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Chet Baker Sings/Chet Baker(チェット・ベイカー・シングス/チェット・ベイカー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

40年来の友人と先日晩飯を食ったとき、どちらからともなく話すときの様子が話題になった。40年以上も顔をつきあわせていると声のトーンや抑揚で大体心理状態までも分かるようでお互い隠し事はできないな、というのがその時のオチだった。

 考えてみると、こうしてこのブログで音楽についての駄文を垂れ流しているが、私はシンガーについて語ることが少なく思うし、実際のところ、日常音楽を聴くにしても歌入りは余り多くない。
 そもそもどうして音楽聴きに熱中し始めたかというと楽器の即興演奏に関心が向いたからなので成り行きとしてはごく自然ではあると勝手に納得している。

 中古レコードで随分ご厄介になった現在は楽器店のオーナーがあるとき、どんなに楽器の名手が集まってもシンガーが一人加わればそれが主役として収まるのが音楽なんだよ、と仰ったことがある。これまた得心がいくが、そうだとすれば今までの私は余り素直ではないアプローチで音楽を聴き続けていたことになるのかも知れない。

 人生の折り返し地点を過ぎてから時たま聞くようになったレコードの一つにこんなのがある。

チェット・ベイカー・シングス

チェット・ベイカー・シングス

  • アーティスト: チェット・ベイカー,ラス・フリーマン
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1995/04/26
  • メディア: CD

 発売時期から考えると20年以上も棚の中で眠り続けていたことになる。現在でもそうだが、チェット・ベイカーは私にとってさほど意識が傾くミュージシャンではない。
 大体私はエリック・ドルフィーにノックアウトされてジャズを聴き始めるようになった口なので同じジャズというカテゴリーではあってもこういう類の音楽には暫く縁がなかった。
 若い頃、喫茶店などで時たま聴いた記憶はあるが、およそ関心の向かない、強いて注意を向ければむしろ何か、うっすらと拒否反応の出そうな音楽だったのだ。当時はアブストラクトなものを対象化する行為に没頭しがちだったせいなのだろうが、炭酸の抜けたコーラみたいに聞こえ、身銭を切ってレコードを買ってこようなどという気にはなれなかった。

 ウェスト・コースト、白人、歌、と、若い頃の私には何から何まで蒐集の条件としては後回しの属性ばかりの本作がどうしていつの間にかラックに収まっているかというと、レコードの数がそれなりに増えてきて何かこのカテゴリーについて鳥瞰的な聴き方も必要かと思い始めた時期があり、入門者向けバイヤーズガイドの定番みたいな扱われ方をされることの多い本作はいわばお勉強のための授業料的な購入動機だったと覚えている。CDがLPに取って代わり始めた時期でもあり、CDプレーヤーを買う金も当時はなかったのでとにかく持っていないLPレコードなんだからとりあえず買っておこうなどという半分がた義務感で買ったようなものだった。

 4年ほど前から生活形態が大きく変わり、半ば義務感のようにして以前ただ買っただけでロクに聴いてもいないレコードを聴き直すようになった。嗜むというほど優雅な生活状態では全くないが気持ちに余裕ができることで初めて醸成されてくる所作や習慣というのは確かにあるとは思う。

 本作についてははんこで押したようにユニセックス的な歌唱という表層からその個性が語られることが大変多い。改めて多少真面目に対峙するようにして聴いてみるといかにもそんな風ではある。しかも何か、内容の空疎さ加減が付きまとう。醒めた感触、スカスカした感じ。一時期、彼ら白人ジャズメン(こんな括り方はよくないとは思うが)の演奏する音楽がクール・ジャズと呼ばれていたがクールといっても色々ある。波打つ情動を奥に感じさせる抑制心の効き具合を表すことも核心部分から上辺までが徹頭徹尾理詰めで冷徹なクールさもあるだろうが本作はそのどちらでもない。
 私が歳をとったせいで今は尚更よく分かる。本作を含めて、デビューしてから間もない頃のチェット・ベイカーには表現に向かう衝動とかモチベーションが希薄に感じられる。そして本作の全編クールな感触というのは何かその、表現意欲の希薄さとかミュージシャンとしての立ち姿の不安定さに根ざしているように思えて仕方がない。
 
