ブッカー・アービンのこと [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
釣果ゼロ再び [Outdoor的なこと]
What a Fool Believe/Doobie Brothers(ホワット・ア・フール・ビリーブ/ドゥービー・ブラザーズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
来客あり [身辺雑記]
Lee Morgan Vol.3/Lee Morgan (リー・モーガン Vol.3) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
- アーティスト: リー・モーガン,ジジ・グライス,ベニー・ゴルソン,ウィントン・ケリー,ポール・チェンバース,チャーリー・パーシップ
- 出版社/メーカー: EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)
- 発売日: 2007/09/26
- メディア: CD
フォノカートリッジを再度物色 [再生音楽の聴取環境など]
死んだ子の歳を数えるような話をしても仕方がないのだが、結論としては、私のような無精者にはシュアーのほうが向いていたようだ。備忘録っぽく相対比較してみると、
(1)カンチレバーの動作感度や音の解像度ではオーディオテクニカが勝る、これはカンチレバーやスタイラスが極小なため振動系の実効質量が小さいからだろうと考えているが、反面、盤面の汚れ(主にホコリ)には敏感だということでもある。だからLPレコードのクリーニングはシュアーを使っていた頃よりもマメになることを余儀なくされる。実際、レコードクリーナーの交換用ロールの使用量は明らかに増えた。オーディオテクニカはフォノカートリッジのメーカーであると同時にメンテ用のアクセサリーメーカーでもあるので、商売としてはうまくリンクされているな、と、妙に感心したりもする。
(2)万事において使いやすいシュアーだが、そう多くない難点の一つはハムを拾いやすいことだと常々思っていた。以前使っていたUitra500もそうだったがシュアーのカートリッジというのはラインナップの上から下まで全てボディはチープなプレス鋼板なので、周辺機材の(特にアンプ)置き場所に注意が必要だ。対してテクニカAT150MLXのボディはアルミダイキャストでコイルのシールドはかなり厳重な部類に属しているように思える。ある時、システム全体がどこか以前よりも静かだなあと思い少し考えてみて思い当たったのがそれだった。微細な音を良く拾うのは振動系の機械的な感度以外に、こんな事も関係しているのだと思う。
但しこの違いは全体質量に現れていて質量はシュアー6.6gに対してテクニカは8.3gだから約20%ほどの差がある。
オフセットアームであれば何の問題もないのだが、私のようなLTA使いにとってこれは無視出来ない。ボディの質量はカンチレバー側から見た機械負荷なので常々ここでも書く針飛びの起こりやすさに効いてくることになる。
実際のところ、シュアーを使っていた頃には問題なくトレース出来ていたはずのレコード盤がテクニカに変わってからは針飛びを起こしてNGというケースが拙宅ではいくつかある。この半年と少々、折りを見てはアームの設定をちょこまか変えて色々試行錯誤してみたが結局未だ解決には至っていない。
そんなわけでAT150MLXの後釜を思案中の昨今なのだが今時点ではなかなか考えがまとまらないでいる。モノとしてはまだまだ十分使える個体でちょっともったいない気はするが幾らおおざっぱな私でも針飛びにはNGなのでこれからあれこれ思案することになる。
(2)
ブログの更新を怠けながらの雑感を少々 [身辺雑記]
よくある日曜日の過ごし方 [身辺雑記]
私は元来、何事につけ怠慢な人物だと思う。
5年ほど前まで、会社員だった頃にはこれまで何度も書いた通り年がら年中働き通しで土曜日の出勤は当然のこと、日曜日や祝日でもデスクワークの残務のために出社することは珍しくなかったので、たまの休みには一日中、自宅でグダグダと中途半端に何かをやってはうたた寝を決め込むのが楽しくてしょうがなかったものだ。
貧乏自営業を開業してからは生来の怠け癖を律する必然性が薄れたので、なんとか食える目処が立てばそれ以上は働かないことにした。少しく稼ぎ怠惰に暮らす日常はすこぶる呑気なもので、日曜日などは以前にましてぐうたらな時間の過ごし方を決め込んでいる。活動的という言葉にはどこまでも縁がない。
会社員だった頃、週末の深夜はにがーいコーヒーをすすりながら夜更かしをして音楽を聴き通すのが習慣だったが自営業になってからは控えるようになった。深夜の音楽は程々にしておいてとっとと床に就き、日曜日の朝食後、掃除を済ませてすっきりした状態で音楽を聴くことが増えた。気のせいか、睡眠を取って体を休ませた後の方が聴覚も感度が高い状態にあるように思えている。
- アーティスト: ズート・シムズ,ジョン・ウィリアムス(ピアニスト),ノビー・トーター,ガス・ジョンソン
