園の女将さんと、双子の父親の後妻の二人だけだ。皮肉なことに後者はまさに「専業主婦のプロ」であって、このドラマには実はもっとも生産性から遠いはずの人が最も高いプロ意識の持ち主だったというシニカルな逆説を密かに忍ばせておきたい隠れた意図があるのではないかと天の邪鬼な私などは勘ぐりたくなる。

 何せ、主人公達のミュージシャンとしての資質が素人歌唱の域を全く出ていない点で物語としてのリアリティは殆どゼロに近い。こんな不自然な筋立てのドラマをこしらえてまで売り込みたいほどのタレントなのかとNHK大阪の眼力を疑う私は二重に懐疑的なことになる。

 音楽をドラマの主軸に据えるというのはなかなかに難しい仕込みを要するのではないかと私は常々考えるのだが、はっきり意識したのは学生の頃に見たRoseという映画だった。

ローズ [DVD]

ローズ [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 ベット・ミドラーというシンガーに当時、いかに大きな期待がかかっていたかが示されている。事実大きな度量を持ったミュージシャンではあるが、幾ら何でも題材がジャニス・ジョプリンでは荷が重かろうというのが当時私の先入観だったがこれは間違っていなかったと今でも考えている。

 二昔以上前に一度映画館で見たきりなのでディティールを全部は思い出せないが、ベット・ミドラー扮する主人公は全然不幸そうにも悲劇的にも見えない。ルックスはいいし、物わかりの良さそうな彼氏は寄り添っていてくれるしで、こんな周辺環境なら精神世界の過剰さも欠落も起こり得ないではないかと当時青二才の私は懐疑的になった。歌いっぷりは確かに様になっていて本人に通じるところもあったような気がするが何かが違う。ジャニスの唄というのはどこか未成熟で円満さやバランスを欠いた人達の心情を代弁していたはずのもののように私は捉えていたので違和感の原因はそこにあるのだろう。

 映画を見ながら私はジャニス・ジョプリンのことを頭の中から追い出した。これは単純に、一種のミュージカルとしてベット・ミドラーのステージアクトを楽しむ娯楽作品として接するべきだ。 それで入場料の7割位は元が取れた気分になった。繰り返すがベット・ミドラーは優れたシンガーであり、エンターテイナーでもある。結局私がシンガーとしてこの人に入れ上げることはなかったが客観的にはそう思う。

 思い出してみるとミュージシャンの評伝を題材にした映画というのはどれも大してうまくいっていないのではないだろうか。殊に、残された音楽が既にドラマツルギーを帯びているような天才ともなると尚更だ。人間表現としては既にその人の音楽が全てを語り尽くしている以上、後から何を付け足しても邪魔くさいだけとも思う。

 翻ってテレビ小説に戻れば、再度、こんな程度の歌唱のどこがよくて売り出したいのかねえ、と、毎朝タバコを吹かしながら幾分侮蔑的な接し方をする私自身のことに思い至った。それは「訳知り顔のイヤミなオヤジ」だ。図らずも私はこの陳腐なドラマを毎朝見続けながら私自身のそういう側面を再認識したのだった。 


「闇の子供たち」を見に行く [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 不定期だが日曜日の午後は思いつきでふらりと映画館に入るのが私の生活習慣だ。現在、私の住む町には映画館は2軒で、一方は典型的なシネコン、もう一件は昔ながらの単館上映で、利用頻度は大体半々程度だ。

 後者は大きな予算を投入して大量動員を狙ったプログラムは少なく、娯楽性よりも少々マニア好みのする演目が多く、かなり重いテーマの映画が掛かることもある。 タイに於ける子供の人身売買を扱った映画ということで足を運んでみた。

http://www.yami-kodomo.jp/  (公式HP)photo_2.jpg

 雑感のようなことを羅列しておくと、劇映画としてよりもドキュメンタリーとして制作したほうが問題提起や表現としてのインパクトは大きかっただろうと思う。ただ、劇映画として制作し、事実の禍々しさを良くも悪くも薄めることで映画館に人を呼び込む敷居の高さを下げる効果は確かにあったはずだ。描かれていることの事実性はさておいて、日常報道では目を背けられている出来事なので(臭いものには蓋と言うべきだろうか)より多くの人に見てもらうという目的は制作サイドにはあっただろうから、興行としては重いテーマであるにもかかわらず一定の成果は上げたのだろう。

