Jazz Young Blood/Chuz Alfred(ジャズ・ヤングブラッド/チューズ・アルフレッド) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前日私は『幻の名盤』云々かんぬんといったような駄文を垂れ流した。(行の末尾が切れてしまってうまく表示されないのだが直し方がわからないのは大いに悩ましい)
名盤かどうかは大いに疑わしいいが、幻の存在である事が周知されているだけでもまだ幸福ではないかと思える。存在した事さえも人々の意識から失せてしまったとすればそれは評価の対象にならないのだから。そんなレコードはそれこそ浜の真砂のごとく無数にあったのだろうが本作はその中にすっぽりと収まる。
- アーティスト: チューズ・アルフレッド,ビニー・バーク,チャック・リー,オラ・ハンセン,ケニー・クラーク
- 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
- 発売日: 1994/03/21
- メディア: CD
CDとして再発されている事はちょっとした驚きだがさっぱり売れていないだろう事は容易に察しがつく。それが証拠にAmazon.comのリンク画像さえない。発売が1994年となっているのでもう15年経っているわけだがカタログ落ちしていないのは重ねて驚きだ。
大体サヴォイというレコードレーベルは確たるレーベルイメージが把握しづらい上に売る気があるんだかないんだか首をひねりたくなるような低劣極まりないジャケットデザインのおかげで随分損をしていたと思う。本作についてはこうだ。
何ともお粗末極まりないとしか思えないが中身は悪くない。曲ごとの変化に乏しいのが本作を印象の薄いものにしている恨みはあるがミュージシャンとしてのセンスは悪くないと私は思っている。
本作はオハイオ州出身の無名の若者をNYデビューさせるべくそれなりに力を入れて企画されたレコーディングなのである。それが証拠にリズムセクションにはベースにヴィニー・バーク、ドラムにはケニー・クラークという当時のサヴォイ・レコードのハウスプレイヤー達がつきあっている。もっとも、それは結果として堅固な基礎の上に建てられた少々普請の心許ない家といった印象がある。
私は20数年前にキングレコードからリリースされた国内盤LPとして本作を入手したがライナー裏のキャッチコピーには哀れを誘うものがあって改めて感じるものがあった。それはこんな具合だ。
オハイオ出身の若手3人がNYジャズ界に幸運なデビュー。しかし・・・・無名のまま散った。若き日の唯一の栄光の記録。★本邦初登場
彼らの名誉の為に書いておくと、バンドとしては結構凝ったホーンアンサンブルをスムーズにこなし、ウェストコースターによく聴かれるような軽妙なやり取りが結構楽しい。主人公のチューズ・アルフレッドは強いていえばズート・シムズ似のレスター系、トロンボーンのオーラ・ハンソンは朗々と良く鳴る明快なトーンの持ち主てこれまた強いていえばビル・ハリスあたりにちょっと似か。(この人だけは三人のうち他にも録音歴があるらしい。ソニー・クリスの作品だそうだ)ピアノのチャック・リーはクリアータッチの持ち主でソロの場面では中々趣味の良いブロック・コードを随所で披露する。
テナーサックスとトロンボーンのフロントラインに3リズムという編成は私は結構好きで、ボビー・ジャズパーとJ.J.ジョンソンとかジミー・フォレストとベニー・グリーンの諸作を結構愛聴しているので本作もわりかし心地よく受け入れられる方だがいかんせん何か記憶に痕跡をとどめるような色合いの強さというかインパクトに欠けるあたりが無名のままフェードアウトしていった理由なのだろう。和文ライナーでもひどい書かれようで『この手の作品は二度と復刻されそうもない』などという納得できるようなバカ正直ともいえそうな一節がチェックもされずに記述されている。
しかしまあ、私のような何の芸もない一リスナーはこうしてレコードだけを取り上げて好き勝手な駄文を垂れ流し続けているが、楽器演奏に携わっている方々にとってはレコードを吹き込めるというのは全体数のうちの一握りに過ぎず、たった一度だけとはいえその機会に恵まれた事は彼らそれぞれの人生の軌跡の中にあっては大いにメモラブルな出来事だろう、マイナーとは言えあるレコードレーベルから声がかかったときのその心情はおそらく大変な高揚感をもたらしただろう事は時間の流れとともにその存在が埋没していく事は間違いないこの私には、相当の羨望を伴って実に良くわかる気がするのだ。
