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Jazz Young Blood/Chuz Alfred(ジャズ・ヤングブラッド/チューズ・アルフレッド) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前日私は『幻の名盤』云々かんぬんといったような駄文を垂れ流した。(行の末尾が切れてしまってうまく表示されないのだが直し方がわからないのは大いに悩ましい)

 名盤かどうかは大いに疑わしいいが、幻の存在である事が周知されているだけでもまだ幸福ではないかと思える。存在した事さえも人々の意識から失せてしまったとすればそれは評価の対象にならないのだから。そんなレコードはそれこそ浜の真砂のごとく無数にあったのだろうが本作はその中にすっぽりと収まる。

ジャズ・ヤング・ブラッド

ジャズ・ヤング・ブラッド

  • アーティスト: チューズ・アルフレッド,ビニー・バーク,チャック・リー,オラ・ハンセン,ケニー・クラーク
  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 1994/03/21
  • メディア: CD

 CDとして再発されている事はちょっとした驚きだがさっぱり売れていないだろう事は容易に察しがつく。それが証拠にAmazon.comのリンク画像さえない。発売が1994年となっているのでもう15年経っているわけだがカタログ落ちしていないのは重ねて驚きだ。

 大体サヴォイというレコードレーベルは確たるレーベルイメージが把握しづらい上に売る気があるんだかないんだか首をひねりたくなるような低劣極まりないジャケットデザインのおかげで随分損をしていたと思う。本作についてはこうだ。

 

Chuz_Alfred_Jazz_Young_Blood.jpg

 

 何ともお粗末極まりないとしか思えないが中身は悪くない。曲ごとの変化に乏しいのが本作を印象の薄いものにしている恨みはあるがミュージシャンとしてのセンスは悪くないと私は思っている。

 本作はオハイオ州出身の無名の若者をNYデビューさせるべくそれなりに力を入れて企画されたレコーディングなのである。それが証拠にリズムセクションにはベースにヴィニー・バーク、ドラムにはケニー・クラークという当時のサヴォイ・レコードのハウスプレイヤー達がつきあっている。もっとも、それは結果として堅固な基礎の上に建てられた少々普請の心許ない家といった印象がある。

 私は20数年前にキングレコードからリリースされた国内盤LPとして本作を入手したがライナー裏のキャッチコピーには哀れを誘うものがあって改めて感じるものがあった。それはこんな具合だ。

 オハイオ出身の若手3人がNYジャズ界に幸運なデビュー。しかし・・・・無名のまま散った。若き日の唯一の栄光の記録。★本邦初登場

 彼らの名誉の為に書いておくと、バンドとしては結構凝ったホーンアンサンブルをスムーズにこなし、ウェストコースターによく聴かれるような軽妙なやり取りが結構楽しい。主人公のチューズ・アルフレッドは強いていえばズート・シムズ似のレスター系、トロンボーンのオーラ・ハンソンは朗々と良く鳴る明快なトーンの持ち主てこれまた強いていえばビル・ハリスあたりにちょっと似か。(この人だけは三人のうち他にも録音歴があるらしい。ソニー・クリスの作品だそうだ)ピアノのチャック・リーはクリアータッチの持ち主でソロの場面では中々趣味の良いブロック・コードを随所で披露する。  

 テナーサックスとトロンボーンのフロントラインに3リズムという編成は私は結構好きで、ボビー・ジャズパーとJ.J.ジョンソンとかジミー・フォレストとベニー・グリーンの諸作を結構愛聴しているので本作もわりかし心地よく受け入れられる方だがいかんせん何か記憶に痕跡をとどめるような色合いの強さというかインパクトに欠けるあたりが無名のままフェードアウトしていった理由なのだろう。和文ライナーでもひどい書かれようで『この手の作品は二度と復刻されそうもない』などという納得できるようなバカ正直ともいえそうな一節がチェックもされずに記述されている。

 しかしまあ、私のような何の芸もない一リスナーはこうしてレコードだけを取り上げて好き勝手な駄文を垂れ流し続けているが、楽器演奏に携わっている方々にとってはレコードを吹き込めるというのは全体数のうちの一握りに過ぎず、たった一度だけとはいえその機会に恵まれた事は彼らそれぞれの人生の軌跡の中にあっては大いにメモラブルな出来事だろう、マイナーとは言えあるレコードレーベルから声がかかったときのその心情はおそらく大変な高揚感をもたらしただろう事は時間の流れとともにその存在が埋没していく事は間違いないこの私には、相当の羨望を伴って実に良くわかる気がするのだ。

 ご本人であるアルフレッド氏はその後も音楽活動を続けておられたらしい事を私はネットで知った。

http://www.dancemetonight.com/Chuz_Alfred.htm

 唯一のレコーディングはやはりご本人にとっても晴れがましいものだったようで、私は英語はさっぱりわからないが少々微笑ましい気分でそのHPを拾い読みした。

 ここで少々、益体もない空想を書いておきたい。視点をアルフレッド氏に置き換えてみるとして、ある日あるとき、見た事のない東洋人がアルフレッド氏の前に現れて『私はあなたのレコードを買いました。よく聴いていますよ』と話しかけてくる。一種、それは人生のファンタジーだが、本作の何かしらウォームな雰囲気はそんな出来事が人生に一度くらいはアルフレッド氏の身の上にあるべきだとしみじみ思う次第である。

(追記)知らないうちにSo-netブログにはYahoo!!オークションの関連リンクが設けられるようになっていた。私は面白半分でアルフレッド氏の検索ワードを打ち込んでおくが、リンク画像が現れる事はほぼ間違いなくないと思う。

 

 


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LIve at Cafe Bohemia/George Wallington (ライブ・アット・カフェ・ボヘミア/ジョージ・ウォーリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 音楽聴き生活ももう40年近くになろうとしているので『もう長いこと』という枕詞を頭にくっつけても許されそうに考えているのだが、評価に困るレコードに出くわすことも勿論あって、ふと思い出したのがLIve at Cafe Bohemia/George Wallingtonカフェ・ボヘミアのジョージ・ウォーリントンというレコードの事だ。


 
ライヴ・アット・カフェ・ボヘミア

ライヴ・アット・カフェ・ボヘミア

  • アーティスト: ジョージ・ウォーリントン,ジャッキー・マクリーン,ドナルド・バード,ポール・チェンバース,
  • アート・テイラー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサルクラシック
  • 発売日: 2009/06/12
  • メディア: CD
 良い音楽だと思う。
但し、主観の問題なのだろうが『魂を鷲掴みにするような』というほどの圧倒的説得力を持って迫ってきたことはない。
活発なハード・バップであり好演ではあるが私にとってはどう聴いてもそれ以上ではない。
 しかし本作は一時、好事家の間では燦然と輝く歴史的名盤との評価を受けていたので私の主観とはかなりのギャップがある。
この手の話題は枚挙に暇がないほどそこらへん中に転がっている話だ。
 理由の第一は本作が最初、プログレッシブという極めつけのマイナーレーベルからリリースされていたため、
出回り数が極めて少なかったことに由来しているのではないかと私は想像している。後にこのバンドはプレスティッジと契約し、
アルトサックスはジャッキー・マクリーンからフィル・ウッズへとメンバーチェンジすることになるのだが、リスナーの中には
『今のバンドも良いけどアルトがジャッキー・マクリーンだった頃にはもっと良いバンドだったんだぜ』という御仁もおられた
のではなかろうか。
その手の物言いは結構ありがちではないだろうか。