 デビュー間もない頃のチェット・ベイカーはクール・ジャズの流行もあってたちまち人気が出て、ダウンビートだったかメトロノームだったかの人気投票では1950年代の初め、デビューイヤーかその翌年だかにして何とマイルスもガレスピーも押さえてトランペッター一番人気の座を射止めた。
 そのプレイスタイルはビックス・バイダーベックからマイルス・デヴィスを経た流れのものであって決して独創的とは言えないし、内部に取り込んだ上で自家薬籠中という馴染み具合に達しているわけでもない。少なくともその時点で言えばどう聴いてもある種の未熟さを感じさせる吹奏であって、好意的に見れば、当時所属していたジェリー・マリガンのバンドを構成する1ピースとして巧い具合に作用していたというのが妥当だと私は考えている。

 しかしながら若かりし頃のチェット・ベイカーは、男の私が言うのも何だが少年の面影を湛えたかなりの美男子なのである。二枚目役の俳優さえ務まりそうなほど格好いい。そのかっこよさとは由緒正しき氏素性の令息というよりはむしろ、古臭い言い回しではとっぽいと言うか少々不良っぽい味のあるかっこよさに見える。
 そんなおにーちゃんがホーンの花形であるトランペットを吹くのだから人気が出ないわけはない。音楽雑誌の編集や発行はやはり白人主体だろうから喧伝も派手になろうというものだ。
 人気が出れば単なるサイドメンからソロ活動へと足場は広がっていくだろうし、気の利いた余技程度でしかないボーカルを披露してみるか、という商業的目論見が湧いてくるのもごく自然な話で、当の本人が企図するしないに拘わらず、トリックスター的な色合いを帯びたプロのミュージシャンである以上周辺はそのように蠢くものだ。本作が製作された背景とはそういう流れの中でのことらしい。
 
 本作のレコーディングは1954年と56年の2回に分かれている。LPだと裏表の区切りがついてわかりやすいが表面が56年の録音であり、裏面はシンガーとしての初吹き込みである。
 2年の隔たりを聞き比べてみると、当然ながら後年LAでの録音がプロフェッショナル然とした仕上がりだ。但しそれは初レコーディングとの相対評価であって素人臭さの抜けきらない歌唱である点は程度の差こそあれ一緒である。
 内面の不安定さを窺わせるスカしたクルーナー風の歌唱スタイルはチェット・ベイカーの個性としてその先一生持続され続けていくわけだが、ここで記録されている2年の間に熟練とか成長が認められるのは確かなことだ。

 そして本作を時たま聴くようになった私は現在、表現者としての熟練度を上げつつある56年の録音よりもハリウッドでの初吹き込みが興味深い。表現者としての存在感がより脆弱な54年の録音にはプロデューサーなり共演者達の主役に対する遠慮が感じられ、それがかえって当時のチェット・ベイカーの有り様を際立たせているように私には聞こえる。
  曲の展開は平易でインタープレイの類いは特にない。双方のセッションに付き合っているラス・フリーマンの挙動がここでは心許ない歌いっぷりの主役に無用の干渉はしないようにと努めているようだ。
 もっと興味深いのが録音のされ方だ。明らかなオンマイクで過剰なくらい深いエコーがかけられたボーカルはがらんどうの中で響いているようで、発声の不安定さをカバーしようという制作者の意図が明らかに聴き取れる。

 そこから私が読み取るのは、努力とか研鑽とかいった類の地道な積み上げの自覚があるわけではなく、表現行為に向かうエネルギーが臨界値には未達であり、更に、表現者としての方向性も定まってもいないうちに何か一廉のアーティストとして祭り上げられ、トリックスターとして余芸でしかなかった抽斗を開陳させられることへの当惑や不安でる。
 それが証拠に、1962年の再発時に本作はギターのパートが後からオーバーダビングされた。背景がにぎやかになることでシンガーの位置づけを軽くしようという構成上の配慮と見るべきではないだろうか。
 更にこれは、LPレコードだと把握しやすいが2回のセッションのうち、「プロの音楽」としての見栄えがよい56年LAでの録音がA面を占める。リスナーは時間軸に沿ってではなく、表現者として熟成度が上がった場面を最初に聴くことになる。(B面から先に聴く人というのはこれまで殆ど知らない)
 
