Lee Morgan Vol.3/Lee Morgan (リー・モーガン Vol.3) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: リー・モーガン,ジジ・グライス,ベニー・ゴルソン,ウィントン・ケリー,ポール・チェンバース,チャーリー・パーシップ
- 出版社/メーカー: EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)
- 発売日: 2007/09/26
- メディア: CD
Bird Symbols/Charlie Parker(バード・シンボルズ/チャーリー・パーカー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
別のエントリーであらためて書いておこうと思うのだが、私には一種、持病があって何かの拍子にある種のミュージシャンのレコードを聴き始めるとその人の演奏を次から次と手当たり次第棚から引っぱりだしてきては無我夢中で聴き漁り、気づいてみると随分時間が経っていることに気づく。中毒症状のように思えなくもないけったいな病気だ。
目下この「なんとか中毒」には三種類の病原体が確認されており、 最初の二つは「ロバート・ジョンソン中毒」と「ジミヘン中毒」でもう一つが「パーカー中毒」だ。幸か不幸かCD2枚分の記録しか残されていないロバート・ジョンソンともう一人のジミヘンはさておいてここでのパーカーとは言うまでもなくかのチャーリー・パーカーを指している。
常々どうもこのお三方には共通した佇まいを感じている。ブルース、ロック、ジャズと並べてみて彼らはそれぞれ、そのカテゴリーの中で一人だけいることを許される場所に収まっているように思う。
語りだせばきりがないそれぞれの音楽世界なわけだが、ジャズに関して言えば例えばマイルスあたりの録音は一つのパッケージとしての完結度が結構高いのでたて続けに何枚も聴きまくることは私の場合はないのだがパーカーは何故かいったん聴き始めると止まらなくなる。これ一枚を聴いておけば区切りがつきそうだと思いながら実は中毒症状発症ののきっかけとして機能しているのがダイアル・セッションのコンピレーションである本作、Bird Symbolsで、もう30年くらいの間、わかっていながらもう思い出せないくらい同じことを繰り返しているのは私が学習能力の全くない人物であることを現しているがチャーリー・パーカーの音楽世界のある種、魔力の証明でもあると妙な確信を持っている。
アウトテイクでさえもが大きな意味を持つチャーリー・パーカーなのでコンピレーションを作成するのは至難の業で、どう選曲したところで必ず『どうしてあの曲のあのテイクが漏れているんだよ!』という不満が出てくるのは免れない。ましてや本作は元々LPレコードとして編集されたものなので曲数の制限がなおさらきつい。しかしそれでも本作の編集センスは最大公約数的に考えうる限りのベストを尽くしていると今でも思う。ダイアル・セッションの全テイクを網羅したスポットライトの企画は確かに歴史的な偉業だが本作はそこからの最良の抽出結果であって(発売された順番は逆だが)プロセスの全過程を検証するような聴き方とは別の、比較的気軽に(あくまでこの人にしては、の話だが)接することのできる取っつきの良さはある。
個人的には先鋭的というかアグレッシブな傾向の曲よりもブルースナンバーだったりスローバラッドにやや寄り気味の匙加減と受け止めているが、歳を取ってあまり学究的な対峙の仕方が好きでなくなってきたせいもあって近年だんだんターンテーブルに載る機会が増えてきた。LP7枚セットのコンプリート・ダイアル・セッションをいつかは手に入れて腹一杯聴きまくってやろうとあれこれ本作に未収録の曲のことを想像しながらバイトに精を出しつつ何度も、時には一日に二回も三回も本作を聴きまくった貧乏学生の頃のことを思い出しながらEmblasable Youあたりに聴き入っていると、私の人生時間もそれなりの積み上げが形成されつつあるのだな、と、妙に感慨深くなる日曜の昼下がりである。
Sessions for Robert.J/Eric Crapton (セッションズ・フォー・ロバート・J/エリック・クラプトン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
先月三日に中学校の同窓会があり、以来長らく疎遠だった以前の同級生達の間では交流が再開されつつあるようだ。何だか嬉しいような懐かしいような気分で私はここしばらくを過ごしている。過去を振り返りながら毎日を過ごすような時期に私はさしかかりつつあることになる。
私は元来、我ながら嫌になるほど奇矯なところのある性分なので考えてみると中学校を卒業以来、途切れることなく続いてきた交友関係というのは本当に少ない。私の場合はカメラの指南役である同級生のIさんがその数少ない一人で、随分長いこと有意義なおつきあいをさせてもらっている。
カメラに限らずIさんにはこれまで多様な啓発を与えていただいた。もしもこの交友関係がなかったら私の精神世界は相当に偏狭で色彩感に乏しいものになっていたに違いない。Iさんは随分と多趣味にして多芸な方で、私は時折おこぼれに預かるコバンザメを決め込むことが多い。
Iさんは最近、音楽を聴く時間が増えてきたのだそうで愛好家の私としてはご同慶の至りというかまた共通の話題が増えたことになる。エリック・クラプトンに関心が向かったのだそうだ。
功なり名遂げ、すっかり金満家となったクラプトンなのでいつかはこういう企画に手を付けるのだろうな、と以前から薄々予感はしていたがやっぱりやった。それは決して余興めいたものではなくリスペクトの込められた大真面目な出来上がりになるだろうとも予想していたがこれも当たり。端正とか生真面目というのがこの人のキーワードだと私は決め込んでいて、時に愚直なほど遊びやおちゃらけでプレイはしない、できない人だ。いつの音楽からもそれは伝わってくる。
とまあ、わかったような講釈を並べているが実は私はクラプトンの良きリスナーではない。ミュージシャンとしてのエリック・クラプトンに対しては見当違いな思い込みに根ざした失望から敬遠していた時期がかなり長く、その音楽にシンパシーを抱くようになったのは月並みながらこの辺りから。我ながらミーハーっぽい気はして少々気恥ずかしいが。
ロバート・ジョンソンへのトリビュートについては自身の音楽的出自とひたむきに向かい合った佳作という評価が多数を占める一方で、確たるアイデンティティを持った現在、何もカントリーブルーズのストレートコピーに精を出さなくてもいいではないかという批判も一部にはあるようだ。私としてはどちらの言い分にもそれぞれ共感するところはある。
一生懸命鍛錬しました的な佇まいはブルーズの根本的な在りようにはそぐわないし、その歌いっぷりは所詮、イギリスの白人が物真似をしているだけではないのかといった醒めた目線はここでも払拭しきれない。おそらく本人にとってもキャリアが続く限り消えることのないわだかまりではないかと私は想像している。ただ、ここではカントリーブルーズの肌合いよりもクラプトンというミュージシャンの生来的な生真面目さに注目してあげても良いのではと思っている。これほどのビッグネームでありながらお殿様的な自己模倣に陥ることなく自分のアイドルの演奏をムキになってコピーしようとする姿は何だか微笑ましくはありませんかね?