 ストーリーとしては、終盤の銃撃戦など余り必然性の感じられないエピソードがあったり、登場人物の描き方に単細胞的な言動が目立ったりで、正直なところ出来がいいとは思えない。ネタバレになってしまうのだろうがラストでは主人公が勤務地での滞在時に行ってきた行動の罪悪感にさいなまれて自殺する場面があるが、ここに至るまでその後ろ暗さに無自覚だったとしか見えないのは普通、人間心理からいってあり得ない。売買された子供を助けるためにと大義名分をがなり立てて身内のスタッフに命の危険を伴うような行動を迫りながら自分は常に車の中で待っているだけなどというムシのいいNGOの主宰者にはむしろ怒りを覚えたが、ある意味リアリティを感じもする。

 そういうわけで劇映画としてはお世辞にもいいとは思えないが、スクリーンにアップで映る子供達の表情には痛々しさが鮮烈に表れていた。意図されていたものかどうかは疑問だが優れた演出を感じさせる殆ど唯一のカット群だ。劇中、日本人の買春客が投宿先で児童相手の性行為を済ませた後、全裸のままでパソコンに向かい、恐らく掲示板の書き込みか自分のブログか何かなのだろうが「ひよこまんじゅうを云々」と入力する場面がある。この先当分、私はこの言葉から陰惨な連想を働かすようになるだろう。

 エンドロールを見るまで知らなかったがこの映画には原作がある。

闇の子供たち

闇の子供たち

  • 作者: 梁 石日
  • 出版社/メーカー: 解放出版社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 単行本

 ルポルタージュではなく、小説だ。だからといって描かれていることが荒唐無稽な絵空事だとは勿論思わない。興味深いのはネット上では原作、映画を含めて著者が在日韓国人で子供の買春や臓器売買を扱った内容なので反日的なプロパガンダの意図が感じられてけしからん、という意見があちこちで見られることだ。正規の手続きに則らない臓器売買や買春ツアーが金の絡んだ社会の仕組みとして存在していることよりも、日本人が批判されたり否定的に描かれていることのほうがより重大だと考える人達が一定数はいるわけで、ものの見方や考え方には色々あるものだと思う。

 かなり以前、プロレスラーのジャンボ鶴田は肝臓移植のためにフィリピンに赴き、そこで手術中に客死した。当時私は何故フィリピンだったのかが不可解だった。真偽のほどは定かではないが、その後、臓器提供はイリーガルな形で行われたという噂が立った。フィリピンという土地は概して治安が悪く、銃器密売や風俗営業関係の温床として組織犯罪の資金源となっている国だ。プロレスという業界もまた伝統的にその筋との関わりは深い。当然、プロレスの雑誌は今に至るまでこの件に関しては全く言及することなく目をそらし続けている。そんな構図に私は深く淀んだ深淵を見る。

 映画での舞台設定はタイである。ミャンマーでのサイクロン被害の際には行方不明になった子供が随分多かったらしい。中国でも同様の行為が横行しているという噂を聞くこともある。それで私は毎度暗い気分になるのだが、何故毎度アジア圏なのか。何故この手の所業の被害者はいつも有色人種ばっかりなのか。 今日は帰宅の道すがらそれを考えているうちに以前見たことのあるドキュメンタリー映画のことを思い出した。

 それは現在、DVDとしては販売されていないようだ。Hearts and Minds(ハーツ・アンド・マインズ)というベトナム戦争を扱ったもので、主にインタビューで構成されている映画だった。その中で、確か終わり近くにあるアメリカの将校が平然とこんなことを言い放つ。「東洋人というのは元々、命を軽く考える習慣がある」それがその将校個人の意見なのか、それとも白色人種中ある一定割合の公約数的な見方なのかはわからないが、そういう人達は確かにいることになる。タイ人とかフィリピン人とか、中国人とか韓国人とか日本人とかの括りではない。「東洋人」だ。闇は本当に暗く、根深い。   


