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真夜中のカーボーイ [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 例年、お盆時期には誰憚ることなく夜更かしに興じることが出来るので日頃はなかなか見るのが億劫な重量級大作映画をじっくり鑑賞することにしている。今年の夏は「アラビアのロレンス」と決め込んだ。

アラビアのロレンス 完全版

アラビアのロレンス 完全版

  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
  • メディア: DVD

 

あらゆる映画のオールタイム・ベストという企画があったら常連間違いなしの金字塔なわけだが、内容がありすぎて何か感想めいたことを書こうにも一体何から手を付けて良いのかわからない。そもそも、一体私がこの映画の内容をどこまで理解したり把握したりしているのかが甚だ心許ない。大分以前にわざわざLDを買い込んで何度も繰り返し見てはいるのだけれど(全編見通すには相当な馬力を要するのでそうちょくちょくというわけにもいかないのだが)見返すたびに発見のある「大きな映画」だ。

「作品」というのはこういう映画のことをいうのだろう。いつの頃からか氾濫するようになったCG満載の、ビックリする絵を2時間眺めてその後ろくに記憶にも残らないような消費物であるところのあれらは「製品」とか「商品」と区分されるべきなのだろう。まあ、それはそれでれっきとした存在理由ではあるのだけれど。

毎度観る度に感動という言葉さえ安っぽく思えるほどの大きな余韻を残す「アラビアのロレンス」だが 、こういう作品を語り倒せるほどの素養が私にはない。毎度観る度にこちらが試されているような気分にさえなることがある。なけなしの知識を総動員してもなお理解が及ばないことを観る度に思い知らされる。何かこちらが生徒になって学ばされているような映画だ、恐らくこの先一生そうだろう。

 そんなわけで日中の私は抜け殻のようになって昼寝を決め込んでいた。歴史的傑作というのは全く、見る人に体力を要求するものだとつくづく思う。

先についつい「なけなし」という言葉を使ったがなけなしと言えば連想される映画がさっきまで観ていたこれ。

真夜中のカーボーイ (2枚組特別編)

真夜中のカーボーイ (2枚組特別編)

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 

私にとっての等身大はこういう感じなのだろう。本当にこれまで何回も観た、まるっきり主観でだが観る度にグッと来る。この映画には少年期から今に至るまでの、私の人間観みたいなものが確かに詰まっている。

 ネット上のシネレビュー投稿サイトなどを見ていると、否定的な意見が多いのに驚いた。 惨めさややりきれなさといった類のものを映画で提示されるのは不愉快だという意見の持ち主が世の中には随分多いようだ。日頃は惨めさともやりきれなさとも無縁の暮らし向きで、自分とは全く無縁の世界や人を描いた映画だから感情移入できないという意味なのか、それとも実人生のありようと余りにも似通っていて凍り付くような利害関係に支配された現実を想起させるから不愉快なのか、見た人の背景は色々あるのだろうが映画はしんどさを描くものであってはならず、とにかく度肝を抜く絵と脳天気な楽しさだけを提供してくれる娯楽でさえあってくれればいいという考えに私は共感できないがそれも一つの意見だろう。馬鹿笑いと歓声の消費物が欲しいだけなら何もわざわざ映画を観なくとも民放のテレビ番組で十分用が足りるのではないかとも思うのだが。

 私には独りよがりな価値基準があって、いい映画とは観たあとの観客の心に爪痕を残したり論争を巻き起こしたり割り切れなさを残したりするものだと思っている。 「もう一度観たい」とか「ソフトを買って手元に置いておきたい」と思わせる映画というのは私の場合、何故か決まってそういう映画ばっかりだ。そういうのは私自身の未熟な人間性の反映に過ぎないのかもしれないが。ともあれ本作は世間一般的にはそのような反応を喚起するらしいからして私にとっては疑問の余地なくいい映画である。

 若い頃に観たときには若い頃なりの感想があるのだが、こうして歳をとってから腰を据えて見直してみるとまた別の切り口が現れてくるようだ。冷徹な現実の中でボロ雑巾が絡まり合うようにして都市の吹きだまりを徘徊し続けていくこのコンビが今の私には妙に微笑ましくも幸福に見えるのは私自身の屈折のせいだろうか?惨めさややりきれなさを共有できる相棒がいる、それはなんだかんだ言って幸福なことではないかと今の私は思う。

 何度観ても迫ってくるラストのグレイハウンド・バス車中での展開を見終えて今回、尚更私はその思いを強くした。夢見たマイアミを目前に失禁して絶命する相棒、狼狽する主人公に突き刺さる乗客達の好奇とそれでも所詮は他人事といった無遠慮で容赦のない視線、主人公ジョーの表情はうろたえながら悲しさと怒りを複雑に交錯させる。内在する屈折を共有できる相棒はもういない。終点マイアミまでの数分間、ジョーは相棒の骸に寄り添いながらこれらの視線を受け止めては跳ね返したり飲み込んだりし続けことになる、だしぬけに、たった一人で世間と対峙しなければならない、「大人になる」というのは実はその場面をくぐり抜けるということであって、大人になることの不安と緊張が何度観ても痛々しい位迫ってくる。

 現実の生活に於いて身の回りを見渡してみると、20代位の若い衆がつるんではしゃぎあっている様子をよく見かける。それはめいめいの過剰さや欠落を補完しあっている様子でもあるのだとすっかり中年になり果てた今の私にははっきりわかる。私にだって若い頃はそういう状況があり、そういう相棒もいた。しかし男というはいつの間にか相棒を失い、足下のおぼつかなさを不安がりながら、孤独感に揺らぎながら一人で目の前の出来事をさばいていくことを余儀なくされていく生き物なのだ。他人に背中を踏みつけられるような悔しさや貧乏がもたらす切迫感よりもそちらのほうがより切ないことをいつの間にか私は知った。辛くも何だか愛おしい映画だ。

 余談だが、主人公ジョーを演じるジョン・ボイトがアンジェリーナ・ジョリーの父さんだということを私はつい最近まで知らずにいた。知らないうちに相当世間ずれしている。 我ながら恥ずかしい限り。

 

 

 


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