こういう企画盤に関心が向かうと、多少なりとも探究心のある方ならばオリジンの方に食指が動くのは当然の成り行きな訳だが件のIさんもこの例には漏れないようだ。
スタートであると同時にゴールでもある音楽。一周回ってたどり着く。色々考えるに、私にとってはここに根ざした音楽は殆どすべてが許容範囲ということになりそうで、これまで色々誤解もあったがエリック・クラプトンはそういったミュージシャンのうちの一人なのだと気づくまでに随分長い時間がかかってしまった。Iさんに拝借したこのCD/DVDであらためて知った。本作はCDよりもDVDのほうに主眼があるようで、私も借りるばかりではなくひとつ買い込んでこようかと思い始めている次第。
クリフォード・ブラウンの動画を見つけて雑感 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前日、トランぺッターのことをあれこれ書いてみたのだがたまたまYou Toubeを漫然と眺めているうちにクリフォード・ブラウンの動画を見つけた。 おそらくテレビ番組に出演した時のものと思われ、保管状態の問題からか音揺れがひどく、満足な音質とはとても言えないがそれでもプレイヤーとしての素晴らしさを損なうものではなく、偉大なスタイリストぶりは十分リスナーに伝わると思う。楽器を演奏する姿が動画として残っていたというだけでも私などは手放しで喜んでいる。
冒頭、司会者は"Max Roach and Clifford Brown...."と紹介しているが画面に映し出されるのはバンドのメンバー全員ではなくクリフォード・ブラウン一人だけで、なぜこのような放送のされ方をしたのかを色々考えてみても私程度の頭ではよくわからないのだが、少なくともこの放送ではトランペットという楽器がバンドの顔として捉えられているからだ、という仮説は成り立つのではなかろうか。 演奏そのものは生前、全ての録音がそうであったようにここでも非の打ち所がなく、圧倒的なくらい雄弁でもある。オフィシャルな録音のみならずいくつか散見されるインフォーマルな場での演奏までマウスピースに口をあてがう度にこの水準だったのだろうから恐ろしく密度の高い演奏歴だったことになる。あるいはその短い生涯の中で言いたいことは全て言い尽くしていたのかもしれない。 余りにも完成され過ぎたものにはかえって安直な感情移入が難しい。無条件のリスペクトは疑いようもなく湧いてくるのだが。
New Colors/Freddie Hubbard(ニュー・カラーズ/フレディ・ハバード) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
”フレディ・ハバードのような”と敢えて書く理由は、この人がシリアスなリスナーからは必ずしも高く評価されていない一面があるからで、マイナス評価の理由は商業主義的で楽器奏者としての真剣味に欠けるレコーディングをかなりの量でリリースしていたある時期を指している。実際、そういうブツをつかんでしまった方には御愁傷様と言う他なく、何を隠そうこの私も過去に於いては用心しながらもつい何度かはスカを引いてしまって腹立たしい思いをしたことはある。
スカを引いてしまった方にとっては腹の虫の治まらない話かもしれないがしかし、この手の王道的なラッパ吹きにはそういった困り者の記録が必ず散在しているものなので時たまスカを引くのは仕方のないことだとあるときから私は無理矢理納得することにした。というよりもそもそも、先に例えた野球選手のように、トランぺッターという人種には総じてこれから演奏する音楽の全体的なストラクチャーについて予め頭の中に青写真がある人自体が殆どいないのではなかろうか。(その例外がマイルスではないかと私は考えている)
先人の系譜をたどれば、サッチモにせよガレスピーにせよ疑問の余地なく偉大なプレイヤーではあるけれど、一つのパッケージメディアとして構築性の高い音楽は殆ど残していない。但し反面、彼らはしばしばジャズの枠を踏み越えて、もっとポピュラーな世界で華々しいソロをとることがあって、フレディ・ハバードにもこんな記録がある。
かつてスイングジャーナルという雑誌で油井正一氏は「かつては芥川賞を取りながら現在はポルノ小説ばかりを書き飛ばす流行作家」という痛烈な比喩でフレディ・ハバードの新作を皮肉ったことがある。当時の私はその喩えに手放しで共感したがある時からは文学作品だろうがポルノ小説だろうが読んで面白く、ためになるのならカテゴリーは二の次と思うようになったのでフレディ・ハバードのありようには結構肯定的な見方をするようになった。但し、やっぱりスカは掴みたくないが。
その演奏歴には毀誉褒貶が相半ばするにせよ、後進達の演奏スタイルにはフレディ・ハバードの影響が感じられる人たちが実に多いところから考えれば、以前のクリフォード・ブラウンがそうであったように彼は多くの新人達にとっては偉大なる指標だった。 これには疑問の余地がないと思う。
病気のため長いブランクを要し、楽器を演奏できない時間がかなり長かった間に再評価されたのは良いことだった。シリアスではない音楽に携わることで身銭を切って音楽を聴くリスナーを落胆させるのは確かに好ましいあり方ではないのだろうが、楽器奏者としての偉大さとは別のところで論じられるのが自然だと考えている。
レコーディング・キャリアの中ではかなり後期に属するのだろうが以前私がご祝儀的に当時買ったCDをさっきまで聴いていた。
病を克服してカムバックを果たしたフレディ・ハバードが中編成のホーンアンサンブルをバックに往年の当たり曲を再演する企画である。
さすがに往時に比べれば少々パワーダウンの印象は免れず、私個人としてはフリューゲルホーンよりもトランペットの方がこの人には似つかわしい気がするが、それらを差し引いても全編シリアスでなおかつかっこいいのと私のお気に入りのRed Crayも抜かりなく収録されているので買っても後悔することはない。共演者である若手のプレイヤー達とはやはり一線を画した貫禄を感じる。キャリアの終わりにこういった真剣味や重量感のある佳作を残してくれたのはやはりプレイヤーとしてのある種良心というか、即興演奏に賭けるスピリットの発露と私はかなり好意的に捉えている。理屈抜きに堂々としていてかっこいいトランペッターの系譜は今後どのように継承されていくのかはちょっと気がかりではあるのだけれど。
There's a Riot Goin'on/Sly & the Family Stone(邦題:暴動/ スライ&ザ・ファミリー・ストーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
時節の話題としては、アメリカ大統領の就任式が近い。アメリカン・ニグロが社会的に成功するためには音楽かスポーツ以外にはないと言われていたのがつい四半世紀程前の事だったように覚えているのだが時代というのは変遷していくものなのだと改めて思う。
明らかに期待を持たれ過ぎ、過大な幻想を担わされているように私には見えるが、それでもバラク・オバマ氏の就任演説は一世一代のものになるだろうから同時代人としてはしっかり記憶にとどめておきたい。私は特段、オバマ氏の信奉者でも何でもないがかの人は単純にテレビ映りがいいというか、優れたアクターでもあるような見え方がしている。こういう時節に融和や協調を掲げて大統領に就任する構図は何か時代の空気と随分調和がとれていて収まりが良い。安っぽい言い方だがある種、トリックスターのようにも思える。だが私はどこかでそのスローガンはいずれ何らかの形で蹉跌を味わう事になりそうな予感も払拭しきれいないでいる。どこかでそんな前例を見てきたように覚えている。
音楽の世界に視点を移してみると、1960年代末期のスライ・ストーンは人種間の融合を成し遂げた存在として画期的だった。白人はロックで黒人はR & Bという境界線を軽々と乗り越えた革新者として華々しかった。映画に記録されているウッドストックでの熱狂ぶりは今見ても気恥ずかしいくらい人種間の融合や協調への確信を感じさせるものだ。
ウッドストック~愛と平和と音楽の3日間~【ワイド版】 [DVD]
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- メディア: DVD