真夜中のカーボーイ [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 例年、お盆時期には誰憚ることなく夜更かしに興じることが出来るので日頃はなかなか見るのが億劫な重量級大作映画をじっくり鑑賞することにしている。今年の夏は「アラビアのロレンス」と決め込んだ。

アラビアのロレンス 完全版

アラビアのロレンス 完全版

  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
  • メディア: DVD

 

あらゆる映画のオールタイム・ベストという企画があったら常連間違いなしの金字塔なわけだが、内容がありすぎて何か感想めいたことを書こうにも一体何から手を付けて良いのかわからない。そもそも、一体私がこの映画の内容をどこまで理解したり把握したりしているのかが甚だ心許ない。大分以前にわざわざLDを買い込んで何度も繰り返し見てはいるのだけれど(全編見通すには相当な馬力を要するのでそうちょくちょくというわけにもいかないのだが)見返すたびに発見のある「大きな映画」だ。

「作品」というのはこういう映画のことをいうのだろう。いつの頃からか氾濫するようになったCG満載の、ビックリする絵を2時間眺めてその後ろくに記憶にも残らないような消費物であるところのあれらは「製品」とか「商品」と区分されるべきなのだろう。まあ、それはそれでれっきとした存在理由ではあるのだけれど。

毎度観る度に感動という言葉さえ安っぽく思えるほどの大きな余韻を残す「アラビアのロレンス」だが 、こういう作品を語り倒せるほどの素養が私にはない。毎度観る度にこちらが試されているような気分にさえなることがある。なけなしの知識を総動員してもなお理解が及ばないことを観る度に思い知らされる。何かこちらが生徒になって学ばされているような映画だ、恐らくこの先一生そうだろう。

 そんなわけで日中の私は抜け殻のようになって昼寝を決め込んでいた。歴史的傑作というのは全く、見る人に体力を要求するものだとつくづく思う。

先についつい「なけなし」という言葉を使ったがなけなしと言えば連想される映画がさっきまで観ていたこれ。

真夜中のカーボーイ (2枚組特別編)

真夜中のカーボーイ (2枚組特別編)

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 

私にとっての等身大はこういう感じなのだろう。本当にこれまで何回も観た、まるっきり主観でだが観る度にグッと来る。この映画には少年期から今に至るまでの、私の人間観みたいなものが確かに詰まっている。

 ネット上のシネレビュー投稿サイトなどを見ていると、否定的な意見が多いのに驚いた。 惨めさややりきれなさといった類のものを映画で提示されるのは不愉快だという意見の持ち主が世の中には随分多いようだ。日頃は惨めさともやりきれなさとも無縁の暮らし向きで、自分とは全く無縁の世界や人を描いた映画だから感情移入できないという意味なのか、それとも実人生のありようと余りにも似通っていて凍り付くような利害関係に支配された現実を想起させるから不愉快なのか、見た人の背景は色々あるのだろうが映画はしんどさを描くものであってはならず、とにかく度肝を抜く絵と脳天気な楽しさだけを提供してくれる娯楽でさえあってくれればいいという考えに私は共感できないがそれも一つの意見だろう。馬鹿笑いと歓声の消費物が欲しいだけなら何もわざわざ映画を観なくとも民放のテレビ番組で十分用が足りるのではないかとも思うのだが。

 私には独りよがりな価値基準があって、いい映画とは観たあとの観客の心に爪痕を残したり論争を巻き起こしたり割り切れなさを残したりするものだと思っている。 「もう一度観たい」とか「ソフトを買って手元に置いておきたい」と思わせる映画というのは私の場合、何故か決まってそういう映画ばっかりだ。そういうのは私自身の未熟な人間性の反映に過ぎないのかもしれないが。ともあれ本作は世間一般的にはそのような反応を喚起するらしいからして私にとっては疑問の余地なくいい映画である。

