ジャズ・アネクドーツ(ビル・クロウ 著 村上春樹 訳) [書籍]
何となく買い込み、たまにパラパラと拾い読みする類いの本。
その全てが実話かどうかは不明だがいかにもありそうな小話の集積ではある。
エピソードを一つ、転記しておく。ご登場いただくのはこの人
かつてはブラック・ナショナリズムの闘士だったアーチー・シェップその人。恐らく1970年代中期の事かと思われる。本書の37ページあたりにその記述がある。
(引用始め)ビーヴァー・ハリスはあるジャズ・ツアーのときに、東京のテレビに出演した。そこでの出来事を、彼は次のように述べている。
アーチー・シェップがマイクの前に進み出た。誰かが彼の言葉を通訳する事になっていた。通訳は言った。『シェップさん、日本の感想はいかがですか?」。我々はみんなで一列になって立っていた。リー・コニッツと彼のバンドが一曲演奏を終えたあとだった。
アーチーはカメラをまっすぐ正面からのぞき込む。そして言う、
「私たちは平和のうちにここにやってきました。私たちは広島に原爆を落としたアメリカ人とは違います」
そしてグラチャン・モンカーが言う、
「おい、こいつら(these motherfuckers)にそんな事思い出させちゃダメだ!」
これが全部テレビ中継された。私はあわてて中に割り込んだ。「いや、私たちはリズミカルななんだかんだをなんだかんだしようと・・・・」と適当な事を言った。そうでもしなかったら、俺たちはその場で逮捕されていたかもしれない。 (引用終わり)
事の真偽はともかく、いかにもという感じの小話ではある。
おおよそ登場人物はキャラが立っていて、例えばマイルス・デヴィスは金の事であれこれ難癖を付けてはごねる話、ベニー・グッドマンは独善的なバンドリーダー、ズート・シムズは酒にまつわる話題などなどで本書は出来上がっている。この手の小話が生まれてくるのもある時期までのこの業界が一癖も二癖もあるアウトサイダーがかった豪傑が入り乱れる世界だったからなのだろう。ある時期からの、勉強秀才ばっかりが幅を利かすようになった(ように私には見える)状況からはきっとこういう本が出来上がるような事はなさそうに思える。それがいい事なのかそうでないのかはわからないが。
「カイ」という雑誌を買ってみる [書籍]
まれに見るバカ [書籍]
- 作者: 勢古 浩爾
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2002/01
- メディア: 新書
忍者武芸帳 [書籍]
私のような世事に疎い者にさえここ数ヶ月で世界が崩落していく途中であるのがありありとわかる。一体どこまで転落していってこの事態は落ち着くのか誰にも見当がつかないのではないだろうか。年明けは更なる失墜の幕開けでもあるような気がしている。
実際ここ4ヶ月ばかり、世の中の出来事は暗いニュースがやたらと多い。日中聞き流していたラジオのパーソナリティは「これが外国だったら殆ど間違いなく暴動が起きているはずだ」と番組中で語っていた。良く言えば忍耐強い、悪く言えば統治権力の矛盾に対して鈍感な、というのが日本人の国民性なのではないかという内容だったが、公共の電波がここまでのことを言うのだから状況は本当に良くないのだ。
民衆蜂起の善し悪しは別として、身辺の色々な人たちの中にさえ世の中の仕組みに対する怒りの気分が醸成されつつあるのを実感する機会が最近は多い。たったここ3年ばかりの間に空気は随分変質した。先月だったかに経団連の会長が社長を務めるキャノンが派遣社員を大量に契約途中で馘首に踏み切った件の報道に関する記者会見で、詳しい事は広報から説明させると厚顔にのたまう様子を見ていてさすがに私も腹立たしい気分になった。経団連の会長を輩出する程の企業ともなれば、それはあるべき会社の姿として規範たるモラルを持っているものであって、事実ある時期まで経団連の会長の発言というのは日本国全体を鳥瞰しての慎重なものだったが、今や私企業がこれまで蓄え込んだ内部留保は押し隠しす一方、今後目先の収益のために間接雇用している派遣社員を大量馘首するその行いを、あたかもそれの一体何が悪いか、オレは直接関係ないと開き直らんばかりの振る舞いにはつくづく暗然とさせられる。今やそういう程度の人物が財界人のトップとして君臨する事を容認する程世間は劣化している。
見ていて本当に胸の悪くなるような場面だったせいか、これまで何度も読み返してきたマンガを引っ張りだしてきて再読したくなった。色々な切り口をもつ群像劇だが、民衆蜂起のドラマという側面もある事を今更ながら意識した。
マンガという表現形態が生み出した希有な「作品」として本作は未だに色褪せない。それどころか現在という時代状況の中で再び強い輝きを放っているようにさえ思う。個人的には「明日のジョー」と本作は少年期の私にとってどうしても外せない程強い影響を受けた物語としてこれから先も記憶にとどまり続ける。
一揆の組織者であり指導者でもある影丸が、民衆蜂起が潰えた後に処刑される場面で発する台詞は、30年前に本作を読んで以来、事あるたびに私の頭の中で反芻されている。それは何かしら広い意味で私自身の支えであり、同時に私を鼓舞するものでもある。
我ら遠方より来る、また遠方へ行かん というその一節は白土三平のオリジンではなくどこかからの引用と聞いたが、途方もなく長い周期で脈動する「民の心情」を大変簡潔、かつ的確に言い表している。
