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必ず当たるHOPEのZIPPOライターについて [嗜好品(喫煙関係)]

 繰り返し書くが私は一日にホープを約4箱消費する絵に描いたようなヘビースモーカーであると同時に善良な納税者にして愛国者でもある。

 JTはしばしば、煙草の販促キャンペーンとしてノベルティ商品を持ち出してくる。得意技がその煙草銘柄のライターで素材はお約束のようにジッポだ。
 ライターをまぜこぜに放り込んである箱をひっくり返すとジッポのライターが5,6個出てきた。ジッポというブランドに格別の思い入れはないし、特段ライターの収集に関心があるわけでもないが、その中にはホープの矢印マークの刻印があるものが一個あった。

 確か4,5年前だったと思うが「必ず当たるホープジッポキャンペーン」とかいったような売り出し文句でせっせと煙草の空箱からマークを切り抜いて応募したものだ。
 「必ず当たる」とは言うが、さすがにタダでくれるわけではない。切り抜いたマークを50枚、台紙に貼って専用はがきで郵送すると一個購入する権利が発生するわけだ。

 単純計算すると、当時ホープは一個140円だったので7000円を煙に変換して購入権は発生した。購入単価は5000円で到着時に現金代引きである。
 ヘビースモーカーである私にとってこのくらいの消費は大したことではない。キャンペーン期間中にたちまち切り抜きマークは優に数百枚を超えた。提示されたライターの種類は3種類で全部揃えることもできたが何だかあほらしいので2個だけ買うことにして残りの空箱は次回何かのキャンペーンがあったときのために温存しておいたのである。

 当時のヤフオクなどを見ると、空箱50枚とかを出品していた人もいた。良くもまあそんなものまで売り物にする気が起きるものだと変に感心した。日頃ホープは吸わないがライターだけは欲しいという人が一定量確実に存在するのだろう。
 
 購入した2個のうち一個はいくらも経たないうちに紛失した。無くしたことが悔しくて買い直そうかとも思ったがオークションでの出品価格を見るとやる気が失せた。そうまでしてこのノベルティに拘りたいとも思わなかったからである。

 今回、JTの企画するところでは空箱の切り抜きは3枚で良くなった。代わりにライターの値段は7000円に上がった。

 ためつすがめつ見てみたが、以前私が購入したものと何ら変わるところはない。煙草の販促と言うよりはライターのメーカーとタイアップしてキックバックでも貰おうという魂胆がJTにはあるのではないかとゲスの勘繰りが入る。

 このライターは未使用品が結構なプレミアつきで売買されているようだ。
手元に残った一個をここ数ヶ月使用している私には未使用品に価値がある理由がすぐに把握できた。
言い換えると使用済み品に大した商品価値はない。なぜなら出来が悪いからだ。広告写真では綺麗に見えるコーティングは大変薄く、安っぽいものである。少々使うと途端にコーティングははがれ堕ち、ブラスの地金が現れてきてまだらのジッポとなる。

 ジッポのライターなどというものは、元来ガシガシ使いまくるものであってケースに入れて飾っておく考えのない私は今回のキャンペーンを見送ることにした。これだけ景気の良くならない世間にあって4年前の4割り増しでライターを売ろうとするJTという会社には呆れるばかり。

 


居間のターンテーブル Empire 698 [再生音楽の聴取環境など]

 居間のセカンドシステムはメインソースがLPで、このようなターンテーブルがお皿回しを司っている。

 いかにもアメリカの成金趣味丸出しなスタイリングが以前から好きだった。
 中古機で購入したときのコンディションは惨憺たるもので、トーンアーム周りの配線はあちこち断線しかかっていたものを自分で修繕してどうにか使えるようにして以来およそ4年ほどになると思う。
 
 S/Nは論外だが結構威勢のいい音がするところはサブシステムのスピーカーと共通の属性だと思う。トーンアームの実効長は約9インチ(目測)で針圧調整がダイナミックバランスである点とインサイドフォースキャンセラーの設定範囲が広いのとでレコードの反りや針飛びしやすい盤などには滅法強い。メインシステムのOracle Delphi+Southerがレーシングカーだとするとこちらはジープとかトラックみたいなものに喩えられるのかもしれない。

 トーレンス等の欧州系ターンテーブルと明らかに異なっているのはモーターのでかさで、うんと以前に短期間使っていたLinn LP-12と比較しても軽く二回りくらいはでかい。
 そのせいもあるのだろうがとにかく再生時はモーターゴロの大きさに閉口させられる。どうせセカンドシステムなのだから音質のことには拘らないつもりでいたがそうも言っていられなくなるくらいの酷さであることに最近気づいた。