 若い頃に観たときには若い頃なりの感想があるのだが、こうして歳をとってから腰を据えて見直してみるとまた別の切り口が現れてくるようだ。冷徹な現実の中でボロ雑巾が絡まり合うようにして都市の吹きだまりを徘徊し続けていくこのコンビが今の私には妙に微笑ましくも幸福に見えるのは私自身の屈折のせいだろうか?惨めさややりきれなさを共有できる相棒がいる、それはなんだかんだ言って幸福なことではないかと今の私は思う。

 何度観ても迫ってくるラストのグレイハウンド・バス車中での展開を見終えて今回、尚更私はその思いを強くした。夢見たマイアミを目前に失禁して絶命する相棒、狼狽する主人公に突き刺さる乗客達の好奇とそれでも所詮は他人事といった無遠慮で容赦のない視線、主人公ジョーの表情はうろたえながら悲しさと怒りを複雑に交錯させる。内在する屈折を共有できる相棒はもういない。終点マイアミまでの数分間、ジョーは相棒の骸に寄り添いながらこれらの視線を受け止めては跳ね返したり飲み込んだりし続けことになる、だしぬけに、たった一人で世間と対峙しなければならない、「大人になる」というのは実はその場面をくぐり抜けるということであって、大人になることの不安と緊張が何度観ても痛々しい位迫ってくる。

 現実の生活に於いて身の回りを見渡してみると、20代位の若い衆がつるんではしゃぎあっている様子をよく見かける。それはめいめいの過剰さや欠落を補完しあっている様子でもあるのだとすっかり中年になり果てた今の私にははっきりわかる。私にだって若い頃はそういう状況があり、そういう相棒もいた。しかし男というはいつの間にか相棒を失い、足下のおぼつかなさを不安がりながら、孤独感に揺らぎながら一人で目の前の出来事をさばいていくことを余儀なくされていく生き物なのだ。他人に背中を踏みつけられるような悔しさや貧乏がもたらす切迫感よりもそちらのほうがより切ないことをいつの間にか私は知った。辛くも何だか愛おしい映画だ。

 余談だが、主人公ジョーを演じるジョン・ボイトがアンジェリーナ・ジョリーの父さんだということを私はつい最近まで知らずにいた。知らないうちに相当世間ずれしている。 我ながら恥ずかしい限り。

 

 

 


Sicko(シッコ}を見に行く [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 今更ながらというか、ようやくというか私の住む町でマイケル・ムーア監督のSicko(シッコ)を見ることが出来た。

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 医療制度の問題を扱った映画ということで既に色々書かれたり語られたりしているはずで、今更私がここであれこれ書くまでもない。何しろ今は2008年6月の末で、本作が公開されてからもう優に半年以上経っている。

 雑感のようなことを羅列的に書いておくと、まず第一にやっぱり良くも悪くも「マイケル・ムーアの映画」だな、という作風だ。弱者の視点に立脚して社会の仕組みや権力者にもの申す姿勢そのものはヒロイックであり立派だと思う。本人の風貌も相まってところどころコミカルなアクセントが入る進行の仕方も商業映画として取っつきの良さがある。これが肯定的な側面。逆に懐疑的な見え方として、対比する材料として持ち出す他国の医療制度だがサンプリングの仕方に恣意的な所がありそうに見えた。医療費無料のEU諸国は大変な重税を課せられている国々だという話を聞いたことがあるし、実際若者のホームレスや失業者が沢山いる国もそれらの中にはあるが作品中そのことには触れられていない。仮想敵国(と一応されている)キューバの医療制度の素晴らしさについても、果たしてキューバ国民があまねく享受できる医療環境なのかどうかには疑問の声があると聞く。対比の仕方が極端すぎる気がするが、これくらいあからさまなコントラストを付けて提示されないと問題点を自覚できないのが現在の合衆国民の平均的な社会意識レベルなのだろうか。