日本のマンガを映画や小説と拮抗し得る固有の表現形態にまで高めた功労者が私には少なくとも二人いて一人は手塚治虫、もう一人が白土三平である。昨今は映画の業界もネタ切れがひどく、旧作のリメイクや日本のアニメやマンガの映画化が多いようだが本作は無理だろう。私は見ていないが以前、「忍者武芸帳」は大島渚監督によって映画化された事がある。
実写の映画ではない。マンガのコマを抜き出したものを画面として繋いでいき、吹き出しに書かれた台詞を俳優が語る、という、いってみれば紙芝居的な作り方がされているとの事だ。 いつになっても評価の定まらない永遠の問題作とも言える。個人的には、黒澤明に無尽蔵の予算を与えて製作していたらきっと物凄い作品になり得ていたような気がしている。
蠅/ジョルジュ・ランジュラン [書籍]
二日ばかりくだらない私事でハエのことを続けて書いた。読み返す値もないクズ文章だが教を含めてハエのことが意識の中である位置を占めてはいる。
ハエと言えば以前読んだ本を思い出す。
文庫本でも刊行されていたと思う短編集、全編グロい。8年前、引っ越しの時私はかなりの割合でもう読まなさそうな本は処分してしまったが記憶に引っかかりそうな本は残しておいた。本書はその中に混じっているはずなのだがどこかに紛れ込んでしまっているようだ。内向する自意識がカオスを生み出し、自らはまりこんで破滅していくといったモチーフが多く、その辺が私には何かしっくり来る。邦訳されているのがこの短編集だけらしいところが残念で、他にももっと色々読んでみたいストーリーテラーだ。
この映画の原作でもあった。
肉体が変容してフリークスに化けるというのが毎度クローネンバーグの題材だが、あいにく私は余り良き理解者ではない。現実世界であっても大体の人は内面において、既に何らかの形で奇形化している部分があると私は思っていて、その部分が何かの拍子に露出する瞬間に接する事のほうがより強い印象を受ける。想像上のどんな怪物よりも生身の人間が獣性をむき出しにして狂ったときのほうが余程恐ろしい、というのがスタンリー・キューブリックの視点だと思うが私はそちらのほうにより馴染み深いものを感じている。
映画としては子供の頃テレビの何とか映画劇場で見たような記憶のあるこちらのほうがゾクゾク来た。年端もいかず、まだすれっからしではなかったからだろうか、今になって改めてレンタルか何かで借りてきてみてみようかとも思う。何かまた違った感想が出てくるかもしれない。
蝿、生身の人間、グロいといえばこれを思い出さずにはいられない。「15少年漂流記」の悪質なパロディとも言えそうだがとにかく陰惨な話だ。閉じた場所で次第に狂いはじめ、殺し合う子供達の話。タイトルは聖書に由来しているのだそうだが、私には全然見当が付かない。子供というのは決して善良一辺倒ではない。数年前に話題になった「バトル・ロワイヤル」あたりは本書あたりにヒントがあるのではないかと考えている。
こうしてみるとハエがタイトルになった小説というのは大体どれも胸糞の悪い醜悪な内容のものばかりのように思えるが、それとても本物のハエが放つ醜悪さよりはまだ幾らかマシであるとも思える。私はとことん、ハエが嫌いだ。
書店をぶらついて考えた事 [書籍]
結構久しぶりの更新です。
タイトルとは関係ないお話だが、どうも私はここしばらくのところ、テキストを書いているうちに結構むきになる傾向があったようで、中身がない割に無用に長い自己撞着のテキストばかりでいつの間にかキーボードに向かう事に辟易していたのでございます。元々日記風のつもりで始めたブログなので初心に戻ってお手軽な駄文をなるべく手短に書き飛ばしていくつもりです。
休みの日にはなるべく何かの本を読むようにしている。午後から外出して書店をぶらつくのは学生の頃からの生活習慣だ。私は何年かの周期でいわゆる陰謀論に関心が傾く傾向がある。きっと根がへそ曲がりだからだろう。
立ち読みをしてみて面白そうだと思ったが結局買わなかった一冊。
陰謀論の大立物が自ら語った回顧録である。個人史がそのまま20世紀後半の世界でもある凄いお方だ。内容に興味はあるが本日のお買い物としては見送った。問答無用で莫大な財を成した方なのだから全部自前の持ち出しで出版でもして世界中の人たちにタダで配布してくれたって罰はあたるまい、それくらいやったって特段財布の事情は痛くも痒くもないじゃないか、と、へそ曲がりな事を私は考えたのだった。石油だ、金融だ、保険だ、と莫大な金儲けをした上に回顧録出版の印税まで手に入れるなんて、そりゃあ恵まれ過ぎだよ。我ながらひがみ根性丸出しですな。なんだかんだいってそのうち手が出るのだろうけど。
本日のお買い物は
悪魔が殺せとささやいた―渦巻く憎悪、非業の14事件 (新潮文庫 し 31-7)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/10/28
- メディア: 文庫
柿の種/寺田寅彦 [書籍]
寺田寅彦の随筆を読むことは若い頃の私には大きな転機だったと思う。第一級のサイエンティストであると同時に優れた文筆家でもあるという姿は少年期の私にとってある種理想のインテリジェントを体現していた。しかしながら私程度の資質の者が時たま思い出したように少々生真面目な精神生活を心がけたところでこのような高次元でバランスのとれた偉大な知性の持ち主になれるはずもなく、所詮は日頃、俗世にどっぷり浸かって小金の勘案をしながらネジを回し、暇のついでにこうして駄文を垂れ流すだけの偏屈オヤジくらいが関の山である。
学生時分に随分触発されるところのあったはずの著作が、実は全て借り物であって自分の持ち物は一冊もないことを今更思い出したので、文庫本を一冊買ってきた。友人の主催する俳句雑誌の巻頭ページに連載された即興的短文集である。