 記憶を辿ると2年ほど前に元々付いていたベルトが切れたので代品に取り替えて以来ではなかろうかという気がする。プラッターを回して針を下ろすとモーターゴロが盛大にスピーカーから吐き出されてくるのでサブシャーシが共振していることになる。レゾナンスループが出来上がっているわけだ。

 件のモーターを子細に見てみるとお世辞にもセンターの精度が高いとは言えない造りだ。回転時の振動を緩衝するためのクッション(ゴム製)は経時変化でものの見事に硬化している。
 暇に任せて改善策に乗り出そうと思うがずぼらな私のことなのでいつになったら腰を上げるのかは未定。

 


Sailing Wonder/Yoshiaki Masuo(セイリング・ワンダー/増尾好秋) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 先月、サード・イヤー・バンドのことを書いてみて
http://blog.so-net.ne.jp/r-shim47/2007-06-10
食わず嫌いかも知れないと思い、自分の許容量を計る意味で別のレコードを引っ張り出してみた。

天と地 火と水(紙ジャケット仕様)

天と地 火と水(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: サード・イアー・バンド
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2003/12/17
  • メディア: CD

 セカンドアルバムだ。どっちかと言えばデビュー盤よりは幾らかメロディアスで聴きやすいと言えば聴きやすいが強いて言えばの話であってちんぷんかんぷんなことには変わりがない。
 同じバンドの作品なのだからワニ料理かトカゲ料理かの違い程度なのはしょうがない。いずれにしたって私にとってはゲテモノ料理であって和食や中華料理では間違ってもない。恐らくこの先、私の人格が根こそぎ変貌して今とは全く異なる世界観や人間観の持ち主になってしまったら、或いはこのような音楽にも理解を示せるようになれるのかも知れないが目下そのような予兆はないとひとまず言い切って良さそうだ。
 本作のエンディングは浜辺を連想させる波の音で締めくくられる。空疎とか索漠とかいう言葉がしっくり来そうな終わり方だ。

 それはそれでまあ一つの表現として、私自身はと言えばまだ少々生臭いところのある人物であって、今は夏でもあるからして波の音つながりでこんなレコードがあったことを思い出して引っ張り出してきてみた。

 

セイリング・ワンダー

セイリング・ワンダー

  • アーティスト: 増尾好秋,アル・マック,デイヴ・グルーシン,エリック・ゲイル,ウォーレン・スミス,マイク・ノック,リチャード・ティー,スティーヴ・ガッド,ゴードン・エドワーズ
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2000/06/21
  • メディア: CD


 私にとってはサンタナの「キャラバンサライ」と並んで夏季限定のお約束メニューだ。

 増尾好秋にとってはセカンドアルバムだが実質的にはデビュー盤と考えて良い。所有していないせいもあるがデビュー盤の印象が何とも薄いのだ。海をテーマとしているが作品論みたいな話も野暮だろう。何せいろんな意味でのびのびとして気持ちがよい。

 平野育ちで平野暮らしの私にとって海というのは自分から物凄く遠いところにある異世界だ。海沿いの街で暮らしたことも短期間あるが結局生活感覚として体に刷り込まれはしなかった。本作の一曲目は何度聴いても私の異世界に対する憧れみたいな感覚を喚起する。

 私は本作を30年近く前、リリースされた直後に買った。当時暮らしていた寮の先輩に借りたテープに本作のタイトルナンバーが入っていて無条件で気に入ったのだった。毎日タイトルナンバーのテーマが頭の中で鳴り続けていたので小金ができた途端にレコード屋に駆け込んだ。

 実は発売当初、私にはフュージョンというカテゴリーに対する物凄い敵愾心があった。あったが本作などを聴いているとやっぱり生理的に気持ちがよいのである。気持ちよさを追求していくと或いはこういう表現形態に行き着くのだろうがそういう世界に無謬なまま埋没する自分は何だか軽薄で浮ついた人間みたいで、当時の私は自分のそういった側面を認めたくない未熟者だったということだろう。

 改めて聴き直してみると増尾好秋は結構キュートなメロディをものにするソングライターだなあと思う。こういう、ハートウォーミングでハッピーな世界観を身近に置いておく音楽人生も悪くないと思えるようになるまでおよそ20年近くもかかってしまったわけだ。

