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Jazz Party in Stereo/Duke Ellington(ジャズ・パーティ・イン・ステレオ/デューク・エリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 このブログの管理ページでそれぞれの記事の個別アクセス数をたまたま見てみたら、予想通りというか先日アップしたガレスピーのテキストとその前のマイルスとでは4倍以上もの差があった。やはりマイルス・デヴィスのネームバリューは物凄い。

 モダン・トランペッターの分野に於けるマイルスとガレスピーの構図をビッグ・バンドに移し替えてみると恐らくカウント・ベイシーとデューク・エリントンということになりそうにいつも考えている。
 ジャズの世界に於ける存在の大きさという点でデューク・エリントンに勝るものはない。極論すればエリントンの音楽を初期から晩期まで辿っていけばジャズの表現は全てどこかにある。大衆娯楽の側面も、前衛芸術風なテイストも、ありとあらゆるアイディアはエリントンの音楽の中にある。モードやフリーの暗示さえ発見することができるほどだ。
 コンサートでよく見かけた光景だが、ステージの途中でエリントンの曲を演奏する前にはバンドリーダーがマイクに向かって「次の曲は偉大なるデューク・エリントンの●●●です」というMCを入れるケースは凄く多い。ジャズとか音楽とかいった枠を超えた、文化の象徴とか民族の誇りのような存在にまで昇華されているという話を何かで読んだ記憶もあるので、そういう意識の反映なのだろうと私は見ている。

 それほどかように偉大なるデューク・エリントンだが、恐らくマイルス史観の支配する日本ではレコードの売れ行きはきっと大したことがないだろうと思う。ジャズが好きで長いことレコードを買い続けている方々と話す機会は何度かあったがエリントンの信奉者という方には一人を除いてお会いしたことはない。
 大体この、「ビッグ・バンド」という呼称が一つのカテゴリー内カテゴリーとして定着している状況が変だと私は思う。カウント・ベイシーにもデューク・エリントンにも1ホーンカルテットやピアノトリオの録音歴はあるのにとにかく両者のリーダーアルバムだと「ビッグ・バンド」で一括りに扱われるのはどう考えても変だ。モダン・ジャズであれば個別のリーダー名で区分されているものがスイング・ミュージックだと「ビッグ・バンド」の中での区分というのはいつ考えても不可解だ。

 スイング・ミュージックの冷遇ぶりは以前も書いたし、幾ら書いてもきりがないので本題に戻るが、同じように偉大なカウント・ベイシーとデューク・エリントンでありながら少なくとも私の周辺での認知度はダブルスコア以上だ。
 恐らく最大の理由はエリントンの楽曲が余りにも多くのプレイヤーによってカバーされまくったからだ。Aトレインにサテン・ドールにと数え上げればきりがない。ある時期までの私などもそうだったが、デューク・エリントンという存在はそれら楽曲の作曲者であって、言ってみればコール・ポーターであるとか、ジョージ・ガーシュインだとかいった一連のコンポーザーのうちの一人としてのみ刷り込みのなされているリスナーが凄く多そうに思える。
 また、ベニー・グッドマンやグレン・ミラーのようにジャズに関心のない人でも映画やテレビのBGMで曲の断片や名前だけは知っている、というほどの知名度はない。ファンとしては何とも悔しい話だが、幾多の楽曲が束になっても「ムーンライト・セレナーデ」一曲のポピュラリティに及ばない。
 とどめを刺すように、某ジャズ喫茶オーナー菅原某氏のようなPRマンがいない。彼の文筆とお店の屋号はきっとカウント・ベイシーの国内CD売り上げに大いに寄与していると私は推測している。 

 ディジー・ガレスピーがほっぺたの膨らみ具合と上を向いたラッパを吹く人というだけの認識であるリスナーが結構いそうなようにエリントンもまた有名な曲を書いた人というだけの認識が通り相場なのではないかと思う。ご両人共に、全くもってお気の毒としか言いようがない。

 これから先も折に触れて、スイング・ミュージックが現在の音楽産業にあっていかに粗末な扱われ方であるかを私は提起したいが、今回の題材は50年代後半のデューク・エリントンのバンドにディジー・ガレスピーがゲスト参加したものだ。

Jazz Party

Jazz Party

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Columbia
  • 発売日: 1990/10/25
  • メディア: CD


 音楽そのものとは直接関係ないが、貼り付けたリンク画像は最初にリリースされたLPレコードとは意匠が異なる。
 私はタイトルにJazz Party in Stereoと表記したがこれはLPリリース時のタイトルであって、ジャケットの赤地に白抜き部分、この右半分には本来in Stereoというタイポグラフィがあったのだ。

 CDでの再発に当たり、タイトルは単にJazz Partyへと改められ、赤地部分の右半分は塗りつぶされている。一体どういう必然性があってこういう変更がされているのか理解に苦しむ。

