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サイモン・フィリップスのことを少しだけ [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 備忘録風に駄文を書き飛ばします。

 最近、聴き直す機会があってあらためて良いなあと思えたアルバム

801 Live

801 Live

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Plan 9/Caroline
  • 発売日: 1990/08/31
  • メディア: CD



一応、フィル・マンザネラとイーノの双頭バンドということになるのだろうか。後に同じプロジェクト名でスタジオレコーディングもリリースされた。


Listen Now

Listen Now

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Plan 9/Caroline
  • 発売日: 2000/05/08
  • メディア: CD


 
 ただ聴き直す頻度は最初のライブレコーディングの方が大変多い。どうやら私は一発勝負のスリルみたいなものにいつも惹かれる性分のようだ。ジャケットデザインかっこいいし。

 初めて801Liveを聴いた時には誰にも増してドラムに耳がいった。今思うとこれがサイモン・フィリップスを意識した最初だったことになる。

その妙技


 ジェフ・ポーカロ亡き後のTOTOのドラマーとなった時の評価はちょっと気の毒な気がしたが、こればっかりは継母の辛さみたいなもので致し方のない話かもしれない。

 こうしてネット上で動画がどんどんお披露目されると、以前、音だけを聞いていた頃にはどうにも不思議に思えたコンビネーションがどんな風にして組み立てられていたのかが今更だが納得出来た。左右全く同じような挙動が可能な異才にして初めて可能な奏法だったわけだ。

 801についてはそのうち何かテキストをものにしてみたいと思ってます。

ストラディバリウスのこと [気づいたモノ]

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-10-9
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-09-14 の番外編です。 

中川イサトさんのライブを聴きに行った際のアフターアワーズで・・・・歓談してる最中に、舞台音響をお仕事とされているある方からちょっと興味深いお話を伺ったのだった。

 ストラディバリウスと呼ばれるバイオリンがある。素人の私でさえ知ってるのだから言わずと知れた銘品だ。何でも最近、オークションに出品されて一丁実に四億円(!)で落札されたのだそうで。

 しかしながらこの楽器が世にも妙なる音色を奏でるのかと言えば必ずしもそうではないらしい、 というのがかの方のお話で、私はそれを大変興味深く聞いた。その方はとあるホールでのお仕事の際、リハーサルかなにかの時に実際に出音を聞いたらしい。『たいして感心出来る音でもないんだけどねえ・・・・その場に居合わせた誰に聞いても、現在製作されている高級品の方がいい音だって言うんだけど弾いている本人はとんでもない、自分は両方弾いてみて絶対にストラディバリウスの方がいいって言うんですよ』と苦笑しながらお話しされたのでございます。

 実際のところ、その出音に疑問を呈するHPもある。http://www.geocities.jp/city_memo/kaneda/nikki036.htm

複数人のヒアリングによるブラインドテストなのである程度の客観性がそこにはあると見てよいのだろう。プレイヤーにとってよい音であるのと聴衆にとってのそれは必ずしも一致しないということなのだろうか。確かにプレイヤーは楽器を顎の下に挟んで弾くので音の聴こえ方には違いがある。

ここで一つ、ある仮説を提示させていただきたい

 これはその際の、某氏の受け売りである。アントニオ・ストラディバリは楽器の製作について弟子にも誰にも絶対に教えなかったことがあるのだそうだ。それは現在、バイオリンの制作者がストラディバリウスの音の秘密として恐らくこれだろう、と目しているものでもある。何かと言えば膠のことらしい。製作時の貼り合わせに使い、琥珀を溶かし込んで仕上げのニスとして使う膠にその秘密があるらしい。

 

Antonio_stradivari.jpg

 

プレイヤーにとって素晴らしく良く聴こえるのだとすれば、人骨を伝わる伝搬振動に、何かしらなじみの良い要因があるのでなかろうか。
楽器は木を削り、曲げ、貼り合わせて作る。貼り合わせるためには膠を用いる。
膠は動物の骨や毛を石灰水で煮込む
そこでだ
弟子にさえも教えられないような作り方の膠とは一体どのようなものなのか
何故誰にも教えられないものだったのか
それは・・・・
 
 知らずにいた方が良いことなのかもしれませんね、と、そのとき私たちはアフターアワーズの喧噪の中でちょっと薄気味悪く笑い合ったのでした。

Skies of America/Ornette Coleman(アメリカの空/オーネット・コールマン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ストリング・オーケストラをバックにレコーディングをしてみたいと思うジャズマンは思ったよりも多いのかもしれない。
昨日、スタン・ケントンを聞きながら何となく思いついた。それでレコードの収まっている棚を漠然と眺めていると私の手持ちにも幾らかそういうものがあった。

Apocalypse

Apocalypse

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Sony/BMG
  • 発売日: 2008/02/01
  • メディア: CD




大作にして珍作といえるかもしれないが、この一作にかける意気込みが尋常ではなかっただろうことは長い時間を経た今でもひしひしと伝わってくる。正直言ってこの人はロクな曲を作らないが演奏そのものはいつも真摯で素晴らしい。


 誰それ、ウィズ・ストリングスといった趣のレコードをあれこれ聴き続けているうちに私はやっぱりオーネット・コールマンを引っぱり出してきた。

アメリカの空

アメリカの空

  • アーティスト: オーネット・コールマン,オーネット・コールマン,デヴィッド・ミーシャム,ロンドン交響楽団
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2006/03/01
  • メディア: CD







 1980年代以降、コルトレーン教の衰退と歩調を合わせるようにしてオーネット・コールマンが徐々に再認識されるようになってきた風潮を私は結構好ましく思い続けている。ひたむきな求道者が絶対的に素晴らしく、それ以外は全て減点法で評価されるような了見の狭い接し方はどこかで大事な何かを見落とすことになるようだといつの間にか私は心得たつもりになっている。

 強いて言葉で表すのも無粋だとは思うが、私は何だか生理的にオーネットの音楽が好きだ。デタラメで、独りよがりでいながらやたらと開放的で享楽的な佇まいをいつも感じている。良くも悪くもデタラメというのはオーネット・コールマンを理解する上でのキーワードではないかと思う。デビュー以来、節目節目で『予言者か、それともペテン師か』という論争を巻き起こし続けたオーネット・コールマンだが、今になってこうして過去からの諸作を聴き直してみると特段作為的に異端のポジションを狙っていたわけでもなく、ごくごく自然にやりたいようにやっていたらそれはたまたま徒花の立ち位置にあったというのが正しそうだ。

 結局、オーネット・コールマンという人はその出現以来、本人の自覚の上では至って自然に、至って普通に語る人だったのだが、それはおおかた聞いたこともない方言として語られるので受け止める側に誤解されやすい性質を持っていたと整理づけられそうだ。別の喩えで言えばそれはあくまで訛りのきつい方言であって、外国語でも異星人の言葉でもなかったわけで。

 1965年のカムバックに於いて、多くのリスナーはそのサックスで奏でられる音楽がプロとしての成熟を示している点は評価しながらも新たに自分の演奏楽器としてトランペットとバイオリンを持ち出してきた姿勢については大いに叩きまくったのだそうだ。趣旨はといえば「ハンチクな真似ばかりしてあれこれ手を広げる暇があるのだったら、本業のサックスでもっとまともな音楽を演奏しやがれ!」といった内容が殆どだったようだ。
 確かにその演奏ぶりは本業に比べると明らかに余技の域を出ないような拙劣さで、教科書的な評価基準で言えばお世辞にもサックスと同列には評価出来ないような代物ではあったが、本人はカエルの面になんとかというか馬耳東風というか、とにかくそれらを駆使して相変わらずの徒花であり続けた。

 そこへもってきて本作ではフル・オーケストラとの競演である。加えて彼らは素っ頓狂な思いつきでかき集められたにわか作りの混成軍では全然ない。
しかもそのスコアはオーネット・コールマン自ら書き下ろしたものだ。よく知られたポップ・チューンを口当たり良く手短にまとめて聴かせるといったアプローチではない。それは言語の喩えとして言うならば『いや、皆さん、実は僕も皆さん方と同じように標準語で話すことは出来るのですよ』という態度であってあらゆる意味でこの人らしくない。