本書は予め本人によってどのように読んでいただきたいのかが冒頭に書かれている。
7ページから引用開始
「この書の読者への願いは、なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のあるときに、一節ずつ間をおいて読んでもらいたいという事である。」
引用終わり
書いてあることはたったの一行だが、現在こんな心象風景であることがいかに得難いかを考えると何とも高踏的なスタンスだと思う。手すさびの即興で書かれた短文でありながら一言の奥に物凄く沢山の暗示が込められているというか。昨今言われるスローライフだとかロハスといった生活の有り様は大正時代既に提示されていることに驚く。
いいのだか悪いのだかわからないがここ4年ばかりでようやく私はこの本をあるべき姿勢で読めるようになった。極めて重い真実をさらっと一言で済ませる凄味満載の一冊。翻って日常雑事に追われ、身辺の些細な出来事に隠された深い摂理をいかに沢山見落としたりやり過ごしたりしているかを改めて自覚したりもする。 実のところ全集でも買い込んでみようかという気分になり始めてもいる。
ライ麦畑でつかまえて:J.D.サリンジャー (約)野崎孝 [書籍]
先日、中学校のクラス会風の飲み会があった。私にとってはおよそ20年ぶりほどになるだろうか。本当に久しぶりに同級生の方々との邂逅となった。
自分で言うのも何だが中学生の頃の三年間、誰から見ても私はヘンな奴であり続けたと思う。何も好きこのんでヘンな奴として振る舞っていたわけではないが他人からの見え方としては間違いなくそうだったはずだという妙な確信がある。自分を取り巻く世界との違和感が最も激しかった三年間がそのまま中学生の頃と重なると言い換えてもいい。クラス会と銘打った集まりにはこれまで3回位出席させてもらったことになり、確か先日が四回目のはずだが不思議なことに年齢を重ね、回を重ねるごとに何かしら融和的な時間を過ごす心地よさが増してくるように思う。時を経ることには何かしら、物事や関係を緩和する働きがあるのかもしれない。
二次会までは出席させてもらい、調子に乗って飲み慣れない酒を飲んで酔っ払い、結構いい気分で帰宅した後高いびきを決め込み、目覚めた頭でどうした訳か家の中をうろつき回って若い頃に何度も読んだはずの本を探していた。
本書のことをどうして知ったのかを今の私はもう思い出せないが、毎日毎日どこかしら刺々しく、説明しようのないフラストレーションの連続だった中学生の頃に出会ったこの本には何とも運命的な印象がある。私は別段読書家ではないがこれまで読んだ小説と名の付く文章のうち素直に感情移入できた主人公という意味では間違いなく三本の指に入る物語だ。まるで私自身が何事かを語っているかのような錯覚を覚えるほど当時の私の心象風景に絡み付いている。
自分は誰で、見えている世界はどういうもので、起こっている出来事はどういうことで、そんな中で自分はどこに立っていて、何を求めていて、何を見つめていて、どこに向かおうとしているのか、何になろうとしているのか、どこに流れ着いて落ち着こうとしているのか、何もわからず、何も見えず、ただ不安で、ただ苛立ち、怒り、憔悴し、ささくれだった日々の中で何かの拍子に何かを見つけ出して時たま和む時間を確かに私はくぐり抜けてきた。俗に言う思春期とはそういうものなのだろうと不惑を大幅に過ぎた今の年齢になってみて何となく総括できたつもりになっている。
あちこちを当てもなしにさまよい歩いて根拠も脈絡もなく闇雲に色々な人と会い、金と時間を蕩尽し、虚しい言葉を交わし合い、何も達成できず、何も得られず、何も解消できず 、不安と焦りに駆られて更に彷徨を続ける。唯一、子供や小動物と接しているときのみ、というか、何がしかイノセントな魂に触れるときのみ、主人公の(と言うことは10代時分の私の)精神はその刹那だけ一種肯定的な浮揚感を得られたのだった。
過去の私は愚かな奴だったと思う。 今でも十分愚かだがそれ以上に愚かな奴だった。恐らく当時の同級生の方々にもそう見えたに違いない。しかしここでかなり弁解めいた自己分析をするに、愚かは愚かなりに当時の私は色々と真剣ではあった。対象化できないような不安や焦りに駆られてつい心ならず色々な人を傷つけたり、迷惑をかけたりはしたが、きっと私はそういう風に振る舞いながらでないと成長できないような類の奴だったのだ。世間的に何とか収まりどころのありそうな、ある程度は角の取れた大人になるためにはそんな時間を潜ってこなければならなかった。過去、あれこれと積み重ねた見当違いな力み方や情けないばかりの脆さ等々、思い返すと目も眩むような恥と罪悪感が山積しており、何というか実に重苦しい。
”大人になる”というのは言い換えると、それら重苦しさを引き受けて背負い続ける覚悟を固めるということなのかも知れないとある時期からの私は思うようになった。同時に人にはおおかた大なり小なりそれぞれの重苦しさがあるのであって、他人の重苦しさを包摂できるようになることもまた大人の属性かと本日私は改めて思う。何となればクラス会の間中、私の接する空気がそのようなものだったからで、私は30数年の間にいつの間にか当時抱いていた疎外感や違和感や訳のわからない被害者意識のようなものが氷解して、代わりに何かしらの包摂感の中にいることを感じたからだった。
皆様は順当に大人になられ、恐らく一生反抗期から抜け出せないのではないかと自己嫌悪に陥っている時間の長かったこの私めも遅まきながら、多分半歩位はその中に入れて貰えたのかもしれない。ともあれ幸福な時間でした。皆様有り難うございます。機会があれば、また。