ご本人であるアルフレッド氏はその後も音楽活動を続けておられたらしい事を私はネットで知った。
http://www.dancemetonight.com/Chuz_Alfred.htm
唯一のレコーディングはやはりご本人にとっても晴れがましいものだったようで、私は英語はさっぱりわからないが少々微笑ましい気分でそのHPを拾い読みした。
ここで少々、益体もない空想を書いておきたい。視点をアルフレッド氏に置き換えてみるとして、ある日あるとき、見た事のない東洋人がアルフレッド氏の前に現れて『私はあなたのレコードを買いました。よく聴いていますよ』と話しかけてくる。一種、それは人生のファンタジーだが、本作の何かしらウォームな雰囲気はそんな出来事が人生に一度くらいはアルフレッド氏の身の上にあるべきだとしみじみ思う次第である。
(追記)知らないうちにSo-netブログにはYahoo!!オークションの関連リンクが設けられるようになっていた。私は面白半分でアルフレッド氏の検索ワードを打ち込んでおくが、リンク画像が現れる事はほぼ間違いなくないと思う。
LIve at Cafe Bohemia/George Wallington (ライブ・アット・カフェ・ボヘミア/ジョージ・ウォーリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
音楽聴き生活ももう40年近くになろうとしているので『もう長いこと』という枕詞を頭にくっつけても許されそうに考えているのだが、評価に困るレコードに出くわすことも勿論あって、ふと思い出したのがLIve at Cafe Bohemia/George Wallingtonカフェ・ボヘミアのジョージ・ウォーリントンというレコードの事だ。
出てきた男/月亭可朝 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
それでYou Tubeの動画を漁っていると月亭可朝と共演しているのを見つけた。
月亭可朝には嘉門達夫以上に強烈な思い出がある。少年期に大人の前で『ボインの歌』の出だしを唸って頭を小突かれたことのある御仁は私一人だけではないはずだ。(我ながらすれっからしのガキだったのだと少し恥じ入る)
特に講釈も必要ないだろうがコミックソングの傑作。何故かこの手の歌は関西弁て唄われると陰湿さが抜けてギャグっぽくなり、結構素直に笑える。関東方面でのコミックソングはというとクレイジーキャッツ(植木等を含む)くらいで、私的には絵に描いたような西高東低の力関係と見ている。
今日は一日、お仕事の関係でバリバリ関西弁の方と同行していたので何かしらその言い回しが頭に残っていてこの手の歌をちょっと聴きたくなったのですよ。
サイモン・フィリップスのことを少しだけ [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
最近、聴き直す機会があってあらためて良いなあと思えたアルバム
一応、フィル・マンザネラとイーノの双頭バンドということになるのだろうか。後に同じプロジェクト名でスタジオレコーディングもリリースされた。
ただ聴き直す頻度は最初のライブレコーディングの方が大変多い。どうやら私は一発勝負のスリルみたいなものにいつも惹かれる性分のようだ。ジャケットデザインかっこいいし。
初めて801Liveを聴いた時には誰にも増してドラムに耳がいった。今思うとこれがサイモン・フィリップスを意識した最初だったことになる。
その妙技
ジェフ・ポーカロ亡き後のTOTOのドラマーとなった時の評価はちょっと気の毒な気がしたが、こればっかりは継母の辛さみたいなもので致し方のない話かもしれない。
こうしてネット上で動画がどんどんお披露目されると、以前、音だけを聞いていた頃にはどうにも不思議に思えたコンビネーションがどんな風にして組み立てられていたのかが今更だが納得出来た。左右全く同じような挙動が可能な異才にして初めて可能な奏法だったわけだ。
801についてはそのうち何かテキストをものにしてみたいと思ってます。
Skies of America/Ornette Coleman(アメリカの空/オーネット・コールマン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: Sony/BMG
- 発売日: 2008/02/01
- メディア: CD