 スペシャルゲストを迎えた本作は、ティンパニやザイロフォン、ヴィブラフォンなど9名の打楽器奏者も加えたスタジオ・ライブで、恐らくコロムビア時代に初めて臨んだステレオ録音でもある。
 音楽の内容共々、録音は秀逸で、殊に打楽器群をフィーチュアした新曲は見事にスタジオの空気感を捉えている。最終曲でブルース・シャウトの真骨頂を聴かせるジミー・ラッシングもバックバンドとの前後左右の距離感はきっちり抑えられていて立ち位置が際立っている。ジャケット裏の録音風景を撮したスナップ写真から考えると聴衆は写っておらず、拍手がどこかオーバーダビングみたいに聞こえて本当にスタジオライブだったのか少々疑問だが細かい詮索はしないでおく。
 ガレスピーの客演もはまっている。2曲に参加してミュートとオープン両方のソロを聴けるが、いずれも比類なくブリリアントだ。バンドと競り合うような展開は抑えて予め用意されたスペースの中でまとめたようなソロだが千両役者の輝きを割り引くようなものではない。私の身びいきなのだろうが御大エリントンやジミー・ラッシングに対するリスペクトがどこかに感じられる抑制のきいたステージアクションは好ましい。
 本作はゲストを迎えてのレコーディングなのでレギュラーメンバーのフィーチュアリングは必然的に割を食うのは致し方のないところだが、ニューポートでの熱演をダイジェスト化したようなポール・ゴンザルベスや十八番のAll of meを朗々と演じるジョニー・ホッジスなどリスナーの欲する勘所を外していないのは嬉しい。きっと当日のプログラムはかなり入念に検討されていたのだろう。

 逸材サム・ウッドヤードのシャッフルビートはどこまでも快適だし変幻自在のホーンセクションも健在。豪華ゲストに、打楽器群を想定した斬新な新曲、最終曲でのブルース・フィーリングの炸裂とおかず満載の豪華幕の内弁当みたいな本作は誰でも無条件に楽しんで頂ける良質なエンターテインメントであってもっと多くの人達に聴かれて良い。同時にモダンジャズの求心的なコンボ演奏というのはこのカテゴリーのある一側面でしかないことを一人でも多くの方々に知って欲しい。

 モダン・ジャズ偏重、マイルス史観が支配するかのようなジャズを巡るジャーナリズムの世界は余りにも歪んでいると思う。


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Gillespiana/Dizzy GIllespie(ガレスピアーナ/ディジー・ガレスピー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ディジー・ガレスピーはついていないというか気の毒な感じのするミュージシャンだと思う。モダン・エイジ以降のジャズマンとしては申し分なく経済的な成功を収めたし、然るべき評価も得たとは思うが、私などにとってはそれでもまだ評価され足りないように思えて仕方がない。

 モダン・ジャズ創生期の立役者という点ではパーカーに一歩譲り、ハードバップ以降はマイルスの存在が大きい。トランペッターとしての存在で言っても少なくとも日本ではマイルスとクリフォード・ブラウンが2大潮流と言って良いのではないだろうか。

 以前、粟村政昭氏がJazz Record Bookで述べたように、疑問の余地なく偉大でありながらロクなレコードを残していないミュージシャンの代表格がガレスピーだ。
 疑問の余地なきマスターピースと言えばバップ全盛期にミュージクラフトに残された記録くらいだろうがこれとても例えばパーカーのダイアルセッションあたりに比べればやや影が薄い。私を含めてガレスピーの熱心な蒐集家というリスナーにも余りお会いしたことはない。多くのレコードには首を捻りたくなるような企画やガレスピーの演奏以外には大した聞き所のないものが結構多いのは残念ながら事実ではなかろうか。

 ノーマン・グランツが主催していた頃のヴァーブVerve Recordは粗製濫造とも見えかねない膨大なリリース寮に毀誉褒貶相半ばするところではあるが、ことガレスピーに関しては仲々多くの良作に遭遇できる確率は高めだと思う。

 話の基準点をマイルスに置いて見た場合、ディジー・ガレスピーはその正反対に位置するプレイヤーだと思う。上向きのラッパだとかブローしているときのほっぺたのふくらみ具合とか表層的な部分でだけ認識されているようなきらいもあるが、私はトランペッターの王道とは実はこちらの方と確信している。

 キャリア全般を通じて、ガレスピーはとにかくジャムセッションに強い。パーソネルの中に名前があればその演奏は殆ど必ずと言っていいほどガレスピーのペースで演奏は展開されていく。更に言えばビッグバンドで映える。フルバンドをバックに従えてこれくらい絵になるトランペッターはモダン以降絶無と言っていいほどだ。しかも編成が大きくなればなるほど、仕掛けが派手になればなるほどプレイの輝きが増す。これはもって生まれた天分というしかない。
 元々経済的に維持が難しい演奏形態なので自分のレギュラーバンドとしていたことはごく短期間にとどまる。であるにも拘わらずこれほどかようにビッグ・バンドのイメージが強いのはやはりその場面に於けるプレイが水際立ったものだからに違いない。
 恒久的ではなかったにせよ、機会を見て大編成のオーケストラを組織したガレスピーだがクインシー・ジョーンズをはじめとして多くのアレンジャーが去来してはペンを執った。バックバンドとソロイストの力比べ的な狂騒感が大編成時に於けるガレスピーの醍醐味だ。全合奏の咆哮に力負けしない強力無比のフルトーンはアレンジャーにとっても恐らく興奮醸造型の見せ場を形成するに得難いソロイストだったであろうことは間違いない。
 とは言え、決してディジー・ガレスピーが単なるお祭り男だと言いたいわけではない。十分以上にインテリジェンスを感じさせる作品も当然ある。マイルスにとってのギル・エバンスをガレスピーに置き換えてみた場合、近そうな存在はと言えばラロ・シフリンということになるのだろうか。
 後年、「スパイ大作戦」のテーマなどで一世を風靡するラロ・シフリンは元々レギュラークインテットのピアニストだったが本作で初めてアレンジのペンを執り何ともスペクタクルに溢れたバンドサウンドを作り出したのだった。 