1969年から1970年にかけてのアメリカ社会の屈折や騒乱ぶりは遠く太平洋を挟んだ島国に住む私のような子供にも断片的に伝わってきた。 ブラック・パンサーとかウェザーマンとかいった団体名がいささか物騒なニュアンスを持って伝えられていたような記憶がある。当初の楽観的な融合願望はそのうち階級闘争的な対抗意識に変質し、騒乱の後はセパレーショニズムに落ち着いて表面上は平静を装いながらも内実では分断が確立されていく、といった経過を辿った事になるのだろうか。いつの時代も隔てられた人々が融和的になるのは大変困難なものだ。
当時小学校の高学年だった私が、兄の買ってきた音楽雑誌を拝借してページをめくっていると、CBSソニーの広告ページに掲載されていた大きなジャケット写真が目に入った。
大写しのアメリカ国旗にタイトルが『暴動』とはまた何とも不穏というか戦闘的というか大変政治的な匂いを当時の私は感じ取っていて、しばらくの間は敬遠していたのだった。政治的な、という意味ではビートルズ解散後のジョン・レノンなどがいくつかそういう類いの曲を演じていたが、それらは傍観者の一意見というふうに受け止め方の出来るものであったのに対してこちらは何かしら当事者のメッセージでありそうな分だけ重苦しいムードが感じられた。
気になり続けてはいたものの中々購買する気にはなれなかったのは、R&Bに関心が向かうようになるのはそれからずっと後、年齢でいえば20代後半になってからのためもあるが、ジャケットデザインが購入にある種の覚悟を要するもののように感じられたからだ。
一聴して驚いたのは大変否定的なニュアンスが充満した音楽だった事だ。悲観的と言った方がより近いのだろうか。特にマイナーキーの曲が多いという事ではないのに全編に倦怠感や疲労感がたちこめている。最終曲の『サンキュー』はシングルバージョンとは全くの別物で躍動感とはほど遠く、陰鬱で重い。それまで聴いた黒人ミュージシャンでいえば唯一、ジミヘンの音楽にはどこか通じるところがありそうに聞こえた。ジミヘンは生前の活動に於いて黒人聴衆のまとまった支持を受けられなかった。勿論偉大なミュージシャンではあるけれど同時に『ロックを演奏するなんていうのは白人に対する媚びであってこんな奴は黒人の風上にも置けない』という偏見に晒され続けた人でもある。 先に書いたウッドストックで会場撤収の朝に登場したジミヘンは、気のせいかどこかかったるそうで反応の鈍いサイドメンに苛立ちながらの演奏ぶりだったように私には記憶されている。映画の上では対照的に前向きでエネルギッシュなアジテーターぶりを見せたスライ・ストーンはその後の本作であのときジミヘンに通じるムードを漂わせている。
初めて聴いた頃の私はフリーターのような事をやっていた時期で、依って立つ足場を失い、先の展望も見えない中で私は最初に知ったときの抵抗感が嘘のようにすんなりとこのレコードに手を伸ばしていた。持ち帰って聴いてみると本作の放つ疲労感や敗北感とか投げやり風だったりヤケッパチ風だったりする歌いっぷりが当時の心象風景にひどく馴染んだ。これは、大きな挫折の音楽なのだ。かつて語っていた大きな希望に裏切られて、以前は健全な夢に突き動かされて熱病のような興奮の中にいた自分を嘲笑混じりに語るシニカルな自画像なのだ。
音楽そのものについて私が随分驚いたのはリズムマシーンの導入だった。ロック小僧にはどうしてもブラック・ミュージックに対するある種の劣等感があってそれはリズムの躍動感に根ざしている。あの有機的な、生命の鼓動そのもののような弾み方は単に一小節を幾つに切り分けるかといった決まり事だけでは絶対に解き明かせない秘密がある。しかしここではそれを敢えて放棄するかのように無機的そのもののリズムボックスにタイムキープは委ねられていながらも全体のカラーは疑問の余地なく真っ黒けであり、紛れもなくこれはアフロ・アメリカンの音楽以外の何者でもない。それまで長い事、ブラック・ミュージックをかくあらしめている根拠をこのとき私は見失った訳だが、ではその核心部分はと言うと未だにわからないままでいるし、わからないままでいいのだと思うようにもなってきた。何もかもを無理矢理言葉として定義しなければならなくはないのだし、説明不可能なある種の神秘性がこの音楽に対する関心が保たれるという働きも認めていて良さそうだ。
時代の状況に歩調を合わせるように、表現者としてのスライ・ストーンの人間観や世界観が否定的な方向に大きく転換していく大きな節目が本作のバックボーンを形成している訳だが、リリースされてから約40年近く経過してみるとこれだけ排他的であり内省的でもある作風の本作を出発点とするフォロワー達が陸続と輩出され続けたその量に驚く。 それは例えばその後私が耳にしてちょっと気になったこんなシンガーの歌唱にも反映されていた。
異なる民族や異なる社会階層の人々が融和的に一体化されるなんていうのは絵空事に過ぎない、という痛烈な視線はスライ・ストーン自身が大いなるトリックスターだっただけに尚更鋭い。きっと現実の合衆国も、現在オバマ氏を押し上げている暖色系の幻想が失望や幻滅を伴って崩壊していきそうな予感が私にはどうしても拭いきれない。かつて華々しく浮揚して潰えた夢が今度は実現されるのだという確たる根拠がどうにも感じられない。しかしこの先の経過がささくれだったセパレーショニズムの再現に収束してしまったにしてもそれはそれで一つのありようとして受け入れられていくのだろう。
本作はそれまで通り相場として刷り込まれていたブラック・ミュージックの色合いを大きく裏切ってネガティブであり排他的でもある歴史的な問題作でもあるのだが、でありながら本作での身振りは少なくともその表層部分に於いては驚く程長期にわたって驚く程多くのフォロワーを生み出し続けてきた。それは本人が望んだものではないのかもしれないが融和性を持った一つの世界の形成と解釈する事も出来そうな気がする。してみると果てしなくシニカルで逆説的な音楽だとつくづく思う。
追記のような事:このテキストは私がブログを始めてから音楽の事を何か書き殴り続けて100個目にあたる。色々な意味で節目だなあという気がするし、本作は節目として取り上げるにふさわしい傑作だと思う。ふさわしくないのは相変わらずまとまりがなく無用に長くなってしまう私の作文能力だけですなw
At Fargo 1940L/Duke Ellington (アット・ファーゴ1940L/デューク・エリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
さほど意識もしていないうちに、ブログを始めて以来何と300本目の記事を書き始めている。元来、根気も持続性もない私がよくもまあこれだけあれこれと書き続けてこられたものだと我ながら妙に感心する事しきり。
300という数字は何かの節目たり得るのではないかと考えていて、しばらく前から何について書いてみようかと独りよがりな思案を続けていたところ、貧乏学生の頃に買いそびれて以来30年近く、探し続けていたレコードを最近やっと中古盤で手に入れる事が出来たので、取り上げてみたくなった次第。
長いキャリアを誇るエリントンだけに、バンドは幾つかのピークを有している訳だが極めつけの最盛期と言えば1939年から1941年にかけてというあたりが 衆目の一致するところだと思う。「百万ドルのリードセクション」が健在で、ベースにはこの楽器最大のイノベーターであるジミー・ブラントンが存命の頃である。
本作の録音は1940年11月7日、ノース・ダコタ州ファーゴのクリスタル・ボールルームで行われた。当日の開演は午後8時で、途中休憩を何度か挟みながら翌日午前一時頃まで演奏は続いた。今でこそビッグ・バンド・ジャズは鑑賞目的の音楽として扱われているが当時はダンスの伴奏音楽の域を出ていない頃で、本作もそのような環境下で録音されている。猫に小判と言うか豚になんとかと言うか、これほどの音楽がそのような扱いでしかなかったというのは全くもって信じ難いが揺らぐ事のない事実である。