- アーティスト: オーネット・コールマン,オーネット・コールマン,デヴィッド・ミーシャム,ロンドン交響楽団
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
- 発売日: 2006/03/01
- メディア: CD
中川イサトのライブを聴きに行く(2) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-09-14
いくつかに切り分けておいた方が私の悪癖であるクソ長文になってしまうので,なるべく勘所をまとめて手短にいきます。
当日の会場は『ふたば亭』というところでした。http://tcnweb.ne.jp/~gg/futaba/
オーナーは私のお仕事上の得意先でもあるのだが、なかなか朴訥にして人なつこい感じの好漢。店内も心なしかオーナーの人柄を反映しているようなつくりで、きっとアメリカ中西部あたりの開拓農家がこんな感じではなかったのだろうかと渡米経験があるわけでもない私がイメージしそうな感じだ。
ありがちな話なのだが、今回のライブは新作のプロモーションを兼ねており、出演者は中川イサト氏の他に3名いた。これは新作Daybreak2の参加ミュージシャンでもある。
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: ハピネットピクチャーズ
- 発売日: 2009/06/24
- メディア: CD
- Amazon.comには画像の掲載がないので私がネット上で拾ったものを貼付ける。
- どこかに少なくとも一曲はリスナーの琴線に引っかかる曲があるはずです。
- 一家に一枚、皆さん、買ってください!
- 当日私はライブの会場でついつい一枚つきあわせていただいた。これはこれで一つ、別の機会に取り上げてみたいのだが何だか最近の私はアコギの響きに心和むものを感じているので生活風景には随分なじみの良い音楽である。
アフターアワーズでザビエル氏とお話をさせていただく機会があって、幾ら何でもプロミュージシャンにこんな話は不躾かな、と、恐縮しながらそのことを持ち出したら意外やザビエル氏はまさにその通りと言わんばかりにiphoneの再生リストを見せてくれたのだがそこには上記Into the Purple Valleyがそっくり、他にも色々ライ・クーダーの曲が収められていたので今度は私がびっくりした。ヤマ勘で切り出したつもりだったのだが私の耳も案外捨てたものではないな、と、少々嬉しくなった。いやしかし、アフターアワーズというのはあれこれ裏話が聞けたりもして毎度楽しいものです。
Shake,Ruttle and Roll (シェイク・ラトル・アンド・ロール) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
但し、アフロ・アメリカン側からの例証としてジョー・ターナーが取り上げられることはあるようだ。1955年の動画
Rock'n RollのRollがタイトルの一部に使用されているからというのがその理由なのだろうか。
歴史上の位置づけはさておいても私個人は若い頃からジョー・ターナーの歌いっぷりは大変気に入っている。本当に最後の最後まで全力投球の偉大なシャウターだった。
ここで私がこれまで何度か書いた事象、つまりアメリカのポピュラー音楽は白人が黒人音楽をパクることによって大きなビジネスとして構築され、その金銭上の恩恵はいつも白人達にだけもたらされ続けてきたではないかという黒人側からの怨嗟が今世紀初めから絶えないことをあらためて考えてみた。
マイルス・デイビスは自伝の中で何度もその構造を糾弾している。ブルース、ジャズ、ファンクビート、近くはヒップホップと『俺たちから盗み取って自分たちの金儲けに利用しやがる』という視線は未だに拭い難いものがあるようだ。
ロックで言えばこういうことだろうか、1956年、既にこんな風にカバーされている。
エルヴィスの登場は社会現象でもあったわけで、 『ネイティブ・アメリカンの混血である南部出身のプア・ホワイトの若造が腰をクネクネさせながら黒人の歌を歌う』姿は白人社会において大変ヒステリックな反応を呼び起こした、ということになっている。
あくまで黒人コミューンに足場を置き、予定調和的な芸人であることに徹したジョー・ターナーに比べるとエルヴィスは良くも悪くもセンセーショナルな存在だった。