Gillespiana/Carnegie Hall Concert

Gillespiana/Carnegie Hall Concert

  • アーティスト: Dizzy Gillespie
  • 出版社/メーカー: Verve
  • 発売日: 1993/10/19
  • メディア: CD


 チューバやフレンチホルンを配した楽器編成はギル・エバンスにヒントを得てのものだろうが、本作では更にラテン・パーカッション群が加わる。人数が多すぎて書ききれないがメンツの顔触れも凄い。
 フレッチャー・ヘンダーソン以来の古典的ビッグ・バンドからは完全に世代交代した60年代的な有り様で、アレンジメントは精緻を極める。どの曲もテーマが実にスマートで格好いい。山場ではホーンの全合奏と打楽器の連打が錯綜し、その上に乗っかったガレスピーが大暴れする図式で豪快を絵に描いたような音楽だ。本作はダウンビートしで文句なしの五つ星をゲットしたガレスピーには珍しい好企画盤なのである。
 
 迫り来る音の壁を切り裂いて突進していくかのようなガレスピーのオープントーンは迫力満点でまさに千両役者の名に恥じない。聞き所は盛りだくさんだが2曲目Bluesでの貫禄たっぷりのミュートプレイ、最終曲Toccataでの縦横無尽ぶりがとりわけ印象深い。但し61年という録音時期でありながら音質のクリアーさは今ひとつで少々モヤッとした質感が惜しい。
 今一人の主役であるラロ・シフリンは自分のピアノ・ソロはリズム・セクションだけで進行させる展開が幾つかあり、演奏上のアクセントであることは分かるが「ああ、こんな風にして自分のプレイは目立たせたいのかなあ」と微苦笑させてくれる。ギル・エバンスとは所々似通ったトーン造りではあるがこちらのほうが遙かに躍動感に富んでおり、キャッチーな楽曲のテーマも相まってこちらのほうが数段「売れそうな」音造りではあり、既にこの時点で後の商業的成功を十分予見させている。

 何から何まで豪華絢爛なモダン・ビッグバンドの秀作で、しかも現在、Amazon.comでは次作のカーネギー・ホール・コンサートとの2 in 1で本作は販売されていてやたらとお買い得な気がする。
 これほどかようにディジー・ガレスピーはビッグバンドを背景とすると際立った輝き放つ偉大なタレントだが、残念なことにバップ以降はこの演奏形態が主流となり得ていないのでリスナー達のチェックからも漏れがちな点は否めない。それもまたこの人のついていなさ、気の毒なところでもあるように思う。

 

 


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Miles Ahead/Miles Davis(マイルス・アヘッド/マイルス・デヴィス)その2 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 1956年、マイルスは悪名高いボブ・ワインストックの主催するPrestigeからメジャーレーベルであるコロムビアへと契約先を替えた。

 巷間、何が何でも吝嗇家のワインストックと手を切りたいが為にマイナーレーベルではおよそ企画できないような無理難題を吹っ掛けた、と伝えられるギル・エバンスとのコラボレーションだが、転身後の作品群を聴いてみればそこにはやはりこういった音世界を希求していた必然性は多くのリスナーに十分納得していただけるものだと思っている。
 音楽の背景に有象無象の打算や愛憎関係といった人間関係の機微を憶測することは勿論それぞれのリスナーの自由ではあるが、殊更そういった側面ばかりを誇張して音楽そのものとは直接関係のない物語の形成に夢中になりすぎるのはこんな駄文を連ねている私自身を含めて今一度立ち止まってみる必要はあると思う。

 マイルスとギル・エバンスの交友関係というのは、例えばマックス・ローチをはじめとする一連の黒人プレイヤー達とは少々色合いが異なるように私は常々受け止めている。
 彼ら多くの同年代プレイヤー達との関係が、一緒に羽目を外して放埒を繰り返したこともあるいわばポン友同士の友情風であるのに対して、ギル・エバンスとは何か楽理楽典上の理念が一致した思想的同士といったアカデミズムを匂わせている。

 ギル・エバンスは前回のエントリーで取り上げたBirth of the Coolにもアレンジャーとして数曲関与しているが、マイルスとの共同プロジェクトに於けるコ・リーダーとしてレコードジャケットに記名されるのは本作が最初となる。
 

マイルス・アヘッド+5
マイルス・アヘッド

マイルス・アヘッド

  • アーティスト: マイルス・デイヴィス,ギル・エバンス
  • 出版社/メーカー: ソニーレコード
  • 発売日: 2000/06/07
  • メディア: CD


 コンボ編成でソロをリレーしてアドリブを競い合う従来の演奏スタイルではない別の可能性をパーカーのバンドを退団後のマイルスは折に触れて模索していたわけだが、カラフルな大編成オーケストラと共演する演奏フォーマットは本作に於いて初めて結実した。

 本作にはマイルス以外のソロイストは居らず、トランペット・コンチェルトとでも形容したくなる演奏形態をとっている。但し大向こうを唸らせるようなロングソロがあるわけではない。
 前回のエントリーと重複するが、マイルスという人は本来的にトランペットの嫡流にあるような咆哮するビッグバンドを従えて威風堂々、王者の如く振る舞うという吹奏スタイルではない。内省的な吹奏スタイルの持ち主を主役に押し立てて対立的と言うよりは調和的なオーケストレーションを施したビッグ・バンド演奏というのがこれら一連の共同作業の基本骨格であり特筆すべきユニークさでもあるわけで、ソロイストの資質を知悉したアレンジャーの手腕は彼ら二人の理念上の結合を強く意識させる。