(追記)本作の主人公は16歳にして頭の半分が白髪ということになっている。何を隠そうこの私も中学生の頃からやたらと白髪の多い坊主だった。それは当時ちょっとした身体的劣等感になっていて、主人公に寄せる私の共感の一因だったような気もする。会の席上でこの白髪頭が私を記憶するキーワードであるらしいことがわかったw
(追記2)本来は原文で読むのがベストだと思うが悲しいかな私には英語の読解力が決定的に不足している。数年前に村上春樹の訳出が刊行されて話題になったが、私は少年期に接した野崎孝による訳出に強い思い入れがあるためか、村上春樹訳出のほうは半ば意図して見送っている。
晴耕雨読風な一日 [書籍]
昨日に引き続いて野良仕事を続ける。
今年のゴールデンウィークは余り天候が良くない。お昼近くには小雨模様になってきたので野良は切り上げることにした。午後からは駆け込みのお仕事が入り渋々出動する。一時間前までスコップやら鎌やらを握っていた手ではんだごてやレンチを握っている。移動の際には自動車のステアリングを握っている。私の仕事とか作業というのはのべつまくなしに絶えず何かを”握って”いるもののようだ。
せっかくの連休なのでお仕事はさっさと切り上げて多少は真面目に本でも読んでみることにした。何年ぶりかで読み返すのがこれ。
他人に向かって民族意識や思想信条などなどを開陳することを私は全く好まないが、好むと好まざるに関わらず、日本人であることに自覚的でありたい方ならばせめて本書くらいは読んでおられるのだろうと思いたい。他者の視点から語られることによって初めて見えてくる自分の姿というのもあるはずで。
執筆された時期も時期なので変化してしまった部分もあるが変わらずにいる部分もある。それは日本の集団や社会が過去60年の間に何を保持し続け、何を放擲してしまったかについて考えることでもありそうだ。戦勝国が占領政策を実行する時点で薄っぺらな感情論を抜きにして既にここまで敵国の民族意識を冷徹に分析していたのかと思うと、改めて感心すると同時に幾分呆然とする。敗戦以後の60数年、私たちは誰か他者に与えられたある枠の中だけで考え、行動するように巧妙にプログラムされていたのだと改めて気付く。それがいいことなのか悪いことなのかは別問題としてだが。
どうも今日の私は重厚な内容の「菊と刀」に没頭し続けることができず、併読していたのが読み飛ばし風のこれ。
悪役レスラーは笑う―「卑劣なジャップ」グレート東郷 (岩波新書 新赤版 (982))
- 作者: 森 達也
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/11
- メディア: 新書
かの岩波書店もプロレスを扱うのかと思わず苦笑した。お仕事の帰りに立ち寄った古書店で105円で売っていたものを買ってきた。内容はさすがに105円だけあって2時間もあれば読了できる。作者はテーマであるグレート東郷の履歴を結局突き止められずに右往左往する。本人は当然面識がないので関係者を訪ね歩いて聞き取りを進めていく様子が書かれているが、本書ではグレート東郷という人の個人史は結局わからないままである。右往左往の過程や断片的な聞きかじりの様子と作者個人のこれも断片的な回想だけでできあがった本だ。「その人の名前を覚えていて色々調べたけど何もわかりませんでした」という括弧書きを思いっきり水増しして一冊の本にしたものがこれである。
わかったこと、解明できたことを書物として著すものだとこれまで私は思いこみ続けてきた。わからなかったこと、区切りのつけられなかったことがこうして一冊の本になって販売されるというのもなんだか凄い話ではなかろうか。しつこいようだがさすがに105円で叩き売られるだけの内容、いや無内容さだ。結局私が読み取れたのは「個人の人格というのは国籍や民族的な出自だけでは定義しきれない」と「見る人によって対象の見え方は相違がある」の二つで、作者は余りにもまっとうなこの二つのセンテンスを書きたいがためにわざわざ新書版とは言え一冊の著作を執筆したわけだ。なんだか物凄い道草につき合わされたような読後感のある一冊。学生の頃、初歩的な講義を受けただけだが現代物理の一分野、量子力学とか不確定性原理というのは大掴みに考えると「わからなさ」を科学する営為であるように私は理解している。古典物理に凝り固まった私の頭にそれはかなりの衝撃を持って刺さり込んできたのだが、この本を読み飛ばして何かそれに類する感覚があった。これは私なりの、精一杯のこの本に対する皮肉である。定価で買って読んでいたらきっと「金返せ!」とわめき散らしたくなったはずだ。
本の話はさておいて、私は春や秋の曇り空を眺めながら家で過ごしているとどういう訳かギター・トリオのレコードを引っ張り出す傾向があるようだ。
地味目の佳作だが、時折復刻されるのは少々嬉しい。ギター・トリオの演奏というのは空間をびっしり音で埋め尽くすような傾向のものは非常に少なく、スカスカしたいい意味での物足りなさとかわびさびの世界みたいなところが読書の合間に聴くには相性が良さそうに日頃考えている。
「スカスカ」と私は書いたが先のプロレス本とは違って、無内容だという意味ではありません、念のため。
マックスウェルの悪魔:都筑卓司 著 [書籍]