 しかしそういった言い分の根拠となるべき記録はプログレッシブという頭に”ど”がつくほどの
マイナーレーベルにしか残されておらず、入手が大変困難である。アルトサックス二人を比較すると、
日本ではどちらかというとフィル・ウッズよりもジャッキー・マクリーンの方が
人気があるように私は見ているのだが、そうだとすればいかにも出てきそうな蘊蓄話ではある。
 本作の物凄く高い評価は、希少性が評価に物凄い尾ひれをつけた結果ではないかという味方を私はどうしても払拭しきれないでいる。
繰り返すが、好演ではあるのだが。これが評価に困ったことのうちの一つだ。

もう一つは私の諦めの悪さというか、一種のスケベ根性に由来するちょっとした無駄遣いに関してだ。 
数十年前にはびこった『幻の名盤』ブームのうちでも本作は目玉中の目玉だったと私は記憶している。
ジャッキー・マクリーンは私も結構好きなプレイヤーなのでテイチクから再発された廉価盤には一も二もなく飛びついた。
soho_web52-img600x450-1243734991jxjfhv29850.jpg

 音楽そのものに対する私の評価は最初に書いた通りである。正直言って肩すかしを食わされた気分になった。
しかし本作についてはある種の噂がまことしやかに結構方々で囁かれた。それはどういうものかというと、
再発盤’に収められている曲は全て
別テイクであって、元々の初回リリース盤のマスターテイクこそがこの上なく素晴らしい、との伝聞だった。
 私が雑誌で見た本作のジャケットは冒頭、Amazon.comのリンク画像で示したように薄い青緑のような色だった
という記憶は残っていたので私の買った赤いジャケットの再発盤は音源の散逸が結構著しいらしいプログレッシブのことだから、
一種のピンチヒッターとしてリリースされたのだと
勝手に思い込み、幻はどこまでも幻として保存されていくのだろうかと益体もない妄想に耽った。
 但し私には金にあかせて高価なオリジナル版を蒐集する趣味はないし、そうしたいと思えるほどここでの音楽には
強い印象を受けることもなかった。

 それから数年後、LPレコードの時代もそろそろ終わりかという頃に日本ではビクターから本作が再発されたのだった。
matunoah-img600x450-1251065668ajablk41043.jpg

 ジャケットデザインが違っているので私はこの時の再発盤こそがマスターテイク集ではないかという考えに取り憑かれた。
そろそろLPレコードは市場から姿を消してしまい、これから先はCDに取って代わられることが明らかな時期だったせい
もあって私はさして思い入れの深い音楽でもない本作を餌箱から引っこ抜いてカウンターで財布を開いていた。

 自宅に持ち帰って数年前に買ったテイチクからの再発盤と収録時間を比較してみると確かにどの曲も僅かずつ演奏時間は
異なっていた。
しかし悲しいかな、私の粗雑な記憶力ではどう聴き比べてもどちらの盤もおんなじにしか聴こえないのだった。
果たしてそれぞれ、ジャケット裏に記載されている演奏時間と実際のそれとが同じであるかどうかをストップウォッチ
片手に検証するほど私は生真面目なリスナーではないせいで、本作の評価はそのうちどうでも良くなった。
 正直なところ、ドナルド・バードにせよジャッキー・マクリーンにせよ、本作の参加メンバー全てについていえることだが、
ここでのライブ・レコーディング以上の成果を上げた記録は他にも少なくないと私は見ている。

 結局のところ、別テイク云々の噂話と変更されたジャケットデザインに踊らされて私はレコード一枚分の無駄遣いを
したらしい、という顛末なわけだが、こうしてネットを活用出来る便利な時代になったので、
ヒマを見ては本作のマスターテイクと別テイク云々のことを調べてみようかとも思うのだが、
いっぽうでそんな不毛なことに時間を費やす気にもなれないという考えもあって結局本作
はいつまで経ってもモヤモヤした評価に覆われている。そのモヤモヤ具合こそが『幻の』名盤たる所以なのかもしれない。 

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出てきた男/月亭可朝 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

中川イサト氏のライブを見に行った繋がりで、あれやこれやと周辺の人間関係をネットで見ていると嘉門達夫という人に行き当たった。あまり注目したことはなかったが確かに今までこの人の歌をあちこちで耳にしていたような気はする。
 
それでYou Tubeの動画を漁っていると月亭可朝と共演しているのを見つけた。
月亭可朝には嘉門達夫以上に強烈な思い出がある。少年期に大人の前で『ボインの歌』の出だしを唸って頭を小突かれたことのある御仁は私一人だけではないはずだ。(我ながらすれっからしのガキだったのだと少し恥じ入る)



 特に講釈も必要ないだろうがコミックソングの傑作。何故かこの手の歌は関西弁て唄われると陰湿さが抜けてギャグっぽくなり、結構素直に笑える。関東方面でのコミックソングはというとクレイジーキャッツ(植木等を含む)くらいで、私的には絵に描いたような西高東低の力関係と見ている。

 今日は一日、お仕事の関係でバリバリ関西弁の方と同行していたので何かしらその言い回しが頭に残っていてこの手の歌をちょっと聴きたくなったのですよ。
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サイモン・フィリップスのことを少しだけ [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 備忘録風に駄文を書き飛ばします。

 最近、聴き直す機会があってあらためて良いなあと思えたアルバム

801 Live

801 Live

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Plan 9/Caroline
  • 発売日: 1990/08/31
  • メディア: CD



一応、フィル・マンザネラとイーノの双頭バンドということになるのだろうか。後に同じプロジェクト名でスタジオレコーディングもリリースされた。


Listen Now

Listen Now

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Plan 9/Caroline
  • 発売日: 2000/05/08
  • メディア: CD


 
 ただ聴き直す頻度は最初のライブレコーディングの方が大変多い。どうやら私は一発勝負のスリルみたいなものにいつも惹かれる性分のようだ。ジャケットデザインかっこいいし。

 初めて801Liveを聴いた時には誰にも増してドラムに耳がいった。今思うとこれがサイモン・フィリップスを意識した最初だったことになる。

その妙技


 ジェフ・ポーカロ亡き後のTOTOのドラマーとなった時の評価はちょっと気の毒な気がしたが、こればっかりは継母の辛さみたいなもので致し方のない話かもしれない。

 こうしてネット上で動画がどんどんお披露目されると、以前、音だけを聞いていた頃にはどうにも不思議に思えたコンビネーションがどんな風にして組み立てられていたのかが今更だが納得出来た。左右全く同じような挙動が可能な異才にして初めて可能な奏法だったわけだ。

 801についてはそのうち何かテキストをものにしてみたいと思ってます。

Skies of America/Ornette Coleman(アメリカの空/オーネット・コールマン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ストリング・オーケストラをバックにレコーディングをしてみたいと思うジャズマンは思ったよりも多いのかもしれない。
昨日、スタン・ケントンを聞きながら何となく思いついた。それでレコードの収まっている棚を漠然と眺めていると私の手持ちにも幾らかそういうものがあった。

Apocalypse

Apocalypse

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Sony/BMG
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: CD




大作にして珍作といえるかもしれないが、この一作にかける意気込みが尋常ではなかっただろうことは長い時間を経た今でもひしひしと伝わってくる。正直言ってこの人はロクな曲を作らないが演奏そのものはいつも真摯で素晴らしい。