 演奏時間はどの曲も短めで後に区切りとなるSketch of Spainのような大作風味ではないが、視点を変えれば聴きやすさ、取っつきの良さでもあるわけで、高級なイージー・リスニングとして接するのは一興。何となく聞き流せるが傾聴すればそこには精妙なアレンジメントが聴き取れる。リアル・ジャズとしてエモーションの揺らぎを本作に求めるのは野暮だ。それよりはむしろある曲の末尾のコードが次の曲の冒頭のコードでもある、といった遊び心のある小技や、曲によってトランペットをフリューゲルホーンに持ち替えるマイルスの出音の変化をリラックスして楽しむべきだろう。

 マイルスの音世界は総体に内省的で緊張感に満ちたものだと私は捉えているが、経歴中にあって時折、肩の力を抜いて開放感に浸るような録音を残しており、それらで聴かれる小味の効いたキュートな吹奏が私は結構好きだ。本作でもレギュラーコンボで担っていた謹厳なバンドリーダーとしての役目はアレンジャーが受け持っているせいか、軽やかというか伸びやかというか、珍しく陽性のプレイで一貫している。

 結果として本作はマイルス個人にとっては初リーダー作であるBirth of the Coolの実験臭を払拭して完成度の高いオーケストレーションを獲得した初の「作品」となった。同時に本作はダンス・バンドを基本として発展を続けてきたビッグ・バンドの姿という来歴を恐らく初めて断ち切った、所謂芸能臭、芸人臭を一切排除したジャズ史上初のオーケストラ作品でもある。
 それは一気呵成のアドリブ一本勝負であるパーカー的音楽世界とは別の地平の獲得であり、最後に何よりも、恐らくビッグ・バンドに在籍したとしていたならばセクションワーカーに終始していたであろう資質のトランペッターと私が推測するマイルスがソロイストとしてカラフルな大編成オーケストラと共演する手法を体得して実現した、多くの意味での解放を記録した印象深い音楽である。

(この項終わり)


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Miles Ahead/Miles Davis(マイルス・アヘッド/マイルス・デヴィス)その1 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私がしばしば引用元として読み返すマイルス・デヴィスの自伝に興味深い件があった。

 1949年頃、ロイヤル・ルーストにレギュラー出演していた前後の頃、デューク・エリントンから自分のバンドに加入しないかと本人から直接オファーがあったが諸般の事情で実現しなかったというものだ。

 語り起こし形式で書かれたこの自伝(とは言え英語力のない私は和訳分を読むだけなのだが)から私は、「音楽の父」から直接誘いを受けたという事実に一楽器奏者として評価された嬉しさを伝えたいらしいニュアンスを読み取った。

 エリントン・オーケストラに加入しなかった理由は本人の語るところでは二つあり、一つは毎晩同じ曲を同じように演奏することに退屈さを予見していたから、というもので、次に、当時取り組んでいたギル・エバンスとの共同作業を継続させたかったからであり、エリントンとの面談時には後者の事情のみを伝えて丁重にお断りしたとのことだ。
 ここで私は一つの仮説を提示したい。それは、この時提示されたポジションが3番とか4番だったのではなかろうかというものだ。つまりソロをとる機会のない、セクションワークのみの立ち位置だったからではなかろうかという想像を私は未だに捨てきれないでいる。

 マイルスの偉大なミュージシャンとしての業績に私は何ら異論を持つ者ではないが、一楽器奏者としての有り様には微妙な翳りをいつも感じてきた。
 勿論、強烈な個性の持ち主であり、傑出したスタイリストであることには疑問がない。しかしあのトーン、あのプレイスタイルというのはキング・オリバーからサッチモ、ロイ・エルドリッジからガレスピーへと受け継がれた血脈からは少し外れた場所に位置づけられるものであって、モダン以降の正統的後継者はガレスピーからファッツ・ナバロ、クリフォード・ブラウンへと引き継がれていくもののように私は考えている。

 乱暴な定義めいたものを書きとばすとそれは、場の力関係を一気に支配する号砲一発を持っているか否かにあると思う。列記した彼ら、言ってみれば嫡流にあってマイルスにはないものがそれだと思う。
 デビュー直後、グリーンボーイだった頃のクリフォード・ブラウンはライオネル・ハンプトンにスカウトされるやいきなり一番ラッパの席を与えられた。これはハンプの眼力を示す出来事ではあるが同時にトランペットという楽器が天性の資質によってプレイヤーの立ち位置をある程度限定してしまう性格を表しているとも言えまいか。

 マイルスのレコーディングキャリアを追っていて気づくのは、ジャム・セッションの録音歴がほんの僅かしかないことだ。トランペット・バトルみたいなフォーマットの吹き込みは私の知る限り確か一回きりではなかっただろうか。
 チャーリー・パーカーというアドリブの権化と同じステージに立ち続け、ガレスピーという王道トランペッターを目の当たりにし続けたことから生み出されたエコーは自伝中やその他のインタビューでも時にストレートに、或いは屈折した形で色々に語られている。
 結局、トランペッターとしてのマイルス・デヴィスは『ガレスピーみたいに演奏したいけど自分にはできない』というのがスタートラインだったらしいことは自伝中で語られている。それぞれ自分に合った演奏スタイルを見つければいいのだとガレスピーに諭されたことがあるらしく、プレイヤーとしてのガレスピーに対する敬意が随所に現れるあたりを私は興味深く読んだ。マイルスという人は意外と先輩を立てるんだなあ、と私は読んだわけだ。