 節目節目に於けるオーネット・コールマンの諸作がそうであるように本作もまた毀誉褒貶の嵐に晒されたと私は記憶している。ポイントはやはりストリング・オーケストラという背景にあって、少数派である擁護側はこういう西洋音楽の歴史や伝統とか権威性を漂わせる共演者との企画を指してオーネット・コールマンはやはり音楽の伝統を重んじる良識の持ち主だったのだと褒めそやし、圧倒的多数の批判者は本作の、よく言えば素朴な、悪く言えばどこかに未完成さを残すアレンジメントを指して所詮オーネットなどという輩はどこまでいっても未熟でデタラメな音楽しか作り出せない山師に過ぎないと切って捨てた。しかし今になってみるとそのどちらもが的外れであったことが歴然で私などはただ笑うのみだ。

 思うにオーネット・コールマンという人はある楽器の演奏技術を掘り下げ、技巧を突き詰めることで何かを表現したいという縦方向の志向ではなく、まず意識の中にある楽想があり、それを色々な楽器に移植して足し算をすることによって何かを表現したいという横方向の志向の持ち主なのだ。だからどんなアレンジ、どんな楽器(トランペットやバイオリン)であっても固有の方言やら手癖のような旋律があちこちにのぞく。
 本作は何だか物々しい幕開けで始まり、およそ20分近く主役の登場はない。私は学理楽典には全然詳しくないがたいして技巧的ではないオーケストレーションが延々と続くが不思議と退屈せずに割合すんなりと「オーネットの世界」に入って行けるのは先に書いたような資質を即興的な一人称の楽器演奏ではなく、譜面として対象化し記述出来る能力がオーネット・コールマンにはあることを現しているが音楽としては格段それ以上でも以下でもない話である。とにかくオーネット・コールマンの楽想が数十人の演奏者によって実体化するという初の試みが本作なのである。
 本人不在のオーネット・コールマンの世界はそれでも欠落感なく展開されるがやはり散々リスナーをじらせた挙げ句にやおら登場するオーネットは文句なしにかっこいい。後半はサックス・コンチェルトとでも言えそうな言えなさそうな、そんなことはどうでもいいような、何せ、本人のブローがいつものように飛んだり跳ねたりして駆けずり回る。

 音楽というのは果たして作曲者に帰属するものなのかそれとも演奏者なのかという根深い議論の種を本作は内蔵していると私は思うのだが、恐らく本人にはそのような問題提起の意識など鼻くそほどにもなかったに違いない。ストリングスの織りなす波、そのうねりをあしらったり切り裂いたりするここでのオーネット・コールマンはまるで雨戸に乗っかってステテコ姿でサーフィンをやっているようで理屈抜きにクールである。それでいいのだ。

 


「カイ」という雑誌を買ってみる [書籍]

 コンビニに買い物に行ったらたまたま目についた雑誌を何の気なしに買ってきた。「カイ」という季刊誌である。
出版元は札幌市にあるらしい。

ホームページを見つけた。

 偶然というか何というか、私が学生の頃、随分通い続けた喫茶店が紹介されていた。
cover_kai04SL.jpg

 読んでいて随分懐かしくなった。

場所は釧路市、店名は『ジス・イズ』といいます。

HPはこちら  http://www.jazz-thisis.com/

 私は18歳から22歳までの5年間を通い続けた。それからもう30年近くも経っているのだが、今は住まいも離れたところにあるので学生の頃のように毎週欠かさずというわけにはいかない。一番最近行ったのは1年半ほど前で、嬉しいことにオーナーはまだ私の顔を覚えていてくださった。

 ここのお店で私は2度ほど、お茶代をタダにしていただいたことがある。
最初は留年が確定して暗い気分で帰省する前日のこと、二度目はどうにかこうにか学校を卒業出来て卒業式を済ませ、最初の就職先に向かおうとする汽車の待ち時間の前に立ち寄った時のことだった。
 お会計を済ませてお別れを告げる時、オーナーはお勘定をチャラにしてくれた。私はお礼にも何にもなっていないが卒業式の時に貰った紅白まんじゅうを差し上げた。

 その日のことを忘れたことはない。
慌ただしい一日だった。前日の夜、幾らかささくれ立った気分で家族と過ごし、深夜一人で置き出して夜行列車で釧路に向かい、早朝到着してから学校に向かって卒業式を済ませ、それから釧路の市内に向かってこの喫茶店でオーナーとちょっとだけ話をした。それから今度はまた夜行列車に乗って札幌へ、といった具合に一日のうちに流れ続けた。色んなことにお別れをして、色んなことを卒業した。
 そしてそれから27年、私はまだ流れ続けている。

 お店はライブなども行うようになり、私が貧乏学生の頃よりもだいぶ知名度も上がったようでご同慶の至りである。
思い出してみると当時の私は未成年の分際で偉そうにカウンター陣取って煙草を吹かしてはあれを聴かせてくれ。これが聴きたいなどとコーヒー一杯で一時間半も二時間も居着いており、全くもってロクな客ではなかった。オーナーにしてみれば迷惑千万だったのではないだろうかと身が縮む思いがする。

 そしてまた思う、私はあれから一体どれくらい成長しているのか、あるいはまたどれくらい成長出来ずにいるのか。どれくらい摩滅してどれくらい保てているのか、何を失い、何を得たか。

 年に数度、釧路へ足を運ぶ用事がある時にはお店をのぞく習慣があるが、その都度いつも感慨に耽る。
ある時からカウンター席は禁煙となり、喫煙するお客さんはボックス席に座るルールが施行されたので私は煙草を吸いながらオーナーとお話は出来ない。やっぱり迷惑な客だったのだ。

(追記)
ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol.1

ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol.1

  • アーティスト: オーネット・コールマン,チャールズ・モフェット,デヴィッド・アイゼンソン
  • 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
  • 発売日: 2009/06/10
  • メディア: CD







当時を思い出す

三度目を通り越して四度目の正直(AFC 秋季大会) [Outdoor的なこと]

 昨日は雷混じりの大雨で大会は一体どうなることかと心配していたのだが、今日は快晴で、前回までの2回連続ボウズという不名誉を挽回すべく私には期するところがあった。
 前回まで、私は三大会連続ボウズという大変無様な記録を打ち立て、いつぞやの優勝もすっかり色褪せたものになっていた。
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-07-07

 『釣果ゼロ再び』などというタイトルを付けているが、これは私の間違いで三たびが正しい。大ボケもいいところで全く私の脳味噌はヤキが回っている。

会場は快晴だがこの季節のせいもあって風が非常に強かった。
KICX0257.JPG

 キャスティングの際に風でラインが流されて他の競技者のものとこんがらがってしまうという前回の轍を今回は踏むまいと私は結構マジになっていたのだが、周囲からは既に嘲笑や冷やかしもなく、同情のようなものが無言のうちに伝わってくる。競技開始時間が迫ってくると何かしら切羽詰まった気分が湧き出してきた。

 釣果を書いておく。
一匹釣り上げて体長は42センチ。少々しょぼいがボウズの苦悩から本日やっと解放されましたです。もっとも生け簀のニジマスはこのごろ栄養状態が良いらしく他の方々のあげた魚体は体長50センチ以上が目白押しであって私の釣果などは最低水準に限りなく近かった。
 しかしすんでのところでボウズは免れた。この事実は大変大きい。周囲の方々からも随分お褒めを頂いた。2年前の夏の大会でレコードとなる74センチの魚体をあげて優勝したとき以上だったかもしれない。

 今回はラインを1サイズ太くし、針は1サイズ小さくしてみるという変更を試みてみた。針が小さくなったためにかかりはするが落としてしまうというチョンボを4回ほど繰り返しての釣果一匹だがそれでも私はやけに嬉しいのだ。嬉しくなり過ぎてあげた魚体の写真を撮るのを忘れていたのがいかにも私だな、という気がする。(4大会連続ボウズを白状するのがいやで嘘をついているわけではありません!)