 誰それ、ウィズ・ストリングスといった趣のレコードをあれこれ聴き続けているうちに私はやっぱりオーネット・コールマンを引っぱり出してきた。

アメリカの空

アメリカの空

  • アーティスト: オーネット・コールマン,オーネット・コールマン,デヴィッド・ミーシャム,ロンドン交響楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: CD







 1980年代以降、コルトレーン教の衰退と歩調を合わせるようにしてオーネット・コールマンが徐々に再認識されるようになってきた風潮を私は結構好ましく思い続けている。ひたむきな求道者が絶対的に素晴らしく、それ以外は全て減点法で評価されるような了見の狭い接し方はどこかで大事な何かを見落とすことになるようだといつの間にか私は心得たつもりになっている。

 強いて言葉で表すのも無粋だとは思うが、私は何だか生理的にオーネットの音楽が好きだ。デタラメで、独りよがりでいながらやたらと開放的で享楽的な佇まいをいつも感じている。良くも悪くもデタラメというのはオーネット・コールマンを理解する上でのキーワードではないかと思う。デビュー以来、節目節目で『予言者か、それともペテン師か』という論争を巻き起こし続けたオーネット・コールマンだが、今になってこうして過去からの諸作を聴き直してみると特段作為的に異端のポジションを狙っていたわけでもなく、ごくごく自然にやりたいようにやっていたらそれはたまたま徒花の立ち位置にあったというのが正しそうだ。

 結局、オーネット・コールマンという人はその出現以来、本人の自覚の上では至って自然に、至って普通に語る人だったのだが、それはおおかた聞いたこともない方言として語られるので受け止める側に誤解されやすい性質を持っていたと整理づけられそうだ。別の喩えで言えばそれはあくまで訛りのきつい方言であって、外国語でも異星人の言葉でもなかったわけで。

 1965年のカムバックに於いて、多くのリスナーはそのサックスで奏でられる音楽がプロとしての成熟を示している点は評価しながらも新たに自分の演奏楽器としてトランペットとバイオリンを持ち出してきた姿勢については大いに叩きまくったのだそうだ。趣旨はといえば「ハンチクな真似ばかりしてあれこれ手を広げる暇があるのだったら、本業のサックスでもっとまともな音楽を演奏しやがれ!」といった内容が殆どだったようだ。
 確かにその演奏ぶりは本業に比べると明らかに余技の域を出ないような拙劣さで、教科書的な評価基準で言えばお世辞にもサックスと同列には評価出来ないような代物ではあったが、本人はカエルの面になんとかというか馬耳東風というか、とにかくそれらを駆使して相変わらずの徒花であり続けた。

 そこへもってきて本作ではフル・オーケストラとの競演である。加えて彼らは素っ頓狂な思いつきでかき集められたにわか作りの混成軍では全然ない。
しかもそのスコアはオーネット・コールマン自ら書き下ろしたものだ。よく知られたポップ・チューンを口当たり良く手短にまとめて聴かせるといったアプローチではない。それは言語の喩えとして言うならば『いや、皆さん、実は僕も皆さん方と同じように標準語で話すことは出来るのですよ』という態度であってあらゆる意味でこの人らしくない。

 節目節目に於けるオーネット・コールマンの諸作がそうであるように本作もまた毀誉褒貶の嵐に晒されたと私は記憶している。ポイントはやはりストリング・オーケストラという背景にあって、少数派である擁護側はこういう西洋音楽の歴史や伝統とか権威性を漂わせる共演者との企画を指してオーネット・コールマンはやはり音楽の伝統を重んじる良識の持ち主だったのだと褒めそやし、圧倒的多数の批判者は本作の、よく言えば素朴な、悪く言えばどこかに未完成さを残すアレンジメントを指して所詮オーネットなどという輩はどこまでいっても未熟でデタラメな音楽しか作り出せない山師に過ぎないと切って捨てた。しかし今になってみるとそのどちらもが的外れであったことが歴然で私などはただ笑うのみだ。

 思うにオーネット・コールマンという人はある楽器の演奏技術を掘り下げ、技巧を突き詰めることで何かを表現したいという縦方向の志向ではなく、まず意識の中にある楽想があり、それを色々な楽器に移植して足し算をすることによって何かを表現したいという横方向の志向の持ち主なのだ。だからどんなアレンジ、どんな楽器(トランペットやバイオリン)であっても固有の方言やら手癖のような旋律があちこちにのぞく。
 本作は何だか物々しい幕開けで始まり、およそ20分近く主役の登場はない。私は学理楽典には全然詳しくないがたいして技巧的ではないオーケストレーションが延々と続くが不思議と退屈せずに割合すんなりと「オーネットの世界」に入って行けるのは先に書いたような資質を即興的な一人称の楽器演奏ではなく、譜面として対象化し記述出来る能力がオーネット・コールマンにはあることを現しているが音楽としては格段それ以上でも以下でもない話である。とにかくオーネット・コールマンの楽想が数十人の演奏者によって実体化するという初の試みが本作なのである。
 本人不在のオーネット・コールマンの世界はそれでも欠落感なく展開されるがやはり散々リスナーをじらせた挙げ句にやおら登場するオーネットは文句なしにかっこいい。後半はサックス・コンチェルトとでも言えそうな言えなさそうな、そんなことはどうでもいいような、何せ、本人のブローがいつものように飛んだり跳ねたりして駆けずり回る。

 音楽というのは果たして作曲者に帰属するものなのかそれとも演奏者なのかという根深い議論の種を本作は内蔵していると私は思うのだが、恐らく本人にはそのような問題提起の意識など鼻くそほどにもなかったに違いない。ストリングスの織りなす波、そのうねりをあしらったり切り裂いたりするここでのオーネット・コールマンはまるで雨戸に乗っかってステテコ姿でサーフィンをやっているようで理屈抜きにクールである。それでいいのだ。

 


中川イサトのライブを聴きに行く(2) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回記事は結構前のものになってしまいましたが

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-09-14

 

 いくつかに切り分けておいた方が私の悪癖であるクソ長文になってしまうので,なるべく勘所をまとめて手短にいきます。

 

当日の会場は『ふたば亭』というところでした。http://tcnweb.ne.jp/~gg/futaba/

オーナーは私のお仕事上の得意先でもあるのだが、なかなか朴訥にして人なつこい感じの好漢。店内も心なしかオーナーの人柄を反映しているようなつくりで、きっとアメリカ中西部あたりの開拓農家がこんな感じではなかったのだろうかと渡米経験があるわけでもない私がイメージしそうな感じだ。

 

 ありがちな話なのだが、今回のライブは新作のプロモーションを兼ねており、出演者は中川イサト氏の他に3名いた。これは新作Daybreak2の参加ミュージシャンでもある。

 

 

Daybreak2

Daybreak2

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ハピネットピクチャーズ
  • 発売日: 2009/06/24
  • メディア: CD
  •  Amazon.comには画像の掲載がないので私がネット上で拾ったものを貼付ける。
  • どこかに少なくとも一曲はリスナーの琴線に引っかかる曲があるはずです。
  • 一家に一枚、皆さん、買ってください!
  • 124609555697916205062_daybreak2.jpg
  •  当日私はライブの会場でついつい一枚つきあわせていただいた。これはこれで一つ、別の機会に取り上げてみたいのだが何だか最近の私はアコギの響きに心和むものを感じているので生活風景には随分なじみの良い音楽である。