 但し、先輩諸兄がステージで見せる道化めいたアクションは心底毛嫌いしていたようで、これは元々中西部の中流家庭が出自であるためだろう。マイルス・デヴィスは終生、商業音楽と芸術性との両立に無意識なままその境界線をまたぎ続けていたような立ち位置にあると私は見ているが、芸術として評価され、商業的にも成功し、大衆的な人気と同時に芸術家としての尊敬も得ることの困難さには余り意識的でなかったフシがある。

 機会を改めてテキストを起こそうと思うがThe Birth of the Coolという最初のリーダーアルバムはガレスピー風ではない演奏スタイルを身につけつつあり、アドリブ一辺倒ではない音楽を目指したという意味で音楽家マイルスにとってはやはり思い出深い記録であろう。

クールの誕生

クールの誕生

  • アーティスト: マイルス・デイヴィス, J.J.ジョンソン, カイ・ウィンディング, リー・コニッツ, ジェリー・マリガン, アル・ヘイグ, ネルソン・ボイド
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2006/06/14
  • メディア: CD


 音楽として楽しめる内容であるかどうかは別として、意識的な音楽家としての出発点だったことは違いない。(この項続く)


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Max Roachを偲んで [気づいたモノ]

 別のエントリーで駄文を晒していますが、漫然とネット上で拾ったMax Roachの画像を幾つか並べてみます。


 左からElvin Jones,"Philly" Joe Jones, Max Roach,確か1970年か71年に「3大ドラム合戦」と銘打って開かれたコンサートの写真だと思います。
 いやしかし、壮観とはこのことですね。ひっくり返りそうなくらい物凄いメンツです。3人いっぺんにドラムを叩くところを見られた人は一生の宝だったことでしょう。
 エルビンはこの後司直によって国内拘留される憂き目にあいますが、この時期奥様と知り合って結婚することになるのですから人生何が幸いするかわかったもんじゃない。
 それにしてもお三方、これで全て現世の人ではない・・・・


 恐らく1976年来日時のAfter Hourでのスナップとおぼしき一枚。レジー・ワークマン氏は切れていますが、ビリー・ハーパー氏は一体何に目を剥いているのでしょうかね?この人の笑っている顔というのが私の記憶には全くありません。セシル・ブリッジウォーターは今見てみると少々パパイヤ鈴木を連想させる風貌だと思うのは私だけでしょうか?


 晩年のマイルス・デヴィスと、恐らくモントルー・ジャズフェスティバルでのオフステージショット。
音楽上の達成はともかく、人格的には色々言われ続けたマイルスですがソニー・ロリンズとマックス・ローチの二人とは例外的に終生親交があったと何かで読んだ記憶があります。


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It's Time/Max Roach (イッツ・タイム/マックス・ローチ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 数日経過してしまったが、8月16日、マックス・ローチが死去された。


 これで、自分自身がリアルタイムで経験したビ・バップ・イーラを語れる人はいよいよもって絶無に近くなったわけだ。そんな風にしてジャズの一代革新も段々風化していくのかと思うと少々寂しい。

 改めてプレイスタイルを振り返ってみると、様々な意味でモダン・ドラミングの教科書的プレイヤーだった。謹厳さ、緻密さ、折り目の正しさ、考えてみればそういうものを感じさせるドラマーというのは本当に希有な存在なのではあるまいか。後に頭角を現す様々なドラマーの個性というのもとどのつまり、マックス・ローチという絶対基準に対するオルタナティブな存在として際立っていたという見方も成り立つのではなかろうか。
 マックス・ローチの参加したセッションは一つの例外もなくと言っていいほどある種の律儀な緊張感に支配されていた。単なる伴奏者、単なる煽り屋ではなく、ある種規律だった影響力を常にセッションの現場に及ぼしていた。
 白人的とさえ言いたくなるほどクリーンなリズムワークの持ち主でありながら表現者としての音楽はある時期、アフリカ系アメリカ人としての民族意識を強烈に打ち出したものであったことは興味深い。時には政治的主張が音楽に混入されるほどの過激さを見せたが、そういう路線をあくまでも一時的な激情の産物として継続させずおいたのは音楽家としての良識を示している。

 訃報に接して一日、手持ちのレコードを引っ張り出してあれこれ聴いていた。インパルス時代のリーダー作には印象深いものがあったのでIt's Timeのことを取り上げようと思ったが、amazon.comやタワーレコードのHPを見る限りでは発売されていないのでリンクを貼ることはできない。嘆かわしい話だ。

 およそ30年ほど前、私がジャズを聴き始めた頃はフュージョン・ミュージックの全盛期で4ビートなど時代遅れで、そんなものに熱中している奴は陰気な性格の持ち主だ、みたいな決めつけ方さえされたほどなのだが現在になってみるとその反動だか何なんだか、すっかり様式化された4ビートのハードバップ風味以外はカタログに残しておくに値しないと言わんばかりの風潮もあるようで、私のような雑食性にとっては残念至極だ。

 60年代に入ってからのマックス・ローチはそれまで自分が身を置いていたハード・バップを対象化する営みに傾注し始めたように私には見える。
 ディキシーランド・スタイルに始まるジャズの変遷が、新しい語法の発明や表現の深化を達成したとは言え、ビジネスとして考えた場合はレコードレーベルのオーナーにせよ、クラブのオーナーにせよ勘所を押さえているのは皆白人であって、ごく少数の好意的理解者を除けば結局は商業音楽であり芸人の音楽であることはジャズに求められる基本的な素地だったのだろうと私は想像している。

