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Attack Force (邦題:沈黙の激突) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 冬は日が短いのでプロジェクターを引っ張りだしてきて映画を見るには都合がいい季節だ。そのせいかどうでもいい三流映画を次から次と見続ける変な習慣がここ数年で身に付いた。

 私にとってここ数年の代表的三流映画と言えばやはりスティーブン・セガールの主演する一連のアクション映画になる。もっとも、ここ数年のセガール氏はすっかり肥え太ってジョージ秋山のマンガに出てきそうなおっさんに成り果て、アクションシーンと言ったって目まぐるしいカットバックによって一体何をやってケリがついたんだかわからないうちにとにかくセガールが無傷のまま労せずして敵役を打ち倒しているようなインチキ臭い編集ばっかりなのでもはやアクション映画というよりもSFチックとさえ言えそうな何かに変質してしまっている。

 死んだ子の歳を数えるような話だが、セガール氏のデビューは結構かっこいいものだった。初主演作の冒頭で、彼は自分が日本で初めて合気道の道場を開いた外国人である事を誇らしげに語っていたのだ。道場をたたんで帰国した後、ハリウッドでアクション演技の指導に携わっていた、その俺様が初主演する映画がこれから始まるのだ、というオープニングには少し驚いた。通常一般のアクターとは主体が転倒している。誰を演じるかではなく誰が演じているのかを見て欲しいわけでこれは物凄い自己顕示の発露とは言えまいか。

刑事ニコ 法の死角 [DVD]

刑事ニコ 法の死角 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 確かにスクリーンデビューしてから数作のスティーブン・セガールはいかにも本物の武道家らしい身のこなしが凄みを漂わせていた。しかし喩えは悪いがアクション映画専門の俳優というのはポルノ女優みたいなもので、物凄い刺激をそういつまでも発散し続けていられるものでもない。トウが立ってくればフェードアウトするかキワモノに転身するくらいしか選択肢がないのが殆どではないのか。セガール氏の場合は後者だった。デクデクに太りながらもセガール氏はひたすら厳つく、強面で、どんな強敵も一撃のもとに叩きのめす猛烈なオヤジでありつづけている。今や俳優としての株など暴落もいいところで製作陣といい共演者といい聞いた事もないような人たちばっかりの低予算映画の粗製濫造がもう何年も続いていてもはや興行価値などロクに見込めそうもないのに、セガール氏はとにかく、何が何でも、しゃにむに、断固としてそういう役柄で主演する事以外には俳優としての間口を広げるつもりが毛頭なさそうに見える。

 人物設定や筋立ての展開が荒唐無稽であほらしい、とか格闘シーンの立ち回りがあまりにも一方的な展開ばっかりで全然盛り上がらないといった至極ごもっともな批判が公然化した頃と例の「沈黙シリーズ」が乱発され始めた時期は大体一致している。原題自体はどれもバラバラなのだが日本で公開されるときにはまるでその言葉を枕に振らなければならない決りでもあるかのように「沈黙のなんとか」だ。ただでさえアクションスターとしては下り坂で、主演する映画そのものの質も底打ち状態の「沈黙のなんとか」シリーズは私の住む田舎町などでは数年前からは劇場公開さえされなくなった。きっと配給する側も色々タイトルを考えるのがもう面倒臭いからセガールが主演している映画なら何でも「沈黙のなんとか」にしておけばいいや、みたいな腹づもりでいるのではないか。

 私の悪癖でいつも前置きが長過ぎる。とにかくこれだ。先に私はセガールの近作はもはやアクション映画というよりもSFチックであると書いたがここで訂正しておきたい。セガールの近作はSFというよりも一種のギャグとして見るのが正しい作法ではなかろうか。

沈黙の激突 [DVD]

沈黙の激突 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
  • メディア: DVD

 このタイトルにしてからが既に配給会社のてきとうな手さばきが如実に現れている。

この地表には空気という媒質が満ち溢れているのだから激突が起これば必ず音波が発生するのであって沈黙などあり得ない、とか、激突を衝突と言い換えるならばそれは固体同士の運動が起こす物理現象であって、果たして『沈黙』とはそのような実体を持っているのか、とか我ながら情けなくなるくらいバカ丸出しの突っ込みを入れてやりたくなる。

 映画の中身についてはもう、いい加減にしてくれと言いたくなるくらいの低劣さで呆れるしかない。セガール様の手抜きアクションは健在で、『一撃のもとに叩き伏せる』という境地さえ超越されたようだ。射撃の腕も含めて、もはやゴルゴ13だってセガール氏には敵わないのではないかと私は真剣に考えている程だ。

 セガール様の事はさておいて、この映画を見ていて大変鬱陶しいのは最初から最後まで画面が暗い事だ。最初から最後まで殆ど全てのカットが暗がりや物陰だったり夜間だったりのシーンばっかりが続く。銃撃戦や格闘シーンも全て暗がりの中で行われ、普段以上にわけがわからないうちにとにかくセガール氏麻薬のドーピングによって超人化した殺人マシーン共を涼しい顔でいつも通りちょっと触るだけで敵を呆気なく絶命させてしまうのである。手抜きアクションはいよいよもって際立っており、実はセガール様こそが真の超人であった事をこの映画は伝えている。何せ、製作手法として論外という他ないが、ここで私は明るい場所でのロケーションではセガール氏が太った自分の体型が明らかになるのを嫌ったからではないかと意地の悪い想像を働かせている。

 まあとにかく、それでもなんだかんだ言って私はスティーブン・セガールの主演する映画を折りに触れて身構えるでもなく緊張感もなくダラダラと見続けている。カップラーメンをすすりながら、とか、大して飲めもしない酒をチビチビやりながら、相変わらず下らねえ事をやってるな、とか、もう十分稼いだのだからいい加減やめちまえ、と内心毒づく事でなにかしら楽しんでいる事になるのかもしれない。映画を見ているというより水戸黄門だとか暴れん坊将軍のようなドラマシリーズに接している感覚に近そうな気がする。


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凶気の桜(外した映画シリーズ?) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 冬は暇になりがちなので安物DVDプレイヤーが健在なうちにどんどん安価なレンタルDVDを見続ける。

凶気の桜 [DVD]

凶気の桜 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東映ビデオ
  • メディア: DVD

小さい映画だ。悲しいくらい小さい。メジャー系の東映にしてみればこれでも冒険したつもりなのだろうがそれにしても小さい。キャスティングとしては原田芳雄だけが光る。私はこの人に関しては昔から大甘。クールで陽気な殺し屋稼業役の江口洋介はかえって白々しい。

 無軌道な暴力さがより大きな暴力装置に取り込まれて消費され、摩滅していく物語というのは既に偉大な基準が出来ていて 本作はあらゆる意味でこれを超えていないし違った側面を生み出しているわけでもない。

時計じかけのオレンジ [DVD]

時計じかけのオレンジ [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

比較する事自体、酷な気はするがつまらないものはやっぱりつまらない。主演の窪塚洋介という人は一種、アイドル的な人気のあった人のようで、そういうタレントが暴力的な役柄を演じる事自体が一時の話題性を持ったのだろうが所詮それだけのことではないのか。

スケールといい、物語の起伏の大きさといい、あらゆる面で偉大なる先駆者には遠く及ばないのは明白だが 、一つ上げれば主人公の描かれ方が大変薄っぺらい。題材が何であれ、映画は約2時間なにがしの間に主人公が山あり谷ありの局面を経験して一段変化した存在に成長するのがある種のお約束だと私は考えている。

「時計仕掛けのオレンジ』での主人公アレックスは無軌道で無差別な暴力少年として始まり、途中強制的に矯正されたいじめられっ子としてあらゆる人からあらゆる迫害を受ける。そして最後にはより大きな凶暴さに呑み込まれて、今度はより大きな凶暴さの道具として再び暴力少年としての再生を遂げるという道筋をたどる。そんな二転三転の構図がドラマの核な訳だが本作での山口君は終始一貫、徹頭徹尾、いきり立った単細胞的暴力少年でしかなく、滑稽なくらい単調だ。加えて、幾ら強かろうが逞しかろうが徒党を組んで暴れているうちは男としての値打ちはない。孤独の中で満身創痍になってこそ美学が光り始めてくるのであって群れなす野郎共などというのはどこまでいっても自立できない弱さでしかない。

 劇中登場する彼女志願風の女子学生とのやりとりやエンドロールが終わってからのロングカットでは戸惑ったり怯えたりする様子を織り込んでその人格に奥行きを持たせた意図もあるのだろうがいずれも取って付けたような不自然さだけが鼻につく。 よって私的にはアイドルタレントの一時の人気だけにおんぶした凡作である。日本のメジャー系映画としては無機的な暴力少年という人物設定はそれなりの冒険だったのかもしれないが、冒険というには余りにも小さい。


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There's a Riot Goin'on/Sly & the Family Stone(邦題:暴動/ スライ&ザ・ファミリー・ストーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 時節の話題としては、アメリカ大統領の就任式が近い。アメリカン・ニグロが社会的に成功するためには音楽かスポーツ以外にはないと言われていたのがつい四半世紀程前の事だったように覚えているのだが時代というのは変遷していくものなのだと改めて思う。

 明らかに期待を持たれ過ぎ、過大な幻想を担わされているように私には見えるが、それでもバラク・オバマ氏の就任演説は一世一代のものになるだろうから同時代人としてはしっかり記憶にとどめておきたい。私は特段、オバマ氏の信奉者でも何でもないがかの人は単純にテレビ映りがいいというか、優れたアクターでもあるような見え方がしている。こういう時節に融和や協調を掲げて大統領に就任する構図は何か時代の空気と随分調和がとれていて収まりが良い。安っぽい言い方だがある種、トリックスターのようにも思える。だが私はどこかでそのスローガンはいずれ何らかの形で蹉跌を味わう事になりそうな予感も払拭しきれいないでいる。どこかでそんな前例を見てきたように覚えている。

  音楽の世界に視点を移してみると、1960年代末期のスライ・ストーンは人種間の融合を成し遂げた存在として画期的だった。白人はロックで黒人はR & Bという境界線を軽々と乗り越えた革新者として華々しかった。映画に記録されているウッドストックでの熱狂ぶりは今見ても気恥ずかしいくらい人種間の融合や協調への確信を感じさせるものだ。

ウッドストック~愛と平和と音楽の3日間~【ワイド版】 [DVD]

ウッドストック~愛と平和と音楽の3日間~【ワイド版】 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 1969年から1970年にかけてのアメリカ社会の屈折や騒乱ぶりは遠く太平洋を挟んだ島国に住む私のような子供にも断片的に伝わってきた。 ブラック・パンサーとかウェザーマンとかいった団体名がいささか物騒なニュアンスを持って伝えられていたような記憶がある。当初の楽観的な融合願望はそのうち階級闘争的な対抗意識に変質し、騒乱の後はセパレーショニズムに落ち着いて表面上は平静を装いながらも内実では分断が確立されていく、といった経過を辿った事になるのだろうか。いつの時代も隔てられた人々が融和的になるのは大変困難なものだ。