 ギタリスト4人の切り込み隊長というかトップバッターはザビエル大村氏で幼少時には北見市(だったかな?)に在住経験がおありだったのだそうだ。ホームページこちら


 元々はフォーク畑なのだそうだが、大阪に住まいを移してからはブルーズ等々アメリカンミュージックを掘り下げるようになったのだそうで、音楽性にはどこかライ・クーダーを連想させる断面が所々現れて出演者中私は最も親近感が持てた。
 自慢めいた話で恐縮だが、当日演奏された曲目Tumbleweed(daybreak2にも収録されています)の楽想は私の愛聴盤でもあるこれ
紫の峡谷<紙ジャケット仕様>

紫の峡谷<紙ジャケット仕様>

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: WARNER MUSIC JAPAN(WP)(M)
  • 発売日: 2007/08/08
  • メディア: CD




の9曲目、邦題は「天国からの夢」を思い出させてくれた。

 

 アフターアワーズでザビエル氏とお話をさせていただく機会があって、幾ら何でもプロミュージシャンにこんな話は不躾かな、と、恐縮しながらそのことを持ち出したら意外やザビエル氏はまさにその通りと言わんばかりにiphoneの再生リストを見せてくれたのだがそこには上記Into the Purple Valleyがそっくり、他にも色々ライ・クーダーの曲が収められていたので今度は私がびっくりした。ヤマ勘で切り出したつもりだったのだが私の耳も案外捨てたものではないな、と、少々嬉しくなった。いやしかし、アフターアワーズというのはあれこれ裏話が聞けたりもして毎度楽しいものです。 


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Shake,Ruttle and Roll (シェイク・ラトル・アンド・ロール) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ロックというカテゴリーの起源がどの辺りにあるかについては諸説あるようだが私は全然詳しくない。

但し、アフロ・アメリカン側からの例証としてジョー・ターナーが取り上げられることはあるようだ。1955年の動画



 Rock'n RollのRollがタイトルの一部に使用されているからというのがその理由なのだろうか。
歴史上の位置づけはさておいても私個人は若い頃からジョー・ターナーの歌いっぷりは大変気に入っている。本当に最後の最後まで全力投球の偉大なシャウターだった。

 ここで私がこれまで何度か書いた事象、つまりアメリカのポピュラー音楽は白人が黒人音楽をパクることによって大きなビジネスとして構築され、その金銭上の恩恵はいつも白人達にだけもたらされ続けてきたではないかという黒人側からの怨嗟が今世紀初めから絶えないことをあらためて考えてみた。
 マイルス・デイビスは自伝の中で何度もその構造を糾弾している。ブルース、ジャズ、ファンクビート、近くはヒップホップと『俺たちから盗み取って自分たちの金儲けに利用しやがる』という視線は未だに拭い難いものがあるようだ。

 ロックで言えばこういうことだろうか、1956年、既にこんな風にカバーされている。


 エルヴィスの登場は社会現象でもあったわけで、 『ネイティブ・アメリカンの混血である南部出身のプア・ホワイトの若造が腰をクネクネさせながら黒人の歌を歌う』姿は白人社会において大変ヒステリックな反応を呼び起こした、ということになっている。
 あくまで黒人コミューンに足場を置き、予定調和的な芸人であることに徹したジョー・ターナーに比べるとエルヴィスは良くも悪くもセンセーショナルな存在だった。

 そしてこの、けしからん若造の歌いっぷりはがめつい白人の大人達に『沢山のガキどもの財布から小銭を巻き上げて大儲けする』ビジネスモデルを思い立たせることになり、ロックという白人主導の音楽カテゴリーはビッグ・ビジネスに成長を遂げてエルビスは20世紀最大のトリックスターへと駆け上がっていく。
 更にこのトリックスターは特例措置に応じることもなく生真面目に徴兵され任期を全うし、ハリウッド映画に主演するようになって健全な好青年を演じ続け、大統領と面会して麻薬捜査官の務めを自ら申し出るようになり、ジャンプスーツに身を包んでラスベガスのボールルームで賛美歌まで歌うようになり、デクデクに太って心臓病を患う身の上になり、やがて亡くなった。

 こういう来歴を駆け足で辿っていくと、自意識の希薄な若者がとった無意識の行いが偶発的に社会現象を引き起こして彼が世の中の仕組みに取り込まれてどんどん変質させられていく、更に彼の自意識の希薄さ故に彼は何ら自己懐疑することもなくどんどんそれに乗っていくという物語性が確かにそこにはあると思う。

 そんな風にしてロックという音楽は黒人コミューンからは唾棄すべきカテゴリーとして目を背けられるようになっていった。生前のジミヘンは「黒人の風上にも置けない奴」という非難に晒され、それは一つの悩みにもなっていたらしいことが死後、知人のインタビューで語られている。最近で言えばマイケル・ジャクソンも似たような立ち位置にあったらしい。

 同じ歌を唄うジョー・ターナーとエルヴィスのどちらがより優れたシンガーであるか、どちらがより好ましいかという主観上での評価はさておき、時代の寵児が出現したインパクトが色褪せることなく伝わってくる。エルヴィスの若き日の動画は色々な意味で私には興味深かった。
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Electric Ladyland/Jimi Hendrix(エレクトリック・レディランド/ジミ・ヘンドリックス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 9月18日はジミ・ヘンドリックスの命日だ。

世の中あまたあるミュージシャンのうちジミヘンは私にとって文句なしに最高ランクに位置づけられる大きな存在であるにもかかわらず、昨年もその前の年も何かをアップしておこうと思いながら結局何もできなかった。過度に思い入れの強い音楽の前では言葉は意味をなさないのだろうか。今年も同じ轍を踏んだ訳だが三日遅れであり、所詮見当違いの印象作文程度でしかないにせよ何かを書いてはおきたい。これまで何度か書いてきたが偉大な音楽というのはリスナーをして何かの行為に駆り立てるものだと改めていまの私は思う。

エレクトリック・レディランド

エレクトリック・レディランド

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: USMジャパン
  • 発売日: 2006/06/21
  • メディア: CD

 

 いつまで経っても語り尽くされることのない本作は、言うまでもなく生前オフィシャルリリースされたスタジオレコーディングとしては三作目であり、本人の手になる編集がなされたものとしてはこれが最後となる。そして、これがまだ三作目でしかないというところにこの人の天才性は際立っているのではなかろうか。

 他の多くのロックバンドなりミュージシャンなりと比較してみれば歴然だが、一作目から二作目、そして三作目という変遷にあってこれほど大きなストライドで表現形態を拡大して行った例は私の知る限りではない。多くのミュージシャンが、例えば三作とか四作かかって達成する音楽的成長を、この人は一作で片付けてしまっている。

  「1960年代後期に於ける進歩的なロック・ミュージシャン」としての姿は既に前作(まだ二作目でしかない)で、ほぼ完成型として提示されている。

アクシス:ボールド・アズ・ラヴ

アクシス:ボールド・アズ・ラヴ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: USMジャパン
  • 発売日: 2006/06/21
  • メディア: CD







 三作目である本作は、既に完成されかけていたLPレコードとしてパッケージングされるフォームを自ら突き崩して更なる拡張を試みた結果、40分では収まりきらずに巨大な混沌を生み出した永遠の問題作と今の私は捉えている。