そしてこの、けしからん若造の歌いっぷりはがめつい白人の大人達に『沢山のガキどもの財布から小銭を巻き上げて大儲けする』ビジネスモデルを思い立たせることになり、ロックという白人主導の音楽カテゴリーはビッグ・ビジネスに成長を遂げてエルビスは20世紀最大のトリックスターへと駆け上がっていく。
更にこのトリックスターは特例措置に応じることもなく生真面目に徴兵され任期を全うし、ハリウッド映画に主演するようになって健全な好青年を演じ続け、大統領と面会して麻薬捜査官の務めを自ら申し出るようになり、ジャンプスーツに身を包んでラスベガスのボールルームで賛美歌まで歌うようになり、デクデクに太って心臓病を患う身の上になり、やがて亡くなった。
こういう来歴を駆け足で辿っていくと、自意識の希薄な若者がとった無意識の行いが偶発的に社会現象を引き起こして彼が世の中の仕組みに取り込まれてどんどん変質させられていく、更に彼の自意識の希薄さ故に彼は何ら自己懐疑することもなくどんどんそれに乗っていくという物語性が確かにそこにはあると思う。
そんな風にしてロックという音楽は黒人コミューンからは唾棄すべきカテゴリーとして目を背けられるようになっていった。生前のジミヘンは「黒人の風上にも置けない奴」という非難に晒され、それは一つの悩みにもなっていたらしいことが死後、知人のインタビューで語られている。最近で言えばマイケル・ジャクソンも似たような立ち位置にあったらしい。
同じ歌を唄うジョー・ターナーとエルヴィスのどちらがより優れたシンガーであるか、どちらがより好ましいかという主観上での評価はさておき、時代の寵児が出現したインパクトが色褪せることなく伝わってくる。エルヴィスの若き日の動画は色々な意味で私には興味深かった。
Electric Ladyland/Jimi Hendrix(エレクトリック・レディランド/ジミ・ヘンドリックス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
9月18日はジミ・ヘンドリックスの命日だ。
世の中あまたあるミュージシャンのうちジミヘンは私にとって文句なしに最高ランクに位置づけられる大きな存在であるにもかかわらず、昨年もその前の年も何かをアップしておこうと思いながら結局何もできなかった。過度に思い入れの強い音楽の前では言葉は意味をなさないのだろうか。今年も同じ轍を踏んだ訳だが三日遅れであり、所詮見当違いの印象作文程度でしかないにせよ何かを書いてはおきたい。これまで何度か書いてきたが偉大な音楽というのはリスナーをして何かの行為に駆り立てるものだと改めていまの私は思う。
いつまで経っても語り尽くされることのない本作は、言うまでもなく生前オフィシャルリリースされたスタジオレコーディングとしては三作目であり、本人の手になる編集がなされたものとしてはこれが最後となる。そして、これがまだ三作目でしかないというところにこの人の天才性は際立っているのではなかろうか。
他の多くのロックバンドなりミュージシャンなりと比較してみれば歴然だが、一作目から二作目、そして三作目という変遷にあってこれほど大きなストライドで表現形態を拡大して行った例は私の知る限りではない。多くのミュージシャンが、例えば三作とか四作かかって達成する音楽的成長を、この人は一作で片付けてしまっている。
「1960年代後期に於ける進歩的なロック・ミュージシャン」としての姿は既に前作(まだ二作目でしかない)で、ほぼ完成型として提示されている。
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: USMジャパン
- 発売日: 2006/06/21
- メディア: CD
Low Down Dog/ BIG-Joe Turner (ロウ・ダウン・ドッグ/ジョー・ターナー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2009-07-27
無条件で楽しい気分になりたい時に毎度引っぱり出すのが
ただただ聴く。理屈は無用といった感じ。体が勝手に揺れそうになるのを堪えている。特段誰に見られているわけでもないのに。
図太く、厚みたっぷりの声質は無条件で天からの授かり物であり、財産なんだなあと思う。全く持って歌うために生まれてきた人だ。
曲の頭が切れているのが惜しいが、バックのメンバーにヴィック・ディッケンソンがいる。見間違いかもしれないがこういう発見は妙に嬉しくなるものだ。嬉しくはあるがソロパートのないのが惜しいというかもったいないというか。どんな楽器の名人であってもシンガーが一人立てば脇役であることを余儀なくされるのが音楽の鉄則だ。