 本作はキングレコードがフュージョンミュージック専門のレーベルとして立ち上げたエレクトリック・バードの第一作である。さすがに第一作だけあって、サイドメンの顔触れを見て頂ければ容易に想像が付くと思うが、これは結構金のかかった企画ではなかろうか。金のかかり方はある意味、制作陣の気合いの入り方でもあってリリース当時の屈折した心象風景の持ち主だった私などは快さに浸りながらも内心、『こんだけ銭をつぎ込めば、そりゃあこれくらいの音楽は出来上がるだろうよ』などというひねこびた感想を持つイヤな奴だったわけだ。

 20年近くも棚の中で眠り続けたこのレコードを引っ張り出してきて夏の最中に気持ちよさを求めながら以前のどこか鬱屈していた自分を客体化できる程度には私も歳をとったわけだ、というあたりで言葉の世界はひとまずエンド。ここ数年の慣習として夏季限定メニューの本作は何度かターンテーブルにのっかることになる。 


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New Wine in Old Bottles/Jackie McLean(ニュー・ワイン・イン・オールド・ボトルズ/ジャッキー・マクリーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私はLPレコードを初めて買ったのが今から36年前のことで、あれからもう随分経った。近年、雑誌やネットで「ジャケ買い」という言葉を目にするようになったがメインソースがLPだった頃にはこんな言葉はなかった。
 
 一時、貧乏なくせに妙な見栄を張ってLPレコードジャケットの納まる額縁を買った。気に入ったレコードをもう一枚買って額縁に入れ、部屋の壁に掛けて悦に入っていた時期がある。着せ替え人形よろしく幾つかとっかえひっかえしていたが結局これに落ち着いた。

Waltz for Debby
Waltz for Debby

Waltz for Debby

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Original Jazz Classics
  • 発売日: 1990/10/17
  • メディア: CD


 音楽の内容についてここでは書かない。今更私ごときがあれこれ書くまでもないだろうからだ。
この額縁入りのWaltz For Debbieはその後、とある女性の手に渡った。その経緯についても省略。しょうもない私小説的なことはともかく、ジャケ買いだの額縁だのという音楽の本質とは格別関係ない派生的な楽しみが生まれてくるのもひとえに媒体が30センチ四方の面積を有していたが故であってCDケースのサイズではそうはいくまいという、たったそれだけのことを書きたいが為にクドクドとくだらないテキストを連ねてしまった。

 やっと本題のジャッキー・マクリーンだ。
一般的なリスナーの刷り込みとして、ジャッキー・マクリーンというと真っ先に連想するのは恐らく『Left Aloneでアルトサックスを吹いている人』というものではなかろうかと私は思うのだが、考えてみれば50年代初頭からのレコーディングキャリアの持ち主な訳だから随分と息の長い活動をしていた人だし演奏スタイルも結構変化している。1960年代には単なるハードバッパーであることに飽き足らなくなったようで先鋭的な演奏スタイルも随分試みたがそれもやがて頭打ちとなり、一種、エアポケットに入り込んだような形で1970年代には欧州での散発的なレコーディングが認められる程度だったが、1978年、日本フォノグラムが主催するEW(East Wind)が燻り気味のマクリーンに目を付けた、いわばカムバック企画とも言えそうなレコーディングである。

ニュー・ワイン・イン・オールド・ボトルズ

ニュー・ワイン・イン・オールド・ボトルズ

  • アーティスト: ジャッキー・マクリーン・ウィズ・ザ・グレイト・ジャズ・トリオ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル インターナショナル
  • 発売日: 2000/11/29
  • メディア: CD

 

 当時フォノグラムが推していたGreat Jazz Trioというユニットに私は少々違和感があってこれはまた別の機会に述べたいが、顔触れという点ではかつて自分が発掘した天才ドラマーであるところのトニー・ウィリアムスとの再会セッションと捉えるとそれはそれである種の感慨も湧いてくる。
 選曲は全6曲中自作の再演が2曲とパーカー、モンク、マイルスゆかりの曲がそれぞれ一曲ずつであり、過去の総括とか回顧録のような内容。ソロの内容は殆どバッパーとしてのものであるが遍歴を物語るように時折、フリークトーンやアトーナルなものが飛び出すが何分ドラマーがドラマーなので反応は的確でありエネルギーの空転はない。

 冒険に冒険を重ね、前へ前へと進み続けた結果辿り着いたところは本来の素地であるハードバッパーとしての立ち位置だったという物語性が本作にはあると思う。優劣はともかく、同じ場所に居続けたこととあちこち駆け回った結果最初の地点に戻ってきたこととの意味合いはやはり異なる。家を飛び出したどら息子が放埒を繰り返した挙げ句バツの悪そうな苦笑いを浮かべて帰宅してきたような照れ臭さや晴れがましさを私は何故か本作に感じてしまう。寸詰まり気味、上ずり気味のトーンや少々辿々しいキーワークは相変わらずで初期の頃からジャッキー・マクリーンをフォローし続けてきたリスナーにとっては『相変わらずだね』と、思わずニヤリとしたくなる吹奏だ。

