欲望という名の電車 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]
前回、原作について舌足らずなテキストを書いてしまったが、懲りずに今度は映画について続けたい。
こういう作品がたったの500円で買えるようになったのだから時代も変われば代わるものだとつくづく思う。総体の感想としては見るのに少々勇気が必要かもしれない。正直なところ、演技のテンションが余りにも高くて見続けることに物凄い緊張感を強いられる類の映画なので繰り返してみる気にはなれないが一生のうち一度は見ておいて損はないと思う。
映画化されるまでに舞台劇として繰り返し上演されており、主要な登場人物4人(スタンレー、ステラ、ブランチ、ミッチ)のうちブランチ役のヴィヴィアン・リー以外の3人は本作の監督だったエリア・カザンが舞台監督をもつとめた劇からそのままスライドしたキャスティングされている。一方、ヴィヴィアン・リーはイギリスに於いて夫君であるローレンス・オリビエの演出によりこれまた本作の舞台上演を経験済みだ。
かたやアクターズ・スタジオ出身、もう一方は王立演劇芸術アカデミー出身のどちらも舞台劇を出自とする気鋭のアクターが文字通り火花を散らすような切り結びを見せる。観ていて鳥肌が立つくらい緊迫した。
私は単に映画を観るのが好きだというだけの素人であって演技論など語れた柄ではないのだが、それでもこの映画を観ると素人ながらも「演技とは何か」と考え込んでしまう。
アクターズ・スタジオが提唱するところの「メソッド」なる概念がどういうものなのかを私は理解できていないが、輩出されたアクター達の演技を観ていると、それは個人の内面とか個性とかを最大限に増幅させた上で役柄を内部に取り込むというもののように思えている。
一方でシェイクスピアのような古典演劇(シェイクスピアを古典劇と言っていいのかどうか私は全く分かっていないのですが)は高度に様式化されており、アクターの個性以前に台本に書かれた役柄に「なりきる」ことが第一義的な評価基準なのではないかと手前勝手に思いこんでいたりする。
スタンレーを演じるマーロン・ブランドを観ていると、何か実生活に於いてもこんな風につっけんどんで激情的な、まるで野獣のような人格の持ち主なのではないかとついつい想像してしまう一方で、ブランチを演じるヴィヴィアン・リーの実生活に於ける振る舞いはかけらほども想像がつかない。
しかしどちらも演技としては瞠目すべき成果を達成しているのであって、それらに優劣を付けるべきではないのだろう。
内面の表出を徹底することと自分ではない誰かになりきることという相反したスタンスの振幅が「演技」という行為にはありそうに見えている。その折衷、その相克が世の中全てのアクターにとってはきっと大変大きく重い課題なのだろうなあと私は素人なりに考えている。
実年齢としていささかトウが立ったからとは言え、かつてスカーレット・オハラを演じた一方でこういった汚れ役とかどこまで堕ちていっても華美なものや優雅なものにすがりつき、執着する女の魔性みたいなものを演じきるヴィヴィアン・リーはやはり筋金入りのアクトレスであって、この映画出演によって芸域の深さや奥行きを後世に示せたことは本作の特筆すべき成果ではなかろうか。
一方でここでのマーロン・ブランドは何とも腹が立つほど格好いい。演技そのものもさることながらその立ち姿、その挙動が見事にスクリーン映えする。上半身Tシャツ一枚になった姿などはこれぞ男風貌といった感じで観ていて惚れ惚れするほどだ。(念のため私にはそっち方面の趣味はないが)
日本に於ける石原裕次郎はその芸歴の初期に於いてきっとこういう感じを出したかったのではないかと私は勝手に空想している。
(追記)その後、テレビ放映されたときにはジェシカ・ラングがブランチを演じ、これまたかなりの好演だったと何かで読んだ。一度舞台劇をじっくり見てみたい。
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