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2003/04/23
- メディア: CD
日曜の午前中にレコードを聴くようになってから取り出す頻度が高くなってきたミュージシャンのうちの一人。若い頃の私はあまり熱心に聞き込まずにいたが、歳を取ってから接してみると妙にしっくりくるプレイヤーだ。 近年の私は朴訥な感じの音楽を好む傾向がある。いろいろな意味で温和というか円満な音楽が日曜日午前中には馴染みが良さそうだ。
夕方近くになってやおら外出を決め込み、どこぞで夕食を済ませて帰宅する。
平日の私は、朝以外は殆どテレビを見ることがない。どうせくだらない番組ばかりなのだからテレビなど見ているくらいならソファに寝転がって居眠りでもしているほうがましだとさえ思っているほどだ。 但し日曜の夜はちょっと事情が違ってNHKの「世界ふれあい町歩き」を見る。私の住む土地では午後11時35分から総合テレビで放送されるこの紀行番組が妙に好きだ。一週間のうち、明確に目的を持ってみる殆ど唯一の番組ということになる。
http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/gtv/index.html
リポーターは登場せず、撮影スタッフがステディカムを担いでその土地を歩いて撮りおさめて編集した動画に後から俳優がカメラマンの視点でナレーションをかぶせた一人称形式の番組である。どうも私は物心ついた頃から「ここではないどこかに当て所もなく旅立つ」とか「遠いところから来た風来坊として振る舞う」というシチュエーションに心惹かれる傾向がある。実際には入念な事前調査があるにせよ、少なくも表面上は行き当たりばったり風で、自由と心許なさの入り交じったようなこの番組の手触りは日曜日の深夜という時間帯が及ぼす心象風景と相まってか、何かしら私の本能をくすぐる作用があるらしい。年がら年中根無し草のように世間を浮遊しながら手探りで生きている私自身の投影なのかもしれない。
四月からの番組改編以降、金曜日の午後10時45分からの放送となるのだそうだがNHKのセンスもあまり感心出来たものではないな、と思う。この番組はせっかくの休日を怠惰で無為なものに終わらせてしまったことへのささやかな反省と後悔を噛み締めながら見ることで味わいが出てくるもののように思えているのだが。
Bird Symbols/Charlie Parker(バード・シンボルズ/チャーリー・パーカー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
別のエントリーであらためて書いておこうと思うのだが、私には一種、持病があって何かの拍子にある種のミュージシャンのレコードを聴き始めるとその人の演奏を次から次と手当たり次第棚から引っぱりだしてきては無我夢中で聴き漁り、気づいてみると随分時間が経っていることに気づく。中毒症状のように思えなくもないけったいな病気だ。
目下この「なんとか中毒」には三種類の病原体が確認されており、 最初の二つは「ロバート・ジョンソン中毒」と「ジミヘン中毒」でもう一つが「パーカー中毒」だ。幸か不幸かCD2枚分の記録しか残されていないロバート・ジョンソンともう一人のジミヘンはさておいてここでのパーカーとは言うまでもなくかのチャーリー・パーカーを指している。
常々どうもこのお三方には共通した佇まいを感じている。ブルース、ロック、ジャズと並べてみて彼らはそれぞれ、そのカテゴリーの中で一人だけいることを許される場所に収まっているように思う。
語りだせばきりがないそれぞれの音楽世界なわけだが、ジャズに関して言えば例えばマイルスあたりの録音は一つのパッケージとしての完結度が結構高いのでたて続けに何枚も聴きまくることは私の場合はないのだがパーカーは何故かいったん聴き始めると止まらなくなる。これ一枚を聴いておけば区切りがつきそうだと思いながら実は中毒症状発症ののきっかけとして機能しているのがダイアル・セッションのコンピレーションである本作、Bird Symbolsで、もう30年くらいの間、わかっていながらもう思い出せないくらい同じことを繰り返しているのは私が学習能力の全くない人物であることを現しているがチャーリー・パーカーの音楽世界のある種、魔力の証明でもあると妙な確信を持っている。
アウトテイクでさえもが大きな意味を持つチャーリー・パーカーなのでコンピレーションを作成するのは至難の業で、どう選曲したところで必ず『どうしてあの曲のあのテイクが漏れているんだよ!』という不満が出てくるのは免れない。ましてや本作は元々LPレコードとして編集されたものなので曲数の制限がなおさらきつい。しかしそれでも本作の編集センスは最大公約数的に考えうる限りのベストを尽くしていると今でも思う。ダイアル・セッションの全テイクを網羅したスポットライトの企画は確かに歴史的な偉業だが本作はそこからの最良の抽出結果であって(発売された順番は逆だが)プロセスの全過程を検証するような聴き方とは別の、比較的気軽に(あくまでこの人にしては、の話だが)接することのできる取っつきの良さはある。
