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狂人の太鼓/リンド・ウォード [書籍]

 言葉というのは手軽で便利ではあるが、表せることには限度があるうえに受け止めたものを理解し尽くすにはそれなりの修練が必要だと思う。逆に視覚的なものは受け入れやすいもののだからといってそれを全て言葉に置き換え尽くすのはやはり私のようなものにとっては難しい。
 テレビなしの生活を続けていると、あれに関わっているうちは自分の想像力が7割方は活用されず塩漬けになっているのだと自覚した。具体的にはラジオを聞く時間と本を読む時間が増えた。

 とは言っても何か絵をを眺めてみたい気分になり始めてきて本棚を漁っていると、以前買ったこんなものが出てきた。
 

狂人の太鼓

狂人の太鼓

  • 作者: リンド ウォード
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2002/10
  • メディア: 単行本

 会社員だった頃、書店で手にとって何やら禍々しいオーラが漂っていたので気になって買い、多忙さにかまけて横着にもパラパラーッと眺めて以来3年くらいお蔵入りになっていたものだ。破滅の道程を辿った物語らしいということは、私の上等とは言えない脳みそでも何とか理解できたがディティールを読み解くのは一種の知的訓練だ。
 120枚くらいの木版画で構成された絵本である。一切と言っていいくらい文字がない。絵を眺めて物語の成り行きを想像する本だ。読む人によって微細に解釈の異なるそれぞれのテキストが出来上がるわけだ。
 律儀に本書を熟読されてストーリー化し、テキストとしてネット上にアップされた方もいるが、いわばカンニングペーパーみたいなものであって安易にそのHPを探すのはせっかく買った本書の楽しみ方を放棄してしまうことになるのでここでは書かないが、版画の細部を注視しながら頭の中で、或いは紙なりパソコンの画面なりに文字としてストーリーを組み立ててみるとちょっとした頭の体操になるかもしれない。

 但し、あんまり自分で組み立てた物語世界を緻密にこしらえると数日、悪夢に苛まれる可能性もある。実は私にそういうことがあって、書店で手に取ったときの何やら禍々しい感じというのはそういうことだったんだなあ、と自分のヤマ勘が結構正しいことを再認識したが、それにしても陰鬱なグラフィックではある。こんな木版画を120枚近くも彫って、作者は鬱にならなかったのだろうか?


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Portrait inJazz (ポートレイト・イン・ジャズ) (絵)和田誠 (文章)村上春樹 [書籍]

 音楽について、雑文を書き付けているとどうしても意識してしまうのが本書だ。{意識してしまう」などというのも実に不遜というかおこがましい言い回しだが、私程度の者がしばしば書き付けるような独りよがりの印象作文ではなく、小じゃれたショートエッセイとして本書はやはり優れている。
 仮にジャズを知らない人が読んだとしても、そこには村上春樹の生活意識や記憶の断片が鮮やかに切り取られていて、『ちょっと俺も何か聴いてみようか』と興味をそそられるのではないだろうか。
 ジャズについて書かれた本で、そこまでの作用を期待できるのは本書くらいしか思い当たらない。やはり音楽を語るのは困難な営為であって、この二人だからこそなし得た妙味だろう。

 和田誠の絵がまた素敵だ。どの絵を見てもそのプレイヤーのフレーズが頭の中で鳴り出しそうな気がする。
 本書はいつの間にか、上下併せて一冊に統合され、文庫本として出版されているが、そういう節約精神は全く好ましくない。精魂込めたイラストはやはりできるだけ大きなサイズで見たいものであって、どうせ買うなら是非とも単行本で揃えておきたい。

ポートレイト・イン・ジャズ

ポートレイト・イン・ジャズ

  • 作者: 和田 誠, 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/12
  • メディア: 単行本


ポートレイト・イン・ジャズ〈2〉

ポートレイト・イン・ジャズ〈2〉

  • 作者: 和田 誠, 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2001/04
  • メディア: 単行本

 本書は物故したプレイヤーについて取り上げられていることが多い。評価が定まっているので対象として捉えやすいという理由もあるのだろうが、方面を問わず故人という存在は何かしら現世の僕たちの思いを募らせるものだ。本書はカテゴリーに分けるとディキシーからスイングにかけての人選が多く、続編はモダンジャズのプレイヤーに多くのページが割かれている。

 ジャズの中での更なるカテゴライズで言えば、我が国ではモダンジャズに人気が集中する傾向があるので、ご両人の気の向くままに構成した一作目の好評を受けて、構成を踏襲した感のある続編では出版社や編集者の意向がある程度影響していると私は見ている。

 だから一般的に誰について書かれているかに関心のある方は続編のほうに食指が動くと思う。ただ、所詮私の主観でしかないのだけれど、作者の思い入れの深さは一作目の方が強く感じられる。絵にしろ文章にしろ、およそ表現というのは全て本当にやりたいことをやっているときと多少なりとも義務感が混入しているときとではやはり伝わる温度感には差が出るように思えるのだ。
 それが顕著に察せられるのは一作目、スタン・ゲッツについて書かれた文章の後半部分だ。村上春樹は一体どうなっちゃったんだいと思えるくらい、自己撞着すれすれの、殆ど支離滅裂とでも言いたくなるほどに装飾的なくだりは、同時に無茶苦茶に熱っぽい語り口でもあって、見方を変えれば冷静さを失って取り乱したくなるくらい村上春樹はゲッツが無茶苦茶に好きだということなのだろう。