 当時小学校の高学年だった私が、兄の買ってきた音楽雑誌を拝借してページをめくっていると、CBSソニーの広告ページに掲載されていた大きなジャケット写真が目に入った。

暴動

暴動

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: エピックレコードジャパン
  • 発売日: 1997/01/22
  • メディア: CD

 大写しのアメリカ国旗にタイトルが『暴動』とはまた何とも不穏というか戦闘的というか大変政治的な匂いを当時の私は感じ取っていて、しばらくの間は敬遠していたのだった。政治的な、という意味ではビートルズ解散後のジョン・レノンなどがいくつかそういう類いの曲を演じていたが、それらは傍観者の一意見というふうに受け止め方の出来るものであったのに対してこちらは何かしら当事者のメッセージでありそうな分だけ重苦しいムードが感じられた。

 気になり続けてはいたものの中々購買する気にはなれなかったのは、R&Bに関心が向かうようになるのはそれからずっと後、年齢でいえば20代後半になってからのためもあるが、ジャケットデザインが購入にある種の覚悟を要するもののように感じられたからだ。

 一聴して驚いたのは大変否定的なニュアンスが充満した音楽だった事だ。悲観的と言った方がより近いのだろうか。特にマイナーキーの曲が多いという事ではないのに全編に倦怠感や疲労感がたちこめている。最終曲の『サンキュー』はシングルバージョンとは全くの別物で躍動感とはほど遠く、陰鬱で重い。それまで聴いた黒人ミュージシャンでいえば唯一、ジミヘンの音楽にはどこか通じるところがありそうに聞こえた。ジミヘンは生前の活動に於いて黒人聴衆のまとまった支持を受けられなかった。勿論偉大なミュージシャンではあるけれど同時に『ロックを演奏するなんていうのは白人に対する媚びであってこんな奴は黒人の風上にも置けない』という偏見に晒され続けた人でもある。 先に書いたウッドストックで会場撤収の朝に登場したジミヘンは、気のせいかどこかかったるそうで反応の鈍いサイドメンに苛立ちながらの演奏ぶりだったように私には記憶されている。映画の上では対照的に前向きでエネルギッシュなアジテーターぶりを見せたスライ・ストーンはその後の本作であのときジミヘンに通じるムードを漂わせている。

 初めて聴いた頃の私はフリーターのような事をやっていた時期で、依って立つ足場を失い、先の展望も見えない中で私は最初に知ったときの抵抗感が嘘のようにすんなりとこのレコードに手を伸ばしていた。持ち帰って聴いてみると本作の放つ疲労感や敗北感とか投げやり風だったりヤケッパチ風だったりする歌いっぷりが当時の心象風景にひどく馴染んだ。これは、大きな挫折の音楽なのだ。かつて語っていた大きな希望に裏切られて、以前は健全な夢に突き動かされて熱病のような興奮の中にいた自分を嘲笑混じりに語るシニカルな自画像なのだ。

 音楽そのものについて私が随分驚いたのはリズムマシーンの導入だった。ロック小僧にはどうしてもブラック・ミュージックに対するある種の劣等感があってそれはリズムの躍動感に根ざしている。あの有機的な、生命の鼓動そのもののような弾み方は単に一小節を幾つに切り分けるかといった決まり事だけでは絶対に解き明かせない秘密がある。しかしここではそれを敢えて放棄するかのように無機的そのもののリズムボックスにタイムキープは委ねられていながらも全体のカラーは疑問の余地なく真っ黒けであり、紛れもなくこれはアフロ・アメリカンの音楽以外の何者でもない。それまで長い事、ブラック・ミュージックをかくあらしめている根拠をこのとき私は見失った訳だが、ではその核心部分はと言うと未だにわからないままでいるし、わからないままでいいのだと思うようにもなってきた。何もかもを無理矢理言葉として定義しなければならなくはないのだし、説明不可能なある種の神秘性がこの音楽に対する関心が保たれるという働きも認めていて良さそうだ。

 時代の状況に歩調を合わせるように、表現者としてのスライ・ストーンの人間観や世界観が否定的な方向に大きく転換していく大きな節目が本作のバックボーンを形成している訳だが、リリースされてから約40年近く経過してみるとこれだけ排他的であり内省的でもある作風の本作を出発点とするフォロワー達が陸続と輩出され続けたその量に驚く。 それは例えばその後私が耳にしてちょっと気になったこんなシンガーの歌唱にも反映されていた。

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  • アーティスト: UA
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 1996/10/23
  • メディア: CD

 異なる民族や異なる社会階層の人々が融和的に一体化されるなんていうのは絵空事に過ぎない、という痛烈な視線はスライ・ストーン自身が大いなるトリックスターだっただけに尚更鋭い。きっと現実の合衆国も、現在オバマ氏を押し上げている暖色系の幻想が失望や幻滅を伴って崩壊していきそうな予感が私にはどうしても拭いきれない。かつて華々しく浮揚して潰えた夢が今度は実現されるのだという確たる根拠がどうにも感じられない。しかしこの先の経過がささくれだったセパレーショニズムの再現に収束してしまったにしてもそれはそれで一つのありようとして受け入れられていくのだろう。

 本作はそれまで通り相場として刷り込まれていたブラック・ミュージックの色合いを大きく裏切ってネガティブであり排他的でもある歴史的な問題作でもあるのだが、でありながら本作での身振りは少なくともその表層部分に於いては驚く程長期にわたって驚く程多くのフォロワーを生み出し続けてきた。それは本人が望んだものではないのかもしれないが融和性を持った一つの世界の形成と解釈する事も出来そうな気がする。してみると果てしなくシニカルで逆説的な音楽だとつくづく思う。

 追記のような事:このテキストは私がブログを始めてから音楽の事を何か書き殴り続けて100個目にあたる。色々な意味で節目だなあという気がするし、本作は節目として取り上げるにふさわしい傑作だと思う。ふさわしくないのは相変わらずまとまりがなく無用に長くなってしまう私の作文能力だけですなw


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三千円で買ったDVDプレイヤー [再生音楽の聴取環境など]

 昨年始めに安物DVDプレイヤーが壊れて以来、およそ一年近く居間でDVDを見る事が出来ずにいた。一昨年の五月頃に購入したもので安かろう悪かろうを絵に書いたような造りだった。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-05-01

実働半年と少々でお陀仏となった。買った値段も五千円くらいだったから修理する気にもなれず取り外してそのまま放り出していた。

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 さはさりながら居間でDVDが見られないというのは私にとってはなかなかに不便をかこつ事態ではある。テレビの受像機などあってもなくても良いのだがDVDが見られないとかCDが聴けないというのは大いに困る。CDは同じく居間にあるLDプレイヤーで聴いていたがかけかえる度に毎度あのでっかいトレイが『がおー』とか凄い音を立てて開閉するのは余り感じの良いものではない。

 問題点が把握できていて、なんとかしなくてはと思いながらもズルズルとやり過ごすのは一生治らない私の性分だが、昨年暮れにはさすがに幾らか小金をせしめてもいたので暇ができると電器店でDVDレコーダーを物色する事があった。私のような者が録画機能を持つ機材を手にするとおよそロクな事には使わないのはこれまでの経験上はっきりしている。ビデオデッキしかり、パソコンしかり、諸兄にはおよそ見当がついていると思うがそういう事だ。

 そういう中で歳末のある日、古本漁りにブックオフとハードオフがくっついた店舗の中をブラブラしていたら三千円也のDVDプレイヤーを発見した。

 

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  店頭に陳列してある機体をしげしげと見ると使用した形跡が全くない。経緯はともあれタバコ一カートンの値段とはまた冗談めいているがダメもとで買い込んでみるのも悪くはないかという気になった。悲しいかな貧乏人としては三千円也という値段を目前にすると録画機能などどうでも良くなったのですぐに買った。見てくれは私が8年程前、自宅を新築したときに買ったDVDプレイヤーと大変良く似ている。その機体は実売で5万円弱で大体4年と少々使ってある日あるとき挿入されたディスクを全く認識しなくなったので取り外したっきりで今も物置に眠っている。
 
考えてみると、この八年程でDVDプレイヤーはこれで4台目だ。
最初のパイオニア製は先に書いたように五万円弱で4年と少々の実働だった。
次に買ったのは安物の中国製で二万円弱であり、これが大体二年程の実働だったように覚えている。
その次は先に書いたこれまた六千円くらい安物中国製で半年少々
そして今度は三千円也の中古品と来た。
お買い物の金額は買い替える度に安くなっていく。今度はリッチなどなたかからタダで貰い下げる事にでもなるのだろうか。それはそれでラッキーな話だが。
 
たいした買い物をしている訳でもないので余り偉そうなことを言えた柄でもないのだがしかし、DVDプレイヤーというのはどれもこれもこんなに耐久性のないものなのだろうか?更に言えば面白い事に経験上、実売価格の安いもの程耐久性がない。律儀なまでの比例関係がここには見て取れる。それにしても半年かそこらでぶっ壊れるとは工業製品としていかがなものか。直接比較するのは適当ではないのだろうが私が初めて買ったCDプレイヤーはもう二十年目になるが今でも現役でバリバリ働いているしLDプレイヤーも購入してから優に十年以上になるが未だに一度も故障はない。十年くらいは故障の心配をせずに済むDVDプレイヤーがあるとすればそれは一体いかほどか。リサイクルショップへ行けば数千円で型落ちの未使用品が買えるのが現状であればそんな思案にはたいした意味はないのだが。
 
 ともあれ、 ハードオフの店員は一週間しか保証期間はありませんからね、と意地悪そうにコメントした三千円也のDVDプレイヤーは快調に働いているので私は大変得をした気分に浸っていた。『俺も結構買い物上手ではないか』と、わりかしいい気分になっていた。そんなところで前日エントリーに上げたように私用のパソコンであるeMacはウンともスンとも言わなくなって目下私は中古のiMac G5を物色する事態を余儀なくされている。結局、たまにぬか喜びをする局面があったとしてもすぐさま出費を強いられる災難が待ち受けている。貧乏人というのはそういうものであって懐はいつまでたっても寒いまんま、というのがこのエントリーのオチなのでございます。
 

 


eMacそろそろ退役 [パソコンのこと(主にMac)]

 私用のパソコンであるeMacはそろそろ見切り時のようだ。およそ5年前、私が会社員を辞めて今の仕事を開業したときに景気付けのようなつもりでそれまで使っていたiMacを更新したのだった。

emac.jpgPower PC G4,1.25GHz,HDD 160GB, RAM 1GB,Airmac Card,Bluetouthなどなど、購入当時はApplestoreで目一杯あれこれ組み込んだ。何より私の音楽聞き生活を一変させたiPod(20GB)のプラットフォームだった。