個人的には先鋭的というかアグレッシブな傾向の曲よりもブルースナンバーだったりスローバラッドにやや寄り気味の匙加減と受け止めているが、歳を取ってあまり学究的な対峙の仕方が好きでなくなってきたせいもあって近年だんだんターンテーブルに載る機会が増えてきた。LP7枚セットのコンプリート・ダイアル・セッションをいつかは手に入れて腹一杯聴きまくってやろうとあれこれ本作に未収録の曲のことを想像しながらバイトに精を出しつつ何度も、時には一日に二回も三回も本作を聴きまくった貧乏学生の頃のことを思い出しながらEmblasable Youあたりに聴き入っていると、私の人生時間もそれなりの積み上げが形成されつつあるのだな、と、妙に感慨深くなる日曜の昼下がりである。
デスクトップ再構築のための姑息な目論見 [パソコンのこと(主にMac)]
中古iMac G5はいまいち調子が良くない。
以前のeMac G4でもそうだったがアプリのiTunesがわがまま放題に暴れる。どこをどういじれば設定を変えられるのかが未だにわからないままだがコンピューターの起動 と連動して無条件で立ち上がり、強制終了をかけてもなかなか退場せずに頑としてメモリー上に居座り続ける。この状態になると時計も狂ったりと結構迷惑っぽい。
リカバリーディスクなしの中古品なので文句を言えた義理でもないがiPhotoがインストールされていないのも痛い。どちらも看板アプリのようなものなのでMacの使い勝手を十全に享受出来ているとは言い難い環境が約一ヶ月ほど続いていることになる。
iLifeのパッケージを買えばアプリの問題は解決するのだろうが最新バージョンの動作条件ははMac OS10.5(Leopard)であるらしいので私の中古iMac G5(Mac OS10.4.11)には使えないことになる。
- 出版社/メーカー: アップルコンピュータ
- メディア: DVD-ROM
Sessions for Robert.J/Eric Crapton (セッションズ・フォー・ロバート・J/エリック・クラプトン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
先月三日に中学校の同窓会があり、以来長らく疎遠だった以前の同級生達の間では交流が再開されつつあるようだ。何だか嬉しいような懐かしいような気分で私はここしばらくを過ごしている。過去を振り返りながら毎日を過ごすような時期に私はさしかかりつつあることになる。
私は元来、我ながら嫌になるほど奇矯なところのある性分なので考えてみると中学校を卒業以来、途切れることなく続いてきた交友関係というのは本当に少ない。私の場合はカメラの指南役である同級生のIさんがその数少ない一人で、随分長いこと有意義なおつきあいをさせてもらっている。
カメラに限らずIさんにはこれまで多様な啓発を与えていただいた。もしもこの交友関係がなかったら私の精神世界は相当に偏狭で色彩感に乏しいものになっていたに違いない。Iさんは随分と多趣味にして多芸な方で、私は時折おこぼれに預かるコバンザメを決め込むことが多い。
Iさんは最近、音楽を聴く時間が増えてきたのだそうで愛好家の私としてはご同慶の至りというかまた共通の話題が増えたことになる。エリック・クラプトンに関心が向かったのだそうだ。
功なり名遂げ、すっかり金満家となったクラプトンなのでいつかはこういう企画に手を付けるのだろうな、と以前から薄々予感はしていたがやっぱりやった。それは決して余興めいたものではなくリスペクトの込められた大真面目な出来上がりになるだろうとも予想していたがこれも当たり。端正とか生真面目というのがこの人のキーワードだと私は決め込んでいて、時に愚直なほど遊びやおちゃらけでプレイはしない、できない人だ。いつの音楽からもそれは伝わってくる。
とまあ、わかったような講釈を並べているが実は私はクラプトンの良きリスナーではない。ミュージシャンとしてのエリック・クラプトンに対しては見当違いな思い込みに根ざした失望から敬遠していた時期がかなり長く、その音楽にシンパシーを抱くようになったのは月並みながらこの辺りから。我ながらミーハーっぽい気はして少々気恥ずかしいが。
ロバート・ジョンソンへのトリビュートについては自身の音楽的出自とひたむきに向かい合った佳作という評価が多数を占める一方で、確たるアイデンティティを持った現在、何もカントリーブルーズのストレートコピーに精を出さなくてもいいではないかという批判も一部にはあるようだ。私としてはどちらの言い分にもそれぞれ共感するところはある。
一生懸命鍛錬しました的な佇まいはブルーズの根本的な在りようにはそぐわないし、その歌いっぷりは所詮、イギリスの白人が物真似をしているだけではないのかといった醒めた目線はここでも払拭しきれない。おそらく本人にとってもキャリアが続く限り消えることのないわだかまりではないかと私は想像している。ただ、ここではカントリーブルーズの肌合いよりもクラプトンというミュージシャンの生来的な生真面目さに注目してあげても良いのではと思っている。これほどのビッグネームでありながらお殿様的な自己模倣に陥ることなく自分のアイドルの演奏をムキになってコピーしようとする姿は何だか微笑ましくはありませんかね?