 私がここで書きたいのは、そういった未熟な表現者や彼をトリックスターとして担ぎ上げる周辺のスタッフに対する指弾ではない。むしろ、そのような背景、そのような経緯を辿って生み出された一枚のレコードに多くのリスナーがユニークな個性を認めてやがて時間と共に愛すべき定番としての地歩を与えた事実をこそである。
 ではここに現れているのは、ここに記録されているのは何なのか。それはきっと、一定の時間や経験を経て一人の確立された大人になった人達が青年期に潜り抜けなければならなかった若い頃のある局面だ。地に足を据えた大人になるには未だ身につけるべき抽斗の数は不足しているし、立て付けも十分とは言えないにもかかわらず、とにかく何かをもってして自己表現をしておかなければならないその心許なさや緊張がここにはビビッドに表出しているように私には聞こえる。
 それは決して、当の本人達が意図して生み出した色合いのものではなく、全く偶発的な産物でしかないことを私は確信している。恐らく、少なくともチェット・ベイカー本人はこの時、自分が誰で、今、何を生み出しつつあるのかなど皆目見当がつかなかったと私はかなりの確信を持って想像している。
 何故ならば、こんな素人に毛の生えたような頼りない歌唱が一つの個性として商業性を獲得できるという確信犯的なソロバン勘定ができるとすればそれは世事に長けた大人が身につけたある種の資質によるものだからだ。そのような資質を持ち合わせていなかったことはチェット・ベイカーのその後の人生模様が痛々しく物語っていることを現在の私達は既に知っているからだ。
 
 欠落部分だらけで右往左往しながらも少なくとも上っ面くらいは一端の大人として構えていなければならなかった過去のある時期、多くの人にありそうな、そんな内面世界の記憶を本作はひどく瑞々しく象徴しているように今の私には思える。当然私も過去から現在に至るまで、散々そのような場面の連続であって今よりもっと未熟であることの苦渋を実感していた時期、本作に抱いていた拒否感というのは結局、地に足の着いていない自分を直視することの拒否感でもあったことになる。
 全てを満たしてしまえば恐らく、そこからはもう何も生まれない。あとは腐って朽ちていくだけである。若く、未熟で、欠落があるからこそその欠落を補うべく何かを生み出そうと色々な人達は色々に徒手空拳で日々を過ごしていくのだろう。
 
 英語で歌われる歌詞の内容は皆目理解出来ず、その声色だけを受け止め続けているうちに何となくそんな考え事が頭の中を巡る。やっぱりシンガーという存在は主役であり、人の声というのは実に多くのことを表すものだとつくづく思う。


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だーだ

センシティブとか言われてますが、年を経てから初めて聞いた私にはオカマがスカして歌ってるだけにしか聴こえません。
若い頃ならどうだったか判りませんが、受け手が受容できる感性を持ち合わせていないと全く感応しない類の音楽ですね。
当時のジャニーズタレントみたいなもんのような気がします。
飲み屋のおねぃちゃんに「ジャズを聴きたいのなんか教えて」なんて言われて買い与え上手くいった事がありますので、感謝せねばならんのですが(笑
by だーだ (2008-01-28 04:24) 

shim47

だーだ様 コメント有り難うございます。
おねぃちゃんに効き目があるというところに反応する自分が情けないのですが、昨日、ついついiTunes StoreからTime after timeをダウンロードしてしっかりiPodに仕込みました。血気盛んなあんちゃんだった頃には想像出来なかったです。

飲み屋と言えば私は以前、ジャズがBGMでかかるバーでスピーカーを営業中にいじることがあり、音出しのチェックにセシル・テイラーを使いお客さんがドン引きしてママを激怒させたことがありました。筋金入りのバカです。
by shim47 (2008-01-31 01:35) 

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