購入当時の私は理系の学生で学業は全く振るわなかった。生まれつき大して出来が良くない上に怠け癖は抜けず、学業にも関心が持てないのだから救いようがない。理系の学生とはいっても取り立てて理系の科目が好きだったわけでもない。たまたま自分の学力で合格できそうな学校だったからそこに進学したに過ぎなかった。機械や何かをいじり回したり学業と関係のない本を読んだりするのはそこそこ好きだったが机に向かって勉強するのは大嫌いだった。何よりも少年期の頃の私は何とも言いようのない観念的な葛藤につきまとわれていて精神が不安定だった。
机の上で学ぶ数学や物理は私の頭の中では実態と結びつくところが皆無だったので、とどのつまりはちんぷんかんぷんだった。当然成績は悪く、留年までした。自分の資質のなさに我ながら嫌気がさして学校を中退することまで真剣に考えたほど私は出来の悪い学生だった。
学校の履修科目の中には応用物理学というのがあった。担当教官は高分子を専攻しておられた方で、開校以来のボンクラといわれたこの私を何故か気にかけてくださっていたように思う。学校を中退してどっかで適当な職を見つけようとしていた私を思いとどまらせてくださったのがその方だ。
教官の講義には人それぞれで特徴がある。この方の場合は数式を展開していく過程で必ずある寄り道をするのがおきまりだった。それは何かというとエネルギー量を表す○△²/2(私のパソコンでは数式をうまく記述できる環境にないので表しにくいが)をどこかで導く癖があり、このエネルギー積分がエネルギーの形態を変えて力学だろうが電磁気だろうがとにかく頻発した。講義のたんびに必ず『ここで○○をエネルギー積分する・・・・』が出てくるので物理の勉強というのは何かしらエネルギーと関係があるらしいというところまではわかったものの、それではエネルギーとは一体何かとなるとさっぱりわからず、結局堂々巡りのまま試験では赤点を取り続けた。
本書は私が学校の中退を思いとどまって、だからといって向学心を持つ手がかりも見あたらない時期にたまたま出くわした。確率から熱力学、統計力学という流れに関する解説書を一見装っている。親切なところは身近な出来事から事象を語り起こし、理系学問を修めていない人でも容易にイメージが喚起できるような記述がされているところで、解説書というのはこうでなくてはという見本みたいな著作である。
マックスウェルの悪魔―確率から物理学へ (ブルーバックス 152)
- 作者: 都筑 卓司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1970/02
- メディア: 新書
実は本書は単なる物理の解説書ではなく、もっと広汎な人間世界の行く末にまで踏み込んでいる。だから私にとっては、ある世界観を育成するための手引きとも言える本だ。腰が重く怠け者のボンクラ学生だった私を「それじゃあ一丁、大真面目に勉強してみようではないの」と奮起させたこの本はその後の私に大変大きな影響をもたらしたことになる。
件の教官は、学生寮に当直だったある晩、私の居室を訪ねてきて枕元に置いてあった本書に目をとめて取り上げるとニヤッと笑って「見えてきたか」と仰った。今にして思えば出来の悪い教え子が想像する世界観を既にお見通しだったのではあるまいか。退官後の現在も時折手紙のやりとりをさせていただいているが、この方はどうも、ただ者ではなかったと未だに私は思い続けている。
追記;本書はその後、新装版として現在も書店で買えるが私は自分が買った古いほうの表紙のイラストが好きだ。どうでもいいことだけど。
実録放送禁止作品 [書籍]
自動車を修理に出しているのでお仕事は終日家の中でデスクワークを決め込むことにした。
元来デスクワークは大嫌いなのでたちまち嫌気がさして煙草を買いにのコンビニまで徒歩で行くことにした。
近所の風景を眺めながらぶらぶら歩いていると日常随分色々なものを見落としていることに気づく。
私にはコンビニでついついしょうもない無駄遣いをする悪癖がある。元来甲斐性がないのに無駄遣いが好きなのだからこれはもう処置なしだ。一生金満生活とは無縁だと悟ってからもうだいぶ経つ。
本日の無駄遣いがこのムック。
総花的な内容で多くの事例が取り上げられおり、既に知っていることもここで初めて知る事実もある。事例はどれも掘り下げ方が浅く、物足りなさはあるが500円で暇つぶしをするには悪くない。
私は放送禁止になった流行歌のあたりを結構興味深く読んだ。中学生の頃、そのバンドの名前だけが一人歩きして結局聴く機会の無かった頭脳警察には今でもちょっと関心がある。
ロックを日本語で歌えるかどうかが議論の対象となっていた時代があった。もう30年以上前の話で今にして思えば苦笑せざるを得ないような話だが、世間全体が人間で言えば反抗期というか思春期というかそういう時代の産物である音楽だ。
何事に依らず、時節に阿った表現は時節の変化と共にその生命力を失っていくものだと常々私は考えている。今、このバンドの音楽を聴いて古びてしまった側面やいまだに新鮮さを宿している側面を確かめてみたいような気もするし、もっと他に聴きたい音楽があるような気もするし、何とも言えないが今は私のアンテナに引っかかった状態だ。
頭脳警察のバンド名はフランク・ザッパのデビュー盤の一曲に由来していることを私は随分後になってから知った。こちらは中学校の内に聴き親しんでいて、当時はまさかそんな関連性があるなどとは全く思いもよらなかった。
バンド名の元になったWho are the brain police?の歌詞をCDのライナーから転記してみる。
あんたはどうするんだろう、ラベルが剥げ落ちてしまったら
それで、プラスチックがみんな溶けて
クロームがグニャグニャになってしまったら?