当時のエリントン・オーケストラはRCAと専属契約を結んでいたため、当然ながら本作はオフィシャルレコーディングではない。であるにもかかわらず本作の音質は当時の時代背景を考慮するとホール自体の音響の良さも相まって桁外れに良い。当時、現地の熱烈なファンだったTom Towers と Dick Burrisの2名が商業目的ではない旨を再三強調の上マネージャーと粘り強く交渉した結果、当日のライブレコーディングは特別に許可された。録音機材はバッテリードライブのカッティングマシーンで、当然ながら磁気テープもミキサーもない時代なので一発取りのダイレクトカットである。しかも持ち込みの台数は一台のみであるため演奏される曲の頭やエンドが切れていたり、ボーカルがオフ気味になっていたりといった不具合が散見されるのは致し方ないが、最盛期に於けるライブがオープニングからエンドまで殆どそっくりレコーディングされたケースというのは極めて珍しく、上記2名の功績は幾ら賞賛されてもされ過ぎという事はない。まさに歴史の1ページを彩る至宝とも言うべきOne Night Standを私はおよそ70年後の今日、自宅で何度も好きなだけ繰り返して聞ける事の有り難さをつくづく実感せずにはいられない。
構成メンバーについては多くを語るまでもないが、唯一惜しまれるのは一番ラッパのクーティ・ウィリアムスが本作録音の五日前にベニー・グッドマンに引き抜かれてバンドを去っている事だ。昇格人事(?)となったレックス・スチュワートは前任者と比べて突進力に於いては一歩譲るがよりメロディアスで明るいプレイスタイルで、立派に重責を果たしている。クーティ・ウィリアムスに関しては、奇しくもこの日、1940年11月7日は彼を迎えたベニー・グッドマン・セクステットが初の録音を行った日でもあって、何やら因縁めいた物語を想像させるに十分な背景とは言えまいか。
音楽そのものについてはこれまた何も言うべき事がない。最初から最後まで徹頭徹尾、終始一貫してただただ素晴らしいとしか言いようがない。Aトレインやサテン・ドールが収録されていないからといって購入を見送った当時の私は全くもって眼力のない大馬鹿者だったことを30年ぶりに思い知った。聞き所は満載で全てについて語り尽くすだけの筆力が私にはないのだが 強いて一つを上げるとすればやはりジミー・ブラントンについて触れずにはいられない。わずか一年強という公式な録音歴がそのまま在団期間でもあるこの不世出の天才は、姿を現した1939年に於いて既に神懸かり的だった。
エレキギターに於けるジミ・ヘンドリックス、エレキベースに於けるジャコ・パストリアスに並ぶ存在をウッドベースに求めるならばどこからどう考えてもジミー・ブラントン以外には思い当たらない。 スコット・ラファロの前にはミンガスやオスカー・ペティフォードもいたしレイ・ブラウンもいた。そして彼らの前にはブラントンがいたわけだがその前にはというと誰もいなかったのだ。あったのはただ単に、一小節に4つのビートを刻むだけの裏方楽器でしかなかった。ベースのソロはおろか、一小節のブレイクさえもブラントン以前には存在しなかった。リスナーはジミー・ブラントンを通じて初めてベースの音のみを聴いた事になるのであって、例えばKo Koのブリッジにおいてジミー・ブラントンのブレイクを聴くという事はそのままウッドベースの概念が覆る歴史的瞬間を追体験する事をも意味しているのだ。
本作でのブラントンは、録音の良さも相まって公式に録音されたRCA盤での演奏よりも更に克明なトーンを聞かせ、ライブステージであるせいもあってかパッセージはよりエネルギッシュだ。推移から行って比較対象を逆に探すしかないのだがレイ・ブラウンを更に硬質にした感じとでもいうか、図太く硬質なビッグトーン、アクセントやタイミングを自在にコントロールする多彩なフレージング、いかなるテンポにおいてもドラマー以上にバンドの背骨としての推進力を発揮する性格無比のタイム感覚とピッチ感覚など、当時21歳の若者がたった一人でここまでの事をやり遂げていたのかと思うと感嘆抜きには聴けない。全てのベースマンにとっての永遠の指標たる根拠はその演奏で十分以上に示されている。
私は目下、LP2枚組の本作を毎日毎日飽きもせずに繰り返して聞き続けているのだが、およそ80分がこれほど短く感じられる事はそうそう滅多にあるものではない。同時に優れた音楽の前で言葉というものがどれほど限界だらけでもどかしいものなのかも改めて意識する。本作を中古LPで手に入れるまでの30年弱はなんだか人生に於ける機会損失でさえあったのではないかと結構大まじめに反省していたりもする。
そんなわけで、LP制作時には編集から漏れたアウトテイクを含んだ全曲が収まったCDを購入する事に決めた。今年はしばらくぶりにデューク・エリントンの音源収集熱が再燃しそうな気配だ。
Trio 64/Bill Evans(トリオ64/ビル・エバンス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
音楽愛好家として何かを書き記しておきたいと思い立ったのがこのブログを始めた大きな動機のうちの一つなのだが、ビル・エバンスのことはなるべく触れないでおこうというヘンな考えが私にはあった。
言うまでもなくビル・エバンスはエバーグリーンの人気ピアニストで、色々な人が色々な場所で色々なことを言ったり書いたりしまくっているからして、しかもそれら言質は全て、かのスコット・ラファロとの共演に限定されていて端から見ていると、今更私のような者が能書きをたれるまでもないのではないかという気分だった。
ビル・エバンス自身はレコード作りに関しては大変平均点の高いプレイヤーで、何を買ってもまず失敗はない。多少意地の悪い見方をすると、あのアクセント、あのイントネーションで、あの和声感覚で演奏されるとジャイアント馬場の16文キックみたいなものでリスナーはとにかくビル・エバンスの表現として無条件で納得するもののようだ。芸風というのはこういう関係性の上に成立しているのではなかろうか。 ただ、平均点が高い諸作の中にあってもスコット・ラファロとの共演はやはり群を抜く高みにある。それは恐らく、かなりの客観性を持ってみても断言できる水準ではある。しかしこれは両者のキャリアを通して聴いてみると、相当に特異な時間の中での出来事であって、一種マジカルな場面だったのだと私は位置づけている。
リバーサイド4部作も確かに結構だが、それ以降の演奏にも色々と聴き所はあって、ビル・エバンスの場合は共演するベーシストによって微妙にテンションが変わる傾向があると私は見ている。
演奏歴中唯一、ゲイリー・ピーコックとの共演記録が本作では聴ける。ドラマーはポール・モチアンで例の4部作と同じだ。ベースマンとしてのゲイリー・ピーコックはスコット・ラファロが到達した境地を出発点とするプレイスタイルなので、中身を聴くまではさぞかし往事を凌駕せんばかりのスリルが横溢しているはずだという期待を私は持っていたが実相は手短にまとめた小唄集で、代名詞のごとく語られるインタープレイの場面は何故か少ない。ソロの出番はお互いにきっちり線引きされていて二つのメロディラインが絡まり合って生み出された以前の奇跡はここでは、そしてこの先も再現されることはなかった。演奏者としての人生時間の中で奇跡などというのはそうそう滅多に起こるものではなく、また、技量の高い演奏者が顔を合わせたからといって必ずしも歴史的名演が生まれるわけでもないという至極陳腐な教訓をここから導き出すのは簡単だがそれにしても本作以後、レギュラーのベーシストとして更に穏健な演奏スタイルの持ち主であるチャック・イスラエルを起用するようになった背景をあれこれ想像するとこれはこれで興味の湧いてくる変遷ではある。
こんな斜め読みとは関係なく、さほどシリアスな向かい合い方をしなければ本作は聴きやすくまとめられた小品集で、演奏のテンションを別にすれば選曲による取っつきの良さという意味で全作中での最右翼かもしれない。
目玉の一曲を上げればやはりSana Claus is Comming to Townだろう。私が知っている限りでは録音された唯一のクリスマス・ソングである。いかにもという語り口で演じられるこの世俗的なノベルティ・ソングが収まった本作を私は毎年12月には必ず一度は棚から引っ張り出して聴くことにしている。取り戻すことのできないマジカルな時間が終わった後の日常にも何かしら小さな発見や驚きは散在しているのであって、ビル・エバンスの音楽は私のそういった小市民的日常感覚にも確かに浸透しているだけの包括性があるのは確かだ。