 ともあれ、大して所得があるわけでもないのに持病を持つ人間が合衆国で生きていくのは相当厳しそうだ。そして現在、私が住んでいる日本国の医療制度も構造改革の名の下にジリジリとここで提示される恐るべき仕組みに近づきつつあるのがなんだか不気味で私にとっても何か他人事ではない気がした。。

 私が働き始めた頃、社会保険加入者の負担割合は一割だったがある時からは3割にまで上がった。会社員であることの金銭的メリットは少なくとも一つ失われたわけだ。ある時期の総理大臣は「痛みに耐えて云々」と訴えかけたがそのうちの一つはなるほどこういうことだったのかと負担が増えてから気付いた。あれから5年か6年くらい経ったが痛みは増える一方で一向に明るい見通しが立っていないように思えている。仕事柄病院職員と関わる機会は多いが平均的に見て経営は悪化する一方だし患者の側も不便さがどんどん増えているように見える。失業や転職で所得が落ち込み国民健康保険料が払えなくて病院に罹るときには知人の保険証を借りなければならない人が私の身辺には段々目に付くようになってきた。

 仕事は段々過重になってきているのに暮らし向きはむしろ悪化し続けている人たちばかりが私の周りでは目に付く。何故こんなことになってしまっているのかとか誰かが不当に富を享受し続けているとすればそれは誰なのかとかいった疑問が私にはある。映画の中でそれははっきり示されているが、それにしても医療保険会社というのは恐ろしい。テレビや新聞でひっきりなしに垂れ流される広告や投函される勧誘の封筒にかかっている費用は間違いなく莫大なものだろうが、それらを差し引いても十分利益が出るだけの経営がなされているのが医療を含め保険会社の経営状況なのだろう。以前、某損保代理店の方が「実は、『リスクのあるところには保険なし』でしてね」という本音を漏らしたのを私は結構しっかりと記憶している。だからといってケガも病気もせずに一生を終えることなどまず無理で、せめて今の医療費負担、保険制度を維持するくらいではあり続けてもらいたいものだと思っているし、社会の一構成員としては元気なうちは多少なりとも扶助する側としての意識を持ち続けていたいとも思う。

 この映画Sickoは私の住む土地では映画館での公開はされなかった。概してマイケル・ムーアの映画は集客が良くない。近作でいうとボーリング・フォー・コロンバインは既に閉館した冴えない50席くらいの映画館で平日、三日間くらいしか上映されなかった。私はこの映画を見に行けず、DVDを買った。

ボウリング・フォー・コロンバイン

ボウリング・フォー・コロンバイン

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 『華氏911』は幾らか時事的な話題性もあったせいだろうが市内のシネコンで上映されたが期間は一週間、客の入りはガラガラだったようだ。

華氏 911 コレクターズ・エディション

華氏 911 コレクターズ・エディション

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • メディア: DVD

 

 

 

 

 

 本作Sickoは某団体の主催で上映された。本日一日きりで場所は市民文化ホールの、それも小ホールだ。席数は恐らく200から300の間だろうか。入場料は前売りで千円、当日券は千五百円、一日がかりで5回の上映だった。私は最終上映の午後7時からこの映画を見た。客の入りは大体七分といったところだろうか。今日は平日なので恐らく最終上映が最も集客数はあったはずだろうがそれでもこの程度だ。 

 大雑把に推測すると、私の住む町で今日、なにがしかのお金を払ってこの映画を見たいと思った人は600人位だったのではなかろうか。市の人口は約17万人、隣接する町を併せると大体22万人くらいのうちのたった600人くらいである。ロビーやホールの中を見回してみると見に来ていたのは中高年層が多く、ちょっと収入の良さそうな公務員とか教職員風の夫と専業主婦風の夫婦連れが目立った。

 公共の交通機関は殆ど死滅状態なのでとにかく移動は自家用車が必須なのが私の住む町である。市民文化ホールには専用の駐車場がないので今日の観客は隣接するスーパーの無料駐車場に自家用車を入れて見に来ていた。上映後終了後の午後九時は一斉に帰る自家用車でスーパーの駐車場は酷い渋滞が発生していた。勿論私もそこに紛れ込んでいたうちの一人である。