 時代背景も手伝ってか、本作はそうした「芸人の音楽」としてのジャズを峻拒している。所謂ブラック・ナショナリストとしての気負いが横溢した「作品」である。
 CandidにレコーディングされたWe Insist!にあったあからさまな政治的メッセージはここにはないが、コーラスを大胆に導入した本作の演奏フォーマットは、ある種アフロ・アメリカンによるオラトリオといった趣もあり、ポピュラー音楽ではなくクラシカル・ミュージックに対するカウンターとして企図されたものであることは想像に難くない。
 全編にわたって終始波打つ、まるで地面の底から湧き起こる呪詛のようなコーラスには西洋教会音楽に聴かれる清々しさは全くない。苦悩や怒りを表現するために敢えて不揃いで荒っぽく響かせようとしているかのようでさえある。重く荒々しい体当たりのようなマル・ウォルドロンの運指や弦を掻きむしるようなアート・デイビスのフィギュアも相まって、随所に現れるドラムソロもまた、50年代に於けるハード・バップバンドのリーダーの頃とはうって変わって何か怒気を孕んだような凄味を見せつける。

 思えば、パーカッションによる表現の可能性をジャズほど深く追求したカテゴリーはない。そしてマックス・ローチはどう少なめに見積もってもモダン・ジャズ以降のプレイスタイルの絶対基準を確立したと言っても過言ではないほどの功労者なのだ。

 今日、本作を聴いていて改めて気づいたことがある。本作のタイトルIt's Timeは当時の世情を反映したブラック・ナショナリズムの喚起を表しているものだというのがこれまでの私の理解だったがもう一つ、Timeというのはビートであり、リズムを指してもいるのではないだろうか?
 音楽は時間を駆使した表現形式であり、ビートを送り出すということは時間を刻む営為である。マックス・ローチは終生、フリー・リズムの音楽を手がけなかった。それは、一小節を幾つに刻むか、ビートの集積によって提示される秩序の中で和声や旋律は形成されるものだという信念がこのタイトルには込められているのではないかというものだ。メロディーに対するリズムの優位性の主張と言うモチーフはマックス・ローチのキャリア全般を貫いている。

 本作は必ずしも万人に向けて作られた音楽とは言えないところがあり、手法としては少し未消化な部分も実はある。ましてや前述したように現在市場で簡単に入手できるソースではないので私自身他人様に強くお奨めする気はないのだが、定番4ビートを取り上げて重箱の隅をほじくり回すような蘊蓄を傾けるのは一つの楽しみとして、挑戦的な音楽と対峙するというリスナーの有り様もあっていいと思う。そこから得られるカタルシスというのも否定しがたい快感ではある。

 私は本作のSandy Afternoonという曲に至るまでの展開が大変好きだ。リチャ−ド・ウィリアムスによって朗々と吹奏される本作中唯一のチャーミングなテーマに聴き入っていると、クリフォード・ブラウン、ケニー・ドーハム、ブッカー・リトルといったかつてこのバンドを去来した名トランペッター達のことを何故かしみじみ思い出さずにはいられない。彼らは皆既に物故しており、今はかつて彼らのボスだったマックス・ローチもそこに向かっていったというわけだ。

合掌
 


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We Three/Roy Haynes(ウィ・スリー/ロイ・ヘインズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私が勝手に「小技の王様」と位置づけているモダン・ドラマーは西のシェリー・マン、東のロイ・ヘインズなのだが、幾多の名セッションに名を連ね、ヒット作もモノにしたシェリー・マンには決して引けをとらないキャリアの割に傑出したリーダー作がない点でロイ・ヘインズはちょっと損な面があるように見ている。

 普通に考えても、レスター・ヤングからエリック・ドルフィーまでと共演して調和できるというスタイルの柔軟さは目覚ましいセールスポイントであってもいいはずだが、マックス・ローチにとってのクリフォード・ブラウンだとかエルビン・ジョーンズにとってのコルトレーンみたいな極限的緊張感をもって対峙するホーンプレイヤーの巨人との恒久的な関係性が遂に得られなかった点が最終的に「最良のサイドメン」以上の立ち位置にはたどり着けなかった要因のうちの一つではないかと思う。

 実際、「無冠の帝王」という呼び名がこれほどふさわしいモダン・ドラマーはいないのではなかろうかと私は見ているのだが、最大限の賛辞からは少々引いた感のあるこの言葉の真意が前述したような運や因縁に由来するものなのか、或いは小から中編成向きに特化したかのようなそのプレイスタイルの故なのかは改めて興味をそそるテーマではある。

 4小節交換時に見せる霊感とバッキングの際のきめ細かい小型爆弾の闊達さが身上のロイ・ヘインズはやはり小編成で光る典型的なドラマーだ。個人的にはホーンが3本以上になるといまいちバンドの背骨としては線が細い感が否めないが1ホーンカルテットやピアノトリオでの演奏ではまず殆どと言っていいほどハズレがない。

 サイドメンとしては無数の名演が記録されていて枚挙にいとまがないほどだが、リーダー作となるとどこか小粒な印象があるのはそのプレイスタイル上致し方のないところだとは思うが、私は初リーダー作であるところのWe Threeを長年結構愛聴している。

ウィ・スリー

ウィ・スリー

  • アーティスト: ロイ・ヘインズ,フィニアス・ニューボーン,ポール・チェンバース
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2007/09/19
  • メディア: CD

 

 ロイ・ヘインズの名人芸は随所で堪能できるが何と言ってもここで注目すべきはフィニアス・ニューボーンの参加だろう。「10本の指と88のキーをフルに使い切る」と讃えられたニューボーンの超絶技巧を駆使した演奏スタイルと多弁なロイ・ヘインズのドラミングがうまく噛み合うかというのが本作の興味をそそるポイントなのだろうと予想できるが、サイドメンとしてのレコーディングキャリアはさほどないフィニアス・ニューボーンが意外にも一歩引くことでうまくお互いの見せ場を振り分けている。
 ついでに言えばポール・チェンバースは普段のセッションよりもリズムワークに寄ったプレイであり、個人的には少々苦手なあの独特のアルコ弾きのソロがない点は聴きやすい。

