SSブログ

The Cat Walk/Donald Byrd(ザ・キャット・ウォーク/ドナルド・バード) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ドナルド・バードは決して超一流のプレイヤーというわけではなく、また、同時期にトランペッターとして活躍したリー・モーガンのように非業の死という劇的な人生模様を有しているわけでもない。
 むしろ後年、大衆迎合路線に走ってから放ったブルーノートレーベル創立以来最大のヒットであるBlack Byrdによって得た商業的経済的成功とこれにまつわるインタビューでのいささか身も蓋もない物言いがコアなジャズファンの顰蹙やら反感を買い、その後の新作ばかりでなく過去のレコーディングの再発までもがことごとく辛い評価にさらされるという憂き目にあった。

ブラック・バード

ブラック・バード

  • アーティスト: ドナルド・バード, フォンス・マイゼル, ロジャー・グレン, ジョー・サンプル, フレッド・ペレン, ディーン・パークス, ウィルトン・フェルダー, ハーヴィー・メイソン, ラリー・マイゼル
  • 出版社/メーカー: 東芝EMI
  • 発売日: 2006/02/22
  • メディア: CD


 ファンク路線での成果はさておいて、4ビートで演奏していた頃の再発盤ではリーダーアルバム、サイドメンとしての参加を問わず、とにかくトランペッターとしての力量を指弾されまくった。それらをとりまとめて要約すれば「そこそこの力演も中にはあるが結局のところ1.5流程度のトランペッターであって、プレイヤーとしての資質のなさを自覚したのでアラが見えづらいファンク路線に転向したんだろう」というものだ。

 そして私が知る限り、ドナルド・バードの吹奏でこういった指弾を覆すに足る神懸かり的ブローだとか魂の燃焼みたいなドラマツルギーは残念ながら一つもない。
 それにしてもまあ、リスナーというのはこういうときには贅沢というか必要以上に厳格なもので、冷静に考えればそもそもレコードを吹き込めるほどのプレイヤーというのはそれだけでもある一定水準をクリアした技量の持ち主であるわけだし、殊更凡作の濫造という演奏活動でもないところに敢えてわざわざ、例えばクリフォード・ブラウンみたいな超越しようのない絶対基準を引き合いに出されてあそこが劣っている、こういうところが駄目なんだとあげつらわれたのでは演奏している方もかなわないだろうと今は同情してしまう。

 所謂フュージョン全盛の頃だったため旧来の演奏スタイルを愛好するリスナーはこの新興ジャンルに対する反感もあって「転向者」ドナルド・バードを殊更叩いたが、元々彼の演奏力はガレスピーやクリフォード・ブラウンのようにどんな編成、どんなスタイルだろうが号砲一発で音楽の構造全体を支えきり、自分の世界として支配するだけのスケールを持ち合わせていない。
 但し現在こうして、ファンクやらフュージョンやらもハードバップ同様ノスタルジックな音楽としてひとまとまりに受け止められる時代になってくると、1.5流のプレイヤーだったドナルド・バードは、リーダーアルバムに於いては力量の限界をわきまえて結構チャーミングなパッケージを作る能力の持ち主だったことを発見した方も多いのではなかろうか。

 他人名義のレコーディングや吹き比べのジャムセッションではしばしば物足りなさを露呈したドナルド・バードだが、ブルーノートと契約してからのリーダーセッションでは作曲や編曲の才能をうまく活かした、小粒ながらも愛すべき佳作が続いた。
 

ザ・キャット・ウォーク

ザ・キャット・ウォーク

  • アーティスト: ドナルド・バード, ペッパー・アダムス, デューク・ピアソン, レイモン・ジャクソン, フィリー・ジョー・ジョーンズ
  • 出版社/メーカー: 東芝EMI
  • 発売日: 2005/09/22
  • メディア: CD


 本作はペッパー・アダムスとフロントラインを組んで恒久化させたコンボの劈頭に当たる録音である。相方のサックスがアルトやテナーではないところがミソで、テーマの合奏部分には少々新鮮な響きがあって楽しい。作曲といい、編成といい、同時代的なお約束フォームからほんのちょっとだけずれた個性というのがこの人の楽想のキーワードのようだ。マイナーキーの曲作りが巧いところは日本人受けしそうで、本作を聴いて少々湿度を帯びた情緒的な時間を過ごすのが私はわりと好きだ。
 ピアノのデューク・ピアソンはバド・パウエル以来のバップ語法に幾分ビル・エバンス的な和声感覚を添加した中間スタイルで、ちょっとインテリジェンスを感じさせる均整のとれたフレーズを弾く知性派である。「ファンキーではあるが泥臭くはない」という資質はそのままドナルド・バードとも重なり、この後のレギュラーコンボの知恵袋となる。実際本作はヨイトマケ風のファンキー調だが、どの曲も都会的なスマートさを漂わせているのはピアニストの資質に依るところが大きいと私は聴いた。
 しかし、この時期の金太郎飴みたいな諸作の中で本作を特徴づけているのはお約束のレックス・ハンフリーズに代わってドラムスツールに腰掛けたフィリー・ジョー・ジョーンズの存在だろう。我々はそこに1.2流と超1流の埋めがたい溝を見る。これは僅かでありそうに聞こえながらも厳然としており、何を持ってしても代え難い。

 それは5曲目の中間部、フィリーがスネア一発だけで延々と続けるソロに聴ける。たかだか太鼓一個がまるで躍動する生き物のように呼吸し、囁き、叫ぶ。全体を通じて最高の高揚がそこに聴ける。チャーミングな楽曲、耳に心地よいアレンジ、まとまりの良いソロ、こんな具合に小器用にまとまった構成要素を軽々と凌駕する何かとても原始的なエネルギーの奔流だ。個人の本能的センスが秀才的予定調和の世界を打ち破る瞬間の痛快さとでも言うのだろうか、私がジャズを面白がり続けている理由の一つはそんなところにあるのだろうし、この時期の諸作の中でつい聴いてみようと思いついたのが本作であるのは、フィリーの空に駆け上がっていくようなスネアロールの記憶だった気がする。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。