こういう企画盤に関心が向かうと、多少なりとも探究心のある方ならばオリジンの方に食指が動くのは当然の成り行きな訳だが件のIさんもこの例には漏れないようだ。
スタートであると同時にゴールでもある音楽。一周回ってたどり着く。色々考えるに、私にとってはここに根ざした音楽は殆どすべてが許容範囲ということになりそうで、これまで色々誤解もあったがエリック・クラプトンはそういったミュージシャンのうちの一人なのだと気づくまでに随分長い時間がかかってしまった。Iさんに拝借したこのCD/DVDであらためて知った。本作はCDよりもDVDのほうに主眼があるようで、私も借りるばかりではなくひとつ買い込んでこようかと思い始めている次第。
腰痛の季節 [身辺雑記]
日本のどこかでは梅の花が咲いたとニュースで報じられていたが、これまで何度も書いた通り私の住む土地は日本でも有数の寒冷地で未だに真冬である。ここ数日、早朝の外気温は-15℃以下を連日記録している。昨日は-20℃だった。
今年は雪が多い。豪雪地帯ではないがむやみやたらと寒い土地なので一度降った雪はなかなか溶けずに春まで居座る。先週の土曜日には約10センチの降雪があった。先々週の土曜日には約40センチ、その前の土曜日には約30センチ、その前やその間にもとにかく雪が降った。
雪が降れば当然ながら雪かきをしなければならない。放っておいても溶けてくれないのでどこかの時点で行わなければならない。一人暮らしが長いので持ち前の怠け癖がすっかり体に染み付いているところへ持ってきて寄る年波のせいでこれが何とも億劫だ。億劫ではあるが他に片付けてくれる人もいないので結局「えいやっ!」とばかりに意を決して寒い戸外に飛び出してスコップを振り回すことになる。
最近は小型の除雪機が普及して除雪はずいぶん楽になったようだが私の自宅にはない。お金がないので買えないだけの話だが肉体を酷使して働くことには何かの意義があるはずだとやせ我慢をしながら毎度雪かきに励むのだが毎年体力は低下の一途を辿りつつあるのでそれも限度に近づきつつある。
雪かきをさぼり続けて何日も放置していると日中の気温上昇と雪それ自体の重みで積雪は徐々に押し潰されていき、見た目上での重みは増してくる。そんなところへ気だけはまだ若いつもりで50肩が治りきってもいないこの私がやおらスコップを抱えて雪かきを始めると後になってから腰痛に悩まされるというのがここ数年の通例である。
昨年も、一昨年もこの時期には腰痛に悩まされた。今年もまた同じことを繰り返し、風呂に浸かっては自分の学習能力のなさと除雪機を未だに購えない甲斐性のなさを悔いる。 例年、四月いっぱいくらいまではそのような付録が私の日常にはつきまとうので私の腰痛もゴールデンウィークくらいまでは解決の見通しはない。
LD環境が拙宅で衰退していく予感 [再生音楽の聴取環境など]
拙宅にはいくらかのLD(レーザーディスク)が蒐集されている。若い頃には小金があると何度も見返したい映画をLDで買っておくことがあった。
昨日、私はDVDプレイヤーがたったの3ヶ月で変調を来すようになったと書いたが今晩はLDの不調ときた。本体は特におかしな挙動はないのだが賭けるディスクによってトラッキングエラー(と呼んでいいのだろうか?)が起きる。LDに経時劣化が起きるものなのかどうか私にはその知識はないのだがこれまでに不調の起きたものを思い出す限り列記してみる。
どれも記憶に残る、これから先も折りを見て見返したい映画だがもう我が家の手持ちLDではエンディンまでを見通すことができない。残念至極。加えてどの映画もそうだが映像の飛ぶエラーが冒頭部分で現れてくれるのならまだしも、決まって終盤のストーリーが盛り上がる箇所当たりで発生するのはどうしたわけか。
冬になると引っ張り出して観たくなるこの映画ももう駄目だと今晩知った。先に書いた法則めいたものはこの盤についても言えていて、現在私は消化不良気味の気分に捕われている。
考えてみると、CD,LDと非接触のメディアには数年ほったらかしにしておいて久しぶりに再生してみるとエラーの出るものが拙宅には幾らかあるのでDVDにもこの先同じようなことが起きそうな気もする。
そこへいくとLPというのは炎天下に放置しておいて反りが出たとか手を滑らせて落っことして傷がついたとかいった風に因果関係のはっきりした可視的な原因でなければ30年でも40年でも再生できるのだから考えようによっては大した耐久性ではないだろうか。数年ぶりに取り出して再生してみたらいつの間にか駄目になっていたという非接触メディアの壊れ方はどうも不条理な気がして納得いかないものを感じることが多い。