 例えばの話、かのマイルス・デイビスが1970年代に生み出した新しい彼のバンドの音楽でさえも、そのアイデアの骨格は本作で無造作に散乱している断片の再構築でしかなかったのではないかとさえ私は見ている。他の例を列挙していけば枚挙に暇がないほどだ。そして驚くべきことに、リリースされて40年経過した現在に至っても本作の放つ未消化な危なっかしさ、未完成であるが故の音楽的スリルは摩滅しきっていない。模倣され尽くされてはおらず、言葉などという粗雑で不器用な表現方法によって規定されることを未だに拒絶し続けている。

 きっとあらゆるリスナーが、それまでの経験を総動員して定義づけたい、ある枠の中に収めておきたいという意図の全てを本作はもう40年以上の間、頓挫させ続けている。天才の音楽とは、まさにそういうものではないのか。
 私には未だにここで野放図に展開される世界に届く言葉がなく、それを収めきることのできる視野も持てずにいる。だからと言うべきか、であるにも関わらずというべきか本作にはもう30年以上にわたって物凄い引力を放射し続けていることを私は本作を棚から引っぱり出す度に痛感する。

どこに向かっていたのか
何を見つめていたのか
 
 それらは結局、謎だ。それは天才にだけ答えることが許されている。
毎度聴き直す度に、コンマ数ミリでもそこをかいま見ることを試み、毎度果たされることがない。本作と私の32年間はそういう時間であり、音楽的充足は過剰なほどに満たされながらも音楽が終わった後には必ず頭の中に何かしら謎めいたものが渦巻いている。音楽の謎、謎の音楽、今の時点で無理矢理本作を言葉の枠の中に押し込めようとするならばせいぜいそんな程度でしかまとめようがない。

 近年一つ、うすぼんやりと本作のことで思い描くことがある。
それはギターを嗜む知人と雑談中にジミヘンのことが話題になったある時唐突に飛び出したある仮定で、今から3年くらい以前のこと、もしもジミヘンがまだ存命だったらという話に及んだ時、知人が言うにはもう音楽とは何の縁もない生活を送っているのではないか、例えば孤島とか山奥で一人暮らしをしながら絵でも描いているといった生活を送っているのではないか、だってもう、音楽として表現できることなど全てやり尽くしてしまったじゃないか、というものだった。

 私はその仮定に、ひどく強いシンパシーを抱いたのだった。
しかしこの、生き急ぎ過ぎた天才が目指した着地点が音楽ではない何かだったのではないかという仮定でさえも、ではどこだったのかと想像を巡らしてみれば言葉はそこで機能を失う。

 本作は音楽とそうではない何かの境界上で常に揺らぎ続けて無数の謎をリスナーに投げかけ続け、これまでそうであったようにこれから先も無数のリスナーを取り込み続けては惑溺させ続けることだろう。この世に少なくとも一つ、そういう音楽は確かに存在することを私は知っている。

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Low Down Dog/ BIG-Joe Turner (ロウ・ダウン・ドッグ/ジョー・ターナー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

  拙ブログに度々nice!を頂いているシロタ様のブログで取り上げられたDr Johnの動画を見ているうちに頭の中でブギウギとかジャンプナンバーが鳴り始めるようになった。

http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2009-07-27

 無条件で楽しい気分になりたい時に毎度引っぱり出すのが


The Bosses

The Bosses

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Original Jazz Classics
  • 発売日: 1994/10/24
  • メディア: CD



 ただただ聴く。理屈は無用といった感じ。体が勝手に揺れそうになるのを堪えている。特段誰に見られているわけでもないのに。
図太く、厚みたっぷりの声質は無条件で天からの授かり物であり、財産なんだなあと思う。全く持って歌うために生まれてきた人だ。



 曲の頭が切れているのが惜しいが、バックのメンバーにヴィック・ディッケンソンがいる。見間違いかもしれないがこういう発見は妙に嬉しくなるものだ。嬉しくはあるがソロパートのないのが惜しいというかもったいないというか。どんな楽器の名人であってもシンガーが一人立てば脇役であることを余儀なくされるのが音楽の鉄則だ。

 ソロと言えば中間部でクローズアップされるしぶーいトーンのトランぺッターはなんとバック・クレイトンだ。御大のことはさておいて本人の動く姿を私は初めて目にして結構驚喜している。ネットというのはつくづく有り難い。

  話がそれるが、私はバック・クレイトンのリーダー作が一つも復刻されていない現況を大変苦々しく思っている。
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I Want You Back/jackson 5 (アイ・ウォント・ユー・バック/ジャクソン5) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 先日のテキストでソフト・マシーン「5」のことを買いたのでこれに引っ掛けて、というわけではないが、今月亡くなったマイケル・ジャクソンのことをつい連想した。

 私はこれまで、マイケル・ジャクソンの熱心なリスナーだったことがない。
受け止め方としては、少年期においてカーペンターズに抱いていた印象に近いものを青年期においてはこの人に感じていた。ビューティフルではあるのだが自分には縁のない世界をシールドの外側から眺めている感じとでも言おうか。

 ある期間、私の身の回りには朝から晩までのべつまくなしにこの人の歌う歌が氾濫していた(本当に凄かった)。音楽などさほど熱心に聞かない人の家にもこのレコードは殆ど必ずと言っていいくらいあった。よほど売れまくったのだろう。
スリラー(紙ジャケット仕様)

スリラー(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: SMJ
  • 発売日: 2009/07/08
  • メディア: CD

 自分で買って聴きたいとは思わないが、工業製品としては恐ろしくクオリティが高いことには疑問の余地がない。ここから多くのカバーも生まれた。ビートルズがそうであるように永遠のスタンダードとしてこれから先は更に祭り上げられていくのだろう。

 それで、さほど関心を持つことのないシンガーだったわけだが、このブログでリンクを貼ってある町山智宏さんのブログページで記事を見て少し認識が変わったことを書き留めておきたい。

記事リンク  マイケル・ジャクソンはチャップリンだった  http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20090708

私にとっては目から鱗の落ちるようなテキストだったので(実は無断で)引用させていただくことにする。

(引用はじめ)

チャップリンの生涯とマイケル・ジャクソンの生涯には共通点があまりに多い

二人ともいつまでもこどものような大人を演じ続けた。

二人とも、いつも白塗りの顔にアイラインを入れたピエロの顔をしていた。

二人とも、ヘンテコな歩き方がトレードマークだった。

二人とも、作品では愛と平和を訴えながら、私生活ではペド呼ばわりされ、裁判にもなった。


(引用終わり)

 

ポピュラー・ミュージックは巨大な音楽産業であって、マイケル・ジャクソンともなれば大きなお金の動くビジネスモデルの偉大なアイコンだったことは言うまでもない。その音楽は一シンガーのという枠を超えて精鋭揃いのプロジェクトチームの所産と見るべきだろう。そのことの善し悪しをここで書き連ねる意図はないが、私個人としては声変わりする前の、恐らくはがめつい大人達との交渉ごとなどという場面とも縁がなく、ただただ天真爛漫にリードシンガーを努めていた(ように見える)頃の歌唱が割合と好きだ。 

少年期の私はこの、無邪気さや肯定的な空気をそっくり裏返しにしたような日々の中にいた。家庭も学校も大嫌いだったので、ただでさえ気分の沈みがちな日曜深夜に放送されていたこのソウル・トレインSoul Train は何だか忌々しい番組だったのだが、今になってYou Tubeで当時のプログラムを見ていると後のどこか無機的な印象さえ受ける巨大なビジネスアイコンとなったマイケル・ジャクソンはこの頃の歌いっぷりのほうが幸福そうに見える。 