 KICX0268.JPG
 午後からはお約束のバーベキューパーティとなりこれはいつも通り散々の悪食ぶりを発揮させていただいた。天候が曇り始めてからはお約束の撮影班に徹する。

 ボウズでなかったことを褒められて嬉しがるというのも何だか情けない話だが、結局今の私の腕前はその程度でしかないという事実を甘んじて受け入れるのが正しい態度だろうと思う。次回は2匹くらいをあげることを目標にします。

 

 
 

中川イサトのライブを聴きに行く(2) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回記事は結構前のものになってしまいましたが

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-09-14

 

 いくつかに切り分けておいた方が私の悪癖であるクソ長文になってしまうので,なるべく勘所をまとめて手短にいきます。

 

当日の会場は『ふたば亭』というところでした。http://tcnweb.ne.jp/~gg/futaba/

オーナーは私のお仕事上の得意先でもあるのだが、なかなか朴訥にして人なつこい感じの好漢。店内も心なしかオーナーの人柄を反映しているようなつくりで、きっとアメリカ中西部あたりの開拓農家がこんな感じではなかったのだろうかと渡米経験があるわけでもない私がイメージしそうな感じだ。

 

 ありがちな話なのだが、今回のライブは新作のプロモーションを兼ねており、出演者は中川イサト氏の他に3名いた。これは新作Daybreak2の参加ミュージシャンでもある。

 

 

Daybreak2

Daybreak2

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ハピネットピクチャーズ
  • 発売日: 2009/06/24
  • メディア: CD
  •  Amazon.comには画像の掲載がないので私がネット上で拾ったものを貼付ける。
  • どこかに少なくとも一曲はリスナーの琴線に引っかかる曲があるはずです。
  • 一家に一枚、皆さん、買ってください!
  • 124609555697916205062_daybreak2.jpg
  •  当日私はライブの会場でついつい一枚つきあわせていただいた。これはこれで一つ、別の機会に取り上げてみたいのだが何だか最近の私はアコギの響きに心和むものを感じているので生活風景には随分なじみの良い音楽である。

 ギタリスト4人の切り込み隊長というかトップバッターはザビエル大村氏で幼少時には北見市(だったかな?)に在住経験がおありだったのだそうだ。ホームページこちら


 元々はフォーク畑なのだそうだが、大阪に住まいを移してからはブルーズ等々アメリカンミュージックを掘り下げるようになったのだそうで、音楽性にはどこかライ・クーダーを連想させる断面が所々現れて出演者中私は最も親近感が持てた。
 自慢めいた話で恐縮だが、当日演奏された曲目Tumbleweed(daybreak2にも収録されています)の楽想は私の愛聴盤でもあるこれ
紫の峡谷<紙ジャケット仕様>

紫の峡谷<紙ジャケット仕様>

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: WARNER MUSIC JAPAN(WP)(M)
  • 発売日: 2007/08/08
  • メディア: CD




の9曲目、邦題は「天国からの夢」を思い出させてくれた。

 

 アフターアワーズでザビエル氏とお話をさせていただく機会があって、幾ら何でもプロミュージシャンにこんな話は不躾かな、と、恐縮しながらそのことを持ち出したら意外やザビエル氏はまさにその通りと言わんばかりにiphoneの再生リストを見せてくれたのだがそこには上記Into the Purple Valleyがそっくり、他にも色々ライ・クーダーの曲が収められていたので今度は私がびっくりした。ヤマ勘で切り出したつもりだったのだが私の耳も案外捨てたものではないな、と、少々嬉しくなった。いやしかし、アフターアワーズというのはあれこれ裏話が聞けたりもして毎度楽しいものです。 


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放送受信料の不払いを勘案し始める [身辺雑記]

 元々、ただで得られる情報になどロクなものはないというのが私の持論だった。今でもそう思う。
テレビの放送電波もまた例外ではないはずだ。現に私は数年前から民放各局の番組など見なくなった。嘘でもないがあんなものを一時間も見ていると何だか物凄く時間を損した気分になる。

 そういう意味では、こちらも大したことはないのだが公共放送はまだ幾らかましに思えていたのだが、ここしばらくはそうとも言えないような気がし始めている。
 前のエントリーで私はエルヴィスが唄いながら腰をクネクネさせる仕草が世間のひんしゅくを買ったといったようなことを書いたが、公共放送の某番組で高田文雄という芸人が気の抜けたベリーダンスみたいな仕草をしてみせて笑いを取っていたところを見て頭の中のスイッチが切り替わったのだった。何も高尚ぶるつもりはないが、ああいう下品というかくだらない一発芸は20年くらい前の民放バラエティ番組では結構受けていたような記憶はある。
 公共放送の節度は大体25年くらいかけて徐々に地盤沈下し始めてその域にさしかかりつつあるということなのだろうと思った。確かに私がだんだんテレビを見なくなっていったのは20数年前からだと思う。

 親父の小言みたいで我ながら嫌になるが、ああいう低劣な瞬間芸は公共放送が受信料を徴収して見せるものなのかと。

 翻って見ると公共放送は地上波打ち切りを数年後に控えて編成に手抜きが目立つ。再放送の番組がやたらと多いしバラエティ番組風に出てくるゲストは決まって放送中だったり新番組だったりの出演者なわけで、あれは一種のCMではないのか。それにちょっと興味を惹きそうな番組はというとこれも決まってBSハイビジョンである。目につくものについていちいちケチををつけ始めるときりがないのだが、とどのつまり番組の制作には金がかかるのだからもっとましな番組が見たかったらもっとお金を払えというのが公共放送の言い分なのだろうということは容易に察しがつくし、まあ確かに正論といえば正論だろう。

 しかし放送電波のために今様のハイビジョンテレビを買い込んでこれからデジタル放送を見たいのかといえば私は全然そう思わないのだ。
これは私がテレビも買えないほど貧乏なので負け惜しみをいっているわけではない。確かに貧乏ではあるが幾ら何でもテレビが買えないほどではないしローンの審査くらいは通りますよ。

 そもそももう20年以上も前から、テレビ受像機という物体は私にとっては放送電波の受信機としてよりもビデオテープの再生用に利用する時間の方がずっと長かったのだ。30歳を過ぎてオヤジゲーマーの道を歩むようになってからは受信の時間は更に激減した。40歳を過ぎてプロレス番組を見なくなってからは民放を全く見なくなり、そのうちゲームもやらなくなり、映画はプロジェクターで見るようになり、拙宅のテレビ受信機はもはや公共放送専用受信機と成り果てた。しかもそれは朝、時計代わりに漠然と眺めているのと夜間、家の中が静かすぎるので適当につけっぱなしにしておくとか土曜日のドラマを気が向いた時に見るくらいの利用度しかないのだ。 

 おまけにここ数年の番組のくだらなさである。ここまでくるともう、テレビ受信機などあってもなくてもいいような代物とさえ言えそうな気がしてくる。更に言えば放送受信料という名の代価を払う気さえも失せつつある。
 一時期、私はテレビのない生活を半年ばかり送った頃があり、今考えてみるとその頃格別何か不便をかこった覚えもなかったのだが、あの時NHKに『自分はもうテレビを見ないので受信料の引き落としをやめていただきたい』と問い合わせてみたら一体どんな反応がかえってきたのだろうかと想像してみたことがある。

 最近、公共放送の余りのくだらなさ故にそれを実行してみようかとふと考えるのである。
玄関先で集金人と押し問答をしながら屋根の上に立っているアンテナを指差して、あれはFMラジオ放送の受信用に立ててあるのだと説明した上で敢えて集金人を居間に通してテレビのないところをご確認いただく場面を想像すると少々愉快な気分にはなる。


Shake,Ruttle and Roll (シェイク・ラトル・アンド・ロール) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ロックというカテゴリーの起源がどの辺りにあるかについては諸説あるようだが私は全然詳しくない。

但し、アフロ・アメリカン側からの例証としてジョー・ターナーが取り上げられることはあるようだ。1955年の動画



 Rock'n RollのRollがタイトルの一部に使用されているからというのがその理由なのだろうか。
歴史上の位置づけはさておいても私個人は若い頃からジョー・ターナーの歌いっぷりは大変気に入っている。本当に最後の最後まで全力投球の偉大なシャウターだった。

