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Full Metal Jacket (フルメタル・ジャケット:監督スタンリー・キューブリック) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 恐ろしい映画だ。
スタンリー・キューブリックの映画はしばしば思いも寄らないところに落とし穴がある。見終わって10年以上経ってから言葉として語られなかったある意図に気づいて慄然とすることはこれまでにも何度かはあった。

 映画そのものはこれまでにも長い時間をかけて様々に議論され、語られてきたので今更私の書くべきことなど大してあるわけもない。
 「フツーの人が殺人マシンに変わっていく課程が怖いと思いました」
 「軍曹役のリー・アーメイの台詞が強烈でした」
 「戦争の苛烈さがよく分かりました」こんなところに集約されているのではないだろうか。

 だがそれが全てか?
 私達は何かを見落としてはいないだろうか? 

フルメタル・ジャケット

そもそも、これは本来的な意味での戦争映画なのだろうかとある時から考えるようになった。
 少なくとも私が小僧の頃に夢中になった「眼下の敵」だとか「バルジ大作戦」だとかいったような、ドラマや活劇がかったものでは勿論ない。ではそれからもっと下った時代の、たとえば「プラトーン」みたいなものなのかと言えばそれとも違うような気がする。
 私は20年前に封切りでこの映画を見て、何だか釈然としない気分のまま映画館から出てきたものだ。何だか引っかかりがあって、泥縄めいているが原作の訳書を文庫本で買ってきて読んだりもした。

フルメタル・ジャケット

フルメタル・ジャケット

  • 作者: グスタフ ハスフォード
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1986/03
  • メディア: 文庫


 一人称のリアリズム溢れる小説として素晴らしいとは思ったが、映画を見た後の何だか説明し難い胸くその悪さや薄気味悪さが原作からは読み取れなかった。
 
 キューブリックの映画では、原作の持つ主題がそのまま映画化されていないものがが幾つかある。キューブリックのメッセージを伝えるための便宜的なツールとして原作は本来的でない解釈の仕方で利用されてしまう。「シャイニング」の原作者であるスティーブン・キングが公開された映画を見て激怒したのは結構有名はエピソードである。
 「フルメタル・ジャケット」という原作も、同じような活用のされ方をしているとある時から私は思うようになった。
 
 後年、自分でソフトを買い込み、ある時見ていたらオープニングの数秒で私にはいきなりピンと来るものがあった。そうか、と。
 これは戦争映画というだけの括りで捉えるべきではないのだと感づいたのだった。キューブリックの映画は毎度、様々な解釈が乱れ飛んで論争を巻き起こすのが常だ。ここで私が書こうとしていることも様々に憶測し得るうちの一つであり、或いは既にどこかの誰かがテキストとして現しているだろうが、私は自分の言葉として改めて書き起こしておきたい。

 これは、上意下達の縦割り組織、という人間社会の仕組みが本来的、先天的に持つ狂気と残酷さを表わしている。
 冒頭、登場人物である新兵たちがバリカンで髪を刈り取られるところから映画は始まる。髪の色も髪型も様々である彼らが一人の例外もなく坊主頭にされる。ここでまず、新兵は髪型というそれぞれの個性を否定されるわけだ。当然、訓練期間中は全く同じ軍服を着、同じ飯を食い、教官に返事をするときにも全員同じようにSir yes Sir!!と叫び、等々、行いの全てが全員同じであることを強いられる。俗に言う「型にはめる」ことに順応する課程が前半部だ。
 教官の挙動を茶化すようなジョークを飛ばした主人公は殴打されて「泣いたり笑ったりできないようにしてやる!」と怒声を浴びせられ、面従腹背のまま兵士としての時間を過ごしていくがやがて戦場に出て内心の抵抗も朽ちてしまい、まるで飯を食ったり排泄したりするようにベトナム人の女子供を殺すことも平気な、それこそ泣くことも笑うこともない生きた殺人機械にと変身していく。怖い話だ。