 少々残念なのは4曲目のAfter Hoursで、アルバム中の目玉となるべき長尺曲はスロー・ブルーズでメリハリや軽快さが売り物であるロイ・ヘインズの良さが出ていない。専らピアニストの引き出しの多さを駆使した奮闘ぶりに依存したややダレ気味の展開だ。他のレコーディングでもこの手の曲調ではしばしば単調なタイムキーパーで終わりがちな弱点があると私は見ているが、図らずも露呈してしまった感はある。
 無い物ねだりではあるけれど、ここでのドラマーが例えばエルビン・ジョーンズだったらと聴く度に思ってしまうのが本作のウィークポイントだ。
 但し他の楽曲は全て見事にテンションの効いた三者緊密な連携で楽しませてくれる。ミディアム以上のテンポでのロイ・ヘインズは全くもって惚れ惚れするほどの業師である。正確無比のビート、多彩なショットの打ち分けと無尽蔵とさえ思えるほどのコンビネーション、電光石火のカット・インなどなど、ドラマーをリーダーとするピアノ・トリオとしてはお手本みたいな本作は職人ドラマーの名人芸ショウケースといった趣で、所謂「通」になった気分を快く刺激してくれると思う。


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The Sound of Sonny/Sonny Rollins(ザ・サウンド・オブ・ソニー/ソニー・ロリンズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 所謂「サキコロ」以降のロリンズは1958年にオフィシャルリリースが途絶えて雲隠れするまでの間に結構あちこちのレーベルにリーダー作を散発的にレコーディングしている。

 ソニー・ロリンズについては長く粟村史観に影響され続けてきたので私のコレクションは随分長いこと50年代の吹き込みのまま途絶えていたのだが、近年、ジャズを聴き直すようになってきて60年代以降のものであってもそれはそれなりに聞き所はあるのではないか、というよりもむしろ56、7年のハイテンション状態が特別な期間だったのではないかと考えを変えつつある。

 これはかなりの確信を持っているのだが、ソニー・ロリンズという人はこれから演奏する音楽の姿が予め頭の中にある、というミュージシャンではない。多少乱暴に言えば出たとこ勝負であって『始まってしまえばあとは何とか帳尻を合わせるさ』というのが芸風だと思う。
 ジャズが、特にモダンジャズが偶発性に依存するところの大きいカテゴリーだとすればソニー・ロリンズというプレイヤーは実に何ともジャズメンらしいジャズメンだと思う。

 偶発性への依存度が大きいだけに出来不出来の波は結構激しい。ただ、時間を置いて聴き返してみるとレコード一枚の完成度の出来不出来というのはサイドメンの水準とか適性や理解度の問題であってロリンズ自身のプレイは大体ある一定水準をマークしているように今は評価している。
 それを言い換えれば、ロリンズという人のリーダーとしての定見のなさ、サイドメンの人選にあたっての眼力のなさということにもなるのだが、これは自分のレギュラーバンドを持つようになってからの諸作に於いて既に証明済みだと思う。しかし現在となってはそれもさして問題視するには当たらないと私は感じている。
 まあこれは私個人の選別基準が下がったということなのかも知れない。演奏しているのがロリンズなんだからとにかくそれでいいんだみたいな緩み具合は確かに自覚できる。

 長らく、ソニー・ロリンズの諸作の評価はサキソフォン・コロッサスという絶対基準からの減点法で定められることが通例だったように思うのだが今にして思えばあれこそが偶発性が最大に作用した一種異様な時間だったのであって同時期に吹き込まれた諸作をしらみつぶし的に聴き漁っていくと色々と興味深い側面も見えてくる。
 リバーサイドに吹き込まれた2つのリーダー作は50年代後期でも地味な立ち位置にあって教科書的な意味でのファーストチョイスとは言い難い。歌ものを中心に一丁上がり的に仕上げたThe Sound of Sonnyは長いこと眠り続けていたがどういうわけかここ10年くらいの間に段々手の伸びる回数が増えてきた一枚だ。

ザ・サウンド・オブ・ソニー(紙ジャケット仕様)

ザ・サウンド・オブ・ソニー(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: ソニー・ロリンズ,ポール・チェンバース,ソニー・クラーク,ロイ・ヘインズ,パーシー・ヒース
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2006/08/23
  • メディア: CD

 

 本作は1957年6月のレコーディングだ。サキコロと双璧をなす傑作Way Out West録音の3ヶ月後、私の最大の愛聴盤であるビレッジバンガードの5ヶ月前になる。
 このようにして時系列で3作並べてみると霊感漲る傑作二つの間に挟まれた息抜きみたいなプレイ内容で、実際、本作は大して人気がない。このブログで利用しているAmazon.comでもレビュワーは一人もいないことが不人気ぶりをある程度証明しているのではなかろうか。

 総じて本作はロリンズ本人のテンションが低い。三大傑作がスーツにネクタイで居ずまいを正しているロリンズだとすると本作などはカッターシャツにカジュアルパンツ姿でその辺をぶらついてるようなイメージだ。本作の演奏時間は3分台のものが多く、長くても5分強くらいである。抜き差しならない構成美に充ち満ちた山あり谷ありの雄大な楽想はここにはない。なんか、手癖に任せてさらさらっと書いた一筆書きみたいな曲ばっかりなんである。
 具体例を挙げればEverytime we say goodbyeのように演奏が始まっているのにマイクと全然関係ない方を向いて吹き始め、途中気づいて「おっとっと」という感じでマイクに向かうような場面も記録されている。鷹揚な感じと言うよりはやはり少々上の空的な風情と見るべきだろう。