(追記)いつ頃からか、毎年今時期になると実に沢山のクリスマス・ソング集が企画されてはリリースされるようになってしまった。こんなことではノベルティとしての有難味など毛ほども感じられなくなる。本作の録音は1964年12月18日である。さりげなく一曲だけ入れておきます、といった奥ゆかしさが当時はまだあったと見るべきなのだろう。
Novenber Cotton Flower/Marion Brown(ノヴェンバー・コットンフラワー/マリオン・ブラウン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
私が知る限り、マリオン・ブラウンはかなり下手くそな部類に入るサックス・プレイヤーだ。著名なミュージシャンのうちでは屈指の下手くそさだと言っても過言ではないと思う。その下手さというのは、例えば晩期に於いて体調を崩したバド・パウエルが聴かせる乱れたキータッチの類ではない。あれには神の座から転落していくミューズの化身、といったような悲劇的ドラマツルギーが宿っていたがマリオン・ブラウンの場合はデビュー当初から徹頭徹尾、終始一貫して、そもそもサックスという楽器を十全に鳴らすというあたりからしてその技量は相当に怪しく、長いキャリアを経てなお一向に上達が見られない。
弱々しく不安定な出音、たどたどしいキーワーク、途切れがちなフレージング等、およそプレイヤーとしての教科書的美点はどこにも見出せないマリオン・ブラウンが何故私の記憶に根付いているかと言えばバンド全体をまとめ上げる楽想の豊穣さにある。これは楽器プレイヤーとしての技量の拙劣さを補って余りあるもので、共演者達はかなり高い確率で彼らの代表的な名演を聴かせる。更に言えば、共演者達の献身的な協調ぶりを背景にしたこの貧相な主役は、彼の音楽がギミックでもキワモノでもなく、確かにリスナーに訴えるべきテーマと個性を持った一流の表現であることを示している。
マリオン・ブラウンの音楽のうち私が目下気に入っているのは故郷であるアトランタを題材にした音楽だ。文法になぞらえて言えば、チャーリー・パーカーが現在進行形とするとマリオン・ブラウンは過去形で表現したトーンポエム風の音楽がとりわけ秀逸で、望郷とか回想といった情感が細やかで美しい。
- アーティスト:
- 出版社/メーカー: 株式会社BMG JAPAN
- 発売日: 1994/01/21
- メディア: CD
- 残念ながら本作は現在、Amazon.comでは取り扱っていない。新陳代謝は必然だとしてもカタログ落ちさせてしまうには余りにも惜しい秀作と思うのだが。
- 本作は共演者のうちでも断然光るのがピアノのヒルトン・ルイズで、全キャリア中でも屈指の名演だと思う。タイトルチューンでの伸びやかで瑞々しいキータッチは文字通り秋の晴天、ほの暖かい昼下がりを連想させて心地よい。ギターのカール・ラウシュがつま弾く控えめなバッキングも何かしら心温まる色彩感を添える。タメを効かせた控えめな背景でマリオン・ブラウンは鼻歌交じりのように飄々としたソロを紡ぎ出す。私はそこにポジティブな要因のみを抽出して再構成された過去の記憶世界を感じる。美しい虚構と言い換えるのが妥当だろうか。現実的には綿花とは言っても綿に花は咲かず、花に見えるものは本当はは実だし、綿の収穫時期は夏場であって11月ではない。しかしこのタイトルには言葉としてどこか詩的な美学が表されていてそれが音楽にも通底しているように思う。感動などという言葉を私は余り安っぽく使いたくないが、かれこれ20数年、毎年秋に本作を聴く度に過去への郷愁が段々深く心の奥底に向かって浸透してくるような気分になる。
- 全体の作風は悠然としていて、1970年代初頭までの諸作に聴かれたような時にヒステリックな鋭さや混沌はない。再演される曲目も3曲ほど有るが手短にまとめられていてさらりと流す印象である。Sweet Earth Flingなどは初演の記憶が強烈だったので、初めて本作での再演を聴いたときには物足りないような寂しいような印象があったのだが現在の時点ではこういう淡々とした解釈なり展開もありだな、と、何故か納得できるのは私が歳をとったせいだろう。明暗の入り交じった過去の出来事諸々は時間と共に浄化されていく。演奏者の意図がについては憶測の域を出ないが、全編を貫くモチーフとして私はそういう捉え方をしている。
本作は1979年、JVCの傍系レーベルであるBaystateによって企画、制作された疑問の余地のない傑作である。日本のジャズシーンはこのことを誇りにして良い。
Absolutely Free/The Mothers of Invention(アブソリュートリー・フリー/フランク・ザッパ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
私事だが、中学校同期生のクラス会のような宴会が過日あって、来年初頭にもう一度同窓会をやろうということになった。それで、幹事会という名目で月に一度ばかり準備かたがた飲み会のようなことが習慣付きつつある。私は柄にもなく名簿の編纂係を買って出て、時たま過去のことを色々思い出しながらExellのセルを埋める時間が散発する日常だ。
正直なところ、中学校の3年間は必ずしも楽しいばかりの日々ではなかった。どちらかと言えばネガティブな記憶のほうが勝っているのかもしれない。それは疎外感とか違和感という言葉で表すのが近そうだ。
それでは何故、今更クラス会などという集まりにいそいそと出向くのかといえば、違和感なり疎外感なりが時間の経過と共にどんな風に変化しているのかを確認したい気持ちがどこかにあるからなのだろうと考えている。我ながら妙な志向だ。しかしさすがに皆様齢を重ねただけあっていい意味で大人になり、包摂性が出てきて無難に宴会は盛り上がり、時間は過ぎていく・・・集合意識として一期一会的ないい意味での気負いが円満な時間を形成しているのだろうな、とは思う。滅多に会えないのだからいい思い出を作っておきたいという気持ちは参加した方々の共通項ではあると思う。しかし、幹事会と銘打った月に一度の集まりともなると事情は少しばかり変わってくる。それは日常の出来事であり、しばしばきれい事抜きでの三十数年前への逆行でもある。
数日前の飲み会で、顔も名前も思い出せない(ということはおよそ印象に残っていない)以前の同級生から「あんたは昔からヘンな人だった」と言われて私の記憶は30数年前に遡っていった。50近くにもなって第三者が何人もいる前でやおらこんな物言いをするその人物の大人としての神経なり常識には大いに首をひねりたくなる。在学中ロクに話をしたこともないその人物が、一体私の何を知っていてそんな決めつけ方をするのかという懐疑はさておき、確かに私はヘンな奴ではあったと思う。
中学生時分の精神生活を思い返すとき、決まって頭の中で鳴る音楽が幾つかある。代表的なものがこれだろうか。
中学生の年齢でこういう音楽に親しむことは良いことなのかそれとも好ましくないことなのか、今でも答えは出ていない。
フランク・ザッパを聞き始めるようになったのは兄の影響だが、当時不思議な位何か意識の中心に働きかけてくるものがあった。こういう音楽にすんなり馴染める中学生の心象風景というのは一体どういうものなのか、私の他には誰も共感してくれる同級生はいなかったので推し量りようがない。本作に惹き付けられていたという事実がそのまま学校なり世間なりに対する違和感なり疎外感を表していたことになるのかもしれない。
今でも不思議なことがある。当時私の家にあった本作は通信販売で購入したMGM/Verveの米盤プレスだった。当然ながら訳詞はおろか英文の歌詞カードさえ付いていなかった。しかし学校や家庭に対するフラストレーションをしこたま抱え込んでいた当時の私はここで何か、当時の自分の心象風景にひどく近しい何かが扱われているように思えて日々やたらと本作を聴きまくっていたのだった。後年、訳詩の添付されたCDを買い直してみると、学校で段々居場所を失っていく劣等生の歌(Status Back Baby)や要領よく立ち回って順当に成長していく兄に対比される落伍者の弟を扱った歌(Brown Shoes Don't Make It)があったりする。これ、そのまま当時の私そのものだw英語力など今も昔も全くないが、当時の私は本作のどこに投影すべき自分の姿を見いだしていたのだろうか。言葉を介在しない音だけの表現で、聡明でも何でもないひねた中学生を引き入れたのだとすればそれこそが何とも摩訶不思議な音楽の力と言っても良いのではないだろうか。