 駐車枠に収まった自分の車から目の前の通路に連なる自家用車を眺めて私は複雑な感情に囚われた。高級セダンだの、外車だの、ごついRVだのといった類が延々続いていた。運転しているのは夫婦やカップルの二人連れか一人かのどちらかで、四人も五人もで乗り合わせてきている人は一つも見かけることがなかった。今の医療制度が段々この映画で描かれている状況に近づいていくのは殆ど疑いようがない。そして彼らや彼女ら小ぎれいな服装で高価な自家用車に乗り付けてこの映画を見に来た人たちは一人一人分断されて鉄の箱を運転しながらここに来たバラバラの個人達である。気になる映画が一日だけ上映されるから一緒に見に行こうという呼びかけやそれに応じる関係というのはきっと殆どなかったのだ。 

 不幸な上映だったと思う。今日の観客達のうち大多数は恐らく医療費の心配などしなくても済むような階層の人たちだったはずだと私は想像している。この映画を本当に見ておかなければならなかった人たちは今日のホールには殆どいなかったと思う。本当にこの映画を見ておくべきだった人たちというのは、例えば低所得でロクに保険制度もないような就労環境に従事しているパートやアルバイトや派遣社員の人たちだったり何らかの事情で国民健康保険料を払えなくなったり生命保険を解約せざるを得なくなっている人たちのはずではなかろうか。 私は閉店間際のスーパーで買ってきた半額投げ売りの弁当を食って発泡酒をすすりながらテレビのバラエティ番組に興じている誰かさんのこととか、夜中のコンビニで紋切り型の接客を繰り返す誰かさんのことを想像していた。この映画を見て、何かを考えなければならないのは、本当はそういった人達ではないのか。

 しかし反面、私には妙な確信もある、先に挙げたような人達、本当にこの映画を見ておくべき人達が時間を割いて、お金を工面してわざわざ市民文化ホールにまで足を運んでこの映画を見ることはない。仮に入場料が五百円だったとしても、いや、タダだったとしても今日の上映が朝から晩まで満席だったなどということはなかったはずだ。ないから私たちを取り巻く医療制度は徐々にこの映画で描かれる合衆国風に近づきつつあるのだとも言える。何とも皮肉な逆説が私の結論で、結局拳を振り上げてみたところで降ろす場所がないことに寒々しい気分を覚えるのだ。

 この映画は既にDVDレンタルが始まっていると思う。百円くらいのレンタル料で見られるはずだとも思う。しかしそれでも常に貸し出し中などということなはいはずだ。百円でSickoを見る二時間よりもバラエティ番組を見て腹を抱えて笑い、携帯でメールを打つ二時間のほうがしっくりくるのが所謂大衆の平均的な意識ではないかとこのごろ私は思うようになってきた。

シッコ

シッコ

  • 出版社/メーカー: ギャガ・コミュニケーションズ
  • メディア: DVD

 

 

 

役人を『お上』と呼ぶことが当然だと思うような意識のありようが代わりでもしない限り、世の中の仕組みが変わることはない。 社会的な弱者の窮状を何でもかんでも自己責任として切り捨てる風潮をいいとは全く思わないが、逆に何でもかんでもしょうがないと受け入れては割り切っているうちに、ある日気付いてみたらとんでもない場所に立っていることだってありはしないだろうか。

 

 


The Damend/地獄に堕ちた勇者ども [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 我が家のDVDプレーヤーは壊れたままだ。買った値段も値段なので修繕して使おうという気にもなれずにいる。目下私は、今更ながらHDDのくっついたDVDプレーヤを買おうかと思案中なのである。

 そういうわけで連休中の習慣としてちょっと気合いの入った映画を見るのだが今年はもっぱら手持ちのLDばかりとなる。ライブラリーと言えるほどのボリュームではないがLDは幾らかまとまった手持ちがある。一渡り眺めてみると結構重苦しい内容のものが多い。若い頃にはそういうものを立て続けに見ていられるだけの体力があったということになるのだろうか。