 何でも亡霊騒ぎというのもあったのだそうで、 

どうせスタッフの影か何かだろう。全くくだらない。

今日日のテレビなどというメディアが低劣きわまりないのは論を待たないとしても、死んだ後もこうして面白半分に自宅の中を晒され続けるかつての主が気の毒だ。


5/Soft Machine (5/ソフト・マシーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 今年の夏は天気がよくない。

 一日晴れたかと思うと三日くらいは雨が降るような今日この頃である。晴れたからといって暑くなるわけでもない。目下のところ私の住む土地で真夏日は一日もないので半袖シャツの出番も例年に比べて大変少ない。

 気候によって聴く音楽もある程度は定められてくるのが音楽聴きである私の習慣なので、例年であれば秋頃聴く事の多い本作を7月下旬、冷夏の昨今によく聴く。

5

5

  • アーティスト: ソフト・マシーン
  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2005/03/02
  • メディア: CD

 

 本作については以前、Oops!にテキストをアップした事がある。今、投稿日を確かめてみると2005年の9月25日だったので、やはり秋頃に取り出して聴く事の多い音楽だったのを再確認できた。

http://oops-music.com/community/actionlog.html?mid=86500&mode=review&pnum=2

 貼付けてみて改めて思うが、過去に書いたテキストを読み返すというのは恥ずかしいものだ。手前味噌だがこうして好き放題に垂れ流しのテキストを書き散らせるブログと違ってOops!への投稿は二千字以内という制約があるので私も内容をまとめる為にそれなりにない知恵を絞っていたらしい形跡は伺える。

 それはさておき雨の降る肌寒い秋の夜に聴く本作というのは私にとって何とも馴染みがよく、 曲間のSEで使われるぴっちゃんぴっちゃんいう水滴の落下する音が音楽そのものと同じくらい強く印象に残っている。もう30年以上にもわたって雨、夜、秋に引っ掛けて私は本作を聴き続けているのだが何か音楽そのものが体の一部のようになってしまっているのかもしれない。情動性をとことん排除し、ストイシズムをとことん研ぎ澄ませていくとニヒルなダンディズムの境地に到達する事があるのではないかと私は本作を聴く度に思う。大変クールな世界だが他人様の目からは単なる偏屈オヤジの世界にしか見えないのだろうとも思う。


Lyle Mays(ライル・メイズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 今年の夏はさっぱり暑くならないが、それでも長年の習慣で夏の間はパット・メセニー一党のレコードを聴く機会が増える。
パーカッションにナナ・ヴァスコンセロスが加入した時期以降は中南米風味が加わったようなテイストでなおさら夏向きのバンドトーンを持つようになった。

  何かの拍子に、そういえばメンバーのうちの一人、ライル・メイズのソロ作を買ったきりで随分長いこと聴いていなかったのを思い出した。
Lyle Mays

Lyle Mays

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Warner Bros.
  • 発売日: 1998/12/22
  • メディア: CD







 
 聴き終わってみて私は結構良く聴くドン・チェリーのEternal Rythmを思い出していた。(傑作ですよ)
Eternal Rhythm 永遠のリズム

Eternal Rhythm 永遠のリズム

  • アーティスト: ドン・チェリー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2003/11/21
  • メディア: CD
以前書いたレビューまがいのテキストはこちら
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2008-10-03

無国籍風のごった煮音楽という点では共通するが、エターナル・リズムはさすらいの大道芸人チックにしてプリミティブな肉体言語による肌合いであるのに対して本作はもっと文学的というか絵画的というか、意識的というか構築的というか、インテリの手になる世界紀行的音楽と聴いた。ワールド・ミュージックと一言でいってもそのアプローチはミュージシャンによって様々だとあらためて思う。 

 すでにAmazon.comのレビューで触れられているように、本作全体を貫くトーンカラーは殆ど全くパット・メセニー・グループそのままといってよい。言い換えると、パット・メセニー・グループの音楽性とは、実はあらかたライル・メイズのアイデアに負うところのものだったことが本作でわかる。 
 とは言え、当然ながら本作でのギターはパット・メセニーほどには明確な個性を持たないプレイヤーでソロスペースも控えめなのでその存在感の小ささによって本作はライル・メイズのソロ作であることを示している。 

 
曲調はバラエティに富んでおり、本人の郷里であるところのアメリカ中西部を出発点として日本へ、それからアラスカ、夜の星空を思わせるトーンポエムを経て故郷に戻ってくる、といった感じの構成をなしている。 

こういう論理的整合性を持った音楽上のストーリーは、作曲以前にあらかじめ全体構想として練り上げられていたものに違いなく、先に書いたドン・チェリーの音楽世界が北アフリカや中近東をイメージしており、ひとつながりの曲として半ば感覚的、突発的に場面転換しているように聴かせるのとは良くも悪くも対照的だ。 

 すなわち、そのコンストラクションは緻密で隙がなく、細部に至るまで欠落も過剰もなく、知性的で申し分なく説明的でもある。しかし反面、文脈上矛盾するが、この音楽には私にとって大変大きな欠損がある。それは肉体が楽器を駆使することで発散される生命の脈動とも言うべきもので、見事にデコレートされていながらプレイそのものには印象深い局面がない。表層的な意味でなく、人の体温や躍動感が伝わってくるのは皮肉なことにパーカッションをはじめとするサイドメンの演奏がクローズアップされる場面ばかりで、リーダー本人によるピアノソロは紋切り型の予定調和で薄ら寒いほど没個性的だ。

 本作が音楽としてどういう立ち居値にカテゴライズされるのか、といった議論はさておくとして、半ば本能に根ざした衝動的な身振りが時にはあらかじめ作編曲された状況と拮抗し得るほどのドラマツルギーを持つこともあり得る、という偶発性にジャズの面白さの一側面があるのだとすれば、パット・メセニー・グループの音楽総体としてのクオリティはライル・メイズによって担保されているのは先に書いた通りだが、ちょっと聴きにはアメリカ版プログレ風のこのバンドをジャズのカテゴリーに押しとどめている要因とは第一にやはりリーダーのプレイだったのだとあらためて再確認した。 

 予想を超えたドラマや偶発性の生み出すスリルというのは本作の中にはないが、精緻さとストーリー性に富んだ、清潔感や清涼感のあるビューティフルな音世界に40分間浸ってみたいときには大変具合のいい音楽である。 こういった、頭の中で大方のものがあらかじめ構築された涼しげな肌合いの、ステンドグラスみたいに壮麗な音楽、というと、少年期に大きな驚きとともにはまり込んだこんなレコードのことも思い出す。
チューブラー・ベルズ(紙ジャケット仕様)

チューブラー・ベルズ(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: マイク・オールドフィールド
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2004/07/22
  • メディア: CD
 作編曲の構成力はずば抜けているがプレイヤーとしての印象は希薄、というのが共通点だろうか。 

 補記のようなこととして、欧米のミュージシャンが日本をモチーフとした音楽を演奏するとき、私の知る限りではほぼ例外なく中国風のテイストになってしまうのはどういうわけか。本作二曲目のTeiko(ていこさんという日本人女性をイメージしてのものらしい、実在の方なのだろうか)は日本人の私が聴くとなんとも中華風味の音楽だが西洋人の受け止め方、見え方としては中国も韓国も日本もみんなOrientalでひとくくりになっているのかもしれない。 立場を変えてみれば私にしたところで米国も英国もフランスもみんな西洋としてひとくくりに見ているところは確かにある。