つんのめり気味のタテのりビートにザラザラした感触のギターの出音、ストリングスの不協和音やラストのSEで聴かれる猥雑で無軌道な喧噪、おちゃらけたような皮肉を効かしたようなボイス、それら断片の隅から隅までが当時の私の心象風景を何ともヴィヴィットに反映している。
レビューまがいでさえない、私自身の益体もない思い出話みたいなテキストになってしまったのが不本意だが機会を見て音楽そのもののことにも言及しておきたいと考えています。
Joe Newman Quintet at Count Basie's/Joe Newman(ジョー・ニューマン・クインテット・アット・カウント・ベイシーズ/ジョー・ニューマン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
1940年代の中期まで、カウント・ベイシー・オーケストラに於けるファースト・トランペッターはハリー・エディソンが不動の座を占め続けたが同時期に在団したトランペッターとしては、私個人はバック・クレイトンのほうにより強い思い入れがあったので後者のソロが聴ける機会が少ないことは常々ちょっとした不満でもあった。
客観的に言えば、サッチモの影響が濃厚なバック・クレイトンよりもハリー・エディソンのほうが感覚的には新しいプレイスタイルであり、より輝かしいトーンの持ち主でもあるので一番ラッパの位置づけは順当ではあるのだろうが、私の性分として報われない実力者的存在に肩入れしたい心情があって未だに妙なバイアスをかけることをやめずにいる。
殊にトランペッターに向けた賛辞として「いぶし銀のプレイスタイル」というフレーズがしばしば用いられるが、多少意地の悪い見方をすれば、地味なトーンの持ち主であり華やかさは今ひとつと形容できなくもない。トランペットという楽器には第一義的に華々しさが求められていて、大概それは発するトーンにその根拠がある。そしてこの、トーンというのはどうもプレイヤー本人の先天的資質によってある程度限定されてしまうもののようだ。考えてみると「いぶし銀」なる枕詞はもっぱらトランペッターに向けて多用されているようで、いぶし銀のドラムだとかいぶし銀のサックスなどという形容は余り聞かれない。
先天的な資質によって座るスツールの位置がある程度限定されているという意味で、トランペットという楽器にはちょっとした残酷さを感じる。もう一つ思いつくに、色々いる楽器プレイヤーのうちで頭にエースという言葉を戴くのもトランペッターだけではないだろうか。ハリー・エディソンという押しも押されもしない偉大なエース・トランペッターの次席以下を務めることは相対的に例の「いぶし銀」という形容を頂戴する運命にあったようだが、それが何かしら彼らの自尊心を埋め合わせるだけの効能であったかどうかについては想像の域を出ない。
バック・クレイトンの退団後、セカンド・トランペッターの椅子に座ったのがジョー・ニューマンである。1961年まで在団しており、途中でハリー・エディソンは退団しているが、空席になったエースの座にはサド・ジョーンズと席を分け合うような格好になったと見るべきだろうか。ジョー・ニューマンの資質はハリー・エディソンに近いものがあり、華麗さを感じさせるが線の太さとかスケール感ではサド・ジョーンズに分があって、客観視すれば後者がより目立っていたように思える。
先にトランペッターの先天的資質はトーンに表れるなどと私は訳知り顔で書いてみたのだが、カウント・ベイシー・オーケストラを去来したトランペッター達のことをあれこれ考えるにつけ、そこにはもう一つ、スケール感というこれまた何とも定義のしようのない要因が絡んでくるらしいことをこうして駄文を垂れ流しながら気付いた。とどのつまり、私は常々、ちょっと地味めだったり、ちょっとこぢんまりした感じのトランペッターに対する食指が蠢き続けているらしい。だからジョー・ニューマンのリーダアルバムにはに出くわしたときには躊躇なく手が伸びた。
- アーティスト: ジョー・ニューマン,オリヴァー・ネルソン,ロイド・メイヤーズ,アート・デイヴィス,エド・ショーネシー
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2002/12/18
- メディア: CD
ベイシー楽団の退団後、初のリーダーセッションである。2ホーンの本作は最初から最後までどの曲にも必ずジョー・ニューマンのソロが聴ける(当然だが)。録音場所は以前のボスであったベイシーが当時経営していたクラブで、フロントラインには少々意外な気もするがオリバー・ネルソンが陣取る。ときたまコルトレーンの語法を交えるこのサックスと対峙するせいなのか、或いはライブレコーディングであるためなのか、主役の活躍ぶりには目を見張るものがある。コーラスの枠に束縛されることなく思う存分吹きまくることの開放感を満喫しているようなプレイで聴いている方も妙に嬉しくなってくる。
オープンホーンでの吹奏はやはり少々小づくり感があって、ビッグバンドでの位置づけの理由はこういう点にあったのかとも聴けるがスモールコンボに於いては特段マイナスに作用していない。それを補って余りあるのが半分以上の曲で聴かせるミュートプレイでどの曲を聴いても私などは毎度唸りっぱなしである。ジョー・ニューマンのリーダーセッションは数が少なく、起用何とか的に参加した他人名義のやたら数多いレコーディングで散発的なソロを聴くことしかできないので本作は私にとって大いに貴重なソースである。ただ気のせいか、たとえソロスペースがなかったにせよ、ジョー・ニューマン参加した録音で聴けるトランペット・セクションはどれも例外なく豪華な響きを生み出す、この点に於いて私の期待は未だに一度も裏切られたことがない。そしていくつになってもレコード(CD)漁りをやめられない理由は、一つにこういった立ち位置のプレイヤーの存在なのだろうと改めて思う。
Lee Konitz with Warne Marsh/Lee Konitz(リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
歳をとってくるにつれて段々聴く頻度が上がってきたミュージシャンの一人にリー・コニッツがいる。
書店に足を運んでみるとジャズのレコードにはバイヤーズガイドのような書籍が物凄く多いことに驚く。数だけは沢山あるがピックアップされているソースも、説明内容も大体似たり寄ったりで正直なところ、何冊も購入して読むほどの意味はないし深い含蓄に富んだ名解説に出会うことも今はない。以前、一冊はあったと思うが今は恐らく絶版だし内容が大変古いのでここ20年ばかりの間にリリースされたものに関心のある方にはガイドとしての用をなさないことになる。
そんなこんなで今の私は現在購入できるこの手の書籍には全く無関心なリスナーなのだが、若い頃には2,3冊位はあれこれ買って読んでもいたことがある。網羅されているプレイヤーの中には滅多に聴く機会がなく、名前だけしか知らないような人がかなりの割合でいたがリー・コニッツもそんなうちの一人だった。いわゆる歴史的名盤のようなものは半ば義務感のようにして買ってはみたもののいざ聴いてみると大して面白くも感じられず一度針を降ろしたきりであとは棚の中に埋もれ続けるものも結構あった。リー・コニッツという人はここにも該当している。
30歳位までの間に最もよく聴いた、というよりも唯一聴きまくったのはMotionだった。
今考えてみると、その頃私がポイントを置いていたのはリー・コニッツ当人よりもエルビン・ジョーンズにあったのだとある時期から何となくわかった。
辺りを見回してみると、リー・コニッツの熱烈なファンという方には全くお目にかかったことがない。同じアルト・サックスならば、例えばマリオン・ブラウンみたいな傾向のプレイヤーのほうがまだ関心を寄せるリスナーは多そうに思う。月刊なり季刊なりの雑誌にしてもリー・コニッツの特集などおよそ記憶にない。であるにもかかわらずリー・コニッツはサックスプレイヤーとしてある一定以上のステイタスを与えられており、そのレコードはバイヤーズガイドには必ず一定数取り上げられてもいる。若い頃の私にはその根拠が今ひとつ理解できなかった。一体この、掴み所のないメロディラインで魅力に乏しいトーンの持ち主の何がそんなに凄いのか?