 演奏歴中での位置づけとしてはある種、旅の終わりというかエピローグ的なものであって必ずしも代表作とは言えない。本作以降のジャッキー・マクリーンは過去の演奏スタイルを踏み越えていくような進路を取らずに以前こしらえた引き出しからの組み合わせによって音楽を組み立てることになり、冒険的な姿勢は影を潜めた。しかしだからといってそれが音楽的な後退であると指弾するリスナーは恐らくいないだろう。
 先鋭的たることを標榜して色々試みた過去に於いてジャッキー・マクリーンは確かに然るべき作品群を結実させたがリスナーにとってもっと大事だったのは『あのトーン』で『あの節回し』で吹いてくれることだったはずなのだ。ジャッキー・マクリーンとはそういうミュージシャンなのだ。
 単なる憶測でしか言えないが、恐らく本人がその辺にやっと自覚的になったのが本作のレコーディングあたりではなかろうかと思える。

 そこで本作のジャケットである。当時のEWは録音といい、ジャケットの装丁といい本当に丁寧な造りでLPレコードを買うことの有難味を分かっていてくれたんだなあと今でも私は思う。Amazon.comのリンクを見ると本作のCDには現在、腰を抜かすようなとんでもないプレミアが付いている。
 しかし、CDにそんな出費をするくらいならいっそ、初回リリースされたLPを買うべきだ。私は別段オリジナル盤を信奉する蒐集家では全くないけれど本作の初回販売のジャケットは本当に惚れ惚れするほど綺麗だ。
 パソコン上の小さな画像ではなかなか分かって頂けないと思うが、スカーンと晴れ渡った空と埠頭をあしらった風景の鮮やかさはそれこそ額縁に入れて飾っておきたいほどなのだ。加えてEWのレコードジャケットはつやつやしたビニールコーティングが施されていてこの風景が尚更輝かしい。再発盤や輸入盤にはこのコーティングは施されていない。初回盤が良いというのはそういう意味です。

 最終曲の Confirmationでジャッキー・マクリーンの絞り出すロングトーンを聴きながらジャケットを手にとって眺めているとあたかも「小難しい理屈は置いといて俺は俺のやりたいようにやるんだー」というスカッとした決意が伝わってくるようで爽快だ。蛇足だがハンク・ジョーンズも本作ではこの曲が一番いい。本来的にはおとなしめのリズムでこの辺のレパートリーをしっとり演奏するのが絵になる人だと私は思う。
 

 


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Speak Low/Walter Bishop jr/(スピーク・ロウ/ウォルター・ビショップ Jr) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 年のせいか記憶力が段々減退してきていることはこれまでにもしばしば書いてきたが、それにしてもピアニストとしてのウォルター・ビショップには余り強い記憶が残っていない。
 演奏歴としてはパーカー、マイルス系統の周辺にいた人で、サイドメンとして参加した録音歴はそれなりのものだ。私のレコード棚を一渡り見てみると「あー、ここにも加わっていたんだなあ」と思われるものが幾つかあった。例えばこんな風に

スイング・スワング・スインギン

スイング・スワング・スインギン

  • アーティスト: ジャッキー・マクリーン,ウォルター・ビショップJr.,ジミー・ギャリソン,アート・テイラー
  • 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
  • 発売日: 2009/06/10
  • メディア: CD

 

 他にも幾つかあったがしかし、それらのレコーディングでウォルター・ビショップがどんな演奏を聴かせてくれたかというと悲しいかな私の記憶力では殆どさっぱりと言っていいくらい思い出せない。
 改めて聴いてみると、大体どれも無難なサイドマンとしての堅実なお仕事という印象で、格別際立った個性を持つプレイヤーではなかったのではないかというのが私なりの捉え方だ。聞き込み方も足りないとは我ながら思うが身体的な固有の性質が音として現れやすいホーンや打楽器に比べると鍵盤楽器というのは聞き分け方がデリケートになる傾向があるように思える。

 そんな風にどこか個性に乏しく思えるウォルター・ビショップだが、私の脳みその中では本作一枚によって鮮烈な記憶となってとどまっている。

スピーク・ロウ

スピーク・ロウ

  • アーティスト: ウォルター・ビショップJr.,ジミー・ギャリソン,G.T.ホーガン
  • 出版社/メーカー: ミューザック
  • 発売日: 2008/11/28
  • メディア: CD

