柿の種/寺田寅彦 [書籍]
寺田寅彦の随筆を読むことは若い頃の私には大きな転機だったと思う。第一級のサイエンティストであると同時に優れた文筆家でもあるという姿は少年期の私にとってある種理想のインテリジェントを体現していた。しかしながら私程度の資質の者が時たま思い出したように少々生真面目な精神生活を心がけたところでこのような高次元でバランスのとれた偉大な知性の持ち主になれるはずもなく、所詮は日頃、俗世にどっぷり浸かって小金の勘案をしながらネジを回し、暇のついでにこうして駄文を垂れ流すだけの偏屈オヤジくらいが関の山である。
学生時分に随分触発されるところのあったはずの著作が、実は全て借り物であって自分の持ち物は一冊もないことを今更思い出したので、文庫本を一冊買ってきた。友人の主催する俳句雑誌の巻頭ページに連載された即興的短文集である。
本書は予め本人によってどのように読んでいただきたいのかが冒頭に書かれている。
7ページから引用開始
「この書の読者への願いは、なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のあるときに、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいという事である。」
引用終わり
書いてあることはたったの一行だが、現在こんな心象風景であることがいかに得難いかを考えると何とも高踏的なスタンスだと思う。手すさびの即興で書かれた短文でありながら一言の奥に物凄く沢山の暗示が込められているというか。昨今言われるスローライフだとかロハスといった生活の有り様は大正時代既に提示されていることに驚く。
いいのだか悪いのだかわからないがここ4年ばかりでようやく私はこの本をあるべき姿勢で読めるようになった。極めて重い真実をさらっと一言で済ませる凄味満載の一冊。翻って日常雑事に追われ、身辺の些細な出来事に隠された深い摂理をいかに沢山見落としたりやり過ごしたりしているかを改めて自覚したりもする。 実のところ全集でも買い込んでみようかという気分になり始めてもいる。
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