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The Trance/Booker Ervin(ザ・トランス/ブッカー・アーヴィン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回、ブッカー・アーヴィンのことをちょっと書いた後、しばらく意識に引っかかり続けているレコードがあったことを思い出して聴き直してみた。

ザ・トランス+2

ザ・トランス+2

  • アーティスト: ブッカー・アーヴィン,ジャッキー・バイアード,レジー・ワークマン,アラン・ドウソン
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2006/03/24
  • メディア: CD







 
 梅図かずおの怪奇漫画から一コマ拝借してきたようなジャケットデザインだ。 
私にはこういう虚仮威しめいた、安っぽいハッタリの効いた意匠に転がる傾向が確かにあって、良くも悪くも何かを予感してしまう。
  
 あらためてブッカー・アーヴィンというプレイヤーの立ち位置を考えてみると、何かしら気になる点がなくもない。 
片方に無調ででフリーリズムのサックスプレイヤー、例えばアルバート・アイラーのような人を置き、対極に4ビートのハードバッパーを位置づけてみる。 普段、私の中の図式ではこの中間あたりに位置するのは例を挙げるとウェイン・ショーターだったりジョー・ヘンダーソンだったりする。無理矢理カテゴライズするならモードの申し子のようなプレイヤー達とでもいうことになるのだろうか。 
 それで件のブッカー・アーヴィンはというとそれら申し子達ほどには感覚的には新しくなく、だからといって円満なハードバッパーの範疇からも幾分はみ出しているような、あるプレイスタイルのぶれというか感覚的な新しさでいうと中間のそのまた中間地点、ある意味中途半端に新しく聴こえなくもないややこしいところに立脚しているように思える。ある種の特異点と捉えても良さそうだ。 

 そしてこの特異さ加減は、ブッカー・アーヴィンが籍を置いていたチャールズ・ミンガスの立ち居値ともどこかで共通しているように思えている。細部のイディオムは格別目新しくはないのだが全体を鳥瞰すると何かしら定型の様式から逸脱したテイストを漂わせている印象を受ける。ついでに言えば何やら強面風の、少々ミステリアスにして無愛想な体臭もそっくり親分から受け継いだような風に思えている。 

 本作は特段代表作とも言えない出来だと私は思っているのだが、この目玉を大書した何やら面妖なジャケットデザインはブッカー・アーヴィンというプレイヤーのありようを良く現している。 
 本作のタイトルはThe Tranceという。「恍惚」という訳語を当てるのが妥当なのかどうか自信はないが、本作一曲目、LPレコード片面いっぱいを占めるタイトルチューンをこれまで私は最後までまともに聴き通せたためしがない。 
 お恥ずかしい話だが何故か必ず聴いている途中で居眠りしてしまう。だから何度聴いても全体の構成が頭に残らない。夢幻のごとき音楽が展開されてそのあまりの美しさに恍惚となって快いうたた寝に誘われるということでは全然ない。有り体に言って本作は全編、頭の先からしっぽまでおよそ構築性に欠ける垂れ流しの凡演であって全ての曲が無意味に長い。

  冒頭、イントロで奏でられるジャッキー・バイアードのフリーフォーム風のフレーズはいかにも何事かが起こりそうな緊迫感をたたえており、毎度『今度は眠らずに最後まで聴き通すぞ!』と思わせるのだがテナーのソロが始まり、中盤以降の中だるみ垂れ流し風の展開にさしかかるとこれまた毎度私のテンションは弛緩していく。とぎれとぎれになる意識にどうにかこうにか喝を入れて頑張るのだがベースソロの途中で力尽きて抗い難い睡眠の魔力に取り込まれていく醜態がお約束みたいになっている。

  演奏時間が長い例などいくらでもあるし、寝不足等々よほどくたびれていない限りLP片面を緊張感を維持しながら聴き通せる程度の体力はまだあると思い込んでいるが本作はどうにもいけない。毎度内周の無音溝を針がトレースする時のボッツンボッツンいう音で目を覚まし、何度も繰り返しの失態に舌打ちをする。20分にも及ぶ、しかも全編垂れ流しみたいな音楽をもう一度最初から今度は真面目に聴き直そうという気にもなれず、レコード盤をひっくり返す。 
 そして裏面はというと、タイトルチューンの大体半分ほどの演奏時間ではあってもこれまた全編垂れ流しの、何だか締まりのない凡演でまたしても私は居眠りモードに引きずり込まれていくのが通例となっている。 

 要するに本作は、その見てくれといい音楽そのものといい、全く羊頭狗肉としか言いようのない困り者で、今までのところ私にとっては睡眠導入音楽としてしか機能していない。何だか意味ありげな装丁といい、申し分なく相性の良さそうな楽想の持ち主であるはずの共演者といい、音を聞かなければ何かしらワクワクするような期待感はもたらしてくれるのだが・・・・ 

 意地の悪い見方かもしれないが、ブッカー・アーヴィンというプレイヤーはある大きな制約を外側から与えられることで本領を発揮するタイプのミュージシャンなのではないかとある時期からの私は考えている。それは例えば共演者の中に同じリード楽器奏者がいるとか、与えられるソロパートが限られているとかいった状況にあってサマになってくるような佇まいだ。 これから演奏する音楽全体の青写真から構想する、という場面から一切合切を委ねられたとき何が生み出されてきたか、というよりも何を生み出さずに終わってしまったかが本作には記録されているともいえそうだ。  蛇足だが、本作とは真逆に、一見無秩序でありそうに聴こえながらよくよく聴いているとかなり厳密な事前のストラクチャーが見えてくる音楽として思い当たるのがこれ。 
ユニット・ストラクチャーズ

ユニット・ストラクチャーズ

  • アーティスト: セシル・テイラー,ヘンリー・グライムス,アラン・シルバ,エディ・ゲイル・スティーブンJr.,ケン・マッキンタイヤ,ジミー・レオンズ,アンドリュー・シリル
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1998/02/25
  • メディア: CD
 ある意味数学的な、と言いたいほどロジカルな音楽だったことに気づいてからもうだいぶ経つ。

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ブッカー・アービンのこと [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私はジャズ・ミュージシャンについてさほどえり好みが激しいという自覚はなく、割合と誰でも受け入れる方ではなかろうかと思うが少々ネガティブな記憶のされ方をしているうちの一人にブッカー・アービンがいる。

 私が20代の前半だった頃、赴任していた勤務先のある土地で親しくなった(と、私は勝手に思い込んでいるだけなのだが)某氏は随分造詣の深いリスナーで、コバンザメよろしく私は随分色々なことを教わったが、憶えている限りで唯一、実名を出して「俺はこの人は受け付けられないんだよなあ」と仰っておられたのがブッカー・アービンだった。
 それがある種の刷り込みとなっているのかもしれないが、その後の私にとってブッカー・アービンはその録音にクレジットされていることがレコードを購入する理由とはなり得ないプレイヤーとなったまま今日に至っている。