 見終わって疲れるという意味で私にとっての最右翼はルキノ・ヴィスコンティが監督した映画がそれに該当する。疲れるのだがある時無性に見たくなるのもまた事実なのだが。本日は夕食後の演目としてこんなのを引っ張り出してみた。

地獄に堕ちた勇者ども

地獄に堕ちた勇者ども

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 

見返すのはもう何度目になるのだろうか。見終わって疲れるヴィスコンティの映画の中でも本作はとびきり疲労感が凄い。腐敗と死をぎゅうぎゅう詰めにして醗酵させたような映画だ。 ラストのおぞましさは何度見てもゾクッとさせられる。物凄い嫌悪感があるのだがそれでも時間が経つと何故か再び見たくなる。

 自分の母親とセックスした後毒殺するなんていう主人公の設定は疲労感を予感させるには十分だろう。

 

 色々な意味で重い。湧きだしてくるイメージがありすぎてここでもうまくまとまらない。見ている間の充実感は物凄いのだが今の私は余りにも疲れていて何かこの映画について書こうという気力が本日は失せているのでさっさと寝床に潜り込むことを決め込む。そう言えば以前からだが、この映画を見た後は必ず何か、毒々しい悪夢を見ることになるのが私の習慣だった。いっそ見なければ良かったと幾らか後悔しながらも学習能力や記憶力の欠如した私は同じ映画を見返して同じような悪夢も繰り返し見る。

 

 

 


Lolita/ロリータ(スタンリー・キューブリック監督のアメリカ観を想像する) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 「ロリータ」は監督が渡英在住するようになってから初めて手がけた映画だったと思う。後の傑作、2001 a Space Odessey(2001年宇宙の旅)に至っては遂に「神の視点」を獲得してしまったスタンリー・キューブリックも本作やその次作あたりまではときたま人間くさい語り口が断片的にではあるが見られたように思う。

 ひずんだ恋愛映画のようでありロードムービーのように見えなくもないこの映画にはアメリカの、ということはハリウッドの映画製作システムには結局馴染めず、それが理由であるかどうかは別としても生活の拠点としてのアメリカからは出て行ってしまって終生戻ることのなかったこの人のアメリカ観やハリウッド観が所々にシニカルに散在している。

ロリータ

ロリータ

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 

 

前回もそうだったが、このリンクを貼るためにAmazon.comを検索するのはどうも・・・・

 

 映画監督のアメリカ観なのか、それとも原作者のものなのかは原作を殆ど覚えていない私には区別がつかないがここでは前者の、と仮定して映画を見ていて気付いたことを箇条書きにしてみたい。

(1)主人公はフランス人で、ボストン近郊の大学で仏文学の教官として渡米してきた作家である。ヒロインと邂逅することになる下宿先での未亡人との会話にはアメリカ人のヨーロッパ、特にフランスに対するコンプレックスが大変皮肉っぽく描かれている。この未亡人は主人公に対してまんざらでもない感情を最初から隠そうとしない。そして台詞のどこかで(確か自分の知人や近所づきあいのある人たちを挿していたと思う)ある人たちをBlue Blood Bostonianと呼ぶ。にわか覚えではそう呼ばれる人たちとはフランス人貴族を祖先に持つマサチューセッツ州在住のアメリカ人達で、いわゆる旧家として現在でも気位の高い階層の人々らしい。私のLDの字幕では「上品な方々」と和訳されているが現地ではもっと深い意味を持つ呼び方のようだ。

(2)室内の描写では必ずテレビが置いてあり、ヒロインのロリータはいつも紙コップに入ったコーラをがぶ飲みしながらフライドポテトを食っている。ロードムービー的な後半の展開では郊外の幹線道路沿いに並ぶ メガストア的な商圏の風景が何度も繰り返し背景として描かれる。1960年代初頭のこの風景は現在、日本で生きている私のような者にとっては結構目新しく、幾分違和感を覚える風景でもあるのだが同時期のアメリカ映画でこの風景が描かれているものを私はまだそれほど沢山見ていない。キューブリックの視点は既にヨーロッパ人のものになりつつあり、異国の習慣や風景としてこれらが捉えられていたということだろうか。