頭脳警察ってのは、どいつらなんだよ?
あんたはどうするんだろう、あんたの知ってた人達が
溶けたプラスチックだったとしたら
解けたクロームもそうだったとしたら?
頭脳警察ってのは、どいつらなんだよ? (翻訳:茂木 健)
世界というのはいつの間にか、ここで歌われているようなものになってしまっているような気もするし、案外捨てたものでもないような気もするのだが、いずれにしてもバンド結成の時点でこの歌世界に注目したパンタという人のセンスはかなり鋭かったと思う。
中学生の頃の私が聴いていたのは和文のライナーノートもない輸入盤で、何のことを歌っているのかもチンプンカンプンだったのだがとにかく、何だか異様な感覚にとらわれたのは鮮明に覚えている。今に至るまで、私の意識に何か影響を与えているのかも知れないがとにかく、当時の私が相当ヒネたガキだったのは間違いなさそうだ。
正月休みに読むグリム童話 [書籍]
例年、休みがまとまったときには買っただけで読みそびれていた本を読むことにしている。
こういうときに読むのは大体長編小説であることが多かった。文学に対する造詣は全くないが物語の世界に巻き込まれるような経験はやはり長編ならではだと思う。
しかし今年は、昨年夏以来の五十肩に加えて最近は首や肩のこりが酷いので長時間本を読む姿勢がとりづらく、読書三昧もままならない。歳はとりたくないものだ。
暇つぶしに書店をぶらついていたらついつい、グリム童話の文庫本が目にとまった。
『いい歳こいてグリム童話もないもんだ』と自嘲しながら一冊手にとって立ち読みしかけると結構はまった。以前何かで読んだことがあるが、およそ世間に溢れかえる物語という物語のプロットは殆ど全てに近いくらいグリム童話にその原型を見いだせるのだそうだ。
一話完結のショートショート集に接するようなつもりでとりあえず買って読むことにした。こうしてオヤジになってから正式に大人向けの読み物として和訳されたものを読むとこういう年代は年代なりに楽しめることを発見した。
訳文が読みやすいのと本国で出版されたときの図盤が収録されているのが気に入って今回は筑摩書房から刊行されている文庫本に取りかかることにした。
岩波文庫からも出版はされていて、和訳文章は恐らくそちらのほうが原文に近そうに思えたが、私は特段学問的な興味で読むわけではないので今回は見送り。
ちくま文庫版の図版には出版当時の雰囲気があって大変気が利いていると思う。子供時代に読んではいたが結末の思い出せない話などはこうして大人に名手から読み返してみてああそうだったよな、と、妙な感慨にふけったりもする。しばらくぶりに読書の愉しさを満喫するが、結局自分の受け付けられそうな創作文というのは童話レベルの頭かと思うと我ながら情けなくもある。
と、ここまで書いて思いだしたがちくま版は文庫以前にハードカバーによる愛蔵版が発売されていたのだった。収録されている図版のことを考えるとそちらを買っておくべきだったかと少し残念ではある。
子供の大科学(「あの頃」遊んだふしぎ玩具、教材) 串間努 [書籍]
未だに収まらない五十肩の痛さである。ここしばらくは段々おかしな具合になってきており、右肩や首まで調子が悪い。
私は元々大して勤労意欲が旺盛なタチではないので、本日はお仕事を早めに切り上げて自宅でゴロゴロしながら読書を決め込むことにした。
読書といっても私が手にするようなものは程度が知れている。かなり以前、会社員だった頃に出張がてら駅の書店で買って読み飛ばし、そのまま段ボール箱に押し込まれて開梱もされずじまいの引っ越し荷物からたまたまほじくり出してきてのがこれだ。
著者は恐らく、私と同年代の方なのだろうがここに網羅されている数々のおもしろグッズ(何だか気恥ずかしい言葉だが確かにそういう形容が適当に思える)にはしびれた。夕飯を食べるのも忘れて読み通してしまった。
スパイ手帳や電子ブロック等々、幼少時の私が夢中になったあれやこれやを思い出して年甲斐もなく興奮した。
私はお小遣いが潤沢な少年では全くなかったので、学研のマイキットや電子ブロックなどは高嶺の花だったがこの本で取り上げられている玩具には随分はまったものが幾つかあった。
小学校5年生くらいの時にはシーモンキーを飼ってみたいのだが小遣いが足らず、同級生を焚きつけて3人くらいで小遣いを出し合って1セット買ってみたこともあった。
現在の私は、機械いじりを生業とする一種の職人だがこういう本を読んでみて思い返すに、今に至るまでの起点は少年期にやたらめったらドライバーや金槌であれこれ構わず何かをいじり回していたことやここに取り上げられた科学玩具の類にはまり続けていた風景にあるような気がした。