 そして、本当に何かを好きになるとはつまり、そういうことなのだ。


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粟村政昭氏の著作 [書籍]

 何でもそうだが、評論家という人種くらい訳の分からない人達もいない。彼らが一種の営業マンというか販売代理人であるという見地に達するまでには結構時間を要した。
 音楽評論家という職業についても事情は多分一緒なのだろう。LPやCDを買ってライナーを読んでいるとその時その時で提灯持ちにこれ努めて、言質に一貫性がなく、過去の仕事と併読してみると矛盾だらけの批評家もいる。
 自分がそういう職業を志したことはないし、特にうらやましいなと思えることもないのだが一つだけ。
 ああいう職業は少なくとも自分がライナーを書くことになった音楽とか何かの賞にノミネートされていて自分が選考委員になった場合はレコードをタダで貰えるのではないだろうか。

 文章そのものの信用度で言えば、何か本業を持っている方の批評文が好きな方だ。
利害のしがらみがない分だけ本音が書けるのだろうと私は考えている。
 もっとも、音楽などというのは結局、聴くか、自ら演奏するかのどちらかであって書いたり語ったりいてもきりがないし本質を捉えたことにはならないのではなかろうかとも思うのだが、定見が定まらないうちは何か他人の言葉の助けを借りて対象化したいものでもある。

 そういう時期は私にもあって、若い頃にはこういう本をずいぶん熱心に読んだ。

ジャズ・レコード・ブック―キング・オリヴァーからアルバート・アイラーまで (1968年)

ジャズ・レコード・ブック―キング・オリヴァーからアルバート・アイラーまで (1968年)

  • 作者: 粟村 政昭
  • 出版社/メーカー: 東亜音楽社
  • 発売日: 1968
  • メディア: -


モダン・ジャズの歴史 (1977年)

モダン・ジャズの歴史 (1977年)

  • 作者: 粟村 政昭
  • 出版社/メーカー: スイング・ジャーナル社
  • 発売日: 1977/08
  • メディア: -

 著者は本業が医師なのだそうだ。だいぶ以前に執筆活動は止めており、目下、著作はこれ2冊だけで、どちらも絶版だ。ジャズ・レコード・ブックの方はだいぶ以前、知人に貸したきり戻ってこないままである。

 評論の傾向としては、成長過程にあるプレイヤーとか創意工夫のある音楽に対しては好意的だが、スタイルが固まり、マンネリ風の作風になると手厳しくなる。また、8ビート以降のジャズ、例を挙げればマイルスのBitche's Brew以降の演奏形態には一切論評しない。
 若い頃の私は、この姿勢にだいぶ影響されたが現在は少し違った場所にいるように自覚している。
 どんな人であれ、生涯に於いて真に創造的な時期など幾らもないのが実情ではなかろうかと今の私は考えている。ある時期束の間輝き、あとはダラダラと生き続けるのがおおかたの実相だし、ここしばらくの私は普通の人達の人生に於ける一こまをちらっと眺めることを面白がっている。

 CDやLPを購入するお金やそれらを聴く時間はいずれも有限であり、バイヤーズガイドの効能とはそれら時間なりお金なりの節約ということにあるのではないかと考えている。誰の書いたバイヤーズガイドを指針にするかは自分のコレクションの性格づけに影響するとも言えそうに思う。
 そういう意味で、プレイヤーの創造性や歴史的な位置づけを最重要視する粟村氏の
選定眼は、学術的にして芸術的な見識を醸成させたい方には大変参考になると思う。但しそれは一種、古美術品の目利き的な眼力の養成であって「ま、無銘の壺にもなかなか味のあるものはありますな」という志向の方には向かない。
 何しろ、ハンク・モブレーもリー・モーガンも本書には登場しないのだ。歴史的に見れば彼らは取るに足らない小物であって、そういう人達までいちいち取り上げていたのでは紙数が幾らあっても足りないということらしい。だからディキシー、スイング、モダンジャズ、がそれぞれ大体3等分のボリュームくらいで扱われる。歴史としてのジャズとはそういうものらしい。

 また、前述したがBitche's Brewでジャズの創造性は枯渇したという、所謂「粟村史観」は現在に至るまでジャズの愛好家達にとって一つの定見として敷衍していると思う。私も長い間そのように考え続けてきたが、ここ数年はもっと以前、ジョン・コルトレーンの没した1967 年がジャズの進化が止まった年だと思うようになった。

 聴いて楽しければそれでいいではないかという関わり方は確かに正論ではあるけれど、私小説的な印象作文や枝葉末節な蘊蓄ではなく、ある表現形態の歴史的な発展を読み取りたい方にとっては大変有益な本だと思う。


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