私は出始めの頃のDVDには画質に納得のいかないところがあって高価なのを承知でわざわざLDを買い込んでいたのだが、今になってみて見れば出始めの頃のLDだって画質はひどいものだ。先々折りを見て、LDで見られなくなった映画はDVDなりブルーレイに買い替えていくことになるのだろうがDVDについてはこれまで書いた通りさもしい根性の発露からか安物買いの銭失いを繰り返しており落ち着いて長期間再生できる状況にない。その一方でLDはその性質故にLPレコードのように中古盤を漁る気にはなれず、そうこうしているうちに見られないディスクがこの先だんだん増えていくのだろうから拙宅ので映画鑑賞環境はだんだん混迷の度合いを深めつつある。何とかしなければ。
安物買いの銭失いを地でいく [身辺雑記]
拙宅の居間にあるDVDプレイヤーはこれまで何度も故障しては放り出してきた。現在使っているものは4代目なので平均3年弱から2年強くらいでおシャカになり続けてきたことになる。
現在使っているものは昨年の暮れにハードオフから買ってきた型落ちの安物でお値段は三千円だった。さすがに三千円だけあって使い始めて僅か三ヶ月でディスクトレイが開いた途端に閉まるという変調を来すようになった。
買ったところはハードオフだし値段も値段なので文句を言えた柄でもないのだがこうも次から次と短命政権が続くとまるでゴミを買ってきているような気になり始める。
年を取ってきたせいかものを覚えるのがだんだん面倒臭くなり始めているところへもってきてDVDプレイヤーのリモコンはかなり多機能なのでせっかく要領を覚えて操作に慣れた頃に本体が壊れると何だか面白くない気分になるわけだが元はと言えば間に合わせの安物ばかりを買い続けてきた私のせこい了見が原因だ。
いっそのこと、オールインワンでお手軽なセットを一つ置いておくのも悪くはないかと思案中だがこの手の思案ごとに夢中になっている時、私には決まって先立つものがない。
ボーズ DVD/CDレシーバー:PLS1610 PLS-1610
- 出版社/メーカー: BOSE
- メディア: エレクトロニクス
昨年の暮れに入れ替えた車のローンが終わる来年夏頃くらいまでにどうにか予算がひねり出せれば良いのだが。
調子が今いちといえばLPレコードのカートリッジも今ひとつでシュアーを使っていた頃の簡便さが懐かしい。
クリフォード・ブラウンの動画を見つけて雑感 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
前日、トランぺッターのことをあれこれ書いてみたのだがたまたまYou Toubeを漫然と眺めているうちにクリフォード・ブラウンの動画を見つけた。 おそらくテレビ番組に出演した時のものと思われ、保管状態の問題からか音揺れがひどく、満足な音質とはとても言えないがそれでもプレイヤーとしての素晴らしさを損なうものではなく、偉大なスタイリストぶりは十分リスナーに伝わると思う。楽器を演奏する姿が動画として残っていたというだけでも私などは手放しで喜んでいる。
冒頭、司会者は"Max Roach and Clifford Brown...."と紹介しているが画面に映し出されるのはバンドのメンバー全員ではなくクリフォード・ブラウン一人だけで、なぜこのような放送のされ方をしたのかを色々考えてみても私程度の頭ではよくわからないのだが、少なくともこの放送ではトランペットという楽器がバンドの顔として捉えられているからだ、という仮説は成り立つのではなかろうか。 演奏そのものは生前、全ての録音がそうであったようにここでも非の打ち所がなく、圧倒的なくらい雄弁でもある。オフィシャルな録音のみならずいくつか散見されるインフォーマルな場での演奏までマウスピースに口をあてがう度にこの水準だったのだろうから恐ろしく密度の高い演奏歴だったことになる。あるいはその短い生涯の中で言いたいことは全て言い尽くしていたのかもしれない。 余りにも完成され過ぎたものにはかえって安直な感情移入が難しい。無条件のリスペクトは疑いようもなく湧いてくるのだが。
New Colors/Freddie Hubbard(ニュー・カラーズ/フレディ・ハバード) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]
”フレディ・ハバードのような”と敢えて書く理由は、この人がシリアスなリスナーからは必ずしも高く評価されていない一面があるからで、マイナス評価の理由は商業主義的で楽器奏者としての真剣味に欠けるレコーディングをかなりの量でリリースしていたある時期を指している。実際、そういうブツをつかんでしまった方には御愁傷様と言う他なく、何を隠そうこの私も過去に於いては用心しながらもつい何度かはスカを引いてしまって腹立たしい思いをしたことはある。
スカを引いてしまった方にとっては腹の虫の治まらない話かもしれないがしかし、この手の王道的なラッパ吹きにはそういった困り者の記録が必ず散在しているものなので時たまスカを引くのは仕方のないことだとあるときから私は無理矢理納得することにした。というよりもそもそも、先に例えた野球選手のように、トランぺッターという人種には総じてこれから演奏する音楽の全体的なストラクチャーについて予め頭の中に青写真がある人自体が殆どいないのではなかろうか。(その例外がマイルスではないかと私は考えている)