 ここで私がこれまで何度か書いた事象、つまりアメリカのポピュラー音楽は白人が黒人音楽をパクることによって大きなビジネスとして構築され、その金銭上の恩恵はいつも白人達にだけもたらされ続けてきたではないかという黒人側からの怨嗟が今世紀初めから絶えないことをあらためて考えてみた。
 マイルス・デイビスは自伝の中で何度もその構造を糾弾している。ブルース、ジャズ、ファンクビート、近くはヒップホップと『俺たちから盗み取って自分たちの金儲けに利用しやがる』という視線は未だに拭い難いものがあるようだ。

 ロックで言えばこういうことだろうか、1956年、既にこんな風にカバーされている。


 エルヴィスの登場は社会現象でもあったわけで、 『ネイティブ・アメリカンの混血である南部出身のプア・ホワイトの若造が腰をクネクネさせながら黒人の歌を歌う』姿は白人社会において大変ヒステリックな反応を呼び起こした、ということになっている。
 あくまで黒人コミューンに足場を置き、予定調和的な芸人であることに徹したジョー・ターナーに比べるとエルヴィスは良くも悪くもセンセーショナルな存在だった。

 そしてこの、けしからん若造の歌いっぷりはがめつい白人の大人達に『沢山のガキどもの財布から小銭を巻き上げて大儲けする』ビジネスモデルを思い立たせることになり、ロックという白人主導の音楽カテゴリーはビッグ・ビジネスに成長を遂げてエルビスは20世紀最大のトリックスターへと駆け上がっていく。
 更にこのトリックスターは特例措置に応じることもなく生真面目に徴兵され任期を全うし、ハリウッド映画に主演するようになって健全な好青年を演じ続け、大統領と面会して麻薬捜査官の務めを自ら申し出るようになり、ジャンプスーツに身を包んでラスベガスのボールルームで賛美歌まで歌うようになり、デクデクに太って心臓病を患う身の上になり、やがて亡くなった。

 こういう来歴を駆け足で辿っていくと、自意識の希薄な若者がとった無意識の行いが偶発的に社会現象を引き起こして彼が世の中の仕組みに取り込まれてどんどん変質させられていく、更に彼の自意識の希薄さ故に彼は何ら自己懐疑することもなくどんどんそれに乗っていくという物語性が確かにそこにはあると思う。

 そんな風にしてロックという音楽は黒人コミューンからは唾棄すべきカテゴリーとして目を背けられるようになっていった。生前のジミヘンは「黒人の風上にも置けない奴」という非難に晒され、それは一つの悩みにもなっていたらしいことが死後、知人のインタビューで語られている。最近で言えばマイケル・ジャクソンも似たような立ち位置にあったらしい。

 同じ歌を唄うジョー・ターナーとエルヴィスのどちらがより優れたシンガーであるか、どちらがより好ましいかという主観上での評価はさておき、時代の寵児が出現したインパクトが色褪せることなく伝わってくる。エルヴィスの若き日の動画は色々な意味で私には興味深かった。
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まれに見るバカ [書籍]

 昨日書店をぶらついているうちに刺激的なタイトルにつられて何となく買ってきた新書である。
まれに見るバカ (新書y)

まれに見るバカ (新書y)

  • 作者: 勢古 浩爾
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2002/01
  • メディア: 新書
 
 面と向かって他人様をバカ呼ばわりすることはさすがにないが、表出されない心象風景としては私のみならずままあることではないかと思う。恐らくこの本の筆者もそうだろう。
 
 考えてみるとここ数年、他人様と話していて辟易する場面が多い。一体何に辟易するのだろうかと一時考えてみたことがあったのだがこの本を読んでそれが自意識過剰気味な人物の一人称人生物語を延々と聞かされる場面だとわかった。
 ごくありふれた日常の出来事を微に入り細にわたって相手構わず延々と垂れ流す、人間関係の襞やらささくれやらの妄想物語をこれまた際限なく膨らませ続ける、地球上の人々は皆、自分の生活時間という物語の中を生きているわけだが逢う人ごとにそれぞれの人生物語や妄想ドラマを毎度聞かされていたのでは時間が幾らあっても足りない。そのような時間につきあい続けるのはなかなか辛抱を要することであってある意味、結構迷惑な時間とも言えないだろうか。
 
 本書で筆者が指弾するのはそのような人たちで、ここでは『自分バカ』と括られている。
 
 『自分バカ』には確かに、病的に恐ろしい人物がいる。私は以前、その類いの輩に取り憑かれて大いに悩ましい目に遭った。
少なくとも私は、本書でこき下ろされているような『自分バカ』ではないぞ、という矜持めいたものはあるのでその顛末についてここで子細な記述はしないが、要点だけをかいつまんでおくと私の同級生だったその人物は職場恋愛片思い男で、成就出来ずに終わった自分の恋愛感情を野放図に垂れ流しまくり、恋い焦がれた彼女が自分を受け入れてくれなかったのは職場の同僚達が寄ってたかって自分と彼女を遠ざけるような策謀を巡らせているからだ!という益体もない妄想を果てしなく垂れ流し続ける行為を毎日毎日、夜中の11時頃に私に電話をかけてきて3時間も4時間も、実に4年以上にわたって継続してくれたのだった。
 それは殆どストーカーみたいなもので、とてもじゃないがつきあいきれないというか毎月毎月電話の通話料を4万円近くも払って(大阪から北海道までの長距離通話である)よくやるわい、と、変に感心したりもしたが今になって思えばこれは他人の時間を盗み取る行為であって、ここ10年以上も交流の途絶えているその人物に対しては結構腹立たしい気分になる時はある。
 
 本書を読んでいて、私はかつて関わったその妄想男のことを思い出した。本書の文体は口語体に近く、大変読みやすいものであると同時に以前私がその妄想男に取り憑かれていた時間の焦れったいような苛立つような感覚がよく伝わってきて一種のシンパシーを覚える内容である。私は内心、”おお、そうだそうだ!”と筆者の痛快な指弾に内心手を叩きながら一日で本書を読了した。
 
 ただ、読み終えてみて少し時間を置き、多少温度の下がった脳味噌で顧みてみると、ここでの筆者もまた『自分バカ』に辟易する筆者自身の苛立ちをぶちまける『自分バカ』になってはいないかという疑問もないわけではない。更に言えばそれを受けてこうしてキーボードを叩いて一人称を垂れ流し続けているいる私自身もだ。
 小ずるいようだがそれについては口述と筆記という伝達方法の違いということでなんとかお許しを願いたいと思っている。リアルタイムで『自分バカ』のいつ区切りがつくとも知れない長口上に延々とつきあい続けなければならないのとは違って、文字として書かれたものは受け取る側は気が向いた時に読み、面白くなければ中断すれば良いという自由は残されている。これは半ば屁理屈めいた弁解かもしれないが。
 
 本書は『自分バカ』への苛立ちや軽蔑を燃料として書かれたテキストだが人間、内在させ得る燃料の量には限度があるらしく後半ではさすがに息切れを起こして失速気味の傾向が見られる。 それは本書中で何度か繰り返される『バカの相手は疲れる』ことの現れなのか。脳内格闘によってガス抜きが行われる様子を辿るドキュメントと読めるのかもしれない。

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決定的にまずいこと [再生音楽の聴取環境など]

 自宅前を工事中である。
土地を30センチばかり掘り、砂利を入れて填圧する工事を行っている最中なのである。
自宅の新築時に玄関前に敷いた砂利の量は少なく、ここ数年で地中にめり込んでしまって雑草がぼうぼう生えたり、雨が降るとぬかるみ状になって玄関先や自動車の中が泥だらけになったりしたのでなんとかしなければと思っていたのですよ。

 いっそのことアスファルト舗装にしてはどうかと舗装屋の営業は提案してきたが、私は砂利を踏む質感が好きなのとお金がないのとで見送った。

 有り難いシルバーウィークの午前中なので心おきなくレコードでも聴こうと思ったが割と防音性が良いはずの我が家ではあるもののさすがにショベルの轟音には抗えない。くわえて地面を掘り返す時の衝撃というのは結構なもので地面ごと家が揺れる。