 本当に怖いのは変質していくその人以上に、人格というものを画一的に並列化していく、ここでは「軍隊」という組織の仕組みであると気づいた。人の精神の有り様というのは上の立場からねじ伏せるようにしていくらでも好き放題に改造したり破壊したりできるものなのだ。ある個人が「その組織」に入っていくということは、自分の個性、人間観や倫理観などなどを否定され、歪められ、場合によっては破壊される可能性を受け入れるということでもあるのだ。破壊を免れたいと思えば強圧的に否定されたり歪められたりすることに対して無自覚になり、なされるがままが当然だと思わなければならない。とりもなおさずこれは自我の放棄であって、その時その人は恐らく、泣くことも笑うこともない人に変質しているのだろう。

 「その組織」などという抽象的な書き方を何故するかと言えば、これは何も軍隊に限った話ではないからである。程度の差こそあれ、そういう組織は身近にいくらでも見つかる。ある種の宗教、学校、そして、会社、他にも色々。
 私の場合は会社を連想した。私自身の勤務先である。
組織の論理は個人の倫理に優先する。当然の話だ。個人の倫理を優先させたければその人は組織の人間でなくなる以外の選択肢はないのだ(トップは別ですが)。軍隊で言えば、飯を食ったり排泄したりするのと同じ感覚で人を殺せないような兵隊は、満期除隊するまでの間は戦場で死ぬか、自殺するか、脱走するかくらいしか選択肢はないということだ。

 少々、私個人の話をしたい。
 以前、私は会社員だった。ある中小企業の地方営業所長だった。世間一般の会社がそうであるように、私の勤務先でも定期的に棚卸しというのがあった。
 棚卸しの監査立ち会いには私の上司が来た。その男は札幌支店長である。社内の不文律として、棚卸しは一日で終了させる。利益を生まない業務なのでなるべく早く終わらせたいのだ。
 棚卸しの最中、ある得意先から電話がかかってきた。ある機器の給水配管系統が破損して漏水が激しく、床が水浸しになっているので至急修理対応してもらいたいという依頼だった。
 私は、緊急修理が発生しているので棚卸しは一時中断させてもらいたい旨を上司に伝えた。
 しかし上司は棚卸しを優先させる線を頑として譲らなかった。「おまえが断れ、先に延ばしてもらえ、そういう交渉をしろ」とこの男は上司として「命令した」のだった。
 私は激高した。「会社の責務として、障害の対応を優先すべきだ。即応できないことを私が伝えなければならないのなら、今日が棚卸しであり、上司が修理を後回しにしろと命令していることを私は得意先に伝える」一時的に、私の職場は騒然となった。上司は障害に即応できない理由として自分が持ち出されるのを何としても回避したかったのだ。その時この上司が吐いた言葉を私は一生忘れることはないがおよそ人間の発想として余りに下劣な内容なのでここでは書かない。

 結果として、修理の即応はできなかった。対応の遅れた障害は弁償問題にまで発展し、対応は全て私が行った。得意先の怒りは収まらず、取引は打ち切られた。それらが一つの事故として社内処理され、会社組織の上層部へと順送りに伝えられていく中で過程は歪められ、責任の所在は全て私一人に向けられた。
 『狂っている』と私は憤懣やるかたない思いにはらわたを煮えたぎらせた。話を巧妙にすり替えたクソ上司は安全地帯に逃げ込んで涼しい顔をして高みの見物を決め込んでいた。何度か飲めもしないヤケ酒をあおりながら私はこの男に殺意めいた感情を抱いた。数年して私はこの職場を退社してしがない商売を興し、この上司は東京本社に昇格人事で転勤していった。そしてある時思い至ったのだ、私の勤務先であるこの会社の最重要事項とは何よりもまず第一に「会社の仕組みを守ること」なのだと。