 サイドメンの趣味は良いがどこか小粒感が感じられる人選で、このリズム・セクションの上に乗っかるのが例えばハンク・モブレイくらいのプレイヤーなら結構まとまりが良さそうだが重く硬く野太いロリンズのトーンは彼らにとっていささかtoo muchの感は拭えない。屋根だけ物凄く立派な家を見ているようなのだ。
 しかしそれでもここ数年の私はここでの緩いロリンズを結構愛聴している。構えていない手癖だけで流しているようなソロがかえってテーマの崩し方だとか、符割のずらし方をわかりやすく提示しているように聞こえるのである。無意識的で無防備な身振りの中にその人の個性の芯みたいなものを発見したようなつもりに私はなっている。
 結果として私はソニー・ロリンズが生み出した「抜き差しならない構成美を持つ傑作」という芸術的作品評価よりもこの人固有の肉声感とか身振りに惹かれていたことになる。
 偉大な作品など生み出さなくても、あのトーンであの節回しで演奏してくれさえすればいい、それだけで満足だ。今の私はこの、稀代のアドリブプレイヤーとそのように接することにしている。

 追記だが、サイドメンであるリズム3人はロリンズとの相性は今ひとつであるが聴いていて大変楽しい。一期一会の共演となったソニー・クラークは既にタメを効かした独自のキータッチを会得していて十分に個性的。少々腰高なロイ・ヘインズのきびきびとしたコンビネーションも心地よい。この3人でピアノトリオの録音をしておかなかったのはリバーサイドの見落としだったと今でも私は考えている。


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Submerged/沈黙の追撃 [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 馬鹿馬鹿しいとかくだらないとかが予め分かり切っているのについついやってしまうことってありませんか?

 以前にも書いたことがあるが、私にとってはDVDのレンタルショップに出かけていってスティーブン・セガールの主演するソフトを借りてくることがそれに当たる。
 
 近年はぶくぶくに太ってきてそれまで殆ど唯一の売り物だったアクションシーンでさえろくすっぽ演じなくなった。アクターとしての取り組み方は歴然たる怠慢さで見ていて情けなくなってくるほどだ。最早以前の面影を残しているものと言えばいろんな場面での類型的な目つきくらいしかない。
「戦ってるんだぞー」とか
「和んでるんだよーん」とか
それぞれのシークエンスに合わせた目つきくらいしかない。
いや情けない、実に情けない。
 いつからこんな風にぐうたらなアクション映画ばかりを粗製濫造するようになったのかを私は大して正確に思い出せない。それを考える時間を割く値さえないと思うからだ。

おとつい借りてきたのはこういうものだった。
 

スティーヴン・セガール 沈黙の追撃 [DVD]

スティーヴン・セガール 沈黙の追撃 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 沈黙シリーズ8作目とのこと。本作のモチーフはマインドコントロールとかサブリミナルとかいうことらしいが持ち出す主題なんか実はどうでもいいのは沈黙シリーズのお約束だから掘り下げ方が足りないとかいう生真面目な立場からの批判は無意味である。

 徹頭徹尾荒唐無稽で陳腐なストーリー運びと時たま飛び出す生硬な実験的映像(ここでは悪役がマインドコントロールを発動したときに現れる変ちくりんなフラッシュ映像)を指さして嗤い、嘘っぱちを絵に描いたような活劇シーンに失笑し、映画が終わってから自分は何とくだらない時間を過ごしていたのかと後悔し、しかし俺の人生くだらないことだらけだよな、と自嘲する。最後になぜならきっと自分の内実そのものがくだらないからだ、と自省するのがセガール様の映画と接するときの私の作法である。

 ネット上に散在する幾つかの映画レビューを見てみるとこの映画の評価は目も当てられないくらい酷いものだ。それら評価に私は180%位の共感を覚える。
 都市部での状況は分からないが、私の住む田舎町では最早、スティーブン・セガールの新作が劇場公開されることはない。ある時期からのおよそ作品とも言いたくないような作品群を見ているとそれは全く正しい扱われ方だとも思う。

 映画というと私は常に自分の父親のことを思い出す。映画の見方はこうだという接し方を私は父に刷り込まれた。それはまず第一に「鑑賞する」ことであり作品と対峙することだった。彼は私に娯楽としての映画を伝えてくれなかった。勿論暇つぶしとしての映画もだ。
 そういう成り行きを経てきた者としては、暇つぶしよりも更に下向きのベクトルを持つ接し方があるのだということをスティーブン・セガール殿の主演作を見るたびに感じる。それは低劣さとかアホ臭さを共有することで人生時間の無駄を実感する、余暇の時間を浪費することは人生の贅沢であることを実感することでもある。言い換えれば余暇とは浪費できる時間のことだと悟る。これは思考を最大限に巡らせて「2001年宇宙の旅」を鑑賞していたのでは得られない収穫でもあるのだ。と、こんなテキストも野暮ですね。

 全然生産的でも前向きでもないくだらない時間を過ごすことが私は結構好きなのです。だからおよそアクターとしての向上心が鼻くそほどにも感じられないセガール様が濫造する凡作の山もまた私にとっての必要悪であってなかなか止められそうにない。


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