 とても音楽など聴けた環境ではないので本日は自宅から逃げ出してその辺をぶらつくことを決め込んだ次第である。

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Electric Ladyland/Jimi Hendrix(エレクトリック・レディランド/ジミ・ヘンドリックス) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 9月18日はジミ・ヘンドリックスの命日だ。

世の中あまたあるミュージシャンのうちジミヘンは私にとって文句なしに最高ランクに位置づけられる大きな存在であるにもかかわらず、昨年もその前の年も何かをアップしておこうと思いながら結局何もできなかった。過度に思い入れの強い音楽の前では言葉は意味をなさないのだろうか。今年も同じ轍を踏んだ訳だが三日遅れであり、所詮見当違いの印象作文程度でしかないにせよ何かを書いてはおきたい。これまで何度か書いてきたが偉大な音楽というのはリスナーをして何かの行為に駆り立てるものだと改めていまの私は思う。

エレクトリック・レディランド

エレクトリック・レディランド

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: USMジャパン
  • 発売日: 2006/06/21
  • メディア: CD

 

 いつまで経っても語り尽くされることのない本作は、言うまでもなく生前オフィシャルリリースされたスタジオレコーディングとしては三作目であり、本人の手になる編集がなされたものとしてはこれが最後となる。そして、これがまだ三作目でしかないというところにこの人の天才性は際立っているのではなかろうか。

 他の多くのロックバンドなりミュージシャンなりと比較してみれば歴然だが、一作目から二作目、そして三作目という変遷にあってこれほど大きなストライドで表現形態を拡大して行った例は私の知る限りではない。多くのミュージシャンが、例えば三作とか四作かかって達成する音楽的成長を、この人は一作で片付けてしまっている。

  「1960年代後期に於ける進歩的なロック・ミュージシャン」としての姿は既に前作(まだ二作目でしかない)で、ほぼ完成型として提示されている。

アクシス:ボールド・アズ・ラヴ

アクシス:ボールド・アズ・ラヴ

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: USMジャパン
  • 発売日: 2006/06/21
  • メディア: CD







 三作目である本作は、既に完成されかけていたLPレコードとしてパッケージングされるフォームを自ら突き崩して更なる拡張を試みた結果、40分では収まりきらずに巨大な混沌を生み出した永遠の問題作と今の私は捉えている。

 例えばの話、かのマイルス・デイビスが1970年代に生み出した新しい彼のバンドの音楽でさえも、そのアイデアの骨格は本作で無造作に散乱している断片の再構築でしかなかったのではないかとさえ私は見ている。他の例を列挙していけば枚挙に暇がないほどだ。そして驚くべきことに、リリースされて40年経過した現在に至っても本作の放つ未消化な危なっかしさ、未完成であるが故の音楽的スリルは摩滅しきっていない。模倣され尽くされてはおらず、言葉などという粗雑で不器用な表現方法によって規定されることを未だに拒絶し続けている。

 きっとあらゆるリスナーが、それまでの経験を総動員して定義づけたい、ある枠の中に収めておきたいという意図の全てを本作はもう40年以上の間、頓挫させ続けている。天才の音楽とは、まさにそういうものではないのか。
 私には未だにここで野放図に展開される世界に届く言葉がなく、それを収めきることのできる視野も持てずにいる。だからと言うべきか、であるにも関わらずというべきか本作にはもう30年以上にわたって物凄い引力を放射し続けていることを私は本作を棚から引っぱり出す度に痛感する。

どこに向かっていたのか
何を見つめていたのか
 
 それらは結局、謎だ。それは天才にだけ答えることが許されている。
毎度聴き直す度に、コンマ数ミリでもそこをかいま見ることを試み、毎度果たされることがない。本作と私の32年間はそういう時間であり、音楽的充足は過剰なほどに満たされながらも音楽が終わった後には必ず頭の中に何かしら謎めいたものが渦巻いている。音楽の謎、謎の音楽、今の時点で無理矢理本作を言葉の枠の中に押し込めようとするならばせいぜいそんな程度でしかまとめようがない。

 近年一つ、うすぼんやりと本作のことで思い描くことがある。
それはギターを嗜む知人と雑談中にジミヘンのことが話題になったある時唐突に飛び出したある仮定で、今から3年くらい以前のこと、もしもジミヘンがまだ存命だったらという話に及んだ時、知人が言うにはもう音楽とは何の縁もない生活を送っているのではないか、例えば孤島とか山奥で一人暮らしをしながら絵でも描いているといった生活を送っているのではないか、だってもう、音楽として表現できることなど全てやり尽くしてしまったじゃないか、というものだった。

 私はその仮定に、ひどく強いシンパシーを抱いたのだった。
しかしこの、生き急ぎ過ぎた天才が目指した着地点が音楽ではない何かだったのではないかという仮定でさえも、ではどこだったのかと想像を巡らしてみれば言葉はそこで機能を失う。

 本作は音楽とそうではない何かの境界上で常に揺らぎ続けて無数の謎をリスナーに投げかけ続け、これまでそうであったようにこれから先も無数のリスナーを取り込み続けては惑溺させ続けることだろう。この世に少なくとも一つ、そういう音楽は確かに存在することを私は知っている。

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中川イサトのライブを聴きに行く [身辺雑記]

 昨日のこと、友人の某氏がカーオーディオを新調することになった。
私はそちら方面には全く詳しくないのだが、何かテストソースになりそうなものを所望されたので、ヒマな日曜日の午後という状況も相まってやおら一枚焼いて持参した。

パーフェクト・ナイト

パーフェクト・ナイト

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1998/05/25
  • メディア: CD





私が中年男になってから結構入れ込み始めたミュージシャンだ。

 某氏のところへ焼いたCDを届けに行くと、唐突に今日はライブがあるから一緒に聴きにいかないかと誘われた。
中川イサトのライブだとのことだったが、私は日本のフォークには全く造詣がなく、どこのどなたなのかもさっぱり見当がつかなかった。
聞けばかつて一世を風靡した『五つの赤い風船』のメンバーで、かのマーチンというアコギのメーカーがシグネチュアモデルを製作するほどのミュージシャンでもあって、日本に於けるフィンガーピッキングの開祖でもあり、などなど多くのミュージシャンにとって半ば神格化されたお方だという。

中川イサト氏のHP

 私は色々と食わず嫌いの多い奴で、日本のフォークソングというカテゴリーもそのうちの一つだ。 
一昨年の田野城寿男さんの時もそうだったが、聴くまではなにかある種の先入観が解消されなかった。
どんな音楽であれ、素直な受け入れ方で聴いてみればそこには必ず、何かしらの発見や驚きがあり、そうして過ごした時間にはちゃんとした意味が生まれてくるものだとある頃から私は何となく信じ込むようになり、今回もその思い込みは間違っていなかった。
  
 いつまでたっても私は不勉強なリスナーだ、こんな世界を今まで知らずにいたとは。 
ライブの詳細は後日あらためてアップするとして、ひとまず今は当日の時間を思い出しながら結構いい気分でゴロゴロしようと決め込んでいる。

中川イサト氏のいかにも職人然とした風貌はなかなかに印象深い。このごろつくづく思うが、人の内実はその人の表現のみならず風貌にも醸し出されてくるもののようだ。ネット上にあったイラストを貼付けてみました。

rev01.jpg




 
 当日の演目にはなかったがYoutubeを漁っていて見つけた曲。ライブに接した後になってみるとプレイスタイルの特徴がわかりやすい形で盛り込まれていることがわかった。(この項続く)
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iPodそろそろ退役 [パソコンのこと(主にMac)]

 私用のパソコンがeMac 1.25GHzから中古品のiMac G5 2GHzに代わってから半年と少々が経った。
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-01-13

2GHzとはいってもやはり古いCPUであって、フルスクリーンでの動画再生といった用途になるといささか情けない挙動を示す。
それはさておき、iPodのことも気になり始めてきた。
ipod1.jpg
 私の持ち物は所謂3Gと言われた頃のもので容量は20GB,インターフェイスはFirewireだ。
そもそもeMacを買った理由はiTunesとiPodを使ってみたかったからで、この4年ばかりは大いに活躍してくれた。
もっとも、この台座はデイジーチェーンができず、パソコン本体のFirewireインターフェイス2個のうち一つを占有する困り者ではあったが。