もうURLは忘れてしまったが、食わず嫌いならぬ「聴かず嫌い」のリスナーが無理矢理何かの音楽を聴いて短評を述べるという実に楽しいブログがあって、あるときキング・クリムゾンを取り上げたことがあった。そのブログ主によればクリムゾンの音楽は「理系の音楽」なのだそうだ。『これから研究発表をするから皆さん、お静かに』といったムードがクリムゾンの音楽からは醸し出されているようにその方には聞こえるらしい。確かにそういう側面はあるかもしれないとそのテキストを読みながら私はリー・コニッツのことを連想した。
アルト・サックスの絶対基準を強いて一人挙げよ、という問いかけが多数のリスナーになされたとして、恐らく最大公約数的に返ってくる答えはやはりチャーリー・パーカではなかろうかと私は考えている。そしてパーカーの持つ属性を殆ど全て裏返しにしたような存在がリー・コニッツなのだろうとある時からは位置づけるようになった。一つ一つアナロジーとして論っていけばきりがないのだが、いささか乱暴に喩えてみると、パーカーの語法はあくまで話し言葉なのだがリー・コニッツという人は、例えば数式を口に出して諳んじているような語り口に思える。
それは単なる亜流のスタイルであって果たしてそんな音楽を聴いていて楽しいのかと聞かれれば確かに最初のうちは特段心を動かされるような類のものではない。ただ私の場合、馬齢を重ねながらもその間に色々な人と会って色々な語り口と接しているうちに、直截な物言いをしない人、遠回しで暗示的な、含みを持たせた語り口に妙に惹かれたり気になったりした覚えは確かにあって、リー・コニッツのプレイスタイルというのはそんな佇まいのものではなかろうかとある頃から意識するようになってきた。やや明快さにかけるトーンや、ヘンに歯切れの悪い屈折したフレージング、スタンダード・ナンバーなどを演じてもなかなか素直にテーマを吹かないでいきなりアドリブから始めてみる流儀など、偏屈にして理屈っぽい事この上ないのだが、ゲテモノ好きというかいかもの食いというか、何度も聴いているうちに段々その偏屈な吹奏スタイルの奥にあるものが気になり始めてくるようになった。パーカーとかエリック・ドルフィーのような人達の作法とは違って『あんた、一体それどういう事なのよ?」と、突っ込みを入れたくなる瞬間がリー・コニッツの音楽には至る所散在していてそれは一つ、音楽の楽しみ方でもあると今になってわかりかけてきたようなつもりになっている。
ここまで私は偏屈とか屈折とかいう言葉でリー・コニッツの演奏スタイルを評していることに今気付いた。何というかこの人の音楽は「屈」という文字に象徴されるところが多いのではないか。他人の屈折した佇まいを眺めて面白がる今の私もまた屈折したオヤジなのだろうが。
パーカー・スタイル一辺倒のジャズ・シーンにあって「そうではないスタイルであってもモダン・ジャズの語法は成立するのだよ」というメソッドを打ち出したリー・コニッツは確かに一つの特異点ではあったのだろうが、結構ストレートに楽しめる録音も残している。
リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ(完全生産限定盤)
- アーティスト: リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ,ビリー・バウアー,ケニー・クラーク,オスカー・ペティフォード,サル・モスカ,ロニー・ポール
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 2005/11/09
- メディア: CD
2ホーンで相棒はかつてトリスターノ・スクールで同窓だったウォーン・マーシュである。バックはオスカー・ペティフォードにケニー・クラークとバリバリのバッパーが配されているのでリズムには弾力性があり、スマートながら全編結構躍動感がある。選曲はテーマをストレートに吹奏するバップ・チューンがあったりブルースナンバーがあったりで割と「普通の」ジャズっぽいが、リスナーに肩すかしを食わせてほくそ笑んでいるようなムードが全編に感じられるのは決して私の独りよがりな思いこみではないはずだ。
本作は「実は俺にだってバップやブルース位こなせるのさ」風な趣があってそれは確かに聴き所なのだがもう一つ、2本のホーンの絡みが何とも見事な印象を残す。時に精緻なユニゾン、時に複雑に交叉する二つのメロディーラインを自在に織り込んでいくこのレコーディングはどこまでがアレンジでどこからがアドリブなのかを想像しながら聴いていると妙なスリルがかき立てられる。熱気やエモーションの爆発みたいな局面だけが音楽のスリルではないのだよ、と、言いたげな音楽で、インテリチックな楽しみ方はさせてくれる。
というわけで本作はリー・コニッツの系譜中にあって結構リラックスした演奏記録なのだがこのセッションを企画したのは制作サイドなのかそれとも本人なのかという関心を私は抱いている。どちらであってもその背後には何かしら、ある種の物語性が潜んでいるように思えるのだ。前者についてはこの、希代のスタイリストをもっと通俗的で商業性のあるミュージシャンとしてリスナーに再認識してもらいたかったという憶測は成り立つと思うし、後者については頑なにバップに背を向け続けたかつてのボスであるレニー・トリスターノの引力圏から抜け出した地点で一度肩の力を抜いた同窓会的なセッションをやってみたかった、という希望が或いはあったのかもしれない。ジャケット写真に見られる本人の破顔一笑する姿から、私はついついそんな風に想像を膨らます。音楽そのものは『理系っぽい』が更にそのアウトラインには逆になんとも文学的な香りが感じ取れる。色々な意味で大人の音楽だと改めて思う。
Eternal Rhythm/Don Cherry(邦題:永遠のリズム/ドン・チェリー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
ドン・チェリーについて意識的になったのは実はそれほど以前の話ではない。
4年前に現在の稼業を始めてから余暇が増えた。それでレコードの棚をマメにほじくり返すようになって、以前、半ば義務感のようにしてだとか何かのついでに買っていたドン・チェリーのレコードを見つけたのが始まりだろうか。
オーネット・コールマンのサイドメンだった頃などはいかにも納まりの良い共演者風で今ひとつ強い印象を受けることはなかったが自己名義でレコーディングされたものをつぶさに聴いていくとこの人はこの人でまた独自のスタンスを持った個性あるミュージシャンであることを改めて知った。
私事になってしまうが、自営業者として暮らし始めて実感する開放感と、その裏返しである心許なさとこの人の音楽は何故かどこかで奇妙に通底し合っている。 齢50近くにもなっての音楽的嗜好と言えばスイング・ミュージックあたりなのだろうと勝手に決め込んでいたが案外そうでもなく、こういう方向性もあるのかと我ながら少々意外に思う。
今年の夏は随分ターンテーブルに乗っかることが多かったのがEternal Rhythmだ。
贔屓の引き倒して言うわけではないが、オーネット・コールマン同様、ドン・チェリーの音楽も別段難解ではない。フリー・ジャズという括り方があるが今の私にとっては何ともけったいというかせせこましい枠組みであってこれだけ自由な発想で組み立てられた成果に対してはむしろフリーミュージックとでも名付けるのが妥当なのかもしれない。本作を聴いていると「フリー」という言葉の意味ずるところについてついついあれこれと考え込む瞬間があったが、そんな思案ごとをすることにも大した意義はなく、ただただ提示された世界を受け入れてそこに飛び込んでいくことに愉悦があることをしばらく以前に知った。 学理学典上の四角張った理屈だとか歴史的な意義だとかではなく、ただ単に未知の面白そうな風景に素直に入り込んでいける身軽さとかフットワークの軽さこそがここで言う「フリー」の意義なのだろうと未だに未熟なこの頭で勝手に解釈している。