先人の系譜をたどれば、サッチモにせよガレスピーにせよ疑問の余地なく偉大なプレイヤーではあるけれど、一つのパッケージメディアとして構築性の高い音楽は殆ど残していない。但し反面、彼らはしばしばジャズの枠を踏み越えて、もっとポピュラーな世界で華々しいソロをとることがあって、フレディ・ハバードにもこんな記録がある。
かつてスイングジャーナルという雑誌で油井正一氏は「かつては芥川賞を取りながら現在はポルノ小説ばかりを書き飛ばす流行作家」という痛烈な比喩でフレディ・ハバードの新作を皮肉ったことがある。当時の私はその喩えに手放しで共感したがある時からは文学作品だろうがポルノ小説だろうが読んで面白く、ためになるのならカテゴリーは二の次と思うようになったのでフレディ・ハバードのありようには結構肯定的な見方をするようになった。但し、やっぱりスカは掴みたくないが。
その演奏歴には毀誉褒貶が相半ばするにせよ、後進達の演奏スタイルにはフレディ・ハバードの影響が感じられる人たちが実に多いところから考えれば、以前のクリフォード・ブラウンがそうであったように彼は多くの新人達にとっては偉大なる指標だった。 これには疑問の余地がないと思う。
病気のため長いブランクを要し、楽器を演奏できない時間がかなり長かった間に再評価されたのは良いことだった。シリアスではない音楽に携わることで身銭を切って音楽を聴くリスナーを落胆させるのは確かに好ましいあり方ではないのだろうが、楽器奏者としての偉大さとは別のところで論じられるのが自然だと考えている。
レコーディング・キャリアの中ではかなり後期に属するのだろうが以前私がご祝儀的に当時買ったCDをさっきまで聴いていた。
病を克服してカムバックを果たしたフレディ・ハバードが中編成のホーンアンサンブルをバックに往年の当たり曲を再演する企画である。
さすがに往時に比べれば少々パワーダウンの印象は免れず、私個人としてはフリューゲルホーンよりもトランペットの方がこの人には似つかわしい気がするが、それらを差し引いても全編シリアスでなおかつかっこいいのと私のお気に入りのRed Crayも抜かりなく収録されているので買っても後悔することはない。共演者である若手のプレイヤー達とはやはり一線を画した貫禄を感じる。キャリアの終わりにこういった真剣味や重量感のある佳作を残してくれたのはやはりプレイヤーとしてのある種良心というか、即興演奏に賭けるスピリットの発露と私はかなり好意的に捉えている。理屈抜きに堂々としていてかっこいいトランペッターの系譜は今後どのように継承されていくのかはちょっと気がかりではあるのだけれど。
今更ながらの周辺機器のこととか [パソコンのこと(主にMac)]
ノートパソコンMacBookのトラックパッドに慣れきってしまうと長くMacで標準的だった1ボタンマウスでの操作が面倒臭くなってくる。現行機種ではボタンさえも廃止されてしまったので恐らく尚更だろうと思う。人の横着をしたがる欲求には際限がない。
もともとMacの1ボタンマウスは誤操作を減らすためになるべく単純なインターフェイスを志向して決められたというのがその経緯らしい。 当時はそれで良かったのだろうがキーボードを叩いてコマンドを打ち込む機会が減ってくるにつれて今度はマウスの高機能が求められるようになってきたというのが少々皮肉な気はする。
PC/ATではごく当たり前の2ボタン、スクロールホイール付きのマウスを今まで使わないでいたのには別段、確たる信念があったわけではなくただ何となくであって、仕事で使うWindowsマシンでは当たり前のように右クリックだのホイールマウスだのを使っていた。
中古のiMac G5にはマウスが付属してこなかったのでそれまで使っていたeMacのものを流用していたがゴミの噛み込みがあったのかスプリングがくたびれてきたのか、何せ、しばらく前から挙動がおかしかったので最近気になってはいた。現行の単倍されているワイヤレスのマイティマウスを買おうかと思ったがどうせいずれはこの中古Macも入れ替えるのだから当面は間に合わせの安物を調達しておこうとケチ臭い算段が働いた。
Apple Wireless Mighty Mouse MB111J/A
- 出版社/メーカー: アップル
- メディア: エレクトロニクス
いくら何でも単体のマウスに8800円也はちと高い。貧乏人のチョイスはやっぱり千円でお釣りのくる安物となった。
リンクに示されている東芝製の商品はもっと高価で本日私が買い込んだサンワサプライ製とは違うが機能としては似たようなものだろうからご勘弁を。