 さすがに4年も使い続けるとバッテリーにもへたりが出てきたので、そろそろ次を考えなくてはならなくなってきた。Firewireのインターフェイスが一つ解放されることになるので、現状のiMac G5では次に本体を買い替えるまでの間、一時的ではあるものの外付け機器の余裕が生まれることにはなる。
 Appleのホームページを見ると最新のiPodはムービーカメラの機能まで搭載したそうで、大した多機能ぶりにつくづく感心する。

 昨今喧伝される、所謂『エコ』な観点からいえば、現在手持ちのiPodはせいぜい外付けのポータブルHDDとして生き存える用途はあるのだが、今日日たかだか20GB程度の容量ではお仕事用としてExelやなにかのビジネスデータをバックアップしておく程度の使い道しかなさそうだ。

 翻ってiPodの後釜についてはこの際、いい機会なので携帯電話をiPhoneに切り替えてしまおうかと画策している。
279.jpg
 携帯電話は仕事用でもあるので名刺の作り替えや携帯のメールアドレス変更を周知しなければならないなど2次的な手間が増えてくるのが私にとっては目下思案のしどころ。
 

タグ:iPod iTunes iPhone

webブラウザのことをぼやく [パソコンのこと(主にMac)]

 パソコンを始めて以来、webブラウザはずっとNetacapeを使っていて特に何の問題もなかったのだが、バージョンアップが途絶えてFirefoxを使うようになったここ3、4年ばかりは色々不具合が続いていて悩ましい。

 Firefoxはいつ頃からか動画のストリーミングが機能しなくなった。そちら方面の知識は全くないので私にはこの件についての解決能力もない。ShockwaveだのFlashだのを毎度インストールし直さないとならないので大いに不便をかこつ有様となった。

 それからというものやれOperaだ、Safariだとあれこれ試してみたがどれも何かかにか具合の良くないところがある、Safariは何といってもAppleが作っているアプリなのだから大丈夫だろうと期待をかけていた。
 しばらくの間は申し分のない環境だったが、少し前に現行のバージョンにアップデートして以来、落ちる頻度が上がってアプリの再起動を余儀なくされる場面が増えてきた。

 実際、こうしてテキストを書くにしてもこれまで使ったブラウザはどれもなにがしかの不調があって結構ストレスがたまる。
Firefoxはリターンキーを押すと勝手に一行飛ばして改行される。
Operaは改行されずにテキストが全部一繋がりになる。
Safariはyou Tubeへのリンクが反映されない。(これはFirefoxも同じ)

 もう一つついでに、safariでこのテキストを書いていると、何故かカーソルが二つ現れる。二つのうち一つは一カ所に固定されたままという珍現象も起きる。


 今のような状況はブラウザ難民とでも呼ばれるものなのだろうか。
最近無料化されたOmniwebをダウンロードして使ってみると、これが今までのところ一番不具合がなく動作するようなのであれこれ試してみる次第。



Low Down Dog/ BIG-Joe Turner (ロウ・ダウン・ドッグ/ジョー・ターナー) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

  拙ブログに度々nice!を頂いているシロタ様のブログで取り上げられたDr Johnの動画を見ているうちに頭の中でブギウギとかジャンプナンバーが鳴り始めるようになった。

http://kiwamono.blog.so-net.ne.jp/2009-07-27

 無条件で楽しい気分になりたい時に毎度引っぱり出すのが


The Bosses

The Bosses

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Original Jazz Classics
  • 発売日: 1994/10/24
  • メディア: CD



 ただただ聴く。理屈は無用といった感じ。体が勝手に揺れそうになるのを堪えている。特段誰に見られているわけでもないのに。
図太く、厚みたっぷりの声質は無条件で天からの授かり物であり、財産なんだなあと思う。全く持って歌うために生まれてきた人だ。



 曲の頭が切れているのが惜しいが、バックのメンバーにヴィック・ディッケンソンがいる。見間違いかもしれないがこういう発見は妙に嬉しくなるものだ。嬉しくはあるがソロパートのないのが惜しいというかもったいないというか。どんな楽器の名人であってもシンガーが一人立てば脇役であることを余儀なくされるのが音楽の鉄則だ。

 ソロと言えば中間部でクローズアップされるしぶーいトーンのトランぺッターはなんとバック・クレイトンだ。御大のことはさておいて本人の動く姿を私は初めて目にして結構驚喜している。ネットというのはつくづく有り難い。

  話がそれるが、私はバック・クレイトンのリーダー作が一つも復刻されていない現況を大変苦々しく思っている。
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Revolutionary Road(レボリューショナリー・ロード) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 ついうっかりして映画館で見そこねた映画は多い。
数え上げていくと嫌になるほど多いのだが見たい映画の全てを映画館で見ていられるほどお金や時間の余裕があるわけでもないので,現実というのは元々思うにまかせないものなのだと自分を納得させる術をいつの間にか私は身につけている。

 今年の初め頃公開されたものだが、上映時期をチェックしていなかったので先日レンタルDVDで「レボリューショナリー・ロード]を観た。
レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで スペシャル・エディション [DVD]

レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで スペシャル・エディション [DVD]

  • 出版社/メーカー: 角川エンタテインメント
  • メディア: DVD











 毎度の話だが、「燃え尽きるまで」などという元々はありもしない陳腐なサブタイトルはやめてもらいたい。全部を見終えるとこのサブタイトルは笑えないジョークだったことに気づく。

 主役がレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットとなると、多くの方はこれを連想するのではなかろうか。
タイタニック [DVD]

タイタニック [DVD]

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • メディア: DVD
 私自身は意地でも見ないと決めつけている。やせ我慢のようなものだが理由はそのうちはっきりさせるつもりでいる。

 何の予備知識もなく、サブタイトルだけを見ているとキャスティングのせいもあってよくある恋愛ドラマのような先入観を抱きかねないが内実は殆ど真逆で、感情のささくれ同士がこすれ合って火花を散らすような緊張感が骨格をなしている。

 閉塞的な空間にとどまり続けることで宿った狂気がやがてどんどん成長して破滅に向かって突進していくという基調は、未だにどこかで私を悩ませ続けるこの映画に似ている。

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD
 男女の役割を入れ替えると物語の構図は随分似てくるように思う


凡庸な日常の連続がもたらす予定調和的なぬるい日常に肯定的な夫と、大きなリスクと引き換えの『特別な人生』を送る可能性をどこかで一旦諦めて、夫に同調しながら日々を過ごすことの割り切れなさを抱え込んで専業主婦として過ごすことにだんだんストレスを感じ始める嫁さんの物語なわけだが、夫婦や家族の共同幻想を一方は守ろうとし、対する一方は破壊しようとして相争う構図という意味ではこんな映画にもその共通項はあると思う。


バージニア・ウルフなんかこわくない [DVD]

バージニア・ウルフなんかこわくない [DVD]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • メディア: DVD

 主演女優の鬼気迫る猛演というのも共通項だろうかw
但しこちらは野球のように共同幻想を守側と壊す側が入れ替わり立ち替わりであるのに対して、レボリューショナリー・ロードは終始一貫して嫁さんの側がサザエさん的日常をぶっ壊そうとして暴れる。

 やもめ暮らしの私にはリアルな実感がなかなか湧いてこないが、妻帯者(特に専業主婦を妻に持つ)である諸兄にとってはさぞかし現実化してもらいたくはない物語ではなかろうか。

(気分次第で以下続く)


 

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I Want You Back/jackson 5 (アイ・ウォント・ユー・バック/ジャクソン5) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 先日のテキストでソフト・マシーン「5」のことを買いたのでこれに引っ掛けて、というわけではないが、今月亡くなったマイケル・ジャクソンのことをつい連想した。

 私はこれまで、マイケル・ジャクソンの熱心なリスナーだったことがない。
受け止め方としては、少年期においてカーペンターズに抱いていた印象に近いものを青年期においてはこの人に感じていた。ビューティフルではあるのだが自分には縁のない世界をシールドの外側から眺めている感じとでも言おうか。