 動画をどんどん見たり、(ということは罰当たりな画像をどんどんダウンロードしたり)DVDを焼いたり、音楽CDを編集したりといった事を、私はeMacを手に入れる事で初めて実現した。今となっては色々と苦しいところのあるマシンスペックだがこの5年ばかりは本当に活躍し続けてきたのだった。

 この7年ばかり、私はデスクトップとノート、2台のパソコンを使い分けるようにしている。現在の仕事を始めた当初は3台も4台もを使い分けようと結構おバカな事をしていたが結局はMac2台、Windows一台の構成に落ち着きつつある。用途としてはお仕事専用はWindows、私事専用がeMacで、ノートパソコン一台を公私共用としている。

 昨年、それまで使っていたノートパソコンiBookが昇天してしまい、現在のMacBookに更新する事になった経緯については以前書いた。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/archive/20080902   http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/archive/200810-1

 パソコンというのは妙なもので、それまで大して不自由もなく使っていたはずなのに現役スペックの最新式に一度接すると途端に陳腐で不便なものに思え初めてくる。なぜが愛着とか思いいれといった心情に縁がない物体のように私は見ている。それを用いて行った色々な思い出は生まれるだろうがパソコンそれ自体には不思議と愛着が湧いてこない。

 件のeMacはパラソルマークがいつまでたっても止まらない現象が昨年あたりから出始めて一度修理に出したが大して改善が見られなかった。この現象が出ると電源プラグを引っこ抜いてコンピューターを強制終了させるしか手がないと私は決めつけているのだが、eMacは電源ボタンの作りが大変チャチで、起動しづらい傾向がある。筐体を分解してあれこれやってみたが大して改善される様子もない上に起動したとしても動画データのコンバートやデータコピーなどはどう見ても現役のMacBookとは雲泥の差と言ってもいい程明らかな劣り具合なのでこの際更新する事にした。

 とは言え昨年秋以来、ただでさえ貧乏生活であるところでやれノートパソコンだ、やれ車の入れ替えだ(14万キロ乗りました)と出費続きで先立つものが大変乏しい。 現役のiMacまでにはなかなか手が届かないのでさしあたり繋ぎマシンとしてiMac G5の中古品をオークションで物色してみようかと考えている次第。Power PCの最終型を横目で見ながらeMacにしがみついていたMacユーザーとしては、小さい出来事ながらなにがしかの区切りでもありそうな気がする。


Cloverfield/クローバーフィールド [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 昨年話題になった映画だが私は映画館で見ておらず、今になってやっと DVDを借り出してきた。もうあちこちで随分語られ尽くしてブログで取り上げるには今更というのはごもっともだが、ここは私自身の備忘録的におさらいのような事を書いておきたい。

 幼少時の私は怪獣映画が大好きで、ゴジラやウルトラマンには随分熱中した。怪獣が登場すると車を踏みつぶしながら我が物顔で市街地をのし歩き、無造作にビルを叩き壊したりする訳だがああいう行いのうちに被害を被る人々は当然沢山いる訳で、この映画は「怪獣に踏みつぶされる人たちのうちの一人」という視点で作られている。

クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
  • メディア: DVD

 怪獣は瞬間的にチラッチラッと断片的に出てくるが、物語の主体は怪獣から逃げまとって右往左往する群衆のうちの一人が所持していたビデオカメラと言ってよい。現場から回収されたビデオカメラに記録された映像がそのまま映画の筋立てでもある。こういった物語設定には前例がある。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト デラックス版 [DVD]

ブレア・ウィッチ・プロジェクト デラックス版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: クロックワークス
  • メディア: DVD

 クリーチャーの出てこないホラー映画。技ありというかジャンルに於いて一度だけ使うことを許されている禁じ手というか。どれほどグロテスクなモンスターも人の想像力の限度には及ばず、何が恐ろしいと言って生身の人間程恐ろしい存在はない。

 終始一貫した一人称視点の製作技法はブレア・ウィッチ・プロジェクトの二番煎じで、モンスターの姿が断片的に映る分だけサービス精神が覗く作りだが表現手法の如何を問わず、そもそも一人称というのは徹底させればさせる程排他的な世界を構築していくものだと私は日頃考えていて、この映画の公開前に色々とセンセーショナルな前宣伝がなされていた状況には疑問があった。

 結論というか評価のような事を最初に書いておくと、私はかなり否定的な見方をしている。ネタバレは良くないが、本作は元々大して値のない映画なのでネタバレがあったからといってその価値が減じる事もないと私は見ている。それほどまでにくだらない作りだと考えている。

 構成には多少のひねりがある。先に書いたように怪獣が現れて大暴れした後の現場から回収されたビデオカメラに記録された動画、というのが本作の作り方だが、ビデオカメラの記録メディアには先に4月下旬頃、デートの様子が記録されており、映画の出来事はそこに上書きされた5月中旬頃の記録ということになっている。従って映画の進行中では所々断片的に数秒間ずつデートの様子が現れる。事件の間中記録は何度か寸断されるので、上書きされる事のなかった事前の記録が断続的に再生されることになる。

 映画を見ながら私は、事件当日のパニック状況と平穏な過去の出来事を対比させる意味でそういう構成になっているのだと思っていた。次々起こる大破壊の最中にあって報道関係でもない一私人がここまで記録に拘泥する理由は何なのか、何度もカメラを取り落とし、弾き飛ばされても決して手放そうとはぜずに何度も撮影にリトライする根拠は普通に考えればかなり薄い。純然たる一人称形式としてはそこに不自然さを感じる。大量動員目当ての商業主義と先に書いたような禁じ手風の製作手法の折り合いは、再度書くが折衷できる性質のものではないという私の見方はやはり変わらない。

 映画のラスト近くで、避難しそびれた登場人物が怪獣に遭遇して文字通り命と代償にその容姿の全体をカメラに収めるカットが数秒あるがそれは何とも中途半端な印象を与える。結果として本作はモンスターを大暴れさせるところを見てもらいたい大活劇ではないが、だからといって想像外の存在である異形のモンスターに徹底的に蹂躙されてパニックに陥る人間のドラマにも徹しきれていない。

 更に幻滅させるのはラストの数秒間で、撮り残しのテープの末尾には先に書いたように4月下旬のデートの様子が断片的に収まっている。(ここからネタバレですよ)海辺の観覧車で仲良く収まる登場人物の微笑ましい姿で映画は終わる。と、ここで、背後の海、かなり遠方に空中からの飛来物が飛び込む様子が映り込む。映画の最中にノルウェー船籍のタンカーが沈没したニュースがテレビで放送される伏線があったり、ネット上でも架空の企業の海上建築物が破壊事故に遭った架空のニュースなどがあったりもした事から考えるとこの、ラストで小さく見られる海上への飛来物が約一ヶ月弱で成長してマンハッタン島に上がってきた件の怪獣である事は明らかだ。

 物事には語る事による面白さはあるが反面、伏せる事によって受け手の想像力が刺激される側面もあると思う。パニックに翻弄される一私人の視点を徹底させるのであれば、見えない事、把握できていないものがあったほうが怪獣という不条理な存在をより強くイメージさせる働きがあったはずだと私は考えていて、ストーリー上は無理矢理感の否めない怪獣の全容をカメラフレーム内に収めたカットといい最後の飛来物といい、ディティールが無用に説明的な分だけこの映画は陳腐でくだらない。せっかくジャンルの中で一度だけ通用する禁じ手を駆使して構成するのであれば、もっと不明さや不可解さを物語の糊しろとして残しておき、怪獣のイメージは観客の想像力に委ねておくべきではなかったか。描かれない事、語られない事に向かって想像力を働かせることを観客に促す結果、普遍的な評価を獲得した映画は少なくないはずだ。

ストーカー [DVD]

ストーカー [DVD]

  • 出版社/メーカー: アイ・ヴィ・シー
  • メディア: DVD

 「見せない事」の美学というと、パッと思い当たるのが本作だろうか。

 最後に多少の皮肉めいた感想を書き留めておくと、クローバーフィールドという映画で驚嘆するのはモンスターの脅威などではなく、拾われたビデオカメラの耐久性だろうwこれだけ何度も取り落とされたり弾き飛ばされたりして、あげくの果てにはヘリコプターの墜落事故にまで巻き込まれながらこの物体はカメラである事をやめないのだ。

 


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At Fargo 1940L/Duke Ellington (アット・ファーゴ1940L/デューク・エリントン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 さほど意識もしていないうちに、ブログを始めて以来何と300本目の記事を書き始めている。元来、根気も持続性もない私がよくもまあこれだけあれこれと書き続けてこられたものだと我ながら妙に感心する事しきり。

 300という数字は何かの節目たり得るのではないかと考えていて、しばらく前から何について書いてみようかと独りよがりな思案を続けていたところ、貧乏学生の頃に買いそびれて以来30年近く、探し続けていたレコードを最近やっと中古盤で手に入れる事が出来たので、取り上げてみたくなった次第。

アット・ファーゴ 1940 L

アット・ファーゴ 1940 L

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1995/02/22
  • メディア: CD

 

 長いキャリアを誇るエリントンだけに、バンドは幾つかのピークを有している訳だが極めつけの最盛期と言えば1939年から1941年にかけてというあたりが 衆目の一致するところだと思う。「百万ドルのリードセクション」が健在で、ベースにはこの楽器最大のイノベーターであるジミー・ブラントンが存命の頃である。

 本作の録音は1940年11月7日、ノース・ダコタ州ファーゴのクリスタル・ボールルームで行われた。当日の開演は午後8時で、途中休憩を何度か挟みながら翌日午前一時頃まで演奏は続いた。今でこそビッグ・バンド・ジャズは鑑賞目的の音楽として扱われているが当時はダンスの伴奏音楽の域を出ていない頃で、本作もそのような環境下で録音されている。猫に小判と言うか豚になんとかと言うか、これほどの音楽がそのような扱いでしかなかったというのは全くもって信じ難いが揺らぐ事のない事実である。

 当時のエリントン・オーケストラはRCAと専属契約を結んでいたため、当然ながら本作はオフィシャルレコーディングではない。であるにもかかわらず本作の音質は当時の時代背景を考慮するとホール自体の音響の良さも相まって桁外れに良い。当時、現地の熱烈なファンだったTom Towers と Dick Burrisの2名が商業目的ではない旨を再三強調の上マネージャーと粘り強く交渉した結果、当日のライブレコーディングは特別に許可された。録音機材はバッテリードライブのカッティングマシーンで、当然ながら磁気テープもミキサーもない時代なので一発取りのダイレクトカットである。しかも持ち込みの台数は一台のみであるため演奏される曲の頭やエンドが切れていたり、ボーカルがオフ気味になっていたりといった不具合が散見されるのは致し方ないが、最盛期に於けるライブがオープニングからエンドまで殆どそっくりレコーディングされたケースというのは極めて珍しく、上記2名の功績は幾ら賞賛されてもされ過ぎという事はない。まさに歴史の1ページを彩る至宝とも言うべきOne Night Standを私はおよそ70年後の今日、自宅で何度も好きなだけ繰り返して聞ける事の有り難さをつくづく実感せずにはいられない。

