Shake,Ruttle and Roll (シェイク・ラトル・アンド・ロール) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
ロックというカテゴリーの起源がどの辺りにあるかについては諸説あるようだが私は全然詳しくない。
但し、アフロ・アメリカン側からの例証としてジョー・ターナーが取り上げられることはあるようだ。1955年の動画
Rock'n RollのRollがタイトルの一部に使用されているからというのがその理由なのだろうか。
歴史上の位置づけはさておいても私個人は若い頃からジョー・ターナーの歌いっぷりは大変気に入っている。本当に最後の最後まで全力投球の偉大なシャウターだった。
ここで私がこれまで何度か書いた事象、つまりアメリカのポピュラー音楽は白人が黒人音楽をパクることによって大きなビジネスとして構築され、その金銭上の恩恵はいつも白人達にだけもたらされ続けてきたではないかという黒人側からの怨嗟が今世紀初めから絶えないことをあらためて考えてみた。
マイルス・デイビスは自伝の中で何度もその構造を糾弾している。ブルース、ジャズ、ファンクビート、近くはヒップホップと『俺たちから盗み取って自分たちの金儲けに利用しやがる』という視線は未だに拭い難いものがあるようだ。
ロックで言えばこういうことだろうか、1956年、既にこんな風にカバーされている。
エルヴィスの登場は社会現象でもあったわけで、 『ネイティブ・アメリカンの混血である南部出身のプア・ホワイトの若造が腰をクネクネさせながら黒人の歌を歌う』姿は白人社会において大変ヒステリックな反応を呼び起こした、ということになっている。
あくまで黒人コミューンに足場を置き、予定調和的な芸人であることに徹したジョー・ターナーに比べるとエルヴィスは良くも悪くもセンセーショナルな存在だった。
そしてこの、けしからん若造の歌いっぷりはがめつい白人の大人達に『沢山のガキどもの財布から小銭を巻き上げて大儲けする』ビジネスモデルを思い立たせることになり、ロックという白人主導の音楽カテゴリーはビッグ・ビジネスに成長を遂げてエルビスは20世紀最大のトリックスターへと駆け上がっていく。
更にこのトリックスターは特例措置に応じることもなく生真面目に徴兵され任期を全うし、ハリウッド映画に主演するようになって健全な好青年を演じ続け、大統領と面会して麻薬捜査官の務めを自ら申し出るようになり、ジャンプスーツに身を包んでラスベガスのボールルームで賛美歌まで歌うようになり、デクデクに太って心臓病を患う身の上になり、やがて亡くなった。
こういう来歴を駆け足で辿っていくと、自意識の希薄な若者がとった無意識の行いが偶発的に社会現象を引き起こして彼が世の中の仕組みに取り込まれてどんどん変質させられていく、更に彼の自意識の希薄さ故に彼は何ら自己懐疑することもなくどんどんそれに乗っていくという物語性が確かにそこにはあると思う。
そんな風にしてロックという音楽は黒人コミューンからは唾棄すべきカテゴリーとして目を背けられるようになっていった。生前のジミヘンは「黒人の風上にも置けない奴」という非難に晒され、それは一つの悩みにもなっていたらしいことが死後、知人のインタビューで語られている。最近で言えばマイケル・ジャクソンも似たような立ち位置にあったらしい。
同じ歌を唄うジョー・ターナーとエルヴィスのどちらがより優れたシンガーであるか、どちらがより好ましいかという主観上での評価はさておき、時代の寵児が出現したインパクトが色褪せることなく伝わってくる。エルヴィスの若き日の動画は色々な意味で私には興味深かった。
但し、アフロ・アメリカン側からの例証としてジョー・ターナーが取り上げられることはあるようだ。1955年の動画
Rock'n RollのRollがタイトルの一部に使用されているからというのがその理由なのだろうか。
歴史上の位置づけはさておいても私個人は若い頃からジョー・ターナーの歌いっぷりは大変気に入っている。本当に最後の最後まで全力投球の偉大なシャウターだった。
ここで私がこれまで何度か書いた事象、つまりアメリカのポピュラー音楽は白人が黒人音楽をパクることによって大きなビジネスとして構築され、その金銭上の恩恵はいつも白人達にだけもたらされ続けてきたではないかという黒人側からの怨嗟が今世紀初めから絶えないことをあらためて考えてみた。
マイルス・デイビスは自伝の中で何度もその構造を糾弾している。ブルース、ジャズ、ファンクビート、近くはヒップホップと『俺たちから盗み取って自分たちの金儲けに利用しやがる』という視線は未だに拭い難いものがあるようだ。
ロックで言えばこういうことだろうか、1956年、既にこんな風にカバーされている。
エルヴィスの登場は社会現象でもあったわけで、 『ネイティブ・アメリカンの混血である南部出身のプア・ホワイトの若造が腰をクネクネさせながら黒人の歌を歌う』姿は白人社会において大変ヒステリックな反応を呼び起こした、ということになっている。
あくまで黒人コミューンに足場を置き、予定調和的な芸人であることに徹したジョー・ターナーに比べるとエルヴィスは良くも悪くもセンセーショナルな存在だった。
そしてこの、けしからん若造の歌いっぷりはがめつい白人の大人達に『沢山のガキどもの財布から小銭を巻き上げて大儲けする』ビジネスモデルを思い立たせることになり、ロックという白人主導の音楽カテゴリーはビッグ・ビジネスに成長を遂げてエルビスは20世紀最大のトリックスターへと駆け上がっていく。
更にこのトリックスターは特例措置に応じることもなく生真面目に徴兵され任期を全うし、ハリウッド映画に主演するようになって健全な好青年を演じ続け、大統領と面会して麻薬捜査官の務めを自ら申し出るようになり、ジャンプスーツに身を包んでラスベガスのボールルームで賛美歌まで歌うようになり、デクデクに太って心臓病を患う身の上になり、やがて亡くなった。
こういう来歴を駆け足で辿っていくと、自意識の希薄な若者がとった無意識の行いが偶発的に社会現象を引き起こして彼が世の中の仕組みに取り込まれてどんどん変質させられていく、更に彼の自意識の希薄さ故に彼は何ら自己懐疑することもなくどんどんそれに乗っていくという物語性が確かにそこにはあると思う。
そんな風にしてロックという音楽は黒人コミューンからは唾棄すべきカテゴリーとして目を背けられるようになっていった。生前のジミヘンは「黒人の風上にも置けない奴」という非難に晒され、それは一つの悩みにもなっていたらしいことが死後、知人のインタビューで語られている。最近で言えばマイケル・ジャクソンも似たような立ち位置にあったらしい。
同じ歌を唄うジョー・ターナーとエルヴィスのどちらがより優れたシンガーであるか、どちらがより好ましいかという主観上での評価はさておき、時代の寵児が出現したインパクトが色褪せることなく伝わってくる。エルヴィスの若き日の動画は色々な意味で私には興味深かった。
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