 ある期間、私の身の回りには朝から晩までのべつまくなしにこの人の歌う歌が氾濫していた(本当に凄かった)。音楽などさほど熱心に聞かない人の家にもこのレコードは殆ど必ずと言っていいくらいあった。よほど売れまくったのだろう。
スリラー(紙ジャケット仕様)

スリラー(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: SMJ
  • 発売日: 2009/07/08
  • メディア: CD

 自分で買って聴きたいとは思わないが、工業製品としては恐ろしくクオリティが高いことには疑問の余地がない。ここから多くのカバーも生まれた。ビートルズがそうであるように永遠のスタンダードとしてこれから先は更に祭り上げられていくのだろう。

 それで、さほど関心を持つことのないシンガーだったわけだが、このブログでリンクを貼ってある町山智宏さんのブログページで記事を見て少し認識が変わったことを書き留めておきたい。

記事リンク  マイケル・ジャクソンはチャップリンだった  http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20090708

私にとっては目から鱗の落ちるようなテキストだったので(実は無断で)引用させていただくことにする。

(引用はじめ)

チャップリンの生涯とマイケル・ジャクソンの生涯には共通点があまりに多い

二人ともいつまでもこどものような大人を演じ続けた。

二人とも、いつも白塗りの顔にアイラインを入れたピエロの顔をしていた。

二人とも、ヘンテコな歩き方がトレードマークだった。

二人とも、作品では愛と平和を訴えながら、私生活ではペド呼ばわりされ、裁判にもなった。


(引用終わり)

 

ポピュラー・ミュージックは巨大な音楽産業であって、マイケル・ジャクソンともなれば大きなお金の動くビジネスモデルの偉大なアイコンだったことは言うまでもない。その音楽は一シンガーのという枠を超えて精鋭揃いのプロジェクトチームの所産と見るべきだろう。そのことの善し悪しをここで書き連ねる意図はないが、私個人としては声変わりする前の、恐らくはがめつい大人達との交渉ごとなどという場面とも縁がなく、ただただ天真爛漫にリードシンガーを努めていた(ように見える)頃の歌唱が割合と好きだ。 

少年期の私はこの、無邪気さや肯定的な空気をそっくり裏返しにしたような日々の中にいた。家庭も学校も大嫌いだったので、ただでさえ気分の沈みがちな日曜深夜に放送されていたこのソウル・トレインSoul Train は何だか忌々しい番組だったのだが、今になってYou Tubeで当時のプログラムを見ていると後のどこか無機的な印象さえ受ける巨大なビジネスアイコンとなったマイケル・ジャクソンはこの頃の歌いっぷりのほうが幸福そうに見える。 

 何でも亡霊騒ぎというのもあったのだそうで、 

どうせスタッフの影か何かだろう。全くくだらない。

今日日のテレビなどというメディアが低劣きわまりないのは論を待たないとしても、死んだ後もこうして面白半分に自宅の中を晒され続けるかつての主が気の毒だ。


5/Soft Machine (5/ソフト・マシーン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 今年の夏は天気がよくない。

 一日晴れたかと思うと三日くらいは雨が降るような今日この頃である。晴れたからといって暑くなるわけでもない。目下のところ私の住む土地で真夏日は一日もないので半袖シャツの出番も例年に比べて大変少ない。

 気候によって聴く音楽もある程度は定められてくるのが音楽聴きである私の習慣なので、例年であれば秋頃聴く事の多い本作を7月下旬、冷夏の昨今によく聴く。

5

5

  • アーティスト: ソフト・マシーン
  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2005/03/02
  • メディア: CD

 

 本作については以前、Oops!にテキストをアップした事がある。今、投稿日を確かめてみると2005年の9月25日だったので、やはり秋頃に取り出して聴く事の多い音楽だったのを再確認できた。

http://oops-music.com/community/actionlog.html?mid=86500&mode=review&pnum=2

 貼付けてみて改めて思うが、過去に書いたテキストを読み返すというのは恥ずかしいものだ。手前味噌だがこうして好き放題に垂れ流しのテキストを書き散らせるブログと違ってOops!への投稿は二千字以内という制約があるので私も内容をまとめる為にそれなりにない知恵を絞っていたらしい形跡は伺える。

 それはさておき雨の降る肌寒い秋の夜に聴く本作というのは私にとって何とも馴染みがよく、 曲間のSEで使われるぴっちゃんぴっちゃんいう水滴の落下する音が音楽そのものと同じくらい強く印象に残っている。もう30年以上にもわたって雨、夜、秋に引っ掛けて私は本作を聴き続けているのだが何か音楽そのものが体の一部のようになってしまっているのかもしれない。情動性をとことん排除し、ストイシズムをとことん研ぎ澄ませていくとニヒルなダンディズムの境地に到達する事があるのではないかと私は本作を聴く度に思う。大変クールな世界だが他人様の目からは単なる偏屈オヤジの世界にしか見えないのだろうとも思う。


Lyle Mays(ライル・メイズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 今年の夏はさっぱり暑くならないが、それでも長年の習慣で夏の間はパット・メセニー一党のレコードを聴く機会が増える。
パーカッションにナナ・ヴァスコンセロスが加入した時期以降は中南米風味が加わったようなテイストでなおさら夏向きのバンドトーンを持つようになった。

  何かの拍子に、そういえばメンバーのうちの一人、ライル・メイズのソロ作を買ったきりで随分長いこと聴いていなかったのを思い出した。
Lyle Mays

Lyle Mays

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Warner Bros.
  • 発売日: 1998/12/22
  • メディア: CD







 
 聴き終わってみて私は結構良く聴くドン・チェリーのEternal Rythmを思い出していた。(傑作ですよ)
Eternal Rhythm 永遠のリズム

Eternal Rhythm 永遠のリズム

  • アーティスト: ドン・チェリー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2003/11/21
  • メディア: CD
以前書いたレビューまがいのテキストはこちら
http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2008-10-03

無国籍風のごった煮音楽という点では共通するが、エターナル・リズムはさすらいの大道芸人チックにしてプリミティブな肉体言語による肌合いであるのに対して本作はもっと文学的というか絵画的というか、意識的というか構築的というか、インテリの手になる世界紀行的音楽と聴いた。ワールド・ミュージックと一言でいってもそのアプローチはミュージシャンによって様々だとあらためて思う。 

 すでにAmazon.comのレビューで触れられているように、本作全体を貫くトーンカラーは殆ど全くパット・メセニー・グループそのままといってよい。言い換えると、パット・メセニー・グループの音楽性とは、実はあらかたライル・メイズのアイデアに負うところのものだったことが本作でわかる。 
 とは言え、当然ながら本作でのギターはパット・メセニーほどには明確な個性を持たないプレイヤーでソロスペースも控えめなのでその存在感の小ささによって本作はライル・メイズのソロ作であることを示している。 

 
曲調はバラエティに富んでおり、本人の郷里であるところのアメリカ中西部を出発点として日本へ、それからアラスカ、夜の星空を思わせるトーンポエムを経て故郷に戻ってくる、といった感じの構成をなしている。 

こういう論理的整合性を持った音楽上のストーリーは、作曲以前にあらかじめ全体構想として練り上げられていたものに違いなく、先に書いたドン・チェリーの音楽世界が北アフリカや中近東をイメージしており、ひとつながりの曲として半ば感覚的、突発的に場面転換しているように聴かせるのとは良くも悪くも対照的だ。 

 すなわち、そのコンストラクションは緻密で隙がなく、細部に至るまで欠落も過剰もなく、知性的で申し分なく説明的でもある。しかし反面、文脈上矛盾するが、この音楽には私にとって大変大きな欠損がある。それは肉体が楽器を駆使することで発散される生命の脈動とも言うべきもので、見事にデコレートされていながらプレイそのものには印象深い局面がない。表層的な意味でなく、人の体温や躍動感が伝わってくるのは皮肉なことにパーカッションをはじめとするサイドメンの演奏がクローズアップされる場面ばかりで、リーダー本人によるピアノソロは紋切り型の予定調和で薄ら寒いほど没個性的だ。