 構成メンバーについては多くを語るまでもないが、唯一惜しまれるのは一番ラッパのクーティ・ウィリアムスが本作録音の五日前にベニー・グッドマンに引き抜かれてバンドを去っている事だ。昇格人事(?)となったレックス・スチュワートは前任者と比べて突進力に於いては一歩譲るがよりメロディアスで明るいプレイスタイルで、立派に重責を果たしている。クーティ・ウィリアムスに関しては、奇しくもこの日、1940年11月7日は彼を迎えたベニー・グッドマン・セクステットが初の録音を行った日でもあって、何やら因縁めいた物語を想像させるに十分な背景とは言えまいか。

  音楽そのものについてはこれまた何も言うべき事がない。最初から最後まで徹頭徹尾、終始一貫してただただ素晴らしいとしか言いようがない。Aトレインやサテン・ドールが収録されていないからといって購入を見送った当時の私は全くもって眼力のない大馬鹿者だったことを30年ぶりに思い知った。聞き所は満載で全てについて語り尽くすだけの筆力が私にはないのだが 強いて一つを上げるとすればやはりジミー・ブラントンについて触れずにはいられない。わずか一年強という公式な録音歴がそのまま在団期間でもあるこの不世出の天才は、姿を現した1939年に於いて既に神懸かり的だった。

JimmyBlanton.jpg 

 エレキギターに於けるジミ・ヘンドリックス、エレキベースに於けるジャコ・パストリアスに並ぶ存在をウッドベースに求めるならばどこからどう考えてもジミー・ブラントン以外には思い当たらない。 スコット・ラファロの前にはミンガスやオスカー・ペティフォードもいたしレイ・ブラウンもいた。そして彼らの前にはブラントンがいたわけだがその前にはというと誰もいなかったのだ。あったのはただ単に、一小節に4つのビートを刻むだけの裏方楽器でしかなかった。ベースのソロはおろか、一小節のブレイクさえもブラントン以前には存在しなかった。リスナーはジミー・ブラントンを通じて初めてベースの音のみを聴いた事になるのであって、例えばKo Koのブリッジにおいてジミー・ブラントンのブレイクを聴くという事はそのままウッドベースの概念が覆る歴史的瞬間を追体験する事をも意味しているのだ。

 本作でのブラントンは、録音の良さも相まって公式に録音されたRCA盤での演奏よりも更に克明なトーンを聞かせ、ライブステージであるせいもあってかパッセージはよりエネルギッシュだ。推移から行って比較対象を逆に探すしかないのだがレイ・ブラウンを更に硬質にした感じとでもいうか、図太く硬質なビッグトーン、アクセントやタイミングを自在にコントロールする多彩なフレージング、いかなるテンポにおいてもドラマー以上にバンドの背骨としての推進力を発揮する性格無比のタイム感覚とピッチ感覚など、当時21歳の若者がたった一人でここまでの事をやり遂げていたのかと思うと感嘆抜きには聴けない。全てのベースマンにとっての永遠の指標たる根拠はその演奏で十分以上に示されている。

 私は目下、LP2枚組の本作を毎日毎日飽きもせずに繰り返して聞き続けているのだが、およそ80分がこれほど短く感じられる事はそうそう滅多にあるものではない。同時に優れた音楽の前で言葉というものがどれほど限界だらけでもどかしいものなのかも改めて意識する。本作を中古LPで手に入れるまでの30年弱はなんだか人生に於ける機会損失でさえあったのではないかと結構大まじめに反省していたりもする。

 そんなわけで、LP制作時には編集から漏れたアウトテイクを含んだ全曲が収まったCDを購入する事に決めた。今年はしばらくぶりにデューク・エリントンの音源収集熱が再燃しそうな気配だ。 

 

 


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忍者武芸帳 [書籍]

 私のような世事に疎い者にさえここ数ヶ月で世界が崩落していく途中であるのがありありとわかる。一体どこまで転落していってこの事態は落ち着くのか誰にも見当がつかないのではないだろうか。年明けは更なる失墜の幕開けでもあるような気がしている。

 実際ここ4ヶ月ばかり、世の中の出来事は暗いニュースがやたらと多い。日中聞き流していたラジオのパーソナリティは「これが外国だったら殆ど間違いなく暴動が起きているはずだ」と番組中で語っていた。良く言えば忍耐強い、悪く言えば統治権力の矛盾に対して鈍感な、というのが日本人の国民性なのではないかという内容だったが、公共の電波がここまでのことを言うのだから状況は本当に良くないのだ。

  民衆蜂起の善し悪しは別として、身辺の色々な人たちの中にさえ世の中の仕組みに対する怒りの気分が醸成されつつあるのを実感する機会が最近は多い。たったここ3年ばかりの間に空気は随分変質した。先月だったかに経団連の会長が社長を務めるキャノンが派遣社員を大量に契約途中で馘首に踏み切った件の報道に関する記者会見で、詳しい事は広報から説明させると厚顔にのたまう様子を見ていてさすがに私も腹立たしい気分になった。経団連の会長を輩出する程の企業ともなれば、それはあるべき会社の姿として規範たるモラルを持っているものであって、事実ある時期まで経団連の会長の発言というのは日本国全体を鳥瞰しての慎重なものだったが、今や私企業がこれまで蓄え込んだ内部留保は押し隠しす一方、今後目先の収益のために間接雇用している派遣社員を大量馘首するその行いを、あたかもそれの一体何が悪いか、オレは直接関係ないと開き直らんばかりの振る舞いにはつくづく暗然とさせられる。今やそういう程度の人物が財界人のトップとして君臨する事を容認する程世間は劣化している。

 見ていて本当に胸の悪くなるような場面だったせいか、これまで何度も読み返してきたマンガを引っ張りだしてきて再読したくなった。色々な切り口をもつ群像劇だが、民衆蜂起のドラマという側面もある事を今更ながら意識した。

忍者武芸帳影丸伝 (1) (小学館文庫)

忍者武芸帳影丸伝 (1) (小学館文庫)

  • 作者: 白土 三平
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 1997/05
  • メディア: 文庫

 マンガという表現形態が生み出した希有な「作品」として本作は未だに色褪せない。それどころか現在という時代状況の中で再び強い輝きを放っているようにさえ思う。個人的には「明日のジョー」と本作は少年期の私にとってどうしても外せない程強い影響を受けた物語としてこれから先も記憶にとどまり続ける。

 一揆の組織者であり指導者でもある影丸が、民衆蜂起が潰えた後に処刑される場面で発する台詞は、30年前に本作を読んで以来、事あるたびに私の頭の中で反芻されている。それは何かしら広い意味で私自身の支えであり、同時に私を鼓舞するものでもある。

 我ら遠方より来る、また遠方へ行かん というその一節は白土三平のオリジンではなくどこかからの引用と聞いたが、途方もなく長い周期で脈動する「民の心情」を大変簡潔、かつ的確に言い表している。

 日本のマンガを映画や小説と拮抗し得る固有の表現形態にまで高めた功労者が私には少なくとも二人いて一人は手塚治虫、もう一人が白土三平である。昨今は映画の業界もネタ切れがひどく、旧作のリメイクや日本のアニメやマンガの映画化が多いようだが本作は無理だろう。私は見ていないが以前、「忍者武芸帳」は大島渚監督によって映画化された事がある。

忍者武芸帳 [DVD]

忍者武芸帳 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • メディア: DVD

 実写の映画ではない。マンガのコマを抜き出したものを画面として繋いでいき、吹き出しに書かれた台詞を俳優が語る、という、いってみれば紙芝居的な作り方がされているとの事だ。 いつになっても評価の定まらない永遠の問題作とも言える。個人的には、黒澤明に無尽蔵の予算を与えて製作していたらきっと物凄い作品になり得ていたような気がしている。


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2009年の正修会 [身辺雑記]

 12月度は後半、風邪を引いて寝込んでみたり夜間作業が連続したりであっという間に過ぎてしまい年が明けようとしている。反省も回顧もあったものではない。なんだか訳もわからずに右往左往しているうちに大晦日だ。

 例年の習わしで大晦日の深夜は檀家衆の集まりである正修会(しょうしゅうえ、と読みます)に出かける事にしている。私の住む土地は岐阜や富山などからの入植者が多いので浄土真宗の門徒が多い。

10909270.jpg帯広市の東別院は囚人労働の役務として建設されたもので、戦災に遭う事もなく今日まで竣工当初の骨組みがそのまま残っている。帯広市の保護指定建築物なのだそうだ。

 世の中全般に、失業者が増えてきて不穏な空気が立ちこめつつあるように思う。私の住む町にもそのような雰囲気は横溢しつつある。リストラと言えば聞こえはいいが実態は解雇、首切りであってこんな事が横行すればそれは世間には怒りが醸成されるのも無理はない。

 私が門徒であるところの浄土真宗は室町時代の末期には一向宗ともいわれていた。日本史のお勉強では一向一揆と教わった出来事の当事者である集団だ。長い日本の歴史にあって、局地的であり一時的でもあるが、民衆蜂起が時の統治権力を打倒した殆ど唯一のケースだ。坊さんの語るところによれば比叡山に焼き討ちをかけた織田信長という人は未だに仏敵のようだ。

 民衆蜂起が起きてもおかしくはなさそうに感じられるご時世ではあるが、個人的には宗教などによって束ねられるのはやはり好ましくないように感じている。そこにはどうやっても政治的な利害や打算が働くに決まっているからだ。宗教というのはあくまで、個人の内面的な問題に働きかけるにとどまっているのが望ましい。

 例年通り、本堂の入り口では年越しそばが配られている。今年は気のせいか、生活上切羽詰まった感じの若い衆が増えたように見えた。炊き出し風な情景でもあって、各個人の包摂性が低下しつつある以上は宗教施設が地域のコミュニティの場であるというのも便宜上ありではないかとも思えた。

 今年は数年ぶりに除夜の鐘を突いた。釣り鐘の共鳴というのはそれはそれは物凄いもので、その後しばらく耳鳴りがする程大きな音がする。皮膚感覚の轟音を浴びると、このブログでもカテゴライズしているオーディオシステムなどというのは所詮、虚構の世界で遊んでいるに過ぎない事を改めて知る。

 今年の法話は手短で勤行はあっけなく終わってしまったが、正修会とは修正とかリセットとかいったニュアンスの集まりなのである。年が切り替わる際に過去一年を顧みてあるべき姿からどれくらい逸脱してしまったのかを各自自省する機会、ということだ。お仕事の残しや何かで夕方までドタバタし続けていた私も正修会に参加できる程度の忙しさだった事になり、それくらいが人間の忙しさの常識的限度ともいえる。大晦日の深夜まで役務に忙殺されて年を越すようではその人は結構不幸な時間の中を生きていると見ても良さそうに思う。私自身、会社員だった頃にそういう時間を経験した事があるがかなり荒んだ気分にはなった。