 映画の話に戻る。
 劇中登場する軍曹と私の話題で現れる支店長とは、種類の違いこそあれ「狂っている」という共通項がある。誰が何と言おうが他人の痛みを平気で踏みつけにしたり無視できる奴というのはどこかが狂っているのだ。せめて他人の痛みを意識しつつ救済できない自分の無力さに心を痛める程度にはあってほしいものだが、組織の仕組みを正しく機能させるためにはこれすらも阻害要因でしかないことがある。
 恐ろしく思うのは、こういう組織中での評価基準というのは仕組みの安寧のためにどれだけ貢献したかであって所謂ヒューマニズムなどという考えはこれっぽっちも出てこないところだ。
 軍隊も、会社も外部に向かって開かれている組織ではないというもう一つの共通項もある。平和と安全を守るためにという美名の元に機能する軍隊はその内部に於いて狂気じみた人格改造も辞さない。末端兵士の心の破壊も厭わないのだろう。一方、社会貢献を謳いながら社内業務を円滑に終わらせるために得意先での事故を無視し、事後に起こった軋轢にはトカゲの尻尾切りでことを済ませて何事もなかったように口を拭う私の勤務先にも同じ匂いがあった。

 人殺しであれ、金儲けであれ、利害を基調とした縦割り組織の内部には大なり小なり狂気が潜んでいると私は思うようになった。そして、仕組みが内包する狂気は通常、外部から見えることはない、それは巧妙に隠蔽されているのだ。世の中にそういう仕組みは無数にあり、無数の人がそれらに何らかの形で属している。
 こういう映画を見て、戦争はむごいとか、組織は恐ろしいとか他人事のように言うのは簡単だが、ならばその人達は翻って自分の現実を顧みるとき、自分の組み込まれている仕組みに狂気の匂いを感じることはないのか?もしかしたら既にその狂気に犯され始めているかもしれない自分の意識を自覚することはあるのだろうか?
 隠遁者的な生活を送るようになったので最近特に感じるが、私は周囲の人々、特にサラリーマンを見るにつけ本当に悲観的な気分に捕らわれるのである。
 恐らく、監督であるキューブリックの発したメッセージとは「これは他人事じゃないんだよ。お客さん、あなた自身のことなのだ。気づいていないだろうが」ではないのか?恐ろしいことだ。無自覚なまま日々を過ごす無数の人々の存在も、恐ろしく、また悲痛だ。

 私はこの映画がもたらした別の種類の恐ろしさについても書いておきたい。
それは他でもない。このネット上でのことだ。
劇中、主人公であるジョーカーに「泣いたり笑ったりできないようにしてやる!」と吠える軍曹の表情がアップとなった画像やその台詞はネット上の実に色々なサイトやブログで目にすることができる。
 軍隊組織を効率よく運営するために、弱者である新兵の精神改造に精を出す強者の言動である。

 ネット上の仮想人格でしかない誰か、勿論現実では会ったことも話をしたこともない誰かの言動をを監視し、思想信条の違いを見つけ出しては文字の上での喧嘩をふっかけ、誹謗し、罵倒し、溜飲を下げる人達が確かにおり、それらのホームページだったりブログだったりで誹謗中傷だの罵倒だの愚弄だの、要するに悪意に満ちた自分の居丈高な攻撃的感情表現の発露なのだろうと思われるリー・アーメイの画像や台詞や口調が沢山見受けられる。私はそういう話題を好まないし、そういう人達とも関わりたくないのでそれらをいちいち覚えていないしわざわざ探す気もないが、シャレというには醜悪すぎる。現実世界でのフラストレーションをネット上で発散させるためにパソコンに向かっている人達がいるとすればそれは私には不安な存在だし、現実世界ではとても実行できない居丈高な振る舞いや侮蔑的な物言いが鮮やかに対象化され、攻撃的で高圧的な気分を代行させるためにはうってつけのアイコンとしてネット上で機能する様子を余りにイージーであるが故に本当に恐ろしいと思う。
 しかし軍曹に感情移入して画像や台詞を引用している人達の内訳は、恐らく現実に於いては逆の立場の人の方が多いはずなのだ。映画の中で言えば、せいぜい連帯責任をとらされた腹いせに、夜中集団でリンチを加える新兵位の位置づけであろう人々ではないだろうか。だとすればその錯覚ぶりもまた私には何とも背筋の寒くなるような風景なのだ。
 
 


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