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King Crimson songbook vol.1(キング・クリムゾン・ソングブックvol.1/クリムゾン・ジャズ・トリオ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ロックとジャズの接点、というか境界の有り様は色々だと思うがしかし、こういう企画も出てくるようになったのかと思うと、私自身の足跡を振り返るみたいで少々ニヤッとしたくなる。

 リアルタイムでジャズの新譜を聴くのはもう20年近くも遠ざかっていて本作も新譜とは言えない鮮度である。だから参加メンバーについて私には予備知識が全くないし本作がどれくらいの話題を提供したのかも分からない。以前クリムゾンのメンバーだったイアン・ウォーリスがドラマーを務めており、彼主導のプロジェクトだ。

キング・クリムゾン・ソングブック Vol.1

キング・クリムゾン・ソングブック Vol.1

  • アーティスト: クリムゾン・ジャズ・トリオ
  • 出版社/メーカー: ディウレコード
  • 発売日: 2005/12/24
  • メディア: CD

 ロックの楽曲がジャズの素材になるのは以前にもジミヘンなどの例があるが、私の覚えている限り成功した例は全く取って良いほどない。逆のケースは幾つか記憶にあるが、何故このような不等式の関係になるのかは改めて考えてみたい。

 本作は、「アコースティックなジャズの語法で語られたクリムゾンの音楽」なのだが、取り込まれたものは楽曲のテーマであり、様式としてのメロディーであって、音楽を創造する上での精神性とか時代と切り結んでいる緊張感みたいなものはオミットされている。
 クリムゾンの音楽に自分の意識を対象化させたり、その時々にリリースされた諸作に一種、情念を託してきたような人達(度々書くように、私はまさにそういう種類の人だった)にとっては表層的な技法や技巧ではない何かが欠落した音楽に聞こえるのではないかと思う。音楽としての破綻はないので尚更、もしかしたらパロディに接しているような空疎さを覚えるかもしれない。
 一方、軸足がジャズにあるリスナーにとっては、馴染みの寿司屋で新しいたねの乗っかった新しい献立を食べる感覚ではなかろうか。幾分新奇な感じはするものの、ともあれ寿司だという意味でだ。あくまで消費物という姿勢での接し方なわけだが音楽には確かにそういう側面もある。
 今の私は、どちらのスタンスも経験したつもりになっていて、どちらの見え方にも一理あるな、という穏健にして月並みな評価をしている。
 
 手の内が読めない先鋭性と対峙することで絶えざる緊張感に感覚をさらす充実感もあるだろうし、手の内の読める安心感に浸って和む楽しみもある。音楽は生き物であって時代の推移とともに肌触りを変えていくことを改めて感じる。
 21世紀の今になってみると、かつては腰をぬかさんばかりに驚倒したしたエピタフも素朴な、牧歌的な響きに聞こえるときもあるし。
 時代が過ぎると色々なことがあるもんだ、とか、俺も歳をとったなあとかひとりごちながら聴いておりました。
 あくまでジャズとして接するべき音楽。標準的なピアノトリオの水準は満足していると思う。一時期、フィリー・ジョーの手ほどきを受けたというイアン・ウォーリスの4ビートは結構サマになっている。ジャズドラマーで言うとちょっとアル・フォスターあたりに似ているように聞こえた。


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