ソロと言えば中間部でクローズアップされるしぶーいトーンのトランぺッターはなんとバック・クレイトンだ。御大のことはさておいて本人の動く姿を私は初めて目にして結構驚喜している。ネットというのはつくづく有り難い。
話がそれるが、私はバック・クレイトンのリーダー作が一つも復刻されていない現況を大変苦々しく思っている。
I Want You Back/jackson 5 (アイ・ウォント・ユー・バック/ジャクソン5) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
チャップリンの生涯とマイケル・ジャクソンの生涯には共通点があまりに多い
二人ともいつまでもこどものような大人を演じ続けた。
二人とも、いつも白塗りの顔にアイラインを入れたピエロの顔をしていた。
二人とも、ヘンテコな歩き方がトレードマークだった。
二人とも、作品では愛と平和を訴えながら、私生活ではペド呼ばわりされ、裁判にもなった。
(引用終わり)
ポピュラー・ミュージックは巨大な音楽産業であって、マイケル・ジャクソンともなれば大きなお金の動くビジネスモデルの偉大なアイコンだったことは言うまでもない。その音楽は一シンガーのという枠を超えて精鋭揃いのプロジェクトチームの所産と見るべきだろう。そのことの善し悪しをここで書き連ねる意図はないが、私個人としては声変わりする前の、恐らくはがめつい大人達との交渉ごとなどという場面とも縁がなく、ただただ天真爛漫にリードシンガーを努めていた(ように見える)頃の歌唱が割合と好きだ。
少年期の私はこの、無邪気さや肯定的な空気をそっくり裏返しにしたような日々の中にいた。家庭も学校も大嫌いだったので、ただでさえ気分の沈みがちな日曜深夜に放送されていたこのソウル・トレインSoul Train は何だか忌々しい番組だったのだが、今になってYou Tubeで当時のプログラムを見ていると後のどこか無機的な印象さえ受ける巨大なビジネスアイコンとなったマイケル・ジャクソンはこの頃の歌いっぷりのほうが幸福そうに見える。
何でも亡霊騒ぎというのもあったのだそうで、
どうせスタッフの影か何かだろう。全くくだらない。
今日日のテレビなどというメディアが低劣きわまりないのは論を待たないとしても、死んだ後もこうして面白半分に自宅の中を晒され続けるかつての主が気の毒だ。
5/Soft Machine (5/ソフト・マシーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
今年の夏は天気がよくない。
一日晴れたかと思うと三日くらいは雨が降るような今日この頃である。晴れたからといって暑くなるわけでもない。目下のところ私の住む土地で真夏日は一日もないので半袖シャツの出番も例年に比べて大変少ない。
気候によって聴く音楽もある程度は定められてくるのが音楽聴きである私の習慣なので、例年であれば秋頃聴く事の多い本作を7月下旬、冷夏の昨今によく聴く。
本作については以前、Oops!にテキストをアップした事がある。今、投稿日を確かめてみると2005年の9月25日だったので、やはり秋頃に取り出して聴く事の多い音楽だったのを再確認できた。
http://oops-music.com/community/actionlog.html?mid=86500&mode=review&pnum=2
貼付けてみて改めて思うが、過去に書いたテキストを読み返すというのは恥ずかしいものだ。手前味噌だがこうして好き放題に垂れ流しのテキストを書き散らせるブログと違ってOops!への投稿は二千字以内という制約があるので私も内容をまとめる為にそれなりにない知恵を絞っていたらしい形跡は伺える。
それはさておき雨の降る肌寒い秋の夜に聴く本作というのは私にとって何とも馴染みがよく、 曲間のSEで使われるぴっちゃんぴっちゃんいう水滴の落下する音が音楽そのものと同じくらい強く印象に残っている。もう30年以上にもわたって雨、夜、秋に引っ掛けて私は本作を聴き続けているのだが何か音楽そのものが体の一部のようになってしまっているのかもしれない。情動性をとことん排除し、ストイシズムをとことん研ぎ澄ませていくとニヒルなダンディズムの境地に到達する事があるのではないかと私は本作を聴く度に思う。大変クールな世界だが他人様の目からは単なる偏屈オヤジの世界にしか見えないのだろうとも思う。