 私のブログでしばしば取り上げる他のレコードのように、本作もまた別段歴史を揺るがす問題作ではない。地方のマイナーレベルに吹き込まれたマイナーポエットの記録だ。
 実際この、Jazztimeというレーベルでリリースされたレコードを私は本作の他には一枚も知らない。単に私が無知なだけなのだろうがそれにしても”作品群”というほどのラインナップを生み出してはいなかったのは大体間違いないと思う。
 私自身も、特段レコードの蒐集家といえるほどの者ではないがそれでも30年強貧乏なりにレコードは買い続けてきたので棚にはそれなりの量が収まっているが、ウォルター・ビショップのリーダーセッションはこれ一枚きりだ。

 今まで余り深く考えたことがなかったが、本作は私の19歳から二十歳頃の生活感覚とか心象風景と密着しているように思える。学業とかはそっちのけで朝から晩までジャズのことばっかりが頭の中に渦巻いていた時期、バイトの稼ぎをポケットに押し込んでレコード屋に駆け込み、レコードを抱えて喫茶店に飛び込み、酸味のきついコーヒーを啜りながら煙草を吹かしていた時期をやけに鮮明に思い出す。

 テキストを書きながら不意に思い出したのだが、私が会社員だった頃短期間赴任していた室蘭という街での記憶にも本作が絡んでいる。それについて書き始めるとここでは蛇足なので別の機会に書き残しておこうと思う。

 ジャズ喫茶という言葉を使うのは私には少々照れ臭い気分なのだが、私はジャズの多くをそういう場所で取り込んだ年代の人だ。LPレコードがソースの全てだった頃のジャズ喫茶では私の知る限り、レコードを裏表通してかけることはなく、大概片面だけを鳴らして次のレコードがかかるのがお約束だった。
 そんな習慣がいつの間にか私にも刷り込まれてしまっていて、未だに私はジャズのレコードというと片面を一区切りとして聴く習慣が抜けないでいる。
 喫茶店での本作は、私が経験していた限りではB面ばっかりが良くかかった。今回テキストを書くにあたって両面通して聴いてみたが、過去の生活経験とか心象風景のことを割り引いてもやはりB面(CDで言えば後半ということになるのだろう)の展開が好きだ。

 ウォルター・ビショップは特段、テクニシャンとかいうわけではなく随分地味なスタイルの持ち主だ。強いていうとここでは重いキータッチに特徴があると言えなくもないが、たまたまそういうチューニングを施されたピアノに当たったのでそういう演奏スタイルで通したまでなのかも知れないという憶測も成り立つ。技巧としてはミスタッチが目立つし、ソロの展開も決してスムーズとは言い難いところはある。
 しかしそれでも本作の後半は私自身の個人的な回顧を抜きにしてもリスナーに何かを訴えてくるだけの力があると思う。それは一種、音楽の魔法とも言うべきものであって、私は一生、それに届く言葉を探し当てることができないだろうが。

 減点法で考えればB級なのだろうが全体を通してみると細かいマイナス要因が全てプラスに転じてしまう結果というのはやはり存在するのであって、本人が全く意識していないところでこういうアクロバットが偶発的に出来上がって記録されてしまうところがジャズのおもしろさでもあると私はある時期から思うようになった。
 どこか訥々としたフレージングやソロの最中でネタ切れになりかかる局面も、一曲として通して聴いてみるとあるべき展開として妙に納得できるのが何度聴いても不思議と言えば不思議ではある。いわば「超B級」が本作のポジションであり、多くのリスナーに愛され続ける理由もその辺にありそうだ。

 更にこれまで色々なところで指摘されているように、本作の価値を決定づけているのがジミー・ギャリソンの強靱なベースワークに依るところであるのは大いに同意できる。歴史的なコルトレーン・カルテットに参加する直前、上り坂を駆け上がっていく時期の記録である。
 演奏スタイル自体は格別斬新なものではなく、長いソロがあるわけでもなく、律儀にレギュラービートを刻み続けるだけの演奏だが、それでもベースという楽器がこれほどまでに雄弁であることを改めて知る格好のサンプルたり得る名演だ。
 勿論それは録音バランスがかなりベース寄りの録られ方であるのが理由であって、実際私の自宅で本作を聴くと大した音量でもないのにベースのピチカートにと共にお尻のあたりにブンブンと振動が伝わってくる生理的快感ももたらしてくれる。それは決して事前に意図して設定されたものではないはずだが結果としては聴いていて大変気持ちがよい。