(3)主人公が恋いこがれたロリータを入れあげさせ、ついには嫉妬の余り撃ち殺されるクィルティをピーター・セラーズが演じる。この人物の描かれ方は皮肉と悪意に満ちている。まず職業がテレビ脚本家で当時の映画人にとってはまさに目の上のたんこぶだ。ものごしは万事に軽薄で調子が良く、すばしっこくて抜け目なく狡猾、相手構わず馴れ馴れしく話しかけ、ペラペラと間断なく早口でまくし立てながらどこか粘着質で腹に一物ありそうなムードがつきまとう。きっとキューブリック本人の一番いけ好かないであろう人物像として設定された演技のように思える。見方を変えると、そんな風に振る舞い続けていれば、あるいはキューブリックが何とか居場所を与えられていたかもしれないハリウッド映画界に生息する典型的な人物像かもしれない。

 ニューヨークを映画製作の拠点にしていたニューヨーク生まれのユダヤ系というキューブリックの出自は、映画活動においてはハリウッドのアウトサイダーであり、民族的な立ち位置としてはそれこそBlue BloodやWASPにとって「下層の者」としか映らないことにこの人はかなり自覚的だったのではないかと私は見ている。恐らく、雇われ監督としてハリウッド・システムの1パーツに徹して監督した全作「スパルタカス」を製作する過程で何か内面的な転換点を経験したのではないだろうか。

 だからこの映画はスタンリー・キューブリックにとってアメリカやハリウッドに対する訣別でもあるのだろうと私は捉えている。 そう言えば時系列的には最後の場面である殺人シーンがオープニングにあり、次に過去からの経緯が順次進められていくプロットの構造はビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」と共通する。

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ハリウッドのインサイド・ストーリー、この制作時期にしては珍しく何とも後味の悪い陰惨なエンディング、と、「ロリータ」の映画化を構想していたキューブリックはどこかで「サンセット大通り」を意識していたのではなかろうかという、これは私の実に根拠に乏しい推測だ。

La Dolce Vita/甘い生活(パパラッチの語源に気付く) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 いわゆるセレブな方々をつけ回しては下世話な記事を書き立てるゴシップライターや相棒としてコンビを組むカメラマンをパパラッチと呼ぶのが定着したのはいつ頃からだっただろうか。

 語源を辿るとこの映画にあったようだ。

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 主演のマストロヤンニの相棒であるカメラマンのあんちゃんの名前がパパラッチの語源らしい。劇中台詞を聞き取った限りでは”パパラツォ”と呼ばれるから大体間違いないと見て良さそうだ。  

カメラマンのお兄ちゃんに限らず、本作の登場人物は皆、夜の間は活き活きとしている。センチメンタルであったり、興奮していたり激情的であったり、様々な感覚が研ぎ澄まされ、溜め込んだ感情が解放される時間が夜なのである。その一方で夜が明けてあたりが白んでくると皆一様に表情は冷めてしらけた気分になり、退屈そうな怠そうな素振りに変化してしまう。

 何の脈絡もなく連なる幾つかのシークエンスの全てにこの対比が共通項として埋め込まれているのが、直接的には現れることのないこの映画のモチーフだと私は見ている。個人的な経験で言えば若い頃に同級生たちと出かけた浜辺のキャンプの一夜にもそんな感覚があった。もの書きの先生たちには日中は家の中で居眠りをしたりその辺を適当にぶらついたりしながら過ごし、夜になってあたりが静まりかえると創作に没頭する人が結構多いらしいと何かで読んだ。

夜とか酒には何か、もう一つの人生があるように思う。人のありように奥行きを持たせているのはむしろ、そちら側の方なのかもしれない。   


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