この本を読み終えた今の私は、無性に地球ゴマが欲しくなっている。子供の頃には腕力が足らないせいで小さいサイズのものしか買って貰えなかった無念さを40数年経ってから晴らそうとしているわけだ。
欲望という名の電車 [書籍]
少年期に映画「ゴッドファーザー」を見て以来、私はマーロン・ブランドに随分入れあげた。同じくコッポラが監督した映画「地獄の黙示録」に至るまでボルテージが持続していたので、私の思い入れは映画監督コッポラの最盛期とシンクロしていたことになる。
勿論、マーロン・ブランドは「ゴッドファーザー」以前からの大スターであって1950年代の諸作などのタイトルくらいは何となく知ってはいたが、1970年代には家庭用ビデオデッキなどという有り難いものはなかったので知り得ることと言えば精々映画の解説書を読む程度でしかなく、映画そのものを見ることは出来なかった。「波止場」と並んで本作は長いことタイトルだけが頭の中にある映画だった。
「欲望という名の電車」は元々が舞台劇だということを後から知った。二十歳そこそこの頃の私は文学作品に親しむ時間がなかなか取れなくて原作者が高名な劇作家であることも知らずにいたのだった。
本書にとりついたきっかけはつまり、「映画は見たいのだけれど見られないのでたまたま本屋に行ったら見かけた同名の本を買ってみた」という代替行為だった訳だが、見方を変えれば代替行為に及びたくなるほど私は大きな関心を持っていたことにもなる。
映画のことは別としても、本作は二十歳当時の私に実に多くのことを考えさせた。スタンレーとブランチという二人の登場人物は多くの人が内在する属性の両極をそれぞれ凝縮させたような性格設定で、いわばコインの裏表である。
今の時点で読み直してみると、作者の意図は二人を等距離に描き分けているように読めるのだが二十歳当時の私は今以上に物事の飲み込みが悪く、群像劇という物語形式をよく理解できていなかったことになる。
同時に人の内面を単純な二元論でしか捉えられていなかった、その程度の人間観しか持ち合わせていなかったのだと今になって思う。
当時の私にとって「欲望という名の電車」はブランチの物語であって、色々な意味で不安定な精神の持ち主だった当時の私にはそちらのほうが感情移入しやすいパーソナリティだったのだろう。
反面、妹の旦那であるスタンレー・コワルスキーには何とも胸くその悪い印象を抱いたものだ。この人の精神には形而上の世界というものが微塵もない。ファンタジーの世界に遊ぶことがない。過去も未来もなく、とにかく今、目に見えている事象だけが世界の全てという感じだ。とことん現実主義であり、実利的であり、戦闘的で勝利至上主義的な振る舞いはどこまでも独善的にして露骨で情け容赦がない。
物語上では妻の実家の財産が分与される目を求めてあの手この手で物事をほじくり返し、姉妹を問いつめる。ブランチとの同居が金銭的な実利を何らもたらさないことを知ると、感情的な軋轢を含めてこれまたあの手この手で過去を暴き立てて追い出しにかかる。挙げ句の果てには妻の出産するその日の夜に散々毛嫌いしていたはずのブランチを力ずくでベッドに押し倒してその脆弱な精神世界を破壊してしまう行為にまで及び、その後は普通に仲間とポーカーに興じる厚顔ささえ見せる。
なんとも物凄い性格設定であり、とても好人物とは思えない。タイトルの示す欲望とはスタンレーの属性を暗示しているのだろうと当時の私は思いこんだりもしていたのだった。
形而下の世界での安定を求めてミッチとの結婚に望みを託すが頓挫して精神を病み、現実世界から隔離された精神病院でその後を過ごすことになるブランチは歴然たる敗者であり、そのブルー・ブラッドの因子は途絶えることになる一方、因業なほどに現世利益と俗人的快楽に徹するスタンレーは生活時間に於ける小さな闘争にことごとく打ち勝ってその因子を後に伝えていく。
現実とはそういうものだ、そういうものなのだろう。しかし負けるとか弱いとかいうことはそんなに良くないことなのか。悪いことなのか。とにかく遮二無二勝ち残るとか生き延びるというのは無条件に素晴らしいことなのか。当時も今も、私の考えはいつもここで逡巡する。恐らく一生割り切れない命題なのだろうと思う。
本書を読んでの発見の一つは白人社会の中に於いても人種差別はあるというものだった。我々日本人が、特にこのネット上に於いて顕著だがチョン公だとかチャンコロだとか特亜だとかの蔑称をしばしば口にする。だが白人社会の住人から見れば日本人だろうが中国人だろうが極東の人間は上も下もなく十把一絡げでオリエンタルとして片づけられるものらしい。そして彼らにとっては当然の如く黄色い連中は、自分たちと同列などでは全くない、場合によっては黒人以下の下等な人種らしいという話を誰かから聞いたことがある。