 リーダーのファーストネームは頭文字がB、ベースが大変良い、超B級名盤、と、なんだかBに縁のある本作である。


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夏の聴取環境について考えてみる(エアコンのこととか) [再生音楽の聴取環境など]


 当然ながら夏は暑い。我が家の主軸であるパワーアンプは暴力的な発熱のため夏期は休眠状態としていることはこれまでに何度か書いた。
 
 強制空冷のチューブアンプから自然空冷のバイポーラアンプへと夏の間は一時的にチェンジするわけだがそれでも尚暑い。特に夜が暑い。
 夜間に部屋が暑い理由は私の住居の建築構造による。バリバリ寒冷地仕様の高気密高断熱住宅は日中、外気温が高い時間帯にせっせと外壁が蓄熱しているので夜間は外気温が下がっても室内が暑い。
 夜間は外壁が放熱を行うので日中は意外と室内が涼しい。外気温と室温の変化にずれがあるわけだ。

 従って夏の間は音楽を大まじめに聴く時間帯は日中にシフトすることが多い。日中と夜間では聴きたくなる音楽の傾向も異なるので自分の守備範囲内での見落としを発見することもたまにはある。
 日中は比較的室内が涼しいと書いたが、文句なしに涼しいのはぜいぜい午前中一杯であって正午過ぎには外壁の蓄熱がそろそろ限度に達して室温が上がり始める。

 少年期の真夏、トリオのシステムコンポにかじりつくようにして汗だくになりながら窓を閉め切ってレコードを聴く習慣があった。西日のきつい部屋だったので夕方近くなどはそれはもう本当に暑かったが中年期の今はそういう聴き方を余りしたくない。
 窓を開けて音楽を聴いているとスピーカー背面からのリフレクションが変化するためサウンドステージの前後関係が少々乱れる。加えて住宅の外に音が聞こえることを意識すると聴くソースにはある程度の取捨を考慮せざるを得なくも成る。

 更に我が家のターンテーブルにはLTAが付いている。

 
実はこのトーンアームは夏に弱い。LTAは全てそうだが、強制駆動するものでないと日本の大体の地域では苦しい。湿度を大変苦手とする。
 我が家のサウザーLTA-3について言えば夏期には湿度が上昇するのでトラックレールの滑走性が低下する。したがって針飛びが起こりやすくなったり、トレーシング時のビリつきが出やすくなったりもする悪癖がある。開け放った窓から強い風が吹き込んできてミストレースを起こしたことも何度かあった。それで、聴取ソースとしてはCDが増えてくるのも夏の傾向である。

 これら不具合や制約を解決する方法として、試験的にエアコンを設置してみたことがあったが結果は不首尾に終わった。
 引っ越し以前の寒い家に住んでいた頃、冬期間にFFストーブを使っていた頃の不具合が引っ越し後は夏にエアコンを使うことで再現されることを知った。
 どういうことかというとつまり部屋の空気を強制対流させるため左右のステレオイメージが滲むのだ。
考えてみれば部屋で音楽を聴いている間中、空気はある粗密波を示してもいるわけで、ストーブなりエアコンなりの吐き出す空気がこの粗密のパターンを揺るがせていることにもなるので合点がいった。

 結局、この問題には今のところ良い打開策を思い付けないでいる。


Shoganai-Happy with what you have to happy with/King Crimson(しょうがない~ハッピー・ウィズ・ホワット・ユー・ハブ・トゥ・ビー・ハッピー・ウィズ/キング・クリムゾン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 少し前に世間を賑わせた某大臣の「しょうがない」発言はさておいて、身辺のあちこちで「しょうがない」という言葉が飛び交っているのを上の空で聞き流しているうちに、買っただけで大して真面目に聞き込んでいなかったCDのことを思い出した。

しょうがない~ハッピー・ウィズ・ホワット・ユー・ハヴ・トゥ・ビー・ハッピー・ウィズ

しょうがない~ハッピー・ウィズ・ホワット・ユー・ハヴ・トゥ・ビー・ハッピー・ウィズ

  • アーティスト: キング・クリムゾン
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル インターナショナル
  • 発売日: 2002/10/21
  • メディア: CD

 

 人格形成期に私はこのバンドの音楽から実に多くの影響を受けたと思う。書いても書いても書ききれないくらい多大な影響だったと思う。

 なんだかんだ言って30年以上、私はこのバンドの軌跡をフォローし続けてきたのかと思うとちょっと感慨深い。最初の出会いからは随分かけ離れたところに辿りついてしまったような気もするし、足場にブレはないような気もする。