 何かの作用によってあるときからの私はそういう場面は経験せずに済むような環境に落ち着いた。それで開業以来、私は毎年大晦日になると幾ばくかの感謝の気持ちでもって正修会に出かける。駆け込みではあるが鐘を突いてそばをいただきながら一年生きてこられた事を思い返す時間があるうちはまだぎりぎり普通の人間らしい生活と言えるのかもしれない。


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ダースベイダーのUSBハブ [気づいたモノ]

 バカ丸出しとしか言いようがないがハエのことを何度も書く。

 実際、未だかつてこんな時期になってまで蝿が我が家の中を飛び回るようなことはなかったのだ。もうすぐ年越しだというのに何としたことだ。どういうわけか殺戮の成果が幾らか確認されても翌日にはいずこからかきゃつ等は現れて癪に障る羽音を立てながら身辺を飛び回る。故意に例年よりも室温を下げているせいでここ数日は飛び方はめっきり活気を欠いているがそれでも腹立たしいすばしこさはまだ保たれている。今日もうざったい蝿を手で払いながら昼間テレビを眺めていると山形県に於けるカラスの被害について放送していた。蝿にはとことん頭に来ているのだがカラスもまた不快感を喚起させる生き物だ。私は別段、殺生に喜びを覚える類の性質はないが、かといって優れて動物愛護の精神に富んだ人格でもない。種の絶滅が叫ばれる昨今、別段地球上から根こそぎ抹殺されても全然哀れみを感じない生物は幾つかあってカラスはハエと並んで双璧といったところだ。

 今年、私の家に庭の木にカラスめが巣をかけた。私は当然、断固たる態度に出たのだ。遠慮なく巣は叩き落として中に産み付けられた卵(3個あった)は畑の中に埋めた。成鳥となって人間社会に害なす存在として近隣住民の憎悪を買うよりは来年植えるトマトの肥やしにでもなったほうが世のため人のために決まっておる。聞くところによればカラスの肉は食用たり得るとのことだ。ならばカラスなどバンバン乱獲して知床半島にでも運んで気の毒なオジロワシの餌にでもすればよい。むしった羽は加工すれば安物の布団位には使えるのではなかろうか。布団の縫い目からから真っ黒けな羽が突き出てくるのは余りいい感じがしないかもしれないがなにぶん安物なのだからそこは我慢。残りの残滓はミンチにしてペットフードの生産工場に持ち込む、各市町村はカラスの捕獲について報奨金制度を設けてはどうか。一羽について幾らと換金する。住民税の減免でも良いしカラスの加工場でも作れば地域活性化にもなりそうな・・・・こういう愚にもつかない戯けた妄想となると我ながら惚れ惚れするほどイメージが湧いてくるのは私が正真正銘役立たずの暇人であることを良く表している。これでは何か私自身よりもカラスのほうが余程人間社会への貢献度が高そうでさえある。

 ただ、私のような役立たずでもまだハエよりはマシだろうという程度の矜持はある。大体ハエどものやることといったら居眠りをしている私の顔面に飛びついてきて不愉快な覚醒を強制することとわざわざ狙いすましたように買って間もないMacBookに飛来しては私の目を盗んで排泄行為をかますこと位しかない。何が頭に来ると言って最たる所業がこれだ。カラスはそのような不届きなまねには及ばない分だけ節度を心得ていると言える。少なくともあのはた迷惑な黒い鳥は、たとえ窓を開け放っていたとしても人家の中に飛び込んできて寝ている家人の顔をつつき回したりそこたら中に脱糞しまくるようなことはないのだ。(あったらとんでもない大騒ぎになる)いけない、まだ筆がそれた。とにかくだ、ハエなどという生物はその死骸さえも人間にとっては直接何の役にも立たず、間違いなくカラス程の値もない生物だということを私は幾らでもクドクドと喚き散らしたいのである。(バカだ)

 現在、時刻は夜半だが、さっきまで見ていたDVDの登場キャラには妙な引っかかりを感じていた。見ていた映画はこれ

スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望 リミテッド・エディション [DVD]

スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望 リミテッド・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD

  「引っかかりを感じるキャラ」とはこれ

img_1478065_47238550_0.jpeg甲冑姿の日本の侍が元のイメージなのは有名だが、どうも私はこの面構えにハエを連想するのだ。もしもファンの方がこのしょうもないブログを目にしたらさぞかし憤激されるのだろうがご勘弁願います。

 少年の頃に映画館で見たとき以来、何か不快感をかき立てるものがモヤモヤしていたのだが今日になってやっと思い当たったことになる。キャラとしては大いに好きだが。ダーズベイダー氏は最近はパチンコ業界でも人気らしいが世界的な有名人でもあらせられるので色々とノベルティ商品があることも今日知った。何とパソコンの周辺機器でUSBハブが販売されているらしい。

Darth_Vader_USB_Hub_12.jpgどこで売っているのか調べてみたが結局本日はわからずじまいだった。目玉が光り、おまけにあのシューシュー言う例の息遣いが聞けるという。是非とも手に入れてパソコンの脇に鎮座させておきたいものだ。高そうだけど。 見た目上の不満としてはポートの取り付け位置とその場所だ。全部で四つではどうにもケチ臭い気がする。私だったら両方の肩口に四つずつ、合計八個のハブにしたいところだ。こういう商品は使いやすさなど二の次で構わない。

 ここで 更に下劣な連想、もしもハエの形をしたUSBハブがあったら・・・いい加減にしておこう、そんなものが商品化されるはずはない。お馬鹿なテキストもほどほどに、と、自分をたしなめる。全くもってハエの○○○のように野放図な垂れ流しのテキストで我ながら嫌になる。 


The Rose(ローズ)ついでに「だんだん」が面白くないことに関して [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 これまで何度も書いたとおり私はテレビ放送の熱心な聴取者ではない。テレビが故障して見られない時期が数ヶ月あったがそのときでさえないならないでいいと結構簡単に割り切れたほどだ。但しあればあったでそれなりに見ないこともない、良くも悪くも私にとってのテレビ受像器はそういう位置づけだ。

 放送局で言うとNHKが多いのはこの公共放送の内容が優れているからではなく、他に民放各局の内容が酷すぎるからだ。それに見ると言ってももっぱら朝のうち、時計代わりにちらちらと眺めている程度でしかない。生活習慣として8:15から放送されているドラマを目にすることが多いが、目下放送されているものは全く面白くないので、本当に時計以上の役割を果たしていない。「だんだん」というのがそのタイトルだ。

 身も蓋もない言い方をすればドラマなどというのは全て、基底に実話があったにしても大なり小なり作り話なのだからくそ真面目にあれこれ難癖を付けるのも野暮な話だが、どうにも決定的に受け入れられないことがある。

 歌手を目指す双子の姉妹とこれを売り出そうと躍起になる音楽プロデューサーという構図が目下の所、筋立ての中心なのだが音楽をドラマの中心に据えるというのはどうなのだろう、成功例が殆ど思い浮かばない。そして「だんだん」は私が覚えている中でもかなり程度が悪い。

 何がお粗末と言って主人公であるところの双子姉妹の歌唱だ。カラオケが私たちの生活にすっかり定着してから久しいが、周囲を見渡せばこの程度の唄を歌う人など掃いて捨てる位いる。こんな程度のシンガーに入れ上げてしまう音楽プロデューサーは本当に眼力に欠ける御仁としか言いようがない。所詮作り話でしかないのだからこんなことにいちいち茶々を入れるのもアホらしいのだが荒唐無稽にも程がある。ここ数日は登場人物達が「プロとは云々」と口にする場面が出てくるが私の見え方としてはこのドラマ自体がプロの造作ではない。大体、登場人物中プロの匂いを醸し出している人が殆ど皆無ではないか。私が思いつくのは祇園の女将さんと、双子の父親の後妻の二人だけだ。皮肉なことに後者はまさに「専業主婦のプロ」であって、このドラマには実はもっとも生産性から遠いはずの人が最も高いプロ意識の持ち主だったというシニカルな逆説を密かに忍ばせておきたい隠れた意図があるのではないかと天の邪鬼な私などは勘ぐりたくなる。

 何せ、主人公達のミュージシャンとしての資質が素人歌唱の域を全く出ていない点で物語としてのリアリティは殆どゼロに近い。こんな不自然な筋立てのドラマをこしらえてまで売り込みたいほどのタレントなのかとNHK大阪の眼力を疑う私は二重に懐疑的なことになる。

 音楽をドラマの主軸に据えるというのはなかなかに難しい仕込みを要するのではないかと私は常々考えるのだが、はっきり意識したのは学生の頃に見たRoseという映画だった。

ローズ [DVD]

ローズ [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD

 ベット・ミドラーというシンガーに当時、いかに大きな期待がかかっていたかが示されている。事実大きな度量を持ったミュージシャンではあるが、幾ら何でも題材がジャニス・ジョプリンでは荷が重かろうというのが当時私の先入観だったがこれは間違っていなかったと今でも考えている。

 二昔以上前に一度映画館で見たきりなのでディティールを全部は思い出せないが、ベット・ミドラー扮する主人公は全然不幸そうにも悲劇的にも見えない。ルックスはいいし、物わかりの良さそうな彼氏は寄り添っていてくれるしで、こんな周辺環境なら精神世界の過剰さも欠落も起こり得ないではないかと当時青二才の私は懐疑的になった。歌いっぷりは確かに様になっていて本人に通じるところもあったような気がするが何かが違う。ジャニスの唄というのはどこか未成熟で円満さやバランスを欠いた人達の心情を代弁していたはずのもののように私は捉えていたので違和感の原因はそこにあるのだろう。

 映画を見ながら私はジャニス・ジョプリンのことを頭の中から追い出した。これは単純に、一種のミュージカルとしてベット・ミドラーのステージアクトを楽しむ娯楽作品として接するべきだ。 それで入場料の7割位は元が取れた気分になった。繰り返すがベット・ミドラーは優れたシンガーであり、エンターテイナーでもある。結局私がシンガーとしてこの人に入れ上げることはなかったが客観的にはそう思う。

 思い出してみるとミュージシャンの評伝を題材にした映画というのはどれも大してうまくいっていないのではないだろうか。殊に、残された音楽が既にドラマツルギーを帯びているような天才ともなると尚更だ。人間表現としては既にその人の音楽が全てを語り尽くしている以上、後から何を付け足しても邪魔くさいだけとも思う。

 翻ってテレビ小説に戻れば、再度、こんな程度の歌唱のどこがよくて売り出したいのかねえ、と、毎朝タバコを吹かしながら幾分侮蔑的な接し方をする私自身のことに思い至った。それは「訳知り顔のイヤミなオヤジ」だ。図らずも私はこの陳腐なドラマを毎朝見続けながら私自身のそういう側面を再認識したのだった。 