 本作が音楽としてどういう立ち居値にカテゴライズされるのか、といった議論はさておくとして、半ば本能に根ざした衝動的な身振りが時にはあらかじめ作編曲された状況と拮抗し得るほどのドラマツルギーを持つこともあり得る、という偶発性にジャズの面白さの一側面があるのだとすれば、パット・メセニー・グループの音楽総体としてのクオリティはライル・メイズによって担保されているのは先に書いた通りだが、ちょっと聴きにはアメリカ版プログレ風のこのバンドをジャズのカテゴリーに押しとどめている要因とは第一にやはりリーダーのプレイだったのだとあらためて再確認した。 

 予想を超えたドラマや偶発性の生み出すスリルというのは本作の中にはないが、精緻さとストーリー性に富んだ、清潔感や清涼感のあるビューティフルな音世界に40分間浸ってみたいときには大変具合のいい音楽である。 こういった、頭の中で大方のものがあらかじめ構築された涼しげな肌合いの、ステンドグラスみたいに壮麗な音楽、というと、少年期に大きな驚きとともにはまり込んだこんなレコードのことも思い出す。
チューブラー・ベルズ(紙ジャケット仕様)

チューブラー・ベルズ(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: マイク・オールドフィールド
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2004/07/22
  • メディア: CD
 作編曲の構成力はずば抜けているがプレイヤーとしての印象は希薄、というのが共通点だろうか。 

 補記のようなこととして、欧米のミュージシャンが日本をモチーフとした音楽を演奏するとき、私の知る限りではほぼ例外なく中国風のテイストになってしまうのはどういうわけか。本作二曲目のTeiko(ていこさんという日本人女性をイメージしてのものらしい、実在の方なのだろうか)は日本人の私が聴くとなんとも中華風味の音楽だが西洋人の受け止め方、見え方としては中国も韓国も日本もみんなOrientalでひとくくりになっているのかもしれない。 立場を変えてみれば私にしたところで米国も英国もフランスもみんな西洋としてひとくくりに見ているところは確かにある。

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The Trance/Booker Ervin(ザ・トランス/ブッカー・アーヴィン) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回、ブッカー・アーヴィンのことをちょっと書いた後、しばらく意識に引っかかり続けているレコードがあったことを思い出して聴き直してみた。

ザ・トランス+2

ザ・トランス+2

  • アーティスト: ブッカー・アーヴィン,ジャッキー・バイアード,レジー・ワークマン,アラン・ドウソン
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2006/03/24
  • メディア: CD







 
 梅図かずおの怪奇漫画から一コマ拝借してきたようなジャケットデザインだ。 
私にはこういう虚仮威しめいた、安っぽいハッタリの効いた意匠に転がる傾向が確かにあって、良くも悪くも何かを予感してしまう。
  
 あらためてブッカー・アーヴィンというプレイヤーの立ち位置を考えてみると、何かしら気になる点がなくもない。 
片方に無調ででフリーリズムのサックスプレイヤー、例えばアルバート・アイラーのような人を置き、対極に4ビートのハードバッパーを位置づけてみる。 普段、私の中の図式ではこの中間あたりに位置するのは例を挙げるとウェイン・ショーターだったりジョー・ヘンダーソンだったりする。無理矢理カテゴライズするならモードの申し子のようなプレイヤー達とでもいうことになるのだろうか。 
 それで件のブッカー・アーヴィンはというとそれら申し子達ほどには感覚的には新しくなく、だからといって円満なハードバッパーの範疇からも幾分はみ出しているような、あるプレイスタイルのぶれというか感覚的な新しさでいうと中間のそのまた中間地点、ある意味中途半端に新しく聴こえなくもないややこしいところに立脚しているように思える。ある種の特異点と捉えても良さそうだ。 

 そしてこの特異さ加減は、ブッカー・アーヴィンが籍を置いていたチャールズ・ミンガスの立ち居値ともどこかで共通しているように思えている。細部のイディオムは格別目新しくはないのだが全体を鳥瞰すると何かしら定型の様式から逸脱したテイストを漂わせている印象を受ける。ついでに言えば何やら強面風の、少々ミステリアスにして無愛想な体臭もそっくり親分から受け継いだような風に思えている。 

 本作は特段代表作とも言えない出来だと私は思っているのだが、この目玉を大書した何やら面妖なジャケットデザインはブッカー・アーヴィンというプレイヤーのありようを良く現している。 
 本作のタイトルはThe Tranceという。「恍惚」という訳語を当てるのが妥当なのかどうか自信はないが、本作一曲目、LPレコード片面いっぱいを占めるタイトルチューンをこれまで私は最後までまともに聴き通せたためしがない。 
 お恥ずかしい話だが何故か必ず聴いている途中で居眠りしてしまう。だから何度聴いても全体の構成が頭に残らない。夢幻のごとき音楽が展開されてそのあまりの美しさに恍惚となって快いうたた寝に誘われるということでは全然ない。有り体に言って本作は全編、頭の先からしっぽまでおよそ構築性に欠ける垂れ流しの凡演であって全ての曲が無意味に長い。

  冒頭、イントロで奏でられるジャッキー・バイアードのフリーフォーム風のフレーズはいかにも何事かが起こりそうな緊迫感をたたえており、毎度『今度は眠らずに最後まで聴き通すぞ!』と思わせるのだがテナーのソロが始まり、中盤以降の中だるみ垂れ流し風の展開にさしかかるとこれまた毎度私のテンションは弛緩していく。とぎれとぎれになる意識にどうにかこうにか喝を入れて頑張るのだがベースソロの途中で力尽きて抗い難い睡眠の魔力に取り込まれていく醜態がお約束みたいになっている。

  演奏時間が長い例などいくらでもあるし、寝不足等々よほどくたびれていない限りLP片面を緊張感を維持しながら聴き通せる程度の体力はまだあると思い込んでいるが本作はどうにもいけない。毎度内周の無音溝を針がトレースする時のボッツンボッツンいう音で目を覚まし、何度も繰り返しの失態に舌打ちをする。20分にも及ぶ、しかも全編垂れ流しみたいな音楽をもう一度最初から今度は真面目に聴き直そうという気にもなれず、レコード盤をひっくり返す。 
 そして裏面はというと、タイトルチューンの大体半分ほどの演奏時間ではあってもこれまた全編垂れ流しの、何だか締まりのない凡演でまたしても私は居眠りモードに引きずり込まれていくのが通例となっている。 

 要するに本作は、その見てくれといい音楽そのものといい、全く羊頭狗肉としか言いようのない困り者で、今までのところ私にとっては睡眠導入音楽としてしか機能していない。何だか意味ありげな装丁といい、申し分なく相性の良さそうな楽想の持ち主であるはずの共演者といい、音を聞かなければ何かしらワクワクするような期待感はもたらしてくれるのだが・・・・ 

 意地の悪い見方かもしれないが、ブッカー・アーヴィンというプレイヤーはある大きな制約を外側から与えられることで本領を発揮するタイプのミュージシャンなのではないかとある時期からの私は考えている。それは例えば共演者の中に同じリード楽器奏者がいるとか、与えられるソロパートが限られているとかいった状況にあってサマになってくるような佇まいだ。 これから演奏する音楽全体の青写真から構想する、という場面から一切合切を委ねられたとき何が生み出されてきたか、というよりも何を生み出さずに終わってしまったかが本作には記録されているともいえそうだ。  蛇足だが、本作とは真逆に、一見無秩序でありそうに聴こえながらよくよく聴いているとかなり厳密な事前のストラクチャーが見えてくる音楽として思い当たるのがこれ。 
ユニット・ストラクチャーズ

ユニット・ストラクチャーズ

  • アーティスト: セシル・テイラー,ヘンリー・グライムス,アラン・シルバ,エディ・ゲイル・スティーブンJr.,ケン・マッキンタイヤ,ジミー・レオンズ,アンドリュー・シリル
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 1998/02/25
  • メディア: CD
 ある意味数学的な、と言いたいほどロジカルな音楽だったことに気づいてからもうだいぶ経つ。

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