視点を変えて私のような黄色いオリエンタルから見ればひとまとまりに見えていたその白人社会の中に於いてもミック(アイルランド系への蔑称)、カイク(ユダヤ人)といった侮蔑の呼称が存在する。本作ではポーランド系であるスタンレーに対する蔑称としてポーラックという言葉がフランス系であるブランチの口から何度となく飛び出す。誕生祝いの席でこの蔑称に堪忍袋の緒を切らしたスタンレーが「俺はアメリカ人だ!」という怒号とともにテーブルを滅茶苦茶に荒らし回る件は人種の壁が世界中の至る所に厳然と存在していることを教えてくれた。
古今を通じて隣り合った国同士、異なる民族同士が恒常的にいがみ合う構図は無数にあるわけだが、自明の事実として受け入れるだけの割り切りの良さが私には足りない。人間観の甘さということになるのだろうが、この島国の外で生活したことのない私は未だに日本人であるが故に差別されたり迫害されたりした経験がないからなのだろうと思っている。
私の所持している文庫本は、初版が古いため旧漢字が使用されており大変読みづらい。これまで何度も読み返したが機会があれば異なる訳者のものにも手を付けてみたい気がしている。
ソフトマシーン/ウィリアム・バロウズ [書籍]
何と言ってもSoft Machineのバンド名はこの一冊に由来しているのだからいつも気になり続けてはいた。私が中学生の頃のことだからもう30年以上も前だ。
しかしどこの書店に行っても本書は売っていなかった。現在のように探すのが容易ではない頃だったので中学生の時以来、ずっと諦めていた。
ウィリアム・バロウズの小説で初めて読んだのは「裸のランチ」で、今から20年近く前、河出書房から出版されたもので鮎川信夫氏翻訳のものだった。
正直なところ、良く翻訳できたものだというのが感想だった。私は結局、最後まで読み通せなかったのだ。支離滅裂というかまるでヤク中のうわごとを文字に置き換えているように読めて大いに難儀した。
それで、本作はというと更にちんぷんかんぷんである。文章を単語単位に切り分けて切ったり貼ったりするカットアップという技法を駆使したのだそうだが専門的なことは私には理解できない。
あってないようなストーリーを強いて書き出すと、ヤク中でホモセクシャルの主人公が中米あたりを放浪し、いろんな男とヤリまくりながらビッグ・ブラザーの監視体制を破壊して世界を解放する、みたいなことになるのだろうか?
そもそも私には大した読解力がないので全体を把握することがまるっきりできない。読み進んでいくうちに前に書かれていたことがどんどん頭から消去されていく。いつも1ページか2ページ分のことしか頭の中に残っていないようで、元々出来の悪いこの頭だが、いよいよ自分も認知症の仲間入りかと悲しくなった。
冗談抜きに本書を読んでいる途中ページをめくる手を止めて、10ページ前にはこういうことが書いてあった、と説明できる方がいたらひれ伏したいくらいだ。
本書のタイトルをいただいたソフト・マシーンの音楽世界は、もっと具象性のあるものだったと改めて分かる。これだけ徹底的に一人称の物語もそうざらにないのではないだろうか。読んでいる間はやたら鮮烈なイメージが喚起されるが読み終えると何の話だったのかさっぱり思い出せないというのは作者の企図によるものなのだろうか。そうだとすれば凄い離れ業だ。
かなり気に入った一節があったので引用したい。そういう断片を拾うのが案外正しい読み方なのかもしれないと思ったりもする。
(引用始め、P112より)
>私はホワイト・ノイズをコントロール音楽と祭の録音に混ぜ、
>反乱のサウンドと画像トラックを加えた。
>「言語線を切れ—音楽線を切れ—コントロール画像を叩き潰せ
>コントロール機械を叩き潰せ—本を燃やせ—祭司どもを殺せ—
>殺せ!殺せ!殺せ!—」
>労働者たちの思考感情感覚印象を無情にコントロールしていた機械が
>今や自身を破壊し祭司を殺す命令を与えた—
>何より満足感を味わったのは、監督官が畑の真ん中で
>腸に熱した種蒔き棒を突っ込まれ、トウモロコシを詰め込まれて死んだときであった。
>私はカメラ・ガンを構えて寺院に突進した
>この武器は画像を撮り振動圧縮してホワイト・ノイズに変えるのだ—
>祭司たちは単なる言葉とイメージでしかなかったわけだ(引用終わり)
音楽で言うと、ソフト・マシーンよりもむしろこちらに共通項を感じる。ザッパはクスリとは無縁の人だったが音の世界と文字の世界とでどこかが何かしら共通しているのは興味深い。