何を今更と嘲笑されるのは当然だが長いことアップル純正の1ボタンマウスばかりを使い続けてきた者としてはやはり右クリックやスクロールホイールのご利益には感じ入るものがある。便利なものはやっぱり便利だ。
ついでに冬は手首が痛むのでリストレストを一緒に買った。以前使っていたこともあるが汗で汚くなったので捨ててしまいそれっきり。長く使わないでいたということは大したメリットを感じていなかったからなのかもしれない。
私が買ったのはブーメラン状に「く」の字に折れ曲がったものでなかなか具合が良い。冬季間は毎年腱鞘炎に悩まされるのだがリストレストはいくらか保護的に働くようだ。ただし私がここしばらくブログの更新を怠っていたのは単に怠け癖のせいであって腱鞘炎と直接関係があるわけではない。
中古iMac G5の購入(2) [パソコンのこと(主にMac)]
昨日、首を長くして待っていた中古のパソコンが届いた。私用のパソコンもこれでやっと液晶画面となって場所ふさぎな印象はやや減った感じだ。
毎度ながらアップルという会社は大した技術がある訳でもないのに一見、おしゃれで特別なものを提供しているかのように見せかける術に長けている。起動してデスクトップ画面が現れた直後に勝手にAirmac Express(自前の無線LAN)を検知して勝手にデフォルト設定に組み込んでしまったのには笑った。
拙宅での私用パソコンには何台か外付けのHDやフラッシュメモリーがぶら下がっている。インターフェイスはUSB2.0とFireeire(IEEE1394)が混在していて、ディスクフォーマットもFAT32とMac OS拡張フォーマットとが混在している状況だが、インターフェイスでいえばFirewire,フォーマットの形式でいえば当然ながらMac OSのほうが物わかりがよい。最低なのはインターフェイスはUSB2.0,フォーマット形式がFAT32の場合で、これは仕事で使うWindowsマシンにも使うデータを入れておく必要上の措置だが認識は一番後回しでファイルネームにも制限があり、カスタムアイコンも使えない。まあ、認識できて読み書きもできるというだけでも有り難いと思わなければならないのだろうが、贅沢は言い始めるときりがないということだ。
なにぶん中古品なのでマウスが欠品していたがこれは手持ちをあてがうのでよしとして、到着時点ではメモリーが512MBで非力なことが火を見るよりも明らかだったのでこれは昨日上限いっぱいの2GBに増設を済ませた。ハードウェアの出費としては目下これだけで、必要なものは大体全部予め組み込んであるのだからメモリーの増設以外のことはやってくれるな、という製品作りはマックの基本姿勢であって拡張性を求めるのならばおよそ購買意欲が失せてきそうに高価なPowemacしか選択肢はない。なかなか巧みな商売技法だ。
ハードウェアはそれとして問題はソフトだ。手元に届いた状態ではMac OS10.4.4(Tiger)が最小インストールされている状態だったのでアプリケーションソフトをあれこれインストールしているうちに昨日一日が終わってしまい今日に持ち越しとなったが、改めてアプリのフォルダを見てみると使用頻度の高いiPhotogが見当たらない。何しろ中古のパソコンなので文句を言えた柄でもないのだがリストア用のディスクは付属していないからシステムインストールのやり直しはできない訳だ。
幸か不幸か昨年8月に更新したノートパソコンMacBookにはMac OS 10.5(Loepard)が添付されているのでまるごと簡易インストールすることを考えたがTigerの環境でしばらく使ってみるのも悪くはないかと思い、それまで使っていたeMacのリカバリーディスクからアプリ諸々についてカスタムインストールを試みた。こちらはMac OS10.3.3(Panther)である。
言うまでもなくアップルはハードウェアからアプリまでを手がけるトータルパッケージ志向、悪く言えば閉鎖的な製品作りの体質が感じられるが、こういう場面ではその傾向が如実に現れる。実に、前バージョンのOSリカバリーからの部分的な(ということはここではアプリだけを抜き出しての)インストールはいくつかを除いて大部分が拒否された。残念ながらiPhotoもそのうちの一つだ。今回の私のような虫のいい目論見を持った者に対してはアプリケーションのパッケージソフトを購入せい、ということなのかもしれない。
現行製品のインテルマックを使っているのならまだしも、中古パソコンのスペックでは使い物にならないiMovieだとか.macのアカウントを持っていないと宝の持ち腐れでしかないiWeb、などなど使えないアプリまで抱き合わせて購入しなければならないというのが貧乏人としてはどうにも面白くない。よって、私のデスクトップ構築はまだ終わっていない。
一つラッキーだったのは、ビジネス系のアプリが共存できることだろうか。