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ちょっと気になるLTAのこと [気づいたモノ]

 音響機器についての雑誌は以前程熱心に買って読む事はなくなった。どうせ万年金欠人生なのだから買えもしない機器の事を眺めていても仕方がないのだし、生活全般についてたいした向上心もない万年脱力モードで過ごしているので身辺に転がっているものでもそこそこ楽しめるではないかとやせ我慢のように納得する事にしている。

 なんだかんだ言っても今のところ私のメインソースはLPレコードだ。音質やハンドリングではディジタルソースに劣る点は確かに多いが、だからといってLPレコードを売り払ってCDに入れ替えようと思った事もない。余り深い思慮はないのだが聴けるものをむざむざ放擲する気にもなれずダラダラと買い続けているうちにそれなりの量になってしまったので関わり続けていることになる。

 そんなわけで雑誌についてはLPレコードの再生に関して興味のある記事があれば買ってきて読む程度なのだが、「無線と実験」の別冊は結構充実した記事があった。

プレミアムオーディオ No.3 (3) (SEIBUNDO Mook)

プレミアムオーディオ No.3 (3) (SEIBUNDO Mook)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
  • 発売日: 2008/11
  • メディア: 単行本

 

 Advanced Analog http://adanalog.com/ という米国の新興メーカーがリリースしたLTAの記事が目を引いた。MG-1という製品が面白そうだ。

 

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エアーベアリングのLTA,お値段はなんと$600だそうでまさに激安。細部を眺めているとコストダウンのための工夫があちこちに見られるが手抜きはない。汎用的なパーツをどんどん組み込んで行けばこういう値段でも製品作りは出来ると妙に納得できる。メーカーは4000ドルのトーンアームにだって引けはとらない、と頼もしいアナウンスだが残念ながら日本での販売は予定されていないので目下、個人輸入しか調達方法はない。輸入しても売れないに決まっているが。

 インストール例も多く示されている。私が常用しているオラクルの例では実にダブルアーム仕様となっていて笑える。

 

SantiOracleV.jpg
 
何とも物凄い眺めだが大変使いにくそうでもある。
 
サスペンションに支持されたサブシャーシを持つターンテーブルへの取り付けとしては失格だが取り組んでみようというこのオーナーの意欲は見上げたものだ。トーンアームは新品、中古共に露骨に足下を見るようなプライスタグがつく事の多い昨今なので(生産量から言って仕方ないのだが)機械の心得がある、という前提は外せないが低能率スピーカーでLPレコードを聴かれる事の多いリスナーにとっては注目に価する機材ではなかろうか。
 
LTAの人柱歴およそ20年の立場から能書きめいた事を一言書いておくと、対象とするターンテーブルはソリッドベースである方が望ましい。私の腕のなさでもあるのだがサスペンション形式の場合は苦労が多い。紹介記事ではテクニクスのターンテーブルSL1100を土台にしていた。記事によればステレオイメージはやはり素晴らしいとの事だ。

針圧の調整にひとまず区切り [再生音楽の聴取環境など]

たかだかフォノカートリッジの交換だけでネチネチと更新するのも何だか貧乏くさいと思うが貧乏なのは現実である。備忘録風のことを書き留めておく。

懸念していた針飛びが不定期に起こり、ここしばらくの間試行錯誤を続けていた。全くもって悩ましいSLA-3 ではある。

 

IMGP1357.jpg

 

 印加針圧による音質変化など夢のまた夢で、針飛びを起こさないようなポイントを探し出すために四苦八苦しているのだから情けない。アームパイプやカウンターウェイトをとっかえひっかえしてああでもないこうでもないと徒手空拳の努力を重ねていた。オフセットアームであればカウンターウェイトをヘリコイドで動かすことになるし針圧の目盛りもついているので簡単に済むのだがこちらはご覧の通り1ポイント固定の直動式で針圧の目盛りもなく、不便なことこの上ない。

 SLA-3を買って大変理不尽に思えたことの一つに、本体には針圧を読み取る機能がないのに単体の針圧計が付属されていない。マニュアルには別途針圧計を購入しておくようにとの但し書きがあったので当時私は仕方なしに一個買った。

SHURE(シュアー) 針圧計 SFG-2(シユア-)

SHURE(シュアー) 針圧計 SFG-2(シユア-)

  • 出版社/メーカー: SHURE(シュアー)
  • メディア: エレクトロニクス

約20年ほど前には三千円程度で買えたが現在は倍以上する。何とも原始的なシーソー式の針圧計だが壊れるところは一つもないので一個買えば一生ものである。精度については大変疑わしいがこれはもう信じるしかない。針圧を計っている最中にうっかりターンテーブルを動かしてしまってカンチレバーを折ったことがある。私の不注意が全てだが悲しい記憶である。

150mlx.jpg印加針圧の範囲は1.25gから1.75gとなっていてこの範囲内ではどう設定しても針飛びが治まらなかったのでなかば博打的な気分で1.8gに設定してみた、と言えば聞こえはいいが実際には指先をプルプルと震わせてカウンターウェイトを突っついて微動させたところ、針圧計の指示が1.8gでバランスしたので暫定的にそこで固定したのだった。

 0.05gオーバーになるがトレーシングはかなり安定したので結果オーライと割り切った。毎度ながら音質云々を検討する気持ちの余裕など全くない位くたびれる。針圧の調整に費やした時間だけでもうんざりするほどかかっていた。

 一体全体どうしてこんなにしんどい目を見ながらでこの厄介者に拘泥しているかと言えばこれまで何度も書いたとおり、時たま起こるとんでもない奇跡が忘れられないからだ。カリカリにチューニングした状態である種のLPを聴くと空恐ろしい位の精密さで虚空に音が実体化する。

Mecca for Moderns

Mecca for Moderns

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Atlantic
  • 発売日: 1990/03/12
  • メディア: CD
 マイクと口の距離までもが暴き出されるようなリアルさがある。アカペラではメンバーが弧状にマイクを囲んで唄っている様子が見えない彫刻を並べたようにはっきり現れる。部屋の壁と天井が消失するような錯覚を覚える。苦労の甲斐あってひとまずの上首尾となった。散々手こずり、文句とぼやきを並べながら結局私はこのけったいなトーンアームを手放せないでいる。

 


「闇の子供たち」を見に行く [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 不定期だが日曜日の午後は思いつきでふらりと映画館に入るのが私の生活習慣だ。現在、私の住む町には映画館は2軒で、一方は典型的なシネコン、もう一件は昔ながらの単館上映で、利用頻度は大体半々程度だ。

 後者は大きな予算を投入して大量動員を狙ったプログラムは少なく、娯楽性よりも少々マニア好みのする演目が多く、かなり重いテーマの映画が掛かることもある。 タイに於ける子供の人身売買を扱った映画ということで足を運んでみた。

http://www.yami-kodomo.jp/  (公式HP)photo_2.jpg

 雑感のようなことを羅列しておくと、劇映画としてよりもドキュメンタリーとして制作したほうが問題提起や表現としてのインパクトは大きかっただろうと思う。ただ、劇映画として制作し、事実の禍々しさを良くも悪くも薄めることで映画館に人を呼び込む敷居の高さを下げる効果は確かにあったはずだ。描かれていることの事実性はさておいて、日常報道では目を背けられている出来事なので(臭いものには蓋と言うべきだろうか)より多くの人に見てもらうという目的は制作サイドにはあっただろうから、興行としては重いテーマであるにもかかわらず一定の成果は上げたのだろう。

 ストーリーとしては、終盤の銃撃戦など余り必然性の感じられないエピソードがあったり、登場人物の描き方に単細胞的な言動が目立ったりで、正直なところ出来がいいとは思えない。ネタバレになってしまうのだろうがラストでは主人公が勤務地での滞在時に行ってきた行動の罪悪感にさいなまれて自殺する場面があるが、ここに至るまでその後ろ暗さに無自覚だったとしか見えないのは普通、人間心理からいってあり得ない。売買された子供を助けるためにと大義名分をがなり立てて身内のスタッフに命の危険を伴うような行動を迫りながら自分は常に車の中で待っているだけなどというムシのいいNGOの主宰者にはむしろ怒りを覚えたが、ある意味リアリティを感じもする。

 そういうわけで劇映画としてはお世辞にもいいとは思えないが、スクリーンにアップで映る子供達の表情には痛々しさが鮮烈に表れていた。意図されていたものかどうかは疑問だが優れた演出を感じさせる殆ど唯一のカット群だ。劇中、日本人の買春客が投宿先で児童相手の性行為を済ませた後、全裸のままでパソコンに向かい、恐らく掲示板の書き込みか自分のブログか何かなのだろうが「ひよこまんじゅうを云々」と入力する場面がある。この先当分、私はこの言葉から陰惨な連想を働かすようになるだろう。

 エンドロールを見るまで知らなかったがこの映画には原作がある。

闇の子供たち

闇の子供たち

  • 作者: 梁 石日
  • 出版社/メーカー: 解放出版社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 単行本

 ルポルタージュではなく、小説だ。だからといって描かれていることが荒唐無稽な絵空事だとは勿論思わない。興味深いのはネット上では原作、映画を含めて著者が在日韓国人で子供の買春や臓器売買を扱った内容なので反日的なプロパガンダの意図が感じられてけしからん、という意見があちこちで見られることだ。正規の手続きに則らない臓器売買や買春ツアーが金の絡んだ社会の仕組みとして存在していることよりも、日本人が批判されたり否定的に描かれていることのほうがより重大だと考える人達が一定数はいるわけで、ものの見方や考え方には色々あるものだと思う。

 かなり以前、プロレスラーのジャンボ鶴田は肝臓移植のためにフィリピンに赴き、そこで手術中に客死した。当時私は何故フィリピンだったのかが不可解だった。真偽のほどは定かではないが、その後、臓器提供はイリーガルな形で行われたという噂が立った。フィリピンという土地は概して治安が悪く、銃器密売や風俗営業関係の温床として組織犯罪の資金源となっている国だ。プロレスという業界もまた伝統的にその筋との関わりは深い。当然、プロレスの雑誌は今に至るまでこの件に関しては全く言及することなく目をそらし続けている。そんな構図に私は深く淀んだ深淵を見る。

 映画での舞台設定はタイである。ミャンマーでのサイクロン被害の際には行方不明になった子供が随分多かったらしい。中国でも同様の行為が横行しているという噂を聞くこともある。それで私は毎度暗い気分になるのだが、何故毎度アジア圏なのか。何故この手の所業の被害者はいつも有色人種ばっかりなのか。 今日は帰宅の道すがらそれを考えているうちに以前見たことのあるドキュメンタリー映画のことを思い出した。