所謂フリーフォームにも色々傾向はあるようで、漠然とした言い方だが例えばジョン・コルトレーンの音楽などはリスナーに同化を迫る種類のもので求心的であり、ストイックであり、排他的なものに今は思える。技術至上主義的な時間をくぐり抜けてきたことが明らかに感じ取れるその音楽性は一種アカデミズムの追求劇でもあって、純潔性とか正当性とかいった記号を殊更大事にしたがる我々大和民族にはある種宗教的な価値観の元に崇めたてられていた一時期があった。これは以前、私自身がまさにそのようなリスナーだったことに対する多少の皮肉が混じっていることをご承知いただきたい。オーネットもそうだが、ドン・チェリーの音楽もまたそのような価値観とは対極の所にあって、ストイシズムや技巧の優劣に根ざした価値基準の物差しを笑い飛ばしているような所がある。今、私がドン・チェリーの音楽に接して抱く何か肯定的な印象はそういった姿勢に感応してのものなのかもしれない。
まあ、善し悪しはさておいて、コルトレーンの音楽が何事かを突き詰めるタイプの垂直方向に進行する類のものであるとして、こちらはアメリカ、ジャズ、といった枠を抜け出して今日はあちらへ明日はこちらへと楽天的な風来坊を決め込むような風情があって水平拡張型とも見るべきだろうか。雑種であることの新鮮さ、亜流であることの身軽さ、先に私はコルトレーンの音楽はリスナーに同化を迫ると書いたが、ドン・チェリーの音楽はリスナーに参加を呼びかけるとでも受け止めておくのが適当ではないかと思っている。
本作にはジャジーな局面も勿論あって確かにそれは聴き所ではあるのだが手を替え品を替え持ち出す民族楽器やらガムラン音楽風の展開やらが自由さを感じさせる大きな要因になっている。断片的な印象としてはソニー・シャーロックの無頼風なプレイが冒頭部分のみにとどめられているのがちょっと残念でもっと全編にわたって大暴れしてもらいたかったのだが全体の構成としてはあれくらいの比重がちょうどいいのだと聞き終わってから思う。また、ヨアヒム・キューンはやはりいいぜ、などと再認識した。全編ワールド・ミュージック的な本作の中で真性ヨーロッパ人であるこの人のプレイが一番ジャズっぽいというのも何だか面白い話ではある。
また、フリージャズとかフリーミュージックとかいう括られ方をされてはいるがここには垂れ流しの即興演奏が意外に少なく実は本作はまるで映画のように律儀にシークエンスが規定されていてがっちりと起承転結が構成されている。エンディングを聞き終わったあと私はこんな映画のことを連想していた。
- 出版社/メーカー: IMAGICA TV
- メディア: DVD
ジミヘンの動画を漁る [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
Misterioso/Thelonious Monk(ミステリオーソ/セロニアス・モンク) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
1958年のセロニアス・モンクというのはなかなかに微妙な時期にさしかかっており、リバーサイドに移籍してからは不遇時代に書き溜めたアブストラクトな自作曲をLPフォームに則った時間的制約の拡張による恩恵の元、スケールアップさせた形で再構成することで一躍時代の寵児となった。
言ってみればそれまではスケルトン部分の提示しかできなかった自作曲に存分な肉付けをしてみせることでより色彩感を増した上にダイナミックな展開を聞かせるようになったわけだが、そのようにして一通り自作曲を再構築する営為が終わってみるとソニー・ロリンズもジョン・コルトレーンも既に押しも押されもしない一枚看板として自分のバンドからは卒業してしまい、次なるテナーマンの人選も思案中で確たる人材が定まらない。一種、手詰まり状態というかその音楽が尖鋭性を徐々に減じ始める時期にさしかかっていたのだと私は見ている。
リバーサイド・レコードはしかしこの、異能の巨人にまだ十分な商品価値を認めており、レギュラーバンドの活動が一旦休止した状態にあっても色々なプレイヤーとの共演の機会をプロデュースすることで大変興味深い作品群をリリースし続けた。セロニアス・モンク自身もこの時点ではまだプレイヤーとしての緊張感を保ち続けており、期せずして一触即発的な局面をあちこちに覗かせていた。
クラーク・テリーやジェリー・マリガンとの共演など語るべきレコーディングは多数あるが、そういった制作傾向の中にあって、当時売り出し中のジョニー・グリフィンとのコラボレーションは更に一つの大変興味深いセッションとなった。ライブ・レコーディングであることがここでは更に刺激的な瞬間を生成しているように思う。
今の時点で振り返ってみると、セロニアス・モンクとの共演で疑いもなく創造的な協調を見せたのは順当すぎるがやはりソニー・ロリンズでありコルトレーンかというのが私なりのとらえ方だがミュージシャンとしての佇まいから見てジョニー・グリフィンという人はかなり異なるのではないだろうか。それは優劣の問題ではなくあくまでスタンスの違いでしかないのだが、シカゴで活動を続け、ジャンプバンドでの経歴を持つこのテナーマンはブルースに根ざした激情性をストレートに吐露する相当にアグレッシブなプレイヤーと私は受け止めている。その肉体派的資質は諧謔的でどこか屈折したストラクチャーを身上とするセロニアス・モンクの音楽世界とは殆ど接点がないに等しい。直線的に熱狂を高めていく演奏スタイルはしばしばホンカー風な扇情性を覗かせ、良くも悪くも論理性をはねつける。
そんなわけでここでの演奏はセロニアス・モンクが客演するジョニー・グリフィン・トリオといった様相をしばしば呈する。 曲のテーマは単にブロー大会のためのとっかかりに過ぎず、ジョニー・グリフィンは遠慮も会釈もなく、強引とさえ思えるほどに自分流の展開にバンドを引き込んでいく。コーラスを重ねるごとにモンクのバッキングは手数が減り、そのうち何コーラスもピアノの無音状態が続き、ジョニー・グリフィンはそこで更にヒートアップしていく。
意図してそのような展開を予め打ち合わせておいたのかどうかは不明だが、自身のオリジナルがみるみるうちに換骨奪胎されていく過程を目の当たりにする作曲者でもあり共演者でもあるプレイヤーの心の動きという切り口から色々な想像を働かせるに、私には何度聴いてもスリリングな時間が経過していく。沈黙することが音楽のスリルを増していくのだとすればそのプレイヤーの発する音にはどういう意味があるのか。勿論それはリスナーの勝手な想像でしかないのだろうがモンクの音楽はいつも実に色々なことを私に考えさせる。一曲だけ演じられるピアノ・ソロ、Just a Gigoloは皮肉にも収録曲中、唯一モンクのオリジナルではない。だが単にテーマをそのまま2コーラス演じるだけのこの小曲で聴かれる間合いとキータッチは疑問の余地なくモンクの音楽世界を如実に反映している。 演奏内容もさることながら、この編集に私はあらためて換骨奪胎という言葉が折り重なる様子をこのレコードから聞き取ってあれやこれやを空想する。本当にセロニアス・モンクの音楽は色々なことを想像させてくれるものだ。
ついでに書いておくとキリコの絵があしらわれたこのジャケットデザインはまるでモンクのが楽想をそのまま絵に置き換えたようで私は大変気に入っている。LPで勝っておいて良かったと思えるソースは幾つかあるが本作もその中の一つだ。
ジョニー・グリフィンの大暴れぶりはこちらのほうでより際だつが、いずれ取り上げてみたい。
- アーティスト: セロニアス・モンク,ジョニー・グリフィン,アーメド・アブダル・マリク,ロイ・ヘインズ
- 出版社/メーカー: UNIVERSAL CLASSICS(P)(M)
- 発売日: 2008/05/21
- メディア: CD