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正修会と初詣 [身辺雑記]

 大晦日には菩提寺の正修会に出掛けるのは例年通り。若い頃には除夜の鐘を突きたくて張り切って出かけたものだがここ数年は眺めるだけにとどめている。当然ながら毎年、人数限定108人様までなのでこれはもう機会を他人様に譲ってもいいだろう。

 

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築百年の本堂入り口で年越しそばと甘酒が振る舞われるのもまた例年通り。
 

 

 正修会は0時30分に始まり、勤行を終えてから輪番の法話を拝聴する。一昨年までの輪番は山あり谷ありの長口上で午前2時過ぎまでかかった。途中眠り出す門徒衆が目立ったものだが老年期の方々が多いせいでその辺を配慮してか、現在の輪番は話を手短にまとめる傾向がある。

 浄土真宗大谷派は『他力本願』の宗教である。 誤解されがちだがこれは決して自分は何もせずに全て人任せという意味では全然ない。仏教に神という概念は存在しないがここでは『自分はある大きな意志のもとに生かされている』という人生観が基底をなしている。他宗派の方から見てそれは諦念の徹底とも映るようだ。

 仏閣は願い事をするための場所か、という話題が出たのだった。宗派の見解としてこれはNG。本来的には今、この瞬間まで生かされている事の感謝を捧げるために訪れるのが本来的なありようとのことで、確かに願うだけで実現するのなら何も苦労はないし、めいめい勝手な願い事が全て実現したら世の中は大混乱だろう。


 正修会のあとは帰宅して一眠りし、これまた例年の習慣で近所の神社に初詣を決め込む。

 神道に対して私は真っ当な理解が出来ていない。宗教的な関わりは大変希薄だが地域社会に根ざした施設だという理解はある。仏閣の正修会は本堂で読経する人たちは大体毎年50人くらいだが、元旦の神社は一体どこから湧いて出てきたのかと思うほどわんさか人が集まる。考えてみると神社には○○祈願という言葉がついて回る。こちらは何か、願い事をしにくる場所という事だ。

 今を肯定し、生かされている事に感謝する人々よりも何かの不足や欠落を感じてこれを満たすための願い事をする人々の方が世の中には圧倒的に多いという事なのだろうから神様も楽ではない。しかしその割には私自身について考えてみると毎年初詣は行っているが過去、何を祈願したのかを全く思い出せない。私はどうも、幾つもの流儀を使い分けて振る舞えるような器用さに欠けていることを今年あらためて自覚した次第。 


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