MS Officeがあったとしても、以前のeMacでは結構重宝したアプリで、リカバリーディスクにも含まれていた。ただし、現行製品であるインテルマックにはインストールできない。本体にも同梱されてこない。アップルとしてはもう、Macがビジネスユースとして販売されることには期待していないということなのだろう。機能限定とはいえiLifeを同梱してあげているのだからビジネスアプリが欲しいのならこっちを買ってくれ、という意思表示か。
iWorkは仕事上必要に迫られて昨年仕方なしにパッケージを買った。今回購入した中古パソコンはOSを10.4.11までバージョンアップすると動作条件を満たすことになる。同じメーカーが作っていながら意地の悪いことにiWorkはAppleWorksのデータをエンコードしないと読まないし、保存するときにも.cwk(Appleworksでの拡張子)は御法度となる。今回の中古パソコンではどちらも動作は可能なので、古いAppleWorksで作成したデータが混在する私にとってはちょっと有り難い。
とはいえこれは枝葉の話であって、肝心要のiPhotoなしの環境はやはり考えものだ。打開策を模索すべくまだ試行錯誤が続く。
中古iMac G5の購入 [パソコンのこと(主にMac)]
私用で使っていたeMacが起動しなくなったのでパソコンの更新を余儀なくされている状況については以前書いた。http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-01-13
弱り目に祟り目とはこういう事で、昨年の夏以来私は出費続きで脳天から煙が上がりそうになっている。わずか半年の間にノートパソコン一台と気絶しそうな額のデータ復旧費(しかも肝心のお仕事データは救出できずじまいというおまけ付き) を支払い、昨年冬には自動車を買い替えた。eMacはもともと安いだけが取り柄のような、あまりチャーミングではない製品で大した愛着もなかったが、とにかく普段はギャンギャン使い続けていたので息絶えてしまうと私のパソコン生活にはやはり問題が発生する。
本当ならばここで気前良くデスクトップパソコンも新調したいところなのだがいかんせん来月からは自動車の残金のローンが待ち受けている。来年8月までは倹約の日々が続く事を余儀なくされているのだ。
インテルコアの現行iMacには正直かなり関心が向かっているのだが我慢しなければならない。
Apple iMac 24インチ/2.8GHz Core 2 Duo/2G/320G/8x SuperDrive DL MB325J/A
- 出版社/メーカー: アップル
- メディア: エレクトロニクス
岸和田少年愚連隊(外した映画シリーズ?) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]
余り書くべき事がない。普段は垂れ流しの駄文が多すぎる反省を込めて今回は手短に書く事を試みる。
井筒和幸監督にはこれまで幾つか大阪を舞台にした不良少年を描いた映画がある。そして本作はそのうちで最も出来の悪い映画だ。何が良くないと言って主人公の二人が全然不良に見えない。不良は大体、形から入ってくるものだと私は覚えているので、この映画は最も根本的な設定を無視している事になる。
この手の映画の第一作は『ガキ帝国』で、井筒監督は以後、第一作を超える不良少年物語を一つもモノにできていない。その後三作続けても全てこれ以下なのでおそらくこの先も無理だろう。
「ガキ帝国」では島田紳介と松本竜助のコンビを起用して成功を収めたので今度はナインティナインを起用しようという安直な考えが丸見えだ。「ガキ帝国」が成功したポイントは必ずしも漫才コンビの起用にあったわけではないのでこれは読み違い。吉本系の漫才コンビを起用して舞台は大阪の不良少年グラフィティをシリーズ化しようという商業的画策もあったのかもしれないが、もしも本作がその目論見を断念する理由になったのだとしたら確かに納得のいく出来上がりではある。
漫才コンビのうちの背が低い方はやっている事がテレビのバラエティ番組そのままで映画俳優として何をしなければならないのかがわかっているようには全然見えない。背の高い方が演技者としては幾らかましに見えるが、先に書いたように不良少年風では全然ない。出演者の資質の問題はそれとして、映画の筋立て自体も時系列でいくつかのエポソードを並べてみただけといった感じで 全体を貫く構造みたいなものは感じられない。それに不良少年でハイティーンというのはこんなにあっけらかんと能天気で楽しい事ばっかりなものだろうか?私個人は刹那性や寒々しさがどこかに見え隠れする作風の方に肩入れしたい心情があるので、映画としては『ガキ帝国』よりも退歩した印象を受けた。
映画は全て芸術性をを持った「作品」でなければならないとは私は全然思わないが、本作は娯楽作品としても出来が悪い。漫才コンビのショーケースはテレビ番組や吉本興業のステージで事が足りるはずで、映画はまた別の入れ物ではないのか。