 それは現在、DVDとしては販売されていないようだ。Hearts and Minds(ハーツ・アンド・マインズ)というベトナム戦争を扱ったもので、主にインタビューで構成されている映画だった。その中で、確か終わり近くにあるアメリカの将校が平然とこんなことを言い放つ。「東洋人というのは元々、命を軽く考える習慣がある」それがその将校個人の意見なのか、それとも白色人種中ある一定割合の公約数的な見方なのかはわからないが、そういう人達は確かにいることになる。タイ人とかフィリピン人とか、中国人とか韓国人とか日本人とかの括りではない。「東洋人」だ。闇は本当に暗く、根深い。   


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Trio 64/Bill Evans(トリオ64/ビル・エバンス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 音楽愛好家として何かを書き記しておきたいと思い立ったのがこのブログを始めた大きな動機のうちの一つなのだが、ビル・エバンスのことはなるべく触れないでおこうというヘンな考えが私にはあった。

 言うまでもなくビル・エバンスはエバーグリーンの人気ピアニストで、色々な人が色々な場所で色々なことを言ったり書いたりしまくっているからして、しかもそれら言質は全て、かのスコット・ラファロとの共演に限定されていて端から見ていると、今更私のような者が能書きをたれるまでもないのではないかという気分だった。

 ビル・エバンス自身はレコード作りに関しては大変平均点の高いプレイヤーで、何を買ってもまず失敗はない。多少意地の悪い見方をすると、あのアクセント、あのイントネーションで、あの和声感覚で演奏されるとジャイアント馬場の16文キックみたいなものでリスナーはとにかくビル・エバンスの表現として無条件で納得するもののようだ。芸風というのはこういう関係性の上に成立しているのではなかろうか。 ただ、平均点が高い諸作の中にあってもスコット・ラファロとの共演はやはり群を抜く高みにある。それは恐らく、かなりの客観性を持ってみても断言できる水準ではある。しかしこれは両者のキャリアを通して聴いてみると、相当に特異な時間の中での出来事であって、一種マジカルな場面だったのだと私は位置づけている。

 リバーサイド4部作も確かに結構だが、それ以降の演奏にも色々と聴き所はあって、ビル・エバンスの場合は共演するベーシストによって微妙にテンションが変わる傾向があると私は見ている。

トリオ’64+8

トリオ’64+8

  • アーティスト: ゲイリー・ピーコック,ビル・エバンス,ポール・モチアン
  • 出版社/メーカー: ポリドール
  • 発売日: 1997/12/21
  • メディア: CD

 演奏歴中唯一、ゲイリー・ピーコックとの共演記録が本作では聴ける。ドラマーはポール・モチアンで例の4部作と同じだ。ベースマンとしてのゲイリー・ピーコックはスコット・ラファロが到達した境地を出発点とするプレイスタイルなので、中身を聴くまではさぞかし往事を凌駕せんばかりのスリルが横溢しているはずだという期待を私は持っていたが実相は手短にまとめた小唄集で、代名詞のごとく語られるインタープレイの場面は何故か少ない。ソロの出番はお互いにきっちり線引きされていて二つのメロディラインが絡まり合って生み出された以前の奇跡はここでは、そしてこの先も再現されることはなかった。演奏者としての人生時間の中で奇跡などというのはそうそう滅多に起こるものではなく、また、技量の高い演奏者が顔を合わせたからといって必ずしも歴史的名演が生まれるわけでもないという至極陳腐な教訓をここから導き出すのは簡単だがそれにしても本作以後、レギュラーのベーシストとして更に穏健な演奏スタイルの持ち主であるチャック・イスラエルを起用するようになった背景をあれこれ想像するとこれはこれで興味の湧いてくる変遷ではある。

 こんな斜め読みとは関係なく、さほどシリアスな向かい合い方をしなければ本作は聴きやすくまとめられた小品集で、演奏のテンションを別にすれば選曲による取っつきの良さという意味で全作中での最右翼かもしれない。

 目玉の一曲を上げればやはりSana  Claus is Comming to Townだろう。私が知っている限りでは録音された唯一のクリスマス・ソングである。いかにもという語り口で演じられるこの世俗的なノベルティ・ソングが収まった本作を私は毎年12月には必ず一度は棚から引っ張り出して聴くことにしている。取り戻すことのできないマジカルな時間が終わった後の日常にも何かしら小さな発見や驚きは散在しているのであって、ビル・エバンスの音楽は私のそういった小市民的日常感覚にも確かに浸透しているだけの包括性があるのは確かだ。

 (追記)いつ頃からか、毎年今時期になると実に沢山のクリスマス・ソング集が企画されてはリリースされるようになってしまった。こんなことではノベルティとしての有難味など毛ほども感じられなくなる。本作の録音は1964年12月18日である。さりげなく一曲だけ入れておきます、といった奥ゆかしさが当時はまだあったと見るべきなのだろう。 

 


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キンチョールの効能などについて愚考する [気づいたモノ]

 しぶとく居着いた蝿の話題などネット上の公開日記に記しておくにはすこぶる付きでしょうもないとは思うのだが、やはりこれだけ日々の精神生活に悪影響を及ぼされると何がしかの行為に駆り立てられてしまう。 

  つくづくハエどもの跋扈には頭に来ていたので、ある日私は殺虫剤を居間に撒くことを思いついた。どうしてそれまで気付かずにいたのかと思うと我ながら考えの足りなさに呆れる。

 近所のドラッグストアに行くと11月も末だというのに殺虫剤は店頭にあった。キンチョール一種類だけだったがそれでも冬の北海道で殺虫剤の需要は幾らかあるということは、ハエどもに苛立っているのは私以外にも一定数の方々がおられると考えて良いのだろう。

金鳥 キンチョールK 450ml

金鳥 キンチョールK 450ml

  • 出版社/メーカー: 金鳥
  • メディア: ヘルスケア&ケア用品

 余談だが、Amazon.comではキンチョールまで売っているとは知らなかった。そこら辺の雑貨屋さんや何かで簡単に手に入るこんなありきたりの殺虫剤をわざわざ通信販売で買う人はどれ位いるのだろうか。

 使用した初日の効果は顕著なものがあった。居間に散布して外出し、しばらくしてから帰宅すると床には5,6匹、蝿の死骸が落ちていた。それまで数日続いていた苦闘が大変効率的でない愚行に思えた。躍起になって丸めた新聞紙を振りかざし、タバコの吸い過ぎのせいですぐに息が上がってはへたり込んだ数日間が全く不毛な時間だったことを改めて知ったと同時に大日本除蟲菊株式会社に心からの敬意を表したりもしたのだった。本当のところ、たかだか実売価格五百円位の殺虫剤にこうも劇的な効果があるとは思ってもみなかった。身の回りのあらゆる出来事に関して、あんなにウキウキした気分になったのは最近では珍しい。

 しかしそういう、一種の爽快感も一日程度のものでしかなかった。翌日には相変わらず忌々しいハエどもが前日と変わらず居間の中を我が物顔で飛び回る。私はそれまで、ハエどもの個体数は八匹程度だろうと見込んでいたのだがとてもそんな数ではなかったようだ。前日のキンチョールで確認した戦果は個体が減ったと体感するにはほど遠いものだったことになる。一体きゃつ等はどこに潜んでおるのか、まるで亜空間から湧いて出てくるようで個体数は一向に減った様子がない。戦闘的な気分になりかけた私は再度、キンチョールのスプレー缶に手を伸ばしたのだった。 

 しかし2度目の散布はさっぱり効果を生まなかった。ハエには薬剤に対する耐性でもあるのだろうかと想像すると暗然とした気分に囚われた。 たかだか五百円かそこらの殺虫剤にハエどもの根絶までを期待するのは文字通り虫のいい考えだったかもしれないと幾らか悄然とした。全く持って洒落にもなっていない。居間のテーブルの上に置いたノートパソコンには次から次とハエがたかってそれこそ文字通りクソ忌々しい排泄行為を野放図にやらかし続けている。

 この世の中に、もしもハエを常食としてこれを捕獲するのが大好きな動物がいたとしたら、私は生来のずぼらな性根をたたき直してその動物の飼育に精を出してもいいとくだらない考えを持った。たとえばの話、猫はどうか。あのすばしっこいネズミを捕獲するのだからことによってはハエの運動能力にも追随できるかもしれない。ジャンプ一番、飛行中のハエを左フックで叩き落とす様子を想像すると、少々痛快な気分になった。

 と、サンデッキである気配がすることに気付いて眺めてみるといつもの居候の姿があった。

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少なくとも、この個体には希望が持てないのは明らかだ。 今まで余り意識的に猫を観察などしたことはないが、どう考えてもこれだけ年がら年中かったるそうにしている魯鈍な猫は見たことがない。これは私の単なる、八つ当たり的な気分でしかないのだが。

群がるハエに苛立ちながら、私は電撃殺虫機の効能をあれこれと想像している。

 居間の天井にはおあつらえ向きにコンセントがある。住宅を新築するときにプロジェクターを天井からつり下げて固定しようと目論んでいたのだが取り合い上実現できずにコンセントだけが使われないままになっていた。気付いた来客は天井を指さして何故あんな場所にコンセントがついているのかと不思議がったものだが実はそういう経緯があった。こうして憎々しいハエどもに冬になってまでも悩まされているうちに天井に電撃殺虫機を取り付けてみることを思い立った次第である。果たしてその効果如何。

 


 

 


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デブ猫の近況 [居候の生態]

 最近、鳴りを潜めていた居候だがまたぞろ拙宅の周辺を徘徊するようになってきた。常時居着いているわけではないので居候という呼び方は適当ではなさそうだ。

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 円満に肥え太ったプロポーションのデブ猫だが、以前書いた通り餌の収集能力に優れた逞しい生活力の持ち主というわけではなく、ただ単に人家に居着いて飼い猫の餌を横取りし続けた結果として肥えたにすぎない。とにかく食っては寝続ける。

 IMGP1266.jpg

 何度見ても愛嬌のない面構えだ。こういうところは野良の資質がよく現れている。図々しく人の家の周辺をねぐらにしている割には一向に人慣れする様子はうかがえない。私の気配を察するとのそのそと逃げて行く。

 この野良が私に与えた変化が少なくとも一つはある事に気がついた。カメラが単なる空シャッターのためのおもちゃではなく写真を撮るという本来的な目的のために使われるようになった事だ。どうせ写真の練習をするのならもっとキュートな猫にしたい気もするがあいにく叔父貴の家の飼い猫は居心地の良い家屋内からはなかなか外に出ず、拙宅の軒先に出没するのはこの無愛想なデブだけだ。撮影者相応の被写体とも言える。