 本屋の立ち読みだったので良く思い出せないが、制作時のモチーフは
1:諦観の混じった現状肯定
2:現状から何かを始めようとする力、その姿勢
 を一言で表せるような言葉として日本語の「しょうがない」を見つけたといったようなことが何かの雑誌に書かれていた。
 日頃は何の気なしに使っている言葉なので、殊更深い意味やニュアンスを考えることはなかったが言われてみれば確かにそういう気分を表す言葉ではある。他者の視点というのは時に普段見落としているようなことを示唆してくれることがある。
 英語には疎いが「しょうがない」のニュアンス(非常に曖昧なものだ)を一言で表す英語というのはないらしい。日本語に対するこのバンドの関心はドラマー、パット・マステロットがその中心らしく、彼のソロワークの中にも日本語がタイトルになっている曲が幾つかある。

 で、どちらが主題なのか副題なのかは分からないが
Happy with what you have to be happy with (今の幸せを幸せと思わなければならない、でいいのでしょうかね?)を一言で表す日本語を探すと「しょうがない」が’適当に思えたのだそうだ。
 そしてこの主題は自作、The Power to Believeへと繋がっていく。
 考えてみるとクリムゾンはDisicpline以降、アルバムタイトルが自作への暗示になるようなつなげ方に凝るようになってきたのではなかろうか。

 ダブルトリオからギター二本の4人編成に戻り、改めて分かることはエイドアン・ブリューの音楽的な資質がより一層前面に出てきていることだ。デビュー盤で言えばイアン・マクドナルドとピート・シンフィールドの役割を併せて受け持っている感じだろうか。

 悲壮感全開でConfusion will be my Epitaphと歌い上げていた頃からは随分遠いところに来た。
製作の拠点は既に英国ではない。メンバーは4人中3人がアメリカ人。本作では何と、ブルースタッチの曲まである。しかしそれでも本作は紛れもなくクリムゾンの音楽だ。
 聴き手の勝手な思い込み、固定観念を痛快に裏切り続け、過去の痕跡を幾らか残しながらも変質を続け、新作は常に時代の最も先鋭的な響きを持ち、侃々諤々の論争を巻き起こす。そういう、リスナーとの馴れ合いを峻拒するスタンスがこのバンドの骨髄みたいな部分に相当しているようだ。

 たちの悪い抱き合わせ販売みたいなコレクターズボックスの購入に青息吐息の財布を嘆きながらもお布施を続けている私の心境はまさに「しょうがない」のだが、ロバート・フリップ氏にしても音楽活動はすなわち営業活動でもあるわけで商品のリリースも代価の要求も「『しょうがない』ではないか」、なんてね。ブートは断固許せないお方だし・・・・w(苦笑いですよ)


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On the Road/Art Farmer(オン・ザ・ロード/アート・ファーマー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 1960年代後半、アメリカを離れてウィーンに引っ越したアート・ファーマーは地元の放送局お抱えのスタジオ・ミュージシャンとして過ごすことになる。聴き手の予想を覆すことのない端正で流麗な演奏スタイルや、譜面に強いセクションワーカーとしての資質は確かにスタジオ向きと言えるかも知れない。

 反面、在米時のアート・ファーマーは遂に傑出したバンドリーダーたり得なかった。プレイスタイルがそのまま人格を象徴しているとも思えないが自らがリーダーとしてその定見にサイドメンを従属させるというミュージシャンではなかったようだ。
 1960年代中期以降のアート・ファーマーは自己名義のレコーディングに於いてどこか固有のレコードレーベルと長期専属契約を結んでいたわけではないのだが、どこまでも4ビート専門のハードバッパーとして根無し草的な拾い仕事をこなしていたのではなく、むしろ破格の待遇でスタジオ・ミュージシャンとして迎えられた結果安定収入が得られるようになったためジャズの仕事はスケジュールの空きを利用した個人の趣味程度のものとして携わっていたというのが真相らしい。

 渡欧後しばらく経った1970年代中期以降、徐々にジャズの録音を増やし始めたアート・ファーマーだが本作はしばらくぶりに里帰りした際の録音である。米国内での自己名義録音というのは結構久しぶりのことだったのではないだろうか?

