Billy Harper(1) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
ビリー・ハーパーのことを書いておきたい。ビリー・ハーパーが気になるなどというのは実に28年ぶりのことであって、この名前がまだ自分の記憶に起こっていることに少なからず驚いているほどなのだ。
僕がジャズに大して熱中しなくなってからもう結構時間は経っているのだが、安月給の30%くらいがジャズのレコードに消えていた時期からでさえ既にフェードアウトしかかっていたような記憶があるので、現在ともなればもう、失礼ながら殆ど泣かず飛ばずと言っても良い状態なのではなかろうか。あちこちのホームページを見ていると1980年代の中期からはCDのリリースもめっきり減ってしまったようでなんだか寂しい。
自分の仕事の関係で、たまたまバーのオーナーと雑談していてビリー・ハーパーに話題が及んだとき、どちらともなしになんか気まずいような、照れくさいような気分であったように記憶している。なんだかとても恥ずかしいものをこっそり共有しているような感覚であった。
普段、この手の雑談のかたわら、あれこれとレコード聴かせてくれるそのオーナーが、何故かビリー・ハーパーに関しては手がレコードに伸びなかった。所有していないわけはないのできっと聴きたくないのだろうし聴かせたくもないのだろう。
そして僕は、その理由がわかる気がするのだ。
オーナーがこんな事を言っていたのが印象的だ。
「ビリー・ハーパーってさあ、中学校の遠足の日に学生服を着て革靴履いて学校に来る奴みたいで何かねえ・・・『わかるんだけどちょっとそれは違うんじゃない?』みたいな」
僕は反射的にある同級生のことを連想した。中学生の時分、
その男は自転車いじりに凝っていたのだった。猛烈に凝っていたのだった。
自転車には、発電機が付いている。暗くなってくるとレバーを倒してその回転子がタイヤの側面に接触させる。するとタイヤの線速度に応じた電圧が発生してライトがつくのだ。
それで、もっと人目を惹くようなでかいライトや、あれこれ装飾的なスモールランプを付け足す、そういう没頭の仕方が彼の有り様だった。彼の自転車は日ごとに派手なデコレーションを誇るようになり、バージョンアップして現れるたびに同級生どもを瞠目させた。最後にはまるでクジャクのようなとも言って良いだろう、まあ実にド派手ないで立となって、それを眺める同級生は一同ため息をついた。今考えれば、その派手具合を写真にでも撮っておけば良かったと後悔しきりである。
ここでのため息には、やりたいことをすぐに実行できることへの羨望と、よくもまあここまで奇天烈な熱中の仕方をするものだわいという呆れた感情の二つが混合されていたことは結構重要である。
驚き呆れる同級生たちを睥睨しながら満足そうな笑みを浮かべるその男であったが、実は内心、拭いがたい不安に襲われており、もしもこれを同級生の誰かに指摘されていたらどうしようかとヒヤヒヤしていたと後日その男は語った。
どういう問題かというと、その自転車には余りにも多くの電飾が取り付けられていたため、一個のダイナモ(発電機)ではついているんだかいないんだかわからない程度の光り方しかしなかったのだ。ランプを直列にしたり並列にしたり、あれこれ試したが結局うまくいかなかったそうだ。(そりゃそうだ)
偶さか、同級生たちが群れ集うのは明るい昼間ばかりだったので、彼の愛車が持つ欠点は露見されずにいたのだが、本人は何とかしたいと結構真剣に思案していたらしい。
そして彼は、ある解決策に手を染める。実にまっとうなあるが故に実に困難な方策である。
どういう解法であったかというと、彼はそれまで取り付けた山のようなランプを3つのグループに分けて、それぞれのグループに一個ずつ、何と3つ(!)のダイナモを愛車に取り付けたのだった。
そんな風にして出来上がった改造の結果を試すのは容易なことではない。何せ3つのダイナモだ。ペダルが重くて重くてとてもじゃないが、普通に自転車を走らせることさえ大変だ。
ただ、彼はラッキーなことに人並みはずれた筋力の持主だった。全ての改造を終えたあと、彼は殊更日が暮れてから自転車で走りたがった。暗がりを、まるで蛍の群れのような様相の自転車が走っているのを見るのは一種感動的だったが、滑稽でもあった。彼は涼しい顔をして自転車をこいでいたように覚えているが、後日本人が語るところによれは筋肉痛の日々だったらしい。
話は脱線していない。僕はとても重要なアナロジーを書いておいたつもりになっている。
自分のレコードをさらってみると、ビリー・ハーパーのレコードが3枚くらいあった。内容はどれも似たり寄ったりであり、勿論歴史を揺るがす傑作など無いのだが、聴き続けていくうちにある種の気恥ずかしさと滑稽さを自覚したわけだ。本来、そういうものとは最も遠いところにある様相の音楽なのに、一体何故だろうとしばし考えた結果、辿り着いたのは、
度はずれた真剣さで何事かを遮二無二追求していくと、ある種、滑稽な境地に達することがある
という結論だった。ビリー・ハーパーの音楽は、勿論滑稽などではないし、残されている写真の殆ど全てが表しているように、彼は何とも厳つい、いかめしい、おっかない形相であり風貌なのだが、総体の姿はある種の滑稽さを僕に与える。
それは例えば、典型的なコルトレーン・マナーの持主であるビリー・ハーパーが、なんとLP片面17分強をかけて雄大きわまる楽想のソーラン節を演じるというあたりに現れていると思う。ソーラン節である。
(つづく)
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