タグ:野良猫 居候
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Novenber Cotton Flower/Marion Brown(ノヴェンバー・コットンフラワー/マリオン・ブラウン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私が知る限り、マリオン・ブラウンはかなり下手くそな部類に入るサックス・プレイヤーだ。著名なミュージシャンのうちでは屈指の下手くそさだと言っても過言ではないと思う。その下手さというのは、例えば晩期に於いて体調を崩したバド・パウエルが聴かせる乱れたキータッチの類ではない。あれには神の座から転落していくミューズの化身、といったような悲劇的ドラマツルギーが宿っていたがマリオン・ブラウンの場合はデビュー当初から徹頭徹尾、終始一貫して、そもそもサックスという楽器を十全に鳴らすというあたりからしてその技量は相当に怪しく、長いキャリアを経てなお一向に上達が見られない。

 弱々しく不安定な出音、たどたどしいキーワーク、途切れがちなフレージング等、およそプレイヤーとしての教科書的美点はどこにも見出せないマリオン・ブラウンが何故私の記憶に根付いているかと言えばバンド全体をまとめ上げる楽想の豊穣さにある。これは楽器プレイヤーとしての技量の拙劣さを補って余りあるもので、共演者達はかなり高い確率で彼らの代表的な名演を聴かせる。更に言えば、共演者達の献身的な協調ぶりを背景にしたこの貧相な主役は、彼の音楽がギミックでもキワモノでもなく、確かにリスナーに訴えるべきテーマと個性を持った一流の表現であることを示している。

 マリオン・ブラウンの音楽のうち私が目下気に入っているのは故郷であるアトランタを題材にした音楽だ。文法になぞらえて言えば、チャーリー・パーカーが現在進行形とするとマリオン・ブラウンは過去形で表現したトーンポエム風の音楽がとりわけ秀逸で、望郷とか回想といった情感が細やかで美しい。

マリオン・ブラウン/ノヴェンバー・コットン・フラワー

マリオン・ブラウン/ノヴェンバー・コットン・フラワー

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: 株式会社BMG JAPAN
  • 発売日: 1994/01/21
  • メディア: CD
  •  残念ながら本作は現在、Amazon.comでは取り扱っていない。新陳代謝は必然だとしてもカタログ落ちさせてしまうには余りにも惜しい秀作と思うのだが。
  • 448x336-2008042400006.jpg
  •  本作は共演者のうちでも断然光るのがピアノのヒルトン・ルイズで、全キャリア中でも屈指の名演だと思う。タイトルチューンでの伸びやかで瑞々しいキータッチは文字通り秋の晴天、ほの暖かい昼下がりを連想させて心地よい。ギターのカール・ラウシュがつま弾く控えめなバッキングも何かしら心温まる色彩感を添える。タメを効かせた控えめな背景でマリオン・ブラウンは鼻歌交じりのように飄々としたソロを紡ぎ出す。私はそこにポジティブな要因のみを抽出して再構成された過去の記憶世界を感じる。美しい虚構と言い換えるのが妥当だろうか。現実的には綿花とは言っても綿に花は咲かず、花に見えるものは本当はは実だし、綿の収穫時期は夏場であって11月ではない。しかしこのタイトルには言葉としてどこか詩的な美学が表されていてそれが音楽にも通底しているように思う。感動などという言葉を私は余り安っぽく使いたくないが、かれこれ20数年、毎年秋に本作を聴く度に過去への郷愁が段々深く心の奥底に向かって浸透してくるような気分になる。

  •  全体の作風は悠然としていて、1970年代初頭までの諸作に聴かれたような時にヒステリックな鋭さや混沌はない。再演される曲目も3曲ほど有るが手短にまとめられていてさらりと流す印象である。Sweet Earth Flingなどは初演の記憶が強烈だったので、初めて本作での再演を聴いたときには物足りないような寂しいような印象があったのだが現在の時点ではこういう淡々とした解釈なり展開もありだな、と、何故か納得できるのは私が歳をとったせいだろう。明暗の入り交じった過去の出来事諸々は時間と共に浄化されていく。演奏者の意図がについては憶測の域を出ないが、全編を貫くモチーフとして私はそういう捉え方をしている。
     本作は1979年、JVCの傍系レーベルであるBaystateによって企画、制作された疑問の余地のない傑作である。日本のジャズシーンはこのことを誇りにして良い。
 終わりに個人的なことを書き足すと、私は11月中に本作のことを何かしらテキストにして残しておきたいとかねがね思っていた。昨年、一昨年と実行できずじまいだったが今年は三度目の正直で何とかぎりぎりものにできて、このブログを始めた目的のうちの一つを果たしたささやかな自己満足に浸っている。

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お約束のテストソース [再生音楽の聴取環境など]

 システムの変更があったときに必ずテストに使うレコード二枚。

音楽聴き人生としてもうかれこれ30数年聴き続けてもいる。針をおろした回数は不明だが、とにかく、何千回聴いても飽きる事がない。再生装置に関心が出てくるきっかけになったレコード二枚でもある。

どちらもエンディングは訳の分からん轟音で締めくくられる。毎度聴き終える度に一体どれくらいのカタルシスを得られたかがセッティングの出来を推し量る物差しになっている。

太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)

太陽と戦慄(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: WHDエンタテインメント
  • 発売日: 2006/02/22
  • メディア: CD

 

いたち野郎(紙ジャケット仕様)

いたち野郎(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: フランク・ザッパ,マザーズ・オブ・インヴェンション
  • 出版社/メーカー: ビデオアーツ・ミュージック
  • 発売日: 2008/06/18
  • メディア: CD

しっかし、つけもつけたり「いたち野郎」かね。ひどい邦題だなあ。未だにこの邦題のまんまというのも余りいい定着の仕方とは思えない。クリムゾンの「太陽と戦慄」もひどい。日本国内での発売元はワーナーパイオニアであった。こんなひどい邦題を考えた奴は一体誰だ!同じワーナーでもディープ・パープルあたりは毎度結構カッコイイ邦題を頂戴していたのにな。

 支離滅裂でまとまりがつかない。私の人生そのままだw とにかく、これら二枚を気持ち良く聴き終えられるステレオが私にとって良い装置と断言。

(追記)30数年前には私の周辺ではクリムゾンもフランク・ザッパも聴いている人などいなかったし名前さえも知られていなかった。ところが最近テレビを見ていてびっくりしたがトヨタ自動車の(車種は忘れたが)テレビCMでEasy Moneyが使われていた。オダギリジョーという人が出ていましたね。世の中変われば変わるものだと思うが あのCFを作った人って結構いい奴じゃないかと思ったりする。Easy Moneyとは「あぶく銭」を意味しているわけだが格差社会に乗じてあぶく銭を儲けた人達がレクサスを買うような構図を想像してしまった。いやあトヨタ自動車、わかってるよねw


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LTAとマッチングの良いフォノカートリッジのことを考える [再生音楽の聴取環境など]

 連休なので一日中あれこれLPレコードを聴きまくっていた。言い換えると一日中聴きまくっていても疲れないような音調が現在、メインシステムの音調だということでもある。いいことなのかそうでないのか判断はまだ定まっていないがこれまでどこかでそうなりたいと思っていたことは間違いない。

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 リラックスして聴けるようになった変化は昨日交換したフォノカートリッジに因る。事前に想像していたような変化は確かにあった。そういう想像が付く程度の場数は踏んできたことになるのだろう。 しかし、いざそのような環境に変わってみると以前、シュアーを使っていた頃の音調が懐かしく、回帰したい気分になったりもする。我ながら身勝手も甚だしい。

 そういう気分になる理由は一にも二にも今回新調したテクニカのカートリッジ、AT150MLXの音質だ。悪くはない。悪くはないのだが何というか、再生音楽の佇まいが変わった。これは数字や理屈で表しようもないのだがそれまで一人称で直接語りかけてきたものが三人称として誰かの説明を受けている感じ。何というか、音楽そのものが少し、遠のいた感じとでも言おうか。ディティールとかニュアンスはよりきめ細かくなったにもかかわらず、少々他人行儀な有りようとでも言おうか。20年位前、自分で無手勝流に改造したSPUからシュアーのUltra500に変更したときにも同様の感覚はあった。それがより軽く、より遠い方向にずれ込んで再現された感覚というのがさしあたり現在の私の受け止め方だ。

 テクニカの製品全般についてこれまで私が抱いていた印象はあながち誤解でもなかったのだが、これは善し悪しと言うよりは好き嫌いの領域だろう。感覚的にしか言い表しようがないのだがもう少しアクティブな表現を期待したい。元々「針飛びの心配がない選定」がトップ・プライオリティだったわけで、こんな腰の引け具合なので余り不平を言えた柄でもないのだが。

 それにしても音調については後回しでテクニカのカートリッジを選定したにもかかわらずやはり針飛びが起こるのは意外でもあり、少々落胆したりもした。ことトレーシング性能にかけてはシュアーと同等程度の評価でいたのだがこの機種については少々割り引いておく必要がある。もっとも使用環境が私の所はかなりヘンだからなのであって、オフセットアームに取り付ける分には全く問題ない。 劣る理由として考えつくのが以下の2点。

(1)カンチレバーの挙動を補佐するスタビライザーを持たない。(2)自重はシュアーV15TypeVxMRが6.6gに対してAT150LMXが8.3gであり、20%程度重い。

 (1)のダイナミック・スタビライザーについては元々シュアーのボディはお粗末なプレスであり、ハムやノイズを拾いやすいので再生中に静電気を逃がす機能も兼ねている。 従ってケースのシールド性を高めた結果が(2)の重量差だという想像は成り立つと思う。実際シュアーを使っていた頃にはアームに手を触れると軽いハムノイズがスピーカーから出てくることがたまにあったが今回のテクニカだとそのようなことはない。

 (2)についてはやはり問題で、どちらもカンチレバーのコンプライアンスについてカタログ上での表記はないが、同一条件でのカンチレバー側から見た応力負荷として考えた場合、20%の差はやはり無視できないはずだ。過去に重ねた失敗から、私はカンチレバーのコンプライアンスと自重の関係については神経質になる傾向がある。

 そうすると、オーディオテクニカには他に、もっとトレーシング性能の良さそうな選択肢があったことに気付く。AT33PTG,MCカートリッジである。

33ptg.jpg
こちらの自重は6.8g、シュアーとほぼ同じで標準印加針圧は1.8gなので振動系のコンプライアンスはむしろより堅めに設計されているはずで、私なりの憶測ではLTAとのマッチングはVM型よりも良さそうだ。今回は昇圧手段について考えがまとまらなかったので見送ってしまったのが反省点ということか。
それにしても、針飛びで悩むとは我ながらまた何とも情けない次元だ。大体今日日、2万円かそこらで買えるフォノイコライザーまで内蔵したターンテーブルだって余程手入れの悪い盤でもなければ針飛びなど起こすことなどないのに。
もっとも、AT150MLXよりもトレーシング性能には期待できそうだとは言っても同じテクニカの製品だからして、そう大きく音調が変わるとも思えない。(私のテクニカ観は常にいつもどこかで醒めたものがあるようだ)おいおい時間をかけて他の候補を物色し続けることにする。

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