オン・ザ・ロード

オン・ザ・ロード

  • アーティスト: アート・ファーマー・フィーチャリング・アート・ペッパー, ハンプトン・ホーズ, レイ・ブラウン, スティーヴ・エリントン, シェリー・マン
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2001/05/23
  • メディア: CD

 どれもそうだが、アート・ファーマーという人はレコード作りの平均点が結構高い。冒険的なところがなく、毎度同じような企画ばかりなのだがどれもそれなりに最後まできっちり聴かせながらマンネリズムを感じさせないというのは地味ながらこの人の美点だと思う。本作もそういう範疇の中に無難に収まる佳作だ。

 参加メンバー中、アート・ペッパー、ハンプトン・ホーズという人選が結構ぐっと来る。直接音楽とは関係のない話題ではあるけれど前記二人はどちらも麻薬禍の代償としての長期療養生活や服役を乗り越えてのカムバックという経歴の共通項がある。また、主役を含めてこのメロディ楽器を受け持つ3人はいずれも熱狂性や激しさを売り物にするプレイヤー達ではない。そのキャリアに於いては3人とも遂に、確たるリーダーシップを発揮して恒久的なバンドリーダーたり得なかった点も共通している。
 こういう経歴的にも演奏スタイル的にもどこかいまひとつ押しの強さに欠けるというか芯の弱さを感じさせる三人衆を受け止めて支える穏健にして強靱なリズム隊(特にレイ・ブラウン)というのが本作の構図だ。

 内在する弱さに対してこのメロディ楽器3人衆はそれぞれのやり方で向かい合って折り合いを付けてきたのだろうなあと私は本作を聴く度に思う。
 アート・ファーマーはデビュー以来の端正さを崩すことなく、スタジオミュージシャンとしての経済的基盤を得ることでジャズの演奏では終生自分の吹奏スタイルを守りきった。
 アート・ペッパーはコルトレーンの語法を取り入れることで賛否両論を呼び起こしはしたが、意識の集中やある種の上昇志向というコルトレーンのミュージシャンとしての色合いに自分を重ね合わせて鼓舞していたのだろうと思われるフシがある。
 ハンプトン・ホーズはと言えばカムバック後は断片的にモーダルな奏法を取り込んでどこかビル・エバンスの影響を伺わせるスタイルに変化した。より内省的なスタイルへの変化と言い換えても良いかも知れない。
 確信に満ちて揺るぎないリズム隊をバックにどこかナイーブさを隠しきれないここでの3人衆の身振りは何とも親近感があって好きだ。私はもう長いこと、20年以上、折に触れて本作を繰り返し聴き続けてきたが、今こうして中年晩期となってみると神にも王者にもなれない人達はそれぞれの折り合いの付け方でそれぞれのささやかな物語の中を生きていくのだと改めて思う。勿論私も過去のどこかでそういう時間をくぐり抜けてきた。一息ついて過去を振り返る癒しの時間は人生の折り返しを過ぎた者にとってはなかなかに大切だ。時代の扉をこじ開けてどこまでも前進を続けたジャイアンツ達の生み出した音楽からは得られないものもある。

 私にとってのベストトラックはアート・ファーマーとハンプトン・ホーズがデュエットで聴かせる2曲目のMy Funny Valentine、他幾多の名演が聴かせるような張りつめたような静謐さも連綿たる情緒性もないが 、
ナイーブな資質を持つ者同士が言葉少なに訥々と語り合っているかのような風情が感じられる好演だ。そういう解釈も可能なのは原曲の持つ滋養の深さでもあるのだろう。
 


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ニジマスの釣果(AFC大会優勝!) [Outdoor的なこと]

 今日は私の所属するAFC(Adventure Fishing Club)の前期釣り大会でした。
http://hokkaidoafc.hp.infoseek.co.jp/index.html  ←ホームページです。

 天気は快晴でしたが風が強く、キャスティングには結構苦労しました。のどかな白糸山荘はいつもの如し。

 腕も何もあったものではないのですが、単にカメラを持っているからというだけでいっぱしの撮影班気取りの私はあれこれと参加者のスナップショットを続けているうちについつい持ち時間を浪費してしまい、慌てて餌づりに加わりました。
 結果としては全長72cmのニジマスをかけました。今回は竿も折らず無事に上げましたが最後までヒヤヒヤもの。この魚体のでかさはニジマスというよりも鮭みたいです。

 まぐれ当たりの大釣果に有頂天な小生の浮かれっぷりを晒します。

 我ながら信じられないのですが部門優勝してしまいましたです。フロックもここにきわまれりというか。

 長い会員歴の先輩が仰るところでは、大会史上最大の魚体ではなかろうかとのことで、身の程知らずについつい有頂天になってしまうのでした。
 私も会員歴がそろそろ5年ほどになるのだから一回くらいはいい目を見たっていいっすよね。それが単なるまぐれ当たりだったにしても。


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