 音楽を聴く行為は限られた時間とお金の中でのことなので、あまり断定的な物言いも憚られるのだが、私がブッカー・アービンの演奏で記憶に残っているもののうちリーダーアルバムは全くない。サイドメンとして参加しているものについては二つくらいはすぐに思いつくのだが皮肉なことにそれらはどちらも更に強烈なリード奏者が共演しているのでせっかくの力演にも関わらず格落ちの印象を抱かざるを得ない。

一つ目がこれ
オー・ヤー(+3)(デラックス・エディション)

オー・ヤー(+3)(デラックス・エディション)

  • アーティスト: チャールズ・ミンガス,ダグ・ワトキンス,ローランド・カーク,ジミー・ネッパー,ブッカー・アービン,ダニー・リッチモンド
  • 出版社/メーカー: イーストウエスト・ジャパン
  • 発売日: 1999/04/21
  • メディア: CD
 重心の低いフロントラインだ。ブッカー・アービンにとっては屈指の力演だと思うがここではローランド・カークが更に凄い。


二つ目はこちら

ザ・クエスト(紙ジャケット仕様)

ザ・クエスト(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: マル・ウォルドロン,エリック・ドルフィー,ブッカー・アーヴィン,ロン・カーター,ジョー・ベンジャミン,チャーリー・パーシップ
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2006/07/26
  • メディア: CD
本作については私がブログを書くようになる以前、Oops!に駄文をアップロードしたことがある。


3年前のテキストを今になって読み返してみると何とも恥ずかしい代物でしかないのだが、ここでのブッカー・アービンの立ち位置に対する私の見方は今に至るまで変わっていないことを再確認出来た。
 同じことを何度も書くのは無粋だが、やはりここでもエリック・ドルフィーが抜きん出て凄い。

 エリック・ドルフィーは何と言っても私が初めて接したジャズミュージシャンだったのでとりわけ強い思い入れを持っている。それだけに、このことは我ながら馬鹿ではないかと思うくらい何度も何度も折に触れて書いておきたいのだが、よりによってFire Waltzでドルフィーにソロスペースを一切与えないこのアレンジはきっと一生私の中にしこりとして残りそうだ。

 ブッカー・アービンに対する私の、何かしら否定的な気分の一番の根拠がこれではないかと常々思っている次第。全編いいソロをとっているのだけれど。

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What a Fool Believe/Doobie Brothers(ホワット・ア・フール・ビリーブ/ドゥービー・ブラザーズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 貧乏暮らしの日々ではあるが、それでも時たま買い物に行く程度の小金はないこともない。

ここ数年は若い頃と違ってCDを買うにも思いつきとか、行き当たりばったりでいい加減な選択をすることが多い。ケースを穴の開くほど睨みつけ、熟慮を重ねて財布の中身と相談してということがあまりない。若い頃には意識して遠ざけていたようなミュージシャンの音楽を聴くことも歳とともに増えてきた。素直に受け止めることができるようになってきたという意味で人間としての度量が増してきたというべきか、それともある時期までは許容幅を狭めることがある種卓見の持ち主であるかのように振る舞いたくて無理に気取っていただけのことなのか、いずれにしてもここ数年の変化それ自体にはある程度の自覚はある。

 青年期の私にとって、ドゥービー・ブラザーズは必ずしもストレートに許容出来るバンドではなかった。それは先に書いたように、ある種やせ我慢によって目を背けていた種類の音楽だったことを意味している。
 手前勝手な区切り方でいうと、バンドメンバーの移行があったりはしたせいか、同時期の米国西海岸を拠点とするバンドの対比でいうと、ドゥービーとスティーリー・ダンのどちらにより傾倒しているかはその人の音楽的嗜好にとどまらず、人格の内実をある程度反映する物差し足り得たのではないかと私は薄々考えていて、若い頃の私自身は疑いもなく後者だった。

 その嗜好が私自身の何を表しているかはさておき、ともあれ、現在の私は日曜日、たまたまふらりと入ったにブックオフでドゥービー・ブラザーズの、それもベスト盤を買い込んできてダラダラ聞いているようなオヤジになった。
 ことさら作品性を絶対視していた覚えはないが、ひとつひとつリリースされていたもののディティールをためつすがめつ重箱の隅をほじくり返ようにして聴くことがだんだん面倒臭くなってきたのだろう。

ベスト

ベスト

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1998/05/25
  • メディア: CD

 

あらためて、通して聞いてみると遠ざけていたとは言いながら聞き覚えのある曲が結構多い。貧乏人の弁解みたいな話ではあるがこうしてベスト盤を一枚買う、というつきあい方が割合と妥当なバンドであるように思える。  シングルヒットがきっちり詰まったパッケージングで編集としてはよくできているように思える。中で一曲、What a Fool Believeという曲をしばらく前にラジオで聞いて若い頃のことを思い出したのであらためて聴いてみたくなってこのように中古盤を見つけ出してきた、といういささかせこい事情が実はある。  諸兄は既にご存知だろうが元々はこれに収録されていた。
ミニット・バイ・ミニット(紙ジャケット仕様)

ミニット・バイ・ミニット(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: ドゥービー・ブラザーズ
  • 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2006/07/12
  • メディア: CD
 元々のアルバム自体大ヒットしたそうだが、この曲はアルバム中での目玉チューンでもあったようでシングルカットされて若い頃私の周辺では随分方々で耳にした覚えがある。  私は英語の素養がさっぱりないのでタイトルについてうまいニュアンスが思い浮かばないが『それを信じてるなんてアホな奴だねえ』といった感じなのだろうか。  歌詞の内容は、以前別れた彼女と再会したある男性がよりを戻そうとしてしくじる。それで、時間をさかのぼってやり直すなんてことはできっこないんだよ、そんなことを信じている奴は愚かしい、というのが大意らしい。 私が学生の頃にふと耳にして何だか気になり、それから20数年経って最近、何かの拍子にたまたまラジオでこの曲を聞いて再び気になり、こうしてブックオフで中古盤を見つけてここしばらく何度か繰り返して聴いているというのは実はここで歌われているような出来事が、この間の私自身の身の上にあったからで、世間に充満する様々な人生模様のうちではゴマンとある話だが、それでもやはり当事者になってみれば何だかんだいってもきつい時間だったよなあ、と複雑な気分で当時を回想してみたりもした。  私自身がここで歌われているような愚かな恋愛観の持ち主だったことと、初めて耳にして歌詞の意味もわからずいい気分になっていた学生の頃には自分のそのような愚かな資質に気づいていなかったこととを併せると、私は二重の意味で愚かな奴だったことになる。何とも耳あたりのいいポップチューンの中に自分の愚かな一側面が歌われていたことに少々感慨めいた気分を喚起されたりもする。  動画の検索をしてみると、さすがにグラミー賞を受賞しただけあって随分色々と見つかった。 お年を召してからのマイケル・マクドナルドの歌いっぷりは高い音域が相当苦しそうで、スタジオレコーディングされた頃の感傷的な気分や都会的なソフィスティケーションは余り感じられないが、齢を重ねるとはそういう変化を余儀なくされるということなのかもしれない。迫力型の絶唱という感じ。  途中でソロをとっているギタリストがリー・リトナーであることに気づいた。 何故か登場してきた頃そのまんまのスマートさ、スムーズさで、プレイスタイルは全然変わっていない。 「おめえもそれ相応にオヤジになれよ」と、パソコンの画面を見ながら一人ごちている私の姿は先に書いたのとはまた別の意味で、さぞかし